「清盛公日招像と日招き岩を紹介したけど、肝心の「清盛の日招き伝説」を紹介しとらんね」
「日招き伝説には2種類あるんじゃ。音戸の瀬戸を切り開くのに、1日で完成させたか、数ヶ月かけて完成させたか」
「うちが知っとるのは、1日で切り開いたという話じゃね」
厳島神社の巫女(みこ)は、むかし内侍(ないし)といった。
清盛がこの内侍の1人に恋をして、さまざまに云(い)い寄った。
女は難題を出した。
「1日の内に音戸(おんど)の瀬戸を切りひらいて、舟を通してみせて下されば、あなたになびきましょう」
そこで清盛は多くの人夫(にんぷ)を集め、工事をはじめた。
もう一息というところで、日が西に沈みかけたので、清盛は扇をひらいて日を招き返し、その日のうちに瀬戸をひらくことを得たという。
これには後日談があり、清盛が全身を焼く熱病で死ぬのは、このときの罰だとする。
(『ロマンの旅 日本の伝説13 山陽』世界文化社 1979年)
「これに対して、数ヶ月かけて完成させた話は…」
1164年、平清盛公は音戸の瀬戸開削工事に着手した。
竣工まで10ヶ月を要し、かなりの難工事も完成を間近に迎えた1165年7月16日、引き潮を見はからって完成の作業が行なわれることになった。
この時を期して是が非でも完成させねばならず、清盛公の激励、役人、人夫の血のにじむような努力が続けられたが、すでに夕日は西の空に傾き、長い夏の太陽の光りも陰り、足もとが暗くなりはじめた。
今ひと時 陽があればと、清盛公は考えた末、立ち上がり、急ぎ日迎山の岩頭に立ち、今にも沈まんとする太陽に向い、右手に金扇をかざし、日輪をさし招き「返せ、戻せ」とさけんだ。
すると不思議なことが起きた!
沈まんとする陽が戻り始めたのだ。
「それ、陽はあるぞ。」
清盛のかけ声に人々は一層工事に力を入れ、見事その日のうちに工事を完成させた。
ときに清盛公、48歳であったと伝えられている。
(チラシ『平清盛ゆかりの地 音戸の瀬戸絵巻』)
「この「清盛の日招き伝説」は、鳥取県の湖山(こやま)長者の伝説に似たところがあるんじゃ」
「それは、どんな伝説なん?」
「そのむかし、因幡(いなば)に湖山長者と呼ばれる長者がおって、1000ヘクタールもの田んぼを持っとったそうじゃ。その長者の田植えが1日で終わりそうにないので、沈む太陽を招き返したんよ」
「なんで?」
「長者の田植えは1日で終える、というきまりがあったからじゃそうな」
「へぇ…」
「無事に田植を終わらせた翌日、田んぼがあったところが湖になっとったという話なんよ。それが今の湖山池(こやまいけ)じゃそうな」
↓湖山長者については、こちら↓
「湖山長者」鳥取県公式サイト
「そういや、どういう理由で清盛は音戸の瀬戸を切り開いたんかね?」
「いろんな説があるんじゃが、おもなものは次の3つかの」
■厳島神社参詣のため
■日宋貿易のため
■海賊を支配するため
「「厳島神社参詣のため」とあるけど、京都から厳島神社へ行くには、音戸の瀬戸を通らんでも行けるよね」
「行けるけど、音戸の瀬戸を通ったほうが、近道じゃろうの」
「清盛は、厳島神社に何回行っちゃったんかね?」
「生涯に13回、参詣したといわれとるんじゃ」
↓清盛と呉市についての関連記事は、こちら↓
日招き岩 呉市警固屋
平清盛公日招像 呉市警固屋
清盛塚 呉市・音戸の瀬戸
「今日は、清盛の日招き伝説について話をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」
「日招き伝説には2種類あるんじゃ。音戸の瀬戸を切り開くのに、1日で完成させたか、数ヶ月かけて完成させたか」
「うちが知っとるのは、1日で切り開いたという話じゃね」
厳島神社の巫女(みこ)は、むかし内侍(ないし)といった。
清盛がこの内侍の1人に恋をして、さまざまに云(い)い寄った。
女は難題を出した。
「1日の内に音戸(おんど)の瀬戸を切りひらいて、舟を通してみせて下されば、あなたになびきましょう」
そこで清盛は多くの人夫(にんぷ)を集め、工事をはじめた。
もう一息というところで、日が西に沈みかけたので、清盛は扇をひらいて日を招き返し、その日のうちに瀬戸をひらくことを得たという。
これには後日談があり、清盛が全身を焼く熱病で死ぬのは、このときの罰だとする。
(『ロマンの旅 日本の伝説13 山陽』世界文化社 1979年)
「これに対して、数ヶ月かけて完成させた話は…」
1164年、平清盛公は音戸の瀬戸開削工事に着手した。
竣工まで10ヶ月を要し、かなりの難工事も完成を間近に迎えた1165年7月16日、引き潮を見はからって完成の作業が行なわれることになった。
この時を期して是が非でも完成させねばならず、清盛公の激励、役人、人夫の血のにじむような努力が続けられたが、すでに夕日は西の空に傾き、長い夏の太陽の光りも陰り、足もとが暗くなりはじめた。
今ひと時 陽があればと、清盛公は考えた末、立ち上がり、急ぎ日迎山の岩頭に立ち、今にも沈まんとする太陽に向い、右手に金扇をかざし、日輪をさし招き「返せ、戻せ」とさけんだ。
すると不思議なことが起きた!
沈まんとする陽が戻り始めたのだ。
「それ、陽はあるぞ。」
清盛のかけ声に人々は一層工事に力を入れ、見事その日のうちに工事を完成させた。
ときに清盛公、48歳であったと伝えられている。
(チラシ『平清盛ゆかりの地 音戸の瀬戸絵巻』)
「この「清盛の日招き伝説」は、鳥取県の湖山(こやま)長者の伝説に似たところがあるんじゃ」
「それは、どんな伝説なん?」
「そのむかし、因幡(いなば)に湖山長者と呼ばれる長者がおって、1000ヘクタールもの田んぼを持っとったそうじゃ。その長者の田植えが1日で終わりそうにないので、沈む太陽を招き返したんよ」
「なんで?」
「長者の田植えは1日で終える、というきまりがあったからじゃそうな」
「へぇ…」
「無事に田植を終わらせた翌日、田んぼがあったところが湖になっとったという話なんよ。それが今の湖山池(こやまいけ)じゃそうな」
↓湖山長者については、こちら↓
「湖山長者」鳥取県公式サイト
「そういや、どういう理由で清盛は音戸の瀬戸を切り開いたんかね?」
「いろんな説があるんじゃが、おもなものは次の3つかの」
■厳島神社参詣のため
■日宋貿易のため
■海賊を支配するため
「「厳島神社参詣のため」とあるけど、京都から厳島神社へ行くには、音戸の瀬戸を通らんでも行けるよね」
「行けるけど、音戸の瀬戸を通ったほうが、近道じゃろうの」
「清盛は、厳島神社に何回行っちゃったんかね?」
「生涯に13回、参詣したといわれとるんじゃ」
↓清盛と呉市についての関連記事は、こちら↓
日招き岩 呉市警固屋
平清盛公日招像 呉市警固屋
清盛塚 呉市・音戸の瀬戸
「今日は、清盛の日招き伝説について話をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」