第2299号 27.4.15(水)
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天に応じ民に順(したが)う。『漢書』(敍傳)
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天命と人道とに順って事を行う。それが真の王者のとるべき道だ。654
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【コメント】上の解説で〈真の王者〉とありますが、それを「賢明な人」と訳してもよろしいのではないでしょうか。
感情剥き出しでなく、冷静に、他人様も自分も立つ、このような日々の営みをしたいものだと私は考えています。
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そういった意味で荘内南洲会前理事長・小野寺先生方との出会いは、最高の出会いであったと思います。
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『大学味講』(第136回)
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(四) 以上が詩経にある文王の人となりでありますが、それは要するに「敬して止まる」ことであります。そこで大学の著者は、この詩の一節を引用して、人間は、その立場立場において止まるべき至善をもつべきであるとし、次のようにいっているのであります。
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即ち、人の君(治者)となっては、「仁」に止まるべきであり、人の臣となっては「敬」に止まるべきであり、人の子となっては「孝」に止まるべきであり、人の父となっては「慈」に止まるべきであり、国民と交わっては「信」に止まるべきである、といっているのであります。
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註 「国人と交わりては信に止まる」とは、治者として、国民に対しては「信」を失わぬようにすることを第一とすべきであるというのであります。論語顔淵篇に、「民、信なくんば立たず」とあるが、参考となるでしょう。
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菅原兵治先生の『大学味講』をご紹介しながら、解説をする人にとってこれほど変わるものかと感銘ひとしきりです。人間は、天の命によりこの世に誕生した訳でありますので、その道の権威者の論説に耳を傾けることが賢明であるように思います。
こういった古典の論理と現代科学社会の論理とを個々人が整合させ、生きて行くのが賢明のような気が致します。
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『論語』(第236
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孔子の郷党に於けるや、恂恂如たり。言ふ能わざる者に似たり。其の宗廟朝廷に在るや、便々として言ふ。唯謹むのみ。
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孔子が郷里にいる時は信実温恭で賢知をもって人に先んがることなく、物を言うことが出来ないかのようである。宗廟や朝廷に居る時は明らかに礼法や政事を弁じるけれども、ただ謹んで放逸に流れるようなことはない。
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『農士道』(第115回)
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かかる見地に立って従来の私共の農村生活を顧みれば、甚だしき誤謬と自己喪失とがあったではあるまいか。地中の根が愚かにも地上にはひ出して一朝の葉や花を咲かして喜ぶやうな過ちを敢えしたではなかったであらうか。青森へ帰ろうとする者が東京の列車に乗った失敗をしたではなかったらうか。「本」であるべき農道生活をして、徒に「末」に趍らしめた失敗はなかったであらうか。此の本質的な誤謬、本質的な過失、之を根本的に訂正するに非ざれば、そは恰も「女」が只管に「男」の真似をしようと焦る愚挙を敢えてなすやうなものではあるまいか。
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女は如何に其の言語姿容の外形を男に真似ようとした処で、どうしても男ではあり得ないことを嘆ずるよりは、翻然として女は女に帰って、男が如何にしてもなし能わざる子を生み、子を育てるといふ女性独特の本性を長養して、之を以て誇りとすべきではないか。此処に眞箇に気付いて帰農する(信箇に農道を帰依する)に非座れば、眞箇の農本生活は生れ出ない。
而して今こそ實に農本文明復興の抜本塞源の時である。かかる心根を以て次の呂氏春秋上農篇中の文を熟読玩味せば、農本生活の第一義に参ずる好箇の入門となり得るであらう。
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百人一首
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契りおきし させもが露を 命にて
あはれ今年の 秋もいぬめり 【藤原基俊】75
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天に応じ民に順(したが)う。『漢書』(敍傳)
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天命と人道とに順って事を行う。それが真の王者のとるべき道だ。654
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【コメント】上の解説で〈真の王者〉とありますが、それを「賢明な人」と訳してもよろしいのではないでしょうか。
感情剥き出しでなく、冷静に、他人様も自分も立つ、このような日々の営みをしたいものだと私は考えています。
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そういった意味で荘内南洲会前理事長・小野寺先生方との出会いは、最高の出会いであったと思います。
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『大学味講』(第136回)
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(四) 以上が詩経にある文王の人となりでありますが、それは要するに「敬して止まる」ことであります。そこで大学の著者は、この詩の一節を引用して、人間は、その立場立場において止まるべき至善をもつべきであるとし、次のようにいっているのであります。
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即ち、人の君(治者)となっては、「仁」に止まるべきであり、人の臣となっては「敬」に止まるべきであり、人の子となっては「孝」に止まるべきであり、人の父となっては「慈」に止まるべきであり、国民と交わっては「信」に止まるべきである、といっているのであります。
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註 「国人と交わりては信に止まる」とは、治者として、国民に対しては「信」を失わぬようにすることを第一とすべきであるというのであります。論語顔淵篇に、「民、信なくんば立たず」とあるが、参考となるでしょう。
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菅原兵治先生の『大学味講』をご紹介しながら、解説をする人にとってこれほど変わるものかと感銘ひとしきりです。人間は、天の命によりこの世に誕生した訳でありますので、その道の権威者の論説に耳を傾けることが賢明であるように思います。
こういった古典の論理と現代科学社会の論理とを個々人が整合させ、生きて行くのが賢明のような気が致します。
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『論語』(第236
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孔子の郷党に於けるや、恂恂如たり。言ふ能わざる者に似たり。其の宗廟朝廷に在るや、便々として言ふ。唯謹むのみ。
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孔子が郷里にいる時は信実温恭で賢知をもって人に先んがることなく、物を言うことが出来ないかのようである。宗廟や朝廷に居る時は明らかに礼法や政事を弁じるけれども、ただ謹んで放逸に流れるようなことはない。
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『農士道』(第115回)
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かかる見地に立って従来の私共の農村生活を顧みれば、甚だしき誤謬と自己喪失とがあったではあるまいか。地中の根が愚かにも地上にはひ出して一朝の葉や花を咲かして喜ぶやうな過ちを敢えしたではなかったであらうか。青森へ帰ろうとする者が東京の列車に乗った失敗をしたではなかったらうか。「本」であるべき農道生活をして、徒に「末」に趍らしめた失敗はなかったであらうか。此の本質的な誤謬、本質的な過失、之を根本的に訂正するに非ざれば、そは恰も「女」が只管に「男」の真似をしようと焦る愚挙を敢えてなすやうなものではあるまいか。
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女は如何に其の言語姿容の外形を男に真似ようとした処で、どうしても男ではあり得ないことを嘆ずるよりは、翻然として女は女に帰って、男が如何にしてもなし能わざる子を生み、子を育てるといふ女性独特の本性を長養して、之を以て誇りとすべきではないか。此処に眞箇に気付いて帰農する(信箇に農道を帰依する)に非座れば、眞箇の農本生活は生れ出ない。
而して今こそ實に農本文明復興の抜本塞源の時である。かかる心根を以て次の呂氏春秋上農篇中の文を熟読玩味せば、農本生活の第一義に参ずる好箇の入門となり得るであらう。
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百人一首
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契りおきし させもが露を 命にて
あはれ今年の 秋もいぬめり 【藤原基俊】75