通でがんす

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(旧ブログタイトル:通じゃのう)

二重被爆者、山口彊

2010年08月10日 | 日記

「二重被爆者」という言葉を、ご存知でしょうか?
文字どおり、ヒロシマとナガサキで2回、被爆された方のことじゃ。

「二重被爆者」のひとりで、2度の直接被爆を初めて認定されたのが、山口彊(やまぐち つとむ)。



山口は1916(大正5)年、長崎県生まれ。
三菱造船所長崎の艤装(ぎそう)設計課に勤務されとって、設計の応援のため、3カ月の予定で広島に居られたそうじゃ。



あす(8月7日)は妻と赤ん坊の待つ長崎に帰れる。

市電を終点で降り、職場への道を歩いていてB29の爆音を聞いた。
見上げると、白い落下傘が2つ落ちてくる。と、真っ白な火球がさく裂した。

あ、と思うと爆風に吹き飛ばされ、気が遠くなった。
爆心地から約3キロ。
じりじりした痛みで意識が戻った。
髪に火がつき、体の左半分はベロリと大やけどをしていた。
足は何とか動く。
造船所を目指して歩きだした。

翌日、救援列車に飛び乗ると、すぐに意識を失った。
長崎には8日の昼近くに帰り着いた。

(「二重被爆 山口彊さん(89)~あの日ここから 60年目の被爆者」長崎新聞 2005年8月7日)
http://www.nagasaki-np.co.jp/peace/2005/kikaku/15/05.html



翌9日、爆心地から3キロの会社に出社したとき、2度目の被爆。



「広島で見た(きのこ)雲がまたあった。雲に追い掛けられているように感じた」

(「広島・長崎で被爆・山口彊さん死去 93歳」長崎新聞社 2010年1月7日)




戦後、中学の英語教師を7年間務めたあと、三菱造船に復職し、定年まで勤められたそうじゃ。

2002(平成14)年、短歌集「人間筏(いかだ)」を自費出版。



(広島の)川に流れる遺体は、人間で作った筏(いかだ)のように見えた。

(「二重被爆 山口彊さん(89)~あの日ここから 60年目の被爆者」長崎新聞 2005年8月7日)




2005(平成17)年、幼くして被爆した息子をがんで失ってから、それまで以上に、原爆について積極的に語り始められたそうじゃ。

2006(平成18)年、ドキュメンタリー映画「二重被爆」に出演。



広島、長崎の双方で被爆した人たちに焦点を当て、なぜ2度も原爆は投下されたのかと問いかける日本のドキュメンタリー映画「二重被爆」が3日、ニューヨークの国連本部で上映された。
二重被爆者の山口彊(つとむ)さん(90)が長崎市から駆けつけ、「日本では2度あることは3度あるというが、3度目はあってはならない。核兵器廃絶のため、みなさんの力が必要です。私も命の限り訴え続ける」と、会場の国連職員らに訴えた。

山口さんは今回、初めて旅券を手にして訪米したという。
「ここで死んでもいいと決意して来た」と話した。

(「なぜ原爆は2度落とされたのか 「二重被爆」国連で上映」朝日新聞 2006年8月4日)
http://www.asahi.com/culture/movie/TKY200608040088.html



2009(平成21)年3月、長崎市から広島での被爆事実の認定を受けられた。
そのとき、山口の被爆の承認となったのが、元同僚で、自らも二重被爆した岩永章。



岩永さんは、山口さんと三菱重工業長崎造船所の同僚だった。
1945年春、岩永さんは山口さんらと一緒に広島に長期出張。
8月6日の原爆投下時は、爆心地から4キロ以上離れた、広島の造船所にいた。
「大きなマグネシウムをたいたような強い閃光(せんこう)が見えました」


9日の長崎原爆投下時、岩永さんは郷里の長崎県諫早(いさはや)市から列車で長崎造船所に向かう途中で、同県長与(ながよ)村(現長与町)内にいた。
その夜、列車を降りて徒歩で造船所に行く途中、長崎市内の惨状を見た。
「火の海だった」。
この時、岩永さんは入市被爆。
山口さんは、造船所内で再び直接被爆していた。

山口さんが長崎市に正式な二重被爆の認定を求めた昨年、岩永さんが証人となり、2人は電話で連絡を取った。

岩永さん自身は「二重被爆」を公式認定してもらおうとは考えていない。
しかし「2度も原爆地獄を見た者として、記録に残したいという山口さんの思いはよく分かった」。

(「山口彊さん死去:「素晴らしい生き方だった」 二重被爆証言の元同僚沈痛」毎日新聞 2010年1月7日)



2010(平成22)年1月4日、胃がんのため死去。
93歳。



そして先日、ドキュメンタリー映画「二重被爆~語り部・山口彊さんの遺言」が完成し、7月末に長崎市で初上映されたそうじゃ。



監督の稲塚秀孝さん(59)は「山口さんがやり残したことを次世代にバトンタッチしたいという思いで作った。一つ一つの言葉をかみしめてほしい」と話す。
今後の公開予定はなく、国内外で上映先を探している。

亡くなる2週間前、米映画監督のジェームズ・キャメロンさんと初対面し、山口さんが病床で「I have done my duty(私は自分の役目を終えた)」とつぶやく場面も。

(「山口彊さんの記録映画完成 広島、長崎の「二重被爆者」」熊本日日新聞 2010年8月3日)
http://kumanichi.com/news/kyodo/culture/201008/20100803009.shtml




ジェームズ・キャメロンといえば、「タイタニック」や「アバター」でも有名ですのう。
なぜ、この人が出てくるかというと…。



映画監督のジェームズ・キャメロン氏(55)が22日、長崎市の病院に入院中の二重被爆者、山口彊さん=長崎市=を訪ね、自身が構想している原爆をテーマにした映画などについて語った。
キャメロン監督は「山口さんには今しか会えないかもしれない」と面会を求めたという。

臨席した家族や関係者によると、キャメロン監督は「あなたのような稀有(けう)な経験をした人を、後世、人類に伝えるために来ました」と話し、固い握手を交わしたという。

原爆について「8歳の時にキューバ危機があり、原爆が使われるかもしれないという恐怖が頭に焼き付いている」とも語ったという。
映画の実現は未定だが「作るとしたら妥協はしません」と誓ったという。

(「ジェームズ・キャメロン監督:原爆テーマ映画を構想 長崎で二重被爆者に面会」 2009年12月30日)
http://mainichi.jp/tanokore/cinema/003017.html




今日は、山口彊について勉強をさせてもらいました。
今日もひとつ勉強になったでがんす。



「こがあな いびせえ(=恐ろしい)こたあ、ほかの誰にも あっちゃあいけん」
(「平和宣言」広島市長・秋葉忠利 2010年8月6日)



ほいじゃあ、またの。


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