さすらい人の独り言

山登り、日々の独り言。
「新潟からの山旅」別館
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さすらいの風景 ファティマ

2021年07月18日 | 海外旅行
バターリャ観光の後、南北に広がるポルトガルの中央部にある小さな街のファティマを訪れました。この街が有名なのはバチカンも公認している聖母マリア出現の聖地であることによります。

巨大な建物や広場が設けられていますが、その見学の前に聖母マリア出現の奇跡とファティマの予言について知っておく必要があります。



1916年春頃、ファティマに住む3人の羊飼いの子供(左からルシア10才、フランシスコ9才、ジャシンタ7才)の前に若者の姿をした天使が現れ、祈りの言葉と祈りの仕方を教えた。1917年5月13日に子供達の前に聖母マリアが現れて、これから先大事なことを伝えるので毎月13日に同じ場所へ会いに来るように言った。子供たちは、彼女からのお告げを聞くために、毎月13日に会いにくるようになった。そして3回目の7月13日に、後に「3つの秘密」と呼ばれる未来に関するお告げを知らされた。まず恐ろしい光景のイメージを見せ、次いで言葉によるお告げ、さらにもう一つ別の恐ろしい光景をイメージで伝えた。そして最後に「誰にも言ってはいけません」と言ったという。

一方、聖母出現の噂はあっという間にファティマ近郊に広まった。その姿を見ようとする人々は回をおうごとに多くなり、10月13日の6回目には7万人、新聞記者が取材にくるほどの騒ぎなった。聖母の姿は3人の子供以外には見えなかったが、大群衆の目前で太陽が回転や急降下する不可思議な動きをする現象が起こった。

この日で聖母の出現は終わったが、その場所には小さな礼拝堂が建てられた。その13年後ファティマを管轄するレイリア司教区は「聖母出現は信じるに値する」とし、カトリックの総本山バチカンまでもが信者が訪れるべき巡礼地として正式に認定した。

聖母が伝えた秘密の詳細については長くなるので、最後に回します。



多くの信者が訪れるので、広大な広場が設けられています。奥にはバジリカ(一般の教会堂より格の高い大聖堂)が設けられています。左にあるのが出現の礼拝堂。



熱心な信者は膝で歩いて出現の礼拝堂に進みます。チベット仏教で見られる五体投地と似ています。



出現の礼拝堂には多くの信者が集まっていました。ファティマで最も重要な建物は、巨大なバジリカではなく、この小さな礼拝堂となります。



聖母マリアが出現したのはこの場所とのことで、聖母マリア像が置かれています。





バジリカ。近づくとその巨大さが判ります。



バジリカに入りました。現代建築なので装飾は少なくすっきりしています。



中央祭壇。



聖母像が描かれています。



中央祭壇の右に置かれた二つの墓は、聖母マリア出現を見たとジャシンタとルシアのものです。



反対側には、フランシスコの墓。



ステンドガラス。





バジリカ入口から見た広場。右手にあるのは泉。



広場にあるのヨハネ・パウロ2世像。

ヨハネ・パウロ2世は、「空飛ぶ教皇」と呼ばれるように世界中を飛び回っていたので、各地で銅像を良く見ます。しかしここにある像を見ると、「第三の秘密」で予言されたとされる1981年5月13日のバチカンのサン・ピエトロ広場における暗殺未遂事件と、1982年5月13日のファティマにおける襲撃事件と,結びつけて、常識の通じない何かがあるのではと思ってしまいます。



広場を挟んでバジリカと向かい合うように聖三位一体教会があります。



壁には各国語で聖書の言葉が書かれています。



聖三位一体教会内部。



中央祭壇。

聖母出現の聖地巡礼としてならここまでの見学で充分ということになるのですが、もっと興味をひかれるのがファティマ「第三の秘密」です。

聖母が伝えた秘密は、修道女となったルチアによって記録に残され、1941年にようやく「第一第二の秘密」について発表された。第一の秘密は「地獄のビジョン」で信仰を促すものであった。第二の秘密は「聖母のお告げ」で、「戦争はもうすぐ終わります。しかし人々が神に背くのをやめないならもう一つのもっとひどい戦争が始まるでしょう。こうした戦争を防ぐためにはロシアを私の元に改宗させなさい。」という内容であった。聖母マリアの出現した1917年は第一次世界大戦のまただ中で、お告げどおりに翌年の1918年には第一次世界大戦の終戦。秘密が告げられた22年後の1939年には第二次世界大戦の勃発。また1917年以降ロシア革命によって誕生したソビエト共産国家によって宗教弾圧がすすめられた、

そして「第一第二の秘密」の発表は1941年。(「ちょっと待てえ」というつっこみを入れたくなりますね。時間の経過を見ていくと、予言といっても後出しで成立していない。)

そして1944年にルチアは「第三の秘密」を書き残した。しかし「第三の秘密」については、封筒の上に「聖母からの命令によって1960年まで開けてはいけません」と記した。「第一第二の秘密」が地獄のビジョンや第一次第二次世界大戦を予言していたことから、「第三の秘密」とはさらに破滅的な世界大戦ではないだろうかという噂をよんだ。一方バチカンは1960年を過ぎても「第三の秘密」を公開しなかった。このことから、読んだ教皇が失神したとか、人類滅亡の予言であるとかの憶測を生んで、1981年には「第三の秘密」の公開を要求しての元神父によるハイジャック事件も起きる騒ぎになった。

2000年になってよやくバチカンは「第三の秘密」を公開した。その内容は、「教皇様が何人ものお供を引き連れて険しい山を登っていった。教皇様が山の頂上に到着し、大十字架のもとにひざまずいてひれ伏されたとき、一団の兵士によって殺された。」というものであった。これは1981年5月13日にバチカンのサン・ピエトロ広場で起きたヨハネ・パウロ2世暗殺未遂を暗示したものだと発表した.

ようやく発表されたにもかかわらず、「第一第二の秘密」の内容に比べると内容が軽すぎることから、「第三の秘密」には続きがあって隠されているというオカルト的な憶測が新たに生まれることになりました。「第三の秘密」は「ノストラダムスの大予言」 や「マヤ暦の週末説」と並んでオカルト分野の一大テーマになっています。

NHK BSの怪奇現象を扱うダークサイド・ミステリーの番組では、バチカンが聖母出現を認定したのは、当時共産国家の誕生によって危機感を持つようになって、信仰に目を向けさせるためにファティマの聖母出現の噂を利用した。「第三の秘密」の公表がされなかったのは、東西冷戦のさなかで、秘密にすることでバチカンに関心が集まることをねらった。2000年にはソビエト連邦も崩壊して秘密にして関心を集める必要もなくなった。このように解説をしていますが、「第三の秘密」の続きがあるのではという疑問は残されています。



この日の観光は終わりで、コインブラのリップ・コインブラに泊まりました。二泊して翌日は近郊を回ることになりました。
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