通でがんす

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被爆兵のため地蔵菩薩を建立 玉造温泉(松江市玉湯町)

2011年10月05日 | 日記
「島根県松江市玉湯町(たまゆちょう)にある玉造温泉(たまつくりおんせん)で、広島で被爆して亡くなった兵士を供養する地蔵菩薩が建てられて、開眼の法要が行われたそうじゃ」

「玉造に? なんで?」



広島で被爆し、広島第一陸軍病院の玉造分院に移送され亡くなった陸軍兵を供養する地蔵菩薩(ぼさつ)が、松江市玉湯町の玉造温泉街の一角に建立された。
地元住民たちの建立委員会が23日、開眼の法要をした。

湯薬師堂敷地内に建てられた地蔵菩薩は高さ約2・4メートル。建立を呼び掛けた新宮承紀さん(89)=同町=たち6人が除幕し、住職が読経した。
兵士たちが水を求めながら亡くなっていったことから、地蔵菩薩脇の鉢には水を満たした。

新宮さんの調査によると、被爆兵約200人が山口線経由の貨物列車で移送されて来た。
手の施しようもなく亡くなった人も多かったが、名前など詳しいことは不明という。

新宮さんは、1944年9月から45年3月まで、陸軍技術少尉として広島にいたが、8月の終戦は北九州で迎えた。
松江に戻り、亡くなった被爆兵の話を聞いたという。
「自分も被爆していたかもしれない。同じ立場にあった人間として、申し訳ない気持ちでいっぱいだった」と振り返る。

終戦60年の2005年、「せめて供養をしたい」と建立計画をスタートさせた。
新宮さんは「多くの人に供養してもらい、玉造で被爆兵が亡くなったという事実を後世に伝えられたら」と話していた。
(前岡愛)

(「被爆兵供養 玉造に地蔵 有志建立 広島から移送「後世に」」中国新聞 2011年9月26日)



「玉造に広島陸軍病院の分院があったということ?」

「ほうなんよ。広島第一陸軍病院の疎開分院として、1945年(昭和20)4月に玉造温泉の5つの旅館で開設されたそうじゃ」

「病院も疎開しとったん?」

「来るべき本土決戦と、空襲に備えてのことじゃろうの。空襲といえば、3月10日には東京大空襲があったし、3月19日には呉の軍港も空襲の被害を受けとるんじゃ」

「で、この玉造分院にも広島で被爆した兵士が送られてきたんじゃね」

「原爆投下4日後の8月10日ごろから、列車で送られて来たそうじゃ」

「「手の施しようもなく」と書いてあったけど、ここに送られてきたけぇいうて、何ができるわけでもないよね」

「亡くなられた兵士は近くの山で火葬されたらしいんじゃが、墓標は無いということなんよ」

「地元の方が看護されちゃったんかね?」

「看護されたのは、玉造女子青年団の少女たちだったそうじゃ」



三島富江さん(82)=松江市東出雲町揖屋/錦織素子さん(84)=松江市玉湯町玉造

広島に原爆が投下された直後、広島第1陸軍病院の分院があった玉造温泉街(現松江市玉湯町)で、地元の女子青年団員約10人が被爆兵の看護を手伝った。
広島市役所が1971年に発行した「広島原爆戦災誌第一巻」によると、玉造分院は広島陸軍病院の疎開分院として45年4月、玉造温泉の5旅館に開設された。
8月6日以降、被爆兵が転送され、10月の閉鎖まで数百人が治療を受けた。
団員だった三島富江さん(82)=松江市東出雲町揖屋=と錦織素子さん(84)=同市玉湯町玉造=に話を聞いた。



当時16歳だった三島さんと、18歳だった錦織さんは「暢神亭」という旅館で看護を手伝った。
団員に兵士の負傷の原因が知らされることは無かったという。
大広間に次々と重症患者が運び込まれ、すき間なく寝かされた。
団員は衛生兵の指示を受け、赤チンを渡し、包帯を洗った。

兵士たちは「水、水」と声をふり絞る。
傷口からウジ虫が湧き出す。
錦織さんは「あの悲惨な様子を見て、戦争はいけないと初めて思った」という。



三島さんが、兵らの負傷原因が原爆だったと知ったのは40年以上たってから。
被爆者の男性に体験を話したところ、被爆兵ではと指摘され「どんな形で影響が出るか分からない」と、被爆者健康手帳の取得を勧められた。

被爆者援護法は「放射能の影響を受けるような事情の下にあった者」も対象とし、被爆者を看護した人などにも健康手帳が交付される。
三島さんは90年ごろから団員だった女性に連絡し、手帳を申請した。
従事者の名簿が山口県の病院で見つかったことが決め手となり、93年、7人に手帳が交付された。



錦織さんは、三島さんから教えられるまで「自分が被爆者とは考えもしなかった」。
結婚し子供に恵まれた。
戦時中のつらい思い出は忘れるように努め、家族にも話さなかった。
手帳を申請する時、体験をまとめた原稿のタイプ打ちを高校生の孫に頼んだ。
初めて聞く話に孫はびっくりしていたという。

三島さんは体験を積極的に伝えてきたわけではないが、年を重ねて記憶が薄れ、ためらいも感じるという。
「自分から話すことでもないし、あえて尋ねる人もいないしね」。
遠くを見据え、目を細めた。

【宮川佐知子】
8月13日朝刊

(「2011戦争の記憶:/1 「被爆兵」知らず看護手伝い/島根」アメーバブログ)



「錦織さんの、「自分が被爆者とは考えもしなかった」という言葉は、わかるねぇ」

「なぜ兵士たちがこんなケガを負ったか、という理由を話さんかったというんじゃけぇの」

「三島さんや錦織さんたちは1993年(平成5)、被爆者手帳が交付されとってんじゃね」



3 身体に原子爆弾の放射能の影響を受けるような事情の下にあった者

昭和20年8月20日までに、
(1)15人以上(病室などの閉鎖された空間の場合は5人以上)の被爆して負傷した者が収容されている収容施設等におおむね2日間以上とどまった人
(2)被爆して負傷した者5人以上(1日当たり)と接触した人
(3) (1)、(2)には該当しないが、それらに相当する被爆事実が認められる人

「被爆者健康手帳等の申請」広島市






↓原爆についての関連記事は、こちら↓

パンプキン 模擬原爆が落とされた街

二重被爆者、山口彊

那須正幹って人、知ってるかい?(原爆の話)






「今日は、松江市玉湯町にある玉造温泉で、地蔵菩薩が建てられ、開眼の法要が行われたことについて話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」

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