かぶれの世界(新)

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

世界で一番住みたい家

2005-12-21 16:19:23 | 日記・エッセイ・コラム
古本屋で題名に惹かれて買った。読む前に、私にとって一番住みたい家はどこだったか考えてみた。その家は97年から1年間住んだ米国のフェデラルウェイ市にある一軒家だ。

95年からシアトル郊外のベルビュー市にある一軒家を借りた。市の南側のワシントン湖沿いにあるニューポート・ショアという高級住宅地で、湖から裏庭まで運河が引かれクルーザーがつけられるようになっていた。5台の車が駐車できる車庫と巨大なクルーザーが停泊している豪華なうちはアラブ王子の家だと教わった。

私の家は2寝室・2浴室・応接・食堂・LDKの平屋だったがそれでも応接と居間に暖炉があった。当時は住宅バブルの前で、かつ円が強かった(ドル100円以下)。日本人幹部サラリーマンがそういうところに住めた時代だった。住民は競って美しく手入れした庭にクリスマスデコレーションをし、当時遊びに来ていた娘と見て回った記憶がある。

その頃は現地従業員に私が腰掛でないことを示すつもりもあって、バドミントン仲間の不動産屋ビルに探してもらい、最後に見つけたのがシータック空港を挟んでシアトルと反対側のフェデラルウェイ市にあるピュージェット・サウンド(湾)沿いのランブラー(平屋)だった。散々探し回った結果、ビルの家の正面にある家だ。

丁度フランス人の持ち主が定年退職になりフランスに帰国する為売りに出した20年以上の中古物件だった。応接、2寝室、2浴室、LDKは普通なのだが、この家の特徴は三方が高い天井まで届く特製のガラス窓に囲まれ、大きい池と多くの珍しい植物とダイニングが一体となった広い部屋だ。サンルームとか言う当たり前じゃない洒落た呼び方があったがもう忘れた。

この部屋からガラス戸を出て行くと庭に出る。当時ガーデニングなんて言葉も知らなかったので奥さんが苦労して色々な種類のハーブ(アーブと聞こえた)を集めて育てたと一生懸命説明しても、手入れの悪い庭くらいにしか思わなかったが不思議と庭の全体の印象はとても良かった。 

私は“サンルーム”を見た瞬間、後先考えず舞い上がって言い値で買うといった。後から考えると外壁は黄色、バスは壁一杯の鏡と黒のタイル、水まわりは良くなかった。後から日本や現地のお客を招いてもサンルームには感嘆の声を上げても、バスを見ると引いた。

それは日米とも違うフランス人のテーストだった。私はオーナーに「このテーストが好きだ」といったのを聞いて、オーナーは喜こびアンティークの家具やストーブなど色んなものを残してくれた。フランス人らしく凄い種類の胡椒など料理に使うスパイスや調味料も残してくれたがどうしていいか分からなかった。

家を出て車で坂を下ると直ぐボート・ランチャーがありその横に有名なシーフード・レストランがあり内外のお客や同僚としょっちゅうディナーに行った。窓から見るピュージェット・サウンドの夕焼けは素晴らしかった。

引っ越してから週末にジムでトレーニングした後家に戻り、サンルームのダイニング・テーブルにつき、窓から差し込む日差しが植物や池に揺れ動く陰影を見ながらコーヒーを飲むのは最高の贅沢だった。これにはシアトルの夏の澄み切った青空が随分と貢献していた。

しかし、一人暮らしは寂しい。素晴らしいが故に寂しさが募った。そのうち車に装備一式を放り込んでレニア山かオリンピック半島に向かい、山に登りキャンプする週末になってしまった。平日は夜遅く帰ってシャワーを浴び、酒を飲んで寝る生活に戻った。掃除洗濯皿洗いと庭の手入れは週一サービスに頼み、出張のときは池の魚と植物の手入れを近所の子供にお小遣いをやって頼んだ。最初気に入ったところが徐々に負担になった。

半年もたった頃カリフォルニアに転勤が決まり考えた末、売ってくれとビルに頼んだ。ところがあれだけ私が気に入ったフレンチ・テーストが邪魔になって中々売れない。まる1年住んだだけでカリフォルニアに転居、更に1年弱たって帰国途中ハワイのホテルでビルから連絡が入り値下げしてやっと売れたという連絡が入った。経済的には大損だが後悔はしてない。

今思い返して、もし自分が若くて愛する人と住めたとしたら、フェデラルウェイの家を選ぶ。サンルームでのんびりしてお茶を飲みビスケットを食べた日に戻りたい。■


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 首席補佐官死す | トップ | 二つの危機管理:松下と東証 »

コメントを投稿

日記・エッセイ・コラム」カテゴリの最新記事