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アルプスの少女ハイジができるまで

2010年08月17日 | まんが・テレビ・映画

8月12日(木)、「アルプスの少女ハイジ展」について取り上げたんじゃが、盆休みの間に観に行ってきたんじゃ。
個人的にはいろいろ参考になる、ええ展示会じゃった。



今日は、「ハイジ制作上の指示」「アニメへの思い入れ」「宇宙戦艦ヤマトとの意外な関係」について調べてみようかの。



まずは、ハイジ制作上の指示について。

ずうっと不思議に思うとったのが、「アルプスの少女ハイジ」から始まる世界名作劇場で、なぜあれだけ丁寧な演技をしとるんか、ということじゃ。
アニメで原画枚数を多くしてキャラクターに演技をさせると、手間と時間と金がかかるんじゃ。
なんで、そこまでする必要があったんじゃろうか?

その答えが、ハイジ展の入り口に掲げられてあった。
高橋茂人(たかはし しげと)という、アニメの企画・制作会社ズイヨーを作られた方の言葉じゃ。



アメリカやドイツでもハイジの実写の映画が作られていましたが、人物を中心にハイジの物語をなぞっただけのもので、ハイジの生活感、ハイジの”心の中のアルプス”とのかかわり合いが描かれていませんでした。

スタッフに次のような指示を出しました。

1.演技を丁寧に作ること。
非常に写実的な映像を要求しているために(当時はアニメでは実写的なキャラクター、特に人間は動かしにくく感情の表現が難しいとされていました。そのため、キャラクターは漫画的なキャラクターが主でした。)「ハイジ」の登場人物、及び動物は出来るだけリアリティのあるキャラクターに仕上げ、顔の表情だけでは不十分な感情表現を手、指などの演技を丁寧に作る事で感情を豊かにする。

2.シナリオ、音楽は子供を意識せず対象年齢を上げて作成する。
また、世界には多数の宗教があり、信仰を越えて数多くの方々に楽しんでもらうため、原作に色濃く流れている宗教色をなくす。
そして、ハイジが持っている心の中の神を3本のモミの木に替え、心の依(よ)り所とする。

3.美術背景は出来るだけ実際の景色を写し、演出上で必要な風景は合成する。

以上の指示を満たして制作するためには、主要スタッフに現地スイスの空気を肌で感じてもらう必要がありました。

(高橋茂人「「ハイジ」誕生の背景」)




アニメでは顔の表情だけでは不十分なので、丁寧に演技をつけることで感情を豊かに表現しようということじゃの。

ハイジの本当の強さは、キリスト教の信仰にあるそうじゃ。
しかし、それを映像的にも絵になり、象徴的なものとしてモミの木へとすり替えられたそうじゃ。
その普遍性が海外に輸出された際に、世界の多くの地域に置いても違和感無く受け入れられたということじゃ。

また、「主要スタッフに現地スイスの空気を肌で感じてもらう」必要があるということで、当時としては画期的な海外ロケハンを行われたそうじゃ。



次に、アニメへの思い入れについて。

ここまでアニメーションに思いこみがある方じゃ、どんな経歴か調べてみようかの。

1969(昭和44)年3月、TCJ映画部からエイケンが独立した時、高橋は瑞鷹(ずいよう)エンタープライズを設立。

TCJは、「鉄人28号」「エイトマン」(1963年)、「スカイヤーズ5」(1967年)、「サスケ」(1968年)、「忍風 カムイ外伝」(1969年)などを制作されとります。
エイケンの代表作といえば、「サザエさん」(1969年~)じゃのう。



「「ズイヨー」を作って独立したのは、おとなとこどもが共に楽しめるものを作るためだった。
おとなが見てもおもしろく、子どもに安心して見せられ、自分も見たくなる映像を企画の基本方針としていた」

(小野耕世氏著「高橋茂人 日本におけるテレビCMとTVアニメの草創期を語る(TCJからズイヨーへの歴史)」)




この時、高橋が目をつけたのが「ムーミン」。
著作権を買うため、原作者のトーベ・ヤンソンに会いにフィンランドまで行かれたそうじゃ。



「わたしの記憶では、著作権を映像化のため外国から購入したことはないのではないか」

(同上)




こうして、「ムーミン」(1969年~1970年)を企画(制作は東京ムービー、のちに虫プロダクション)。
その後も、「アンデルセン物語」(1971年)、「(新)ムーミン」(1972年)、「ワンサくん」(1973年)などを企画されたそうじゃ。

そして、企画・制作会社となったズイヨー映像から、「山ねずみロッキーチャック」(1973年)、「アルプスの少女ハイジ」が制作されることになった。



最後に、宇宙戦艦ヤマトとの意外な関係について。

「宇宙戦艦ヤマト」(読売テレビ)は、「アルプスの少女ハイジ」(フジテレビ)の裏番組じゃったんじゃ。
とはいえ、実際に放送時期が重なったのは、1974年(昭和49)の10月から12月までの3カ月だけじゃったんじゃがの。

ヤマトの原作者である西崎義展(にしざき よしのぶ)がヤマトの企画を立てていたころ、彼はズイヨーの役員をされとったんじゃそうな。



あの企画そのものは西崎義展氏がズイヨーの役員だったとき、彼が企画していました。
キャラクターは何人かに頼んで断られたあと、松本零士(まつもと れいじ)氏が描いたもので、それで決定した。
はじめは帆船のようなものを描いてきて、船の名は、武蔵そのほかいろいろ出ていましたね。
雑談のなかで「戦艦を飛ばしたら? ヤマトなんかはまだ日本人の思い出のなかに大きく残ってるよ」と話したのを覚えています。
結局「宇宙戦艦ヤマト」(1974-75)になった。
当時、ズイヨーは、「ハイジ」をフジTVから放映中で、道義上そのまったく裏の時間帯に「ヤマト」を日本テレビで放映するわけにはいかない。
それで西崎は別会社の形をとって、そこでこの企画を進めた。

(同上)




う~ん、この業界も狭いんじゃのう。

西崎がズイヨーを退社するとき、「ヤマト」と「ワンサくん」の権利は西崎のものとなったので、ズイヨーとの間で権利に関する問題はなかったそうじゃ。

ご存知の方もおられると思うんじゃが、「ヤマト」西崎と松本は裁判で争ったんじゃ。
そこで、「「ヤマト」の原作者は西崎であり、新作・続編を製作する権利は西崎にある」という結果が出た。

ほいじゃけぇ、昨年12月に公開された映画「宇宙戦艦ヤマト 復活篇」の監督は西崎じゃった。

木村拓哉主演で、今年の12月に公開予定の映画「SPACE BATTLESHIP ヤマト」も、西崎の許可を取って制作されたんじゃ。



↓ハイジについての関連記事は、こちら↓

8月12日に関する記念日で、福屋広島駅前店で行われる催し物は?
http://blog.goo.ne.jp/hiroshima-2/d/20100812



↓ムーミンについての関連記事は、こちら↓

「ムーミン展」に関連して上映される、ムーミンの映画のタイトルは?
http://blog.goo.ne.jp/hiroshima-2/d/20100220



今日は、「ハイジ制作上の指示」「アニメへの思い入れ」「宇宙戦艦ヤマトとの意外な関係」について勉強をさせてもらいました。
今日もひとつ勉強になったでがんす。



ほいじゃあ、またの。

コメント
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