味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

積極的な徳を行い、操正しくあるならば万事は上手くいく。『易経』

2009-12-09 16:37:16 | インポート

タイトル----積極的な徳を行い、操正しくあるならば万事はうまく行く。『易経』 第306号 21.12.9(水)

 『易経』は、「五経」の一に数えられる経典である。易はもと卜筮(ぼくぜい)に用いられたものだが、『易経』という典籍になってからは、卜筮のほか、人間処生上の指針教訓として見られるに至った。時代によって解釈にいろいろ変化はあるが、宋の程伊川(ていいせん)の易伝と朱子の本義を合した伝義本などは、その傾向が特につよい。以下、略(諸橋轍次著『中国古典名言辞典』講談社)

〈乾(けん)は、元(おお)いに亨(とお)る、貞(ただ)しきに利(よ)ろし。〉(新釈漢文大系・今井宇三郎『易経』明治書院)

 通訳「積極的に徳を積むことに努め、しかも操正しくあるならば、万事は上手く行くであろう。「乾」とは天のことであり、男であり、健であり、積極的の徳である。その徳をもっていれば、どこに行っても万事がうまくいく。すなわち「元いに亨る」のである。ただし、それには「貞」、すなわち正しい操を守ることが必要である。それが「貞しきに利ろし」である。(前掲書)参照。

〈潜竜(せんりょう)、用うる勿れ。〉(前掲書)

 通訳「将来に向けて大成をはかる人は、かねがね修身に努めるべきである。その場合、過信して急がないことである。」(前掲書)参照。

〈見竜けんりょう)田(でん)に在り、大人(たいじん)を見るに利(よ)ろし。〉(前掲書)

 通訳「学んで才能が大分備わって来たときは、自分を推薦する大人、君徳ある人に会うのがよい。」(前掲書)参照。

〈終日乾乾として、夕べに 惕若(てきじゃく)たれば、危うけれども咎なし。〉(前掲書)参照。

 通訳「一日中誠実に勤めを果たし、夕べにいたるまで、恐れ慎むだけの心があれば、たとえその地位は安全ではないにしても、落ち度でとがめられることはないであろう。」(前掲書)参照。

〈亢竜(こうりょう)悔いあり。〉(前掲書)

 通訳「最高の地位、権力に達した場合、人はしばしば敗亡の憂き目に遭遇することがある。退くことを忘れ、慎み畏れるからである。」(前掲書)参照。

 こういうことについて、『菜根譚』は言う。〈事を謝するは当に正盛の時に謝すべし。〉「地位を去る、辞める時は全盛の時にすべきである。」と。

 全盛の時に辞する、これ程難しいことはないようです。そこに人間の「欲」が介在するからです。真摯に学問を修め、修行し、自らを客観的に観察・分析し、正常な判断・対応が出来るようになりたいものです。これらは、我々庶民にも通用する、処世の要諦でもあります。

 四書五経は永年読んで来ました。『易経』の卦は難解です。大学を卒業した娘も『易経』に挑んだが、難しいと言って、途中で挫折しました。ここで紹介した文言は、過去、筆写したりして来たので、意味は理解出来るのです。ところが、『易経』の卦はわからない。分からないから面白いのです。分からないということは負けた、ということである。でも、分からなくても、損失はないから楽しく面白いのです。これがパチンコだと、負けたら損失に繋がります。そしてカリカリ来ます。さて、バチンコと難解な漢文を読むのとどちらがいいでしょう。

 意味が理解出来るようになるまで、倒れるまで学び続けたいと思っています。


入るを量りて以て出ずるを為す。『礼記』

2009-12-08 15:18:23 | ブログ

タイトル----入るを量りて以て出ずるを為す。『礼記』 第302号 21.12.08(火)

 「五経」の一つである『礼記』は、周末から漢代に至る古礼についての儒者の説を集録したものである。漢代、すでに編述されていた古礼二百十四篇を戴徳(たいとく)が削ってつくったのが、「大戴礼」八十五篇であり、戴徳の甥戴聖(たいせい)がさらにこれを削って「小戴礼」四十九篇をつくった。今日いう『礼記』は、この「小戴礼」である。

 『礼記』は、礼に関する理論および実際を記録編集したものであるから、当時の社会、制度、習俗を知るには絶好の書である。(諸橋轍次著『中国古典名言辞典』講談)参照。

〈國用を制するは、必ず歳(とし)の杪(すえ)に於いてす。〉(新釈漢文大系・竹内照夫著『礼記』明治書院)

 通訳「国の費用について計画を定めるのは、必ず年末に行う。」(前掲書)参照。

〈五穀皆入りて、然る後に国用を制す。〉(前掲書)

 通訳「それは、五穀の収穫を終えてから計画をするのである。」(前掲書)参照。

〈地の小大を用(もっ)て、年の豊耗(ほうこう)を視(み)、三十年の通を以て國用を制す。〉(前掲書)

 通訳「先ずその国の大小とか、毎年の収穫を検分し考え、三十年間の平均収入に基づいて、費用を定めることにしている。」(前掲書)参照。

〈入るを量りて以て出すを為す。〉(前掲書) 

 通訳「これが、収入をよく定めてから支出を行う、というものである。」(前掲書)参照。

 『南洲翁遺訓』第十四章も言う。「会計出納は制度の由て立つ所ろ、百般の事業皆是より生じ、経綸中の枢要なれば、慎まずばならぬ也。其の大体を申さば、入るを量りて出るを制するの外更に他の術数無し。」

 意訳「国の事業は会計出納の制度が基本となっている。すべての事業はみなこれから生ずるものであって、国を治める上で最も重要なものであるから、慎重の上にも慎重でなければならない。その大事な点は、「入るを量りて出るを制する」すなわち、入るのをはっきり確かめた上で、それに合わせて支出をおさえるという以外に良い方法などあるわけがないのである。」

 ところが現在の、我が国はどうであろう。「入るを量る」どころか、最初から首を傾げざるを得ないいい加減さ、である。政治家も官僚も、したい放題て綿密な計画等した形跡はなく、官僚らの食い扶持のため法人を創り続けている実態が、仕分け作業によって白日のもとに晒されてきたのである。

 これを機会に、『礼記』も訓えている「入るを量りて以て出ずるを為す」と同様の厳しい査定の基に、特別会計等々すべてを洗いざらい仕分けし、国民が納得する施策を講じ、国政を運営して貰いたいと念じている次第である。


努めて見聞を広め、博識をほこらないようにしよう。『礼記』

2009-12-05 16:22:13 | ブログ

タイトル----努めて見聞を広め、博識を誇らないようにしよう。『礼記』 第292号 21.12.5(土)

〈博聞強識にして譲り、善行に敦(あつ)くして怠らず、之を君子と謂う。〉(新釈漢文大系・竹内照夫著『礼記』明治書院)

 通訳「見聞を広め物事を知り、そして記憶し、博識を誇ることなく、謙譲であり、また善い事を熱心に行い、かつ、怠ることがない。こうした人を君子という。」(前掲書)参照。

〈君子は人の歓を盡さず、人の忠を竭さず、以て交わりをまったくす。〉(前掲書)

 通訳「君子は、また人との交際において、相手に過度の歓待をさせず、過度の親切をかけさせぬように配慮し、そうやって交際を長く保つのである。」(前掲書)参照。

 凡人である私どもには、とても出来そうにない事のようであるが、歴史に名高い君子と言われる人々が成し得たことであっても、そこに、実践するぞという気概と、日々のたゆまぬ積み重ねが功を奏すると思うのである。

 先ずは始めることである。そしてやりだしたら諦めないことである。性急に結果を求めず、楽しみながら継続するところに、本人が想像だにしない成果が、取り組みの量に比例して答えが出てくると信じている。

 世の中めまぐるしく展開している。昨日のテレビ報道によると、秋葉原で活躍している若い女の子たちが、舞台で歌い、踊り、飛び跳ねている情熱的な舞台芸術をアメリカにも輸出するのだとして、紹介する場面があった。受け入れる側が、それらをよしとしてくれるのであれば、有難いことである。そのことが経済効果にもなるのだとプロディ-スした人は話していた。

 でも考えさせられた。失礼かも知れないが、10代の女の子たちが、どの程度の勉強をし、どの程度の教養があるのだろうか。物珍しく、経済効果に繋がるからとして、外国を飛び回った時、彼女らの将来に、現在の輝かしいアイドル時代の幸せの延長が保障されるのであろうかと、老婆心ながら思うことだった。

 ただ華やかでありたい、金儲けがしたい、テレビに出られればいい、という短絡的思考と、じっくりと腰を据えて、遠い将来を展望して取り組むのとでは、結果は五十歩百歩ではあるまい。

 未知の世界に挑むなら、今回紹介した〈見聞を広め物事を知り、そして記憶し--〉という人間の奥義をこそ広めるべきではないのかと思ったのである。

 先に、映像文化におだてられ、そして映像文化に翻弄された女が覚醒剤に手をつけ、映像によって処罰されたと同様の結果が、アメリカに華々しく進出した事後、褒賞の報酬としてくるのではないかと、他人事ながら危惧した次第である。

 〈博識を誇ることなく、謙譲であり〉とあるように、優雅さと謙虚さの無さを誇り過ぎた後の代償は決して少なしとはしない、と思うのである。そこに大人の、賢明な指導者が要求されるのであろうと思われてならない。


礼は、謙虚さをもって、相手を尊ぶことを教える。『礼記』

2009-12-03 14:54:10 | ブログ

タイトル----礼は、謙虚さをもって、相手を尊ぶことを教える。 第282号 21.12.3(木)

〈大上(たいしょう)は徳を貴(たっと)び、其の次は施報(しほう)を務む。禮は往来を尚(たっと)ぶ往きて来(きた)らざるは、禮に非ざるなり。〉(新釈漢文大系・竹内照夫著『礼記』明治書院)

 通訳「人間社会における最高の交際方歩は互いに徳をもって交わり、礼も挨拶も必要としない方法である。(ということは、徳をもって交わるそのものが「礼」行為そのものではないかと思う。多くのお稽古ごと、習い事をしてきた私は、経験上そのように思う)そして一方から施すと他方から報いるという方歩は次善のものである。即ちそれが礼であって、礼には往と来が必用である。(それが意思の疎通ということであろうか。)」(前掲書)参照。

〈来りて往かざるも、亦禮に非ざるなり。〉(前掲書)

 通訳「こちらから往ったのに、あちらから来ないとか、あちらから来たのに、こちらが往かないとかでは、礼にならないのである。(いわゆる手前の心情に先方が応えてはじめて、心が行き交うということであろう。)」(前掲書)参照。

〈人禮有れば則ち安く、禮無ければ則ち危うし。故に曰く、禮は學ばざる可からざるなり。〉(前掲書)

 通訳「人が礼を心得ておれば安全に生活し得るが心得ていないと危うい。それゆえ古人は、「礼を学ばずには済まされないもの」と言った。(ここで言う〈危うい〉とは人間関係に支障を来たすということであろうか。私の体験上、それは有りうると思う。)」(前掲書)参照。

夫れ禮は、自ら卑くして而して人を尊ぶ。負販の者と雖も、必ず貴ぶ有るなり。而るを況や富貴なるをや。〉(前掲書)

 通訳「----礼は、自己を(精神的にも)低くして相手を尊ぶことを教える。たとい相手がささやかな行商人であっても(身分に関係なく)、必ず相手に尊重して扱うのであるから、まして相手が(精神的も)富貴ならば、なおさらである。」(前掲書)参照。

〈富貴にして禮を好むを知れば、則ち驕らず淫せず。貧賤にして禮を好むを知れば、則ち志懾れず。〉(前掲書)

 通訳「人は富貴であっても、礼を好むことに心がけるなら、必ず驕り高ぶるようなことはせず、物欲に溺れないであろうし、もしまた貧賤であっても、礼を好むことに心がければ、必ず志望を高尚に保って、富貴や威武を恐れないのである。」(前掲書)参照。

 人間、他人よりか優位に立ちたいと思っている人が多いと思う。ところがその思いが相手にどうとられるかで、人間の値打ちは決まるであろう。金持ちで、頭がよくて、仕事上で上位の役職にあった人が、退職後もその辺の普通の人々よりか上であるなどと思い込んでいるとしたら、一種の病であろう。そういうつもりで人々に接したら、かえって逆効果を招き人望も何も吹き飛んでしまうであろう。

 ところが「礼を弁えた人は」そういうそぶりを見せないのである。どんなに下に見られようが、顔色一つ変えず普通に相対しているのである。相手を見下げるなどの振る舞いをしているとしたら、実は、自分の人格を落としているという事に気づかなければならない。

 真に礼を学んだ人間の内面に潜む「観察眼」ほど怖いものはないのである。それを見抜く洞察眼があって始めて、世に君臨できる人物と言えると思う次第である。