「「日本映画界のドン」と呼ばれた、東映の名誉会長、岡田茂氏が亡くなられたんじゃ」
「東映いうたら、海から突き出した岩に波がドドーンと打ちつけて、「東映」の三角形のロゴマークが出てくるやつじゃね」
「わしらの世代でいうと、「東映まんがまつり」じゃのう」
任侠(にんきょう)物や時代劇など数々のヒット映画を生み出した東映の名誉会長で、東京広島県人会の名誉会長岡田茂(おかだ しげる)氏が死去したことが9日分かった。
87歳。
東広島市出身。
葬儀・告別式の日取り、喪主は未定。
長男は東映社長の裕介(ゆうすけ、本名剛=つよし)氏。
東大卒業後、東映の前身の東横(とうよこ)映画に入り、一貫して映画製作の現場を歩んだ。
多数のスターを起用して時代劇路線を成功させ、京都、東京撮影所の所長を歴任。
1971年から93年まで社長を務めた後、会長、相談役を経て2006年に名誉会長。
日本映画製作者連盟の会長なども務めた。
95年勲二等瑞宝章(くんにとうずいほうしょう)。
一方、県人会活動にも尽力し、94年に会長に就任。
会員数の拡大に力を入れ、「日本一」とも言われる活気を見せるようになった。
現在の会員数は約3千人。
08年からは名誉会長を務めていた。
07年8月に東広島市名誉市民。
(「東映名誉会長の岡田茂氏死去」中国新聞 2011年5月9日)
「岡田さんは、東広島市の出身じゃったんじゃね」
「賀茂郡(かもぐん)西条町(さいじょうちょう)、今の東広島市西条じゃの。岡田氏は東大卒業後の1947年(昭和22)、東横映画に入社されたんじゃ。入社半年後に提出した企画が『きけ、わだつみの声』(1950年)」
「戦没学生の手記じゃね。岡田さんは戦争に行かれたん?」
「戦地には行かれんかったんじゃが、学徒出陣で戦闘機の整備をされとったんよ。この映画は、戦場に散っていった学友の無念さもあって企画されちゃったんじゃ」
片岡千恵蔵(かたおか ちえぞう)ら京都撮影所の主だった面々の強い反対に遭(あ)った。
「当たる可能性は少ない。ばくちみたいな映画を作るのか」と。
だが、自身も学徒出陣で応召(おうしょう。招集(しょうしゅう)に応じること)した経験を持つ岡田さん。
何としても世に出したいと社長に直訴し、撮影にこぎ着けた。
封切りの日、恐る恐る浅草の映画館へ。
大盛況だった。
「映画製作の醍醐味(だいごみ)を知り、成功の恍惚(こうこつ)感にひたった」と自伝「波瀾(はらん)万丈の映画人生」にある。その後の活躍の予告編のようなエピソードである。
(「波瀾万丈の人生」中国新聞 2011年5月10日)
「映画は大当たりしたんじゃ。えかったね」
「1951年(昭和26年)、東京映画配給が東横映画を吸収合併して、今の東映株式会社を設立したんじゃ」
「えぇ!? 東映って、まだ60年の歴史しかないんじゃ」
「短期間で松竹、東宝に肩を並べる映画会社になっていったんよの。ほいで、岡田氏は27歳の時に、東映の京都撮影所の製作課長に抜てきされたんじゃ」
「京都といえば、時代劇じゃね」
「戦後の日本占領が終わった1950年代、東映は「時代劇は東映」といわれるくらい時代劇を量産されとるってんよの」
↓東映の時代劇については、こちら↓
「東映時代劇 傑作DVDコレクション」デアゴスティーニ・ジャパン
「ところが、1960年代には家庭にテレビが普及して、映画不況と呼ばれる時代になっていくんじゃ」
「その時は、どう対応しちゃったんかね?」
我々の商売はどんなに当たっても10年なんだよ。
時代劇も、うちは(片岡)千恵蔵以下、役者を揃えたけれど、急に客が来なくなった。
スタートしてちょうど10年目だよ。
いろいろ考えたけれど、結局、理由は分からないんだ。
僕は流れだと思ったね。
映画もファッションなんだ。
それで、社長になる直前だった僕は思い切って現代劇中心に一新した。
(「テレビとヤクザ、2つの映画で復活した 岡田茂氏 東映相談役」NBonlineプレミアム 2006年2月23日)
「やると決めたら突き進んで、ダメだと思ったら切り替えることができる方じゃったんじゃね」
「日本人には少ないタイプじゃのう。で、東映は時代劇から任侠(にんきょう)映画に方向転換したんじゃ」
「任侠映画といえば、高倉健(たかくら けん)さんじゃね」
「鶴田浩二(つるた こうじ)氏もおっちゃったで。NHK連ドラ『てっぱん』のおばあちゃん、田中初音(たなか はつね)役の富司純子(ふじ すみこ。当時は藤純子)さんもそうじゃ」
「えぇ!? どんな役をやっとっちゃったん?」
「『緋牡丹博徒(ひぼたんばくと)』というシリーズ物で、「緋牡丹のお竜」という役をされとったんじゃ」
「おばあちゃんの、あの凛(りん)とした態度は、そのころのものなんかねぇ」
「あと、テレビ界に進出しちゃったんよ。大川橋蔵(おおかわ はしぞう)さんの『銭形平次』(1966年~)なんかが有名じゃのう ♪お~と~こだった~ら ひとつに賭(か)けるぅ~」
「任侠映画で一時代を築いちゃったんじゃね。その次はどんな展開をしちゃたんかね?」
「『仁義なき戦い』(1973年)じゃ! ♪チャララー チャララー…」
「菅原文太(すがわら ぶんた)さんじゃね」
「岡田氏が東映の社長に就任されたのが、1971年(昭和46)じゃ。そのころ、東映は仁侠映画から実録映画に転換しちゃったんよ。その他にも、梅宮辰夫(うめみや たつお)氏の不良番長シリーズや、千葉真一(ちば しんいち)氏の空手映画。あと、角川春樹(かどかわ はるき)氏と組んで、『人間の証明』(1977年)や『野生の証明』(1978年)などの角川映画を製作されたんじゃ」
「母さん、ぼくのあの帽子、どこへ行ったんでしょうね」
「西崎義展(にしざき よしのぶ)氏が持ち込んだ、劇場版『宇宙戦艦ヤマト』(1977年)を上映したのも東映なんじゃ。わしも東映パラスで観たぞ」
「先見の明があってんじゃね」
「作品をプロデュースするには、そういう感覚が必要なんじゃろうの。広島関係では、広島市映像文化ライブラリーの開館にも尽力されたそうじゃ」
アメリカでは、スティーブン・スピルバーグら若手の監督は皆ライブラリーに通って映画の勉強をしたという。
そうした環境が広島にもできたわけで、新藤兼人(しんどう かねと)監督に続く映像作家が生まれてほしい。
(「秀でた時代読む嗅覚 岡田茂さんを悼む」中国新聞 2011年5月11日)
「地元ということでは、東広島市にゴルフ場の広島東映カントリークラブ、シネ・コンのT・ジョイ 東広島を誘致されたそうじゃ」
↓広島市映像文化ライブラリーについては、こちら↓
広島市映像文化ライブラリー
↓広島東映カントリークラブについては、こちら↓
広島県のゴルフ場【広島東映カントリークラブ】
↓T・ジョイ 東広島については、こちら↓
T・ジョイ 東広島
↓岡田茂・東映についての関連記事は、こちら↓
東映任侠映画の花 藤純子
「今日は、岡田茂氏について話をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」
「東映いうたら、海から突き出した岩に波がドドーンと打ちつけて、「東映」の三角形のロゴマークが出てくるやつじゃね」
「わしらの世代でいうと、「東映まんがまつり」じゃのう」
任侠(にんきょう)物や時代劇など数々のヒット映画を生み出した東映の名誉会長で、東京広島県人会の名誉会長岡田茂(おかだ しげる)氏が死去したことが9日分かった。
87歳。
東広島市出身。
葬儀・告別式の日取り、喪主は未定。
長男は東映社長の裕介(ゆうすけ、本名剛=つよし)氏。
東大卒業後、東映の前身の東横(とうよこ)映画に入り、一貫して映画製作の現場を歩んだ。
多数のスターを起用して時代劇路線を成功させ、京都、東京撮影所の所長を歴任。
1971年から93年まで社長を務めた後、会長、相談役を経て2006年に名誉会長。
日本映画製作者連盟の会長なども務めた。
95年勲二等瑞宝章(くんにとうずいほうしょう)。
一方、県人会活動にも尽力し、94年に会長に就任。
会員数の拡大に力を入れ、「日本一」とも言われる活気を見せるようになった。
現在の会員数は約3千人。
08年からは名誉会長を務めていた。
07年8月に東広島市名誉市民。
(「東映名誉会長の岡田茂氏死去」中国新聞 2011年5月9日)
「岡田さんは、東広島市の出身じゃったんじゃね」
「賀茂郡(かもぐん)西条町(さいじょうちょう)、今の東広島市西条じゃの。岡田氏は東大卒業後の1947年(昭和22)、東横映画に入社されたんじゃ。入社半年後に提出した企画が『きけ、わだつみの声』(1950年)」
「戦没学生の手記じゃね。岡田さんは戦争に行かれたん?」
「戦地には行かれんかったんじゃが、学徒出陣で戦闘機の整備をされとったんよ。この映画は、戦場に散っていった学友の無念さもあって企画されちゃったんじゃ」
片岡千恵蔵(かたおか ちえぞう)ら京都撮影所の主だった面々の強い反対に遭(あ)った。
「当たる可能性は少ない。ばくちみたいな映画を作るのか」と。
だが、自身も学徒出陣で応召(おうしょう。招集(しょうしゅう)に応じること)した経験を持つ岡田さん。
何としても世に出したいと社長に直訴し、撮影にこぎ着けた。
封切りの日、恐る恐る浅草の映画館へ。
大盛況だった。
「映画製作の醍醐味(だいごみ)を知り、成功の恍惚(こうこつ)感にひたった」と自伝「波瀾(はらん)万丈の映画人生」にある。その後の活躍の予告編のようなエピソードである。
(「波瀾万丈の人生」中国新聞 2011年5月10日)
「映画は大当たりしたんじゃ。えかったね」
「1951年(昭和26年)、東京映画配給が東横映画を吸収合併して、今の東映株式会社を設立したんじゃ」
「えぇ!? 東映って、まだ60年の歴史しかないんじゃ」
「短期間で松竹、東宝に肩を並べる映画会社になっていったんよの。ほいで、岡田氏は27歳の時に、東映の京都撮影所の製作課長に抜てきされたんじゃ」
「京都といえば、時代劇じゃね」
「戦後の日本占領が終わった1950年代、東映は「時代劇は東映」といわれるくらい時代劇を量産されとるってんよの」
↓東映の時代劇については、こちら↓
「東映時代劇 傑作DVDコレクション」デアゴスティーニ・ジャパン
「ところが、1960年代には家庭にテレビが普及して、映画不況と呼ばれる時代になっていくんじゃ」
「その時は、どう対応しちゃったんかね?」
我々の商売はどんなに当たっても10年なんだよ。
時代劇も、うちは(片岡)千恵蔵以下、役者を揃えたけれど、急に客が来なくなった。
スタートしてちょうど10年目だよ。
いろいろ考えたけれど、結局、理由は分からないんだ。
僕は流れだと思ったね。
映画もファッションなんだ。
それで、社長になる直前だった僕は思い切って現代劇中心に一新した。
(「テレビとヤクザ、2つの映画で復活した 岡田茂氏 東映相談役」NBonlineプレミアム 2006年2月23日)
「やると決めたら突き進んで、ダメだと思ったら切り替えることができる方じゃったんじゃね」
「日本人には少ないタイプじゃのう。で、東映は時代劇から任侠(にんきょう)映画に方向転換したんじゃ」
「任侠映画といえば、高倉健(たかくら けん)さんじゃね」
「鶴田浩二(つるた こうじ)氏もおっちゃったで。NHK連ドラ『てっぱん』のおばあちゃん、田中初音(たなか はつね)役の富司純子(ふじ すみこ。当時は藤純子)さんもそうじゃ」
「えぇ!? どんな役をやっとっちゃったん?」
「『緋牡丹博徒(ひぼたんばくと)』というシリーズ物で、「緋牡丹のお竜」という役をされとったんじゃ」
「おばあちゃんの、あの凛(りん)とした態度は、そのころのものなんかねぇ」
「あと、テレビ界に進出しちゃったんよ。大川橋蔵(おおかわ はしぞう)さんの『銭形平次』(1966年~)なんかが有名じゃのう ♪お~と~こだった~ら ひとつに賭(か)けるぅ~」
「任侠映画で一時代を築いちゃったんじゃね。その次はどんな展開をしちゃたんかね?」
「『仁義なき戦い』(1973年)じゃ! ♪チャララー チャララー…」
「菅原文太(すがわら ぶんた)さんじゃね」
「岡田氏が東映の社長に就任されたのが、1971年(昭和46)じゃ。そのころ、東映は仁侠映画から実録映画に転換しちゃったんよ。その他にも、梅宮辰夫(うめみや たつお)氏の不良番長シリーズや、千葉真一(ちば しんいち)氏の空手映画。あと、角川春樹(かどかわ はるき)氏と組んで、『人間の証明』(1977年)や『野生の証明』(1978年)などの角川映画を製作されたんじゃ」
「母さん、ぼくのあの帽子、どこへ行ったんでしょうね」
「西崎義展(にしざき よしのぶ)氏が持ち込んだ、劇場版『宇宙戦艦ヤマト』(1977年)を上映したのも東映なんじゃ。わしも東映パラスで観たぞ」
「先見の明があってんじゃね」
「作品をプロデュースするには、そういう感覚が必要なんじゃろうの。広島関係では、広島市映像文化ライブラリーの開館にも尽力されたそうじゃ」
アメリカでは、スティーブン・スピルバーグら若手の監督は皆ライブラリーに通って映画の勉強をしたという。
そうした環境が広島にもできたわけで、新藤兼人(しんどう かねと)監督に続く映像作家が生まれてほしい。
(「秀でた時代読む嗅覚 岡田茂さんを悼む」中国新聞 2011年5月11日)
「地元ということでは、東広島市にゴルフ場の広島東映カントリークラブ、シネ・コンのT・ジョイ 東広島を誘致されたそうじゃ」
↓広島市映像文化ライブラリーについては、こちら↓
広島市映像文化ライブラリー
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広島県のゴルフ場【広島東映カントリークラブ】
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T・ジョイ 東広島
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東映任侠映画の花 藤純子
「今日は、岡田茂氏について話をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」
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