通でがんす

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(旧ブログタイトル:通じゃのう)

開峡百周年 三段峡

2018年03月14日 | 広島の話題



「広島県立文書館で「開峡百周年 三段峡(さんだんきょう)の歴史と自然」(2018年1月10日~3月17日)をやっているので見に行ってきた」

「三段峡は、広島県北西部を流れる柴木川(しばきがわ)にある、長さ約16キロメートルの大峡谷」

「三段峡は国の特別名勝であり、2015年2月にはフランスの旅行専門誌『ブルーガイド』で、宮島・原爆ドームに並んで最高格付の三ツ星を獲得されたそうじゃ」

「それは知らんかった」





↓三段峡については、こちら↓

「三段峡を散策されるみなさんへ」安芸太田ナビ 安芸太田町観光協会





↓広島県立文書館については、こちら↓

「広島県立文書館」広島県ホームページ





「開峡百周年って、それより前は…?」

「知る人ぞ知る秘境、というか地元の人たちに知られる程度で、もちろん「三段峡」という名前さえ付けられとらんかった」

「ほとんど知られとらんかったんじゃね」

「ここを始めて紹介したのが、江戸時代に出された『松落葉集(まつのおちばしゅう)』(明和5年(1768)編)。加計(かけ)村にあって鉄山を経営していた佐々木(隅屋)正封(すみや まさたか)が編集した本じゃそうな」

「鉄山って、たたら製鉄と関係があるんかね?」

「関係があるんじゃ。隅屋はたたら製鉄による儲けを文化事業にもつぎ込んで、この『松落葉集』という本を出したり、吉水園(よしみずえん)という庭園を造ったりされとってんじゃ」

「へぇ」

「あと、たたら製鉄は森林を伐採して山を切り崩したりするため、環境破壊をもたらした面もある。このときの土砂が太田川(おおたがわ)を通って河口付近に堆積したことで、広島のデルタができるのが早くなったとも言われとるんじゃの」

「それは初耳」

「それはともかく、この本には、竜門(たつのぐち)、三段龍頭(りゅうず)、猿飛(さるとび)、呼岩(よびいわ)などが収められている。そしてこの本の序文に、「中国の「山我(さんが)三峡(さんきょう)」に似た風景美なのに、いまだ文人が訪れず世に知られていない。将来は天下の景勝地になるだろう」と記されとるそうじゃ」





↓『松落葉集』については、こちら↓

「松落葉集(加計隅屋文庫)」広島大学図書館 デジタル郷土図書館





↓吉水園については、こちら↓

名勝 吉水園ホームページ





「さっき『松落葉集』の序文に、「将来は天下の景勝地になるだろう」と記してあるっていうたけど、誰が三段峡を世に広めちゃったん?」

「写真家の熊 南峰(くま なんぽう)さんじゃ。南峰は今から101年前の1917年(大正6)、当時まだ名前さえつけられていなかった三段峡に初めて入った」

「戦前の広島市内には、写真館がたくさんあったんよね」

「広島には宇品(うじな)港があって、戦争があればここから戦地へ行った。その前に記念写真を撮るので写真館がたくさんあった、と聞いたことがあるのう。それはともかく、広島市内にある写真館に勤めていた南峰さん、広島県北西部にある山県郡(やまがたぐん)の名所を紹介する『山県郡写真帖』の撮影を頼まれたそうじゃ」

「あの重たい、蛇腹(じゃばら)のカメラで撮影しよったころ」

「加計あたりで、人里離れた秘境に美しい滝があると聞いた南峰さん。その重いカメラを担いで、道なき道を踏み分けて行き写真に収めた」

「これが三段峡の始まりなんじゃね」

「三段峡の虜となった南峰さんは、以来、計1000回以上も撮影をし、1922年(大正11)には『安芸三段峡三十三景』という写真集まで出された。もちろん、「三段峡」という名前も南峰さんが付けられたんじゃ」

「三段峡は写真という形で世に知られていったんか」

「南峰さんは日露戦争(1904年~05年)で活躍、勲章を受けられた方で、最後はその勲章を質に入れてまで三段峡の撮影をされた。そして三段峡に名勝の指定が受けられるよう陳述書を書かれたそうじゃ」

「すごい熱意じゃね」

「とはいえ、何事も人ひとりの力で成し遂げることはできん」

「ということは、強力な助っ人がおられた?」

「その助っ人が、地元の横川(よこごう)地区で小学校(当時:尋常(じんじょう)小学校)教師をされとった、斎藤露翠(さいとう ろすい。本名:軍一(ぐんいち))さん」

「学校の先生?」

「「横川小学校沿革史」の1922年(大正11)7月23日の項に、広島の芸備日日(げいびにちにち)新聞の主催で20余名の探勝(たんしょう)隊が三段峡に来たとき、斎藤さんが歓迎役を務められた様子が記してあるんじゃ」

「探検隊じゃのうて、探勝隊、名勝の地を見に行くというわけじゃね」

「南峰さんと斎藤さんの努力の甲斐があって、1918年(大正14)10月8日に名勝、戦後、1953年(昭和28)11月14日には特別名勝に指定された」

「すごいね。1917年に初めて三段峡に入ってから、たった8年で国の名勝を受けとってんじゃ」

「すごいよのう」

「話を聞いとると、江戸時代後期、頼 山陽(らい さんよう)が、それまで無名じゃった「山国谷」と呼ばれる渓谷を「耶馬溪図巻記」で「耶馬溪(やばけい)」と名づけて、それから有名になった話と似とるね」

「こっちは、今から200年前の文政元年(1818年)の話じゃの。最後に、南峰さんが作られた「三段峡歌」を紹介して終わりにしよう」



眺むる勝景百有余
神秘の霊気に誘われて
訪い来る客は絶間なし

(2番後半部)





訪問日:2018年3月10日





【参考文献】

『日本歴史地名大系 第35巻 広島県の地名』 (1982年)

原島広至『彩色絵はがき・古地図から眺める 広島今昔散歩』 (中経の文庫 2014年)






「今日は、「開峡百周年 三段峡」ということで、三段峡を初めて紹介した『松落葉集』と、三段峡を世に広めるのに尽力された熊 南峰さん斎藤露翠さんについて話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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