通でがんす

いろんな広島を知って、ひろしま通になりましょう!
(旧ブログタイトル:通じゃのう)

1945年8月8日、広島県内で空襲を受けたのはどこ?

2010年08月08日 | 広島の話題

「ああ やれんのう。こがあな辛(つら)い目に、なんで遭(あ)わにゃあ いけんのかいのう」
(「平和宣言」広島市長・秋葉忠利 2010年8月6日)



【問題】
65年前の1945(昭和20)年8月8日、空襲を受けて354人が犠牲者が出た街は、次のうちどこでしょうか?

1.因島(因島空襲)
2.呉(呉空襲)
3.広島(広島空襲)
4.福山(福山空襲)









【正解】
4.福山(福山空襲)




【解説】
福山市の市街地の約8割を焼失し、354人が犠牲になった「福山空襲」から8日で65年を迎える。
戦災体験の風化が懸念される中、1973年に空襲の実相を後世に伝えようと地元の教員らが設立した「福山空襲を記録する会」も、空襲体験者や会員の高齢化などで10年以上、休眠状態が続いている。
自身も福山空襲を経験した代表の岡田智晶さん(79)(福山市水呑町)は、「空襲体験者の『生の声』を聞く機会は、急速に失われていく」と危機感を募らせ、活動を継ぐ人材の育成に力を入れている。

(「8日で福山空襲から65年 体験聞く機会少なく」読売新聞 2010年8月1日)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/hiroshima/news/20100801-OYT8T00049.htm



今日は、「福山空襲」「体験談」「慰霊碑」について調べてみようかの。



まずは、福山空襲について。

1945年8月8日午後10時25分、91機のB29爆撃機によって福山市は空襲を受けた。
1時間にわたって、約5,700発(556トン)の焼夷弾(しょういだん)が投下されたということじゃ。
その被害は…。



■市街地焼失面積/314ヘクタール(市街地の約80%)

■犠牲者数/354人

■重軽傷者数/864人

■焼失家屋数/10,179戸

■被災人口/47,326人(市民の81%)



実は、福山空襲はアメリカ軍から空襲を「予告」されとったそうじゃ。
空襲から8日前の7月31日の夜、B29爆撃機が1機、福山市上空に飛来し、空襲予告ビラ約6万枚を撒(ま)いていった。

伝単(でんたん)と呼ばれたこのビラは、1945年7月27日から8月5日の間に、32の都市で約200万枚が撒かれた。
そのうち半数にあたる16の都市が、実際に空襲されたということじゃ。



↓福山空襲について、くわしくはこちら↓

「福山空襲の実相」福山市人権平和資料館
http://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/jinkenheiwashiryoukan/kusyu.html



次に、体験談について。

「福山空襲を記録する会」代表の岡田智晶は当時、旧制中学2年(14歳)だったそうじゃ。



学徒動員先の福山市内の軍需工場から同市入船町(いりふねちょう)にあった自宅に戻り、寝る支度をしていた時、「ドッドーン」と照明弾の破裂音が響き、辺りが真昼のように明るくなった。
家の外に飛び出すと、東の空に爆弾が投下された軌跡が赤い線となって何本も浮かんでいた。

爆音と熱風は、あっと言う間に周囲を襲った。
火の海となった一帯を何とかくぐり抜け、水路に沿って命からがら逃げた。
遠くの方に、当時は国宝で市のシンボルとして親しまれていた福山城が、火柱に包まれて焼け崩れるのが見えた。

翌日に見た市内は、見渡す限りがれきに覆われ、あちらこちらに黒こげになった死体があった。
同級生も亡くしたが、今思えば不思議なくらい空襲への怖さや不安は感じなかったという。
岡田さんは、「戦争は人間性を奪う。戦時中の教育や環境で、人としての感情が失われていた」と回想する。

(「8日で福山空襲から65年  体験聞く機会少なく」読売新聞 2010年8月1日)




教師となった岡田は、平和教育の機運の高まりもあって、1973(昭和48)年、教員仲間5人で「福山空襲を記録する会」を設立されたそうじゃ。
空襲で犠牲になった人の遺族らを訪ね、体験や思いを記録。
1975(昭和50)年、100人近い関係者の体験談などを収めた「福山空襲の記録」を出版されたそうじゃ。
10年後の1985(昭和60)年には、新たな体験談を盛り込んだ「続福山空襲の記録」も出された。
しかし、空襲体験者や会員の高齢化に伴い、活動が停滞しとるそうじゃ。



岡田さんは、戦災体験が風化しつつある現状や、閉塞(へいそく)感漂う世相に、「再び日本が戦争に突入するのではと恐れを感じる」と言い、空襲を知らない世代と協力し、新たな調査を始めた。
「悲惨な体験を語り継ぐことで後世に生かし、戦争の惨禍を繰り返してはいけない」と語気を強める。

(同上)




最後に、慰霊碑について。

福山空襲の犠牲者の慰霊碑は、福山市霞町にある福山中央公園に建立されとるそうじゃ。
慰霊祭は、この像の前の広場で行われとります。
この慰霊碑は「追憶」と命名され、空襲から逃げ惑う母子3人をかたどったもの。
この親子にまつわる話が残されとります。



8月9日の朝、火照(ほて)るように暑い市中に入り、住吉町の水田の中に母子3人の焼死体を見つけました。
母親はうつぶせになり、胸にすがりついた赤ちゃんを片手でしっかり抱きよせ、まるで乳を飲ませているようなかっこうでした。
そしてその母親の足を6才くらいの子が両手でしっかりつかまえて、ひざまずいていました。
着物などは焼けてしまって、遺体はまるでろう人形のようでした。
水田の中に入っていれば水があるので助かると思ったのでしょうが、稲は焼け水は枯れて母子はむし焼きになってしまったのです。

(「福山空襲」都市空襲)
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/kusyu-fukuyama.htm



慰霊碑の隣には、広島原爆の死没者慰霊碑も建立されとります。
広島へ家族や親戚などを助けに行ったり、探しに行ったり、また、広島で被爆し、命からがら福山へ逃げ帰った方もたくさんおられたんじゃろう。



福山市原爆被害者の会は、市中央公園で慰霊式を開いた。
羽田皓市長や被爆者、遺族たち約130人が参加。
63人の名前を新たに加えた968人の死没者名簿を慰霊碑に納めた。

午前8時15分に全員で黙とうした。
被爆2世や地元の高校生代表は千羽鶴をささげた。

(「福山でも原爆死没者を悼む」中国新聞 2010年8月7日)
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201008070015.html



↓空襲についての過去の記事は、こちら↓

1945年7月28日、広島県内で空襲を受けたのはどこ?
http://blog.goo.ne.jp/hiroshima-2/d/20100729



今日は、「福山空襲」「体験談」「慰霊碑」について勉強をさせてもらいました。
今日もひとつ勉強になったでがんす。



ほいじゃあ、またの。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする