『農連市場に年末の買い出しに行く』

2007年12月31日 00時05分03秒 | 沖縄現地情報

▲<こちらの店では、ブロッコリーをさばいて売っていた。一袋100円也>
12月30日午後、那覇市樋川にある「農連市場」に年末の買い出しに行きました。
与儀小学校の西にある街路樹の「トックリキワタ」の花を見たその足で「農連市場」へ回る(与儀小学校からは、与儀の交差点の歩道橋を渡り神原中学校を抜ければ直ぐ)。

昼過ぎだったので、混雑やにぎわいはなかったが(農連市場は、AM3:00~AM7:00頃がピークで、店の経営者や大口の買い手でごったがえすらしい)、近所の人達がゆっくり買い物をしていた。
また、東京の築地やアメ横のように、カニやかずのこの売り出しが無く少し寂しいが・・・。

▲<沖縄では、結構しめ縄を売っています>
今日、買ったもの(近所のスーパーの価格との比較)、バナナ12本(400円→200円)、みかん20個(390円→200円)、ゴーヤ3本(400円→200円)、天ぷら(イカ、イモ、かき揚げ)(240円→100円)、アン餅5個(?→400円)、カステラカマボコ(?→900円)、カマボコ(300円→200円)。

▲<右端がカステラカマボコです>
普段は、那覇市の郊外に住んでいるのでなかなか行けないが、会話をしながらけるので楽しい。特に、農連市場は売っている人はすべて個人事業者なので中間マージンが発生しないのはもちろんの事、作っている人なので安心です。
いつも思うのだが、沖縄はJAが強いのか、スーパーの努力不足で、沖縄産の食材が高すぎるのです。

▲<農連市場のまねき猫>
⇒沖縄に移住して、半年が過ぎた。最低一年たたないと沖縄の良さも悪さも解らないと思う。来年も、好奇心をフルに使って体感して行きたい。
来年も、皆様にとって良い年になりますようにお祈り申し上げます

豊見城市 民俗遺跡巡り(15)『瀬長島地区』①

2007年12月30日 00時05分24秒 | 沖縄現地情報

▲<島に入った直ぐの所は、野球グランド(4面あり)になっている>
豊見城市瀬長島(せながしま)地区は、那覇空港の南側に位置し、着陸する時の進入灯がある所です。標高33m、周囲1.5kmの小さな島ですが、「琉球国由来記」には、「瀬長按司が居住していたグスクがあった」と記述されています。
以前は、島に渡る橋が無く、往来は干潮時に干潟を歩いて渡り、満潮時は船を利用したらしい。

▲<左は、島に入る道路から見る瀬底島。右、どんどん飛行機が降りて来る>
昔から島には、ハブが多く島では鶏が鳴かないといわれ、別名「トゥナカンシマ」とも言われていました。
戦前は、海亀が産卵したと言われるほどきれいな砂浜が島の周囲に見られたが、戦争後米軍の基地になり、以前あったグスクの石垣や拝所(4ヵ所)は、移動されるなど、大きく変貌しました。

▲<家族連れが釣りを楽しむ南側、向こうには渡嘉敷島の島影が>
しかし、島の中には、今でも住民が造ったのでしょうか、小さな祠が点在しています。




▲<車道の直ぐ傍に点在する祠や拝所。最後の写真は、「子宝岩の碑(これだけは、拝所ではありません)」>
⇒次回は、島の外、県道331号線「瀬長交差点」にある、新しく移築した「瀬底島拝所」を紹介します。


豊見城市 民俗遺跡巡り(14)『翁長地区』②

2007年12月29日 00時05分19秒 | 沖縄現地情報

翁長地区は、村道9号線で南北に分かれています。低い土地の北地区には住宅が無く、畑と養豚舎だけです。
そこには、農業用水に利用されているガーが名称不詳も含めて4か所あります(豊見城市教育員会調べ)。そこへ行くには、「大城三味線製作所」北側の道と「豊見城南高校前」から2つのルートがありますが、今回は、「大城三味線製作所」から入りました。

▲<左、進入路。右、案内をしてくれた人が「カー」の前に立っている。>

▲<「カー」の中は、水草が一面に浮かんでいました。>

▲<マンゴーハウスの中を歩く>
一帯には、養豚舎とマンゴー栽培のビニールハウスが点在しているが、目印がなくどこから入っていいのか解らない。とりあえず、一番手前にあった道を入って行く、村道9号線下の突き当りまで進むが何も無い。
ビニールハウス端にあった農業用タンクを撮影する。帰り際に、ビニールハウスから出てきた農家の方に尋ねた。すると、ビニールハウスの裏にあると教えてくれた。
そして、案内して下さった。その方が言うには、夏はハブが出るので自分達も冬しか草狩りをしないらしい。特に、畑の中の井戸周辺は、カエルなどがいるので、ハブが好む場所らしい(冬で良かった!)。
帰りは近道だからと言って、ビニールハウスの中を通してくれた(しかし、靴は泥だらけになりました)。
他の3つは、草むらの中や畑の中にあるとの事だったので、今回は残念する。
また、明治時代に造られた幅1m全長50mの「石畳道(サーターヤーヌヒラ)」は、完全に雑草の下になっていて判別出来ないとの事なので、こちらも撮影は出来なかった。※サターヤーとは、製糖工場の事。この付近に工場があったのでそう呼ばれている
帰りは、国道331号線の豊見城南高校側翁長(北)交差点へ出る。
途中、井戸らしいものを2か所撮影するが確証なし。
翁長地区は、保栄茂地区の西側にあり、同じく糸満市と隣接する。横に長く、南北で住居地区と耕作地に分かれている。住居地は、地域外からは入り込みにくい地域性を感じた(国道331号線沿いは逆に、県外者向けの新しいアンションが点在する)。

▲<畑の中には、井戸の様な物がチラホラとありましたが・・・。>
⇒今回で、翁長地区は終了する。

豊見城市 民俗遺跡巡り(14)『翁長地区』①

2007年12月28日 00時05分24秒 | 沖縄現地情報
豊見城市翁長(おなが)は、保栄茂(びん)と同じく、豊見城市最南端の地区です。国道331号線沿いの市役所&豊見城南高校などがありますが、大半は砂糖キビ畑と酪農の地域です。
高校東側、住宅地の中にある「ウブガー(ウェーガー)」は、一見の価値がありました。背の高いヤシの木3本が、ガーを囲んで立っていてなんとも沖縄らしい美しい風景でした。
その少し東側には、翁長地区の「ウタキ(御嶽)」があります。

<ガーの上にある祠>

▲<中には、美しい水がありました>

⇒次回は、もう一つの「翁長」北・下側の耕作地にある「カー」を探索します。


豊見城市 民俗遺跡巡り(13)『保栄茂地区』②

2007年12月27日 00時05分55秒 | 沖縄現地情報

▲<アガリ御嶽>
栄茂地区の東外れにある「保栄茂排水処理施設」付近に3つガーがあるはずでしたが。10年前の教育委員会の地図には「汚水処理施設」は無く、周囲は畑があるのみで、案内標識も一切ないために、場所が確定出来ない状況。
道路下、南側、畑の中に「メーバルガー」らしき物は、探せたが、二か所ありどちらか判明出来なかった(とりあえず、2つ撮影する)。

「排水処理施設」手前の、自然の湧水を「メーバルヌーガー」と勝手に認定し、こちらもとりあえず撮影しておく。

近くには「アガリ御嶽(保栄茂グスク入口)」もありました。そこには、「ニーガンガー(ニーチューガー)」が、あるはずでしたが全く形跡ないために、隣の畑の水道の蛇口を撮影して、これに変えます(案内標識があれば少しは探せるのですが、この地区は「ブトゥガー」「保栄茂グスク」以外の案内標識は一切無いので、確認不明が多くなりました)。

集落の土地形状が、ほぼ平坦のため畑が多く農業従事者中心の地区と推測するが、特徴のある集落では無かった。
しかし、「フーフダ」と「ゲーン」が、いたる所で目に付いた地区だった。信仰深い住民が多い事は間違いない。保栄茂の南側は、糸満市で豊見城市最南端の地区になります。




▲<一番下は、サツマイモ畑にあった「ゲーン」です。畑の作物を守っています。>
⇒これで、保栄茂地区は終了です。

豊見城市 民俗遺跡巡り(12)『渡嘉敷地区』②      

2007年12月25日 00時05分55秒 | 沖縄現地情報

渡嘉敷住宅地区外側北の山中に「クシヌカー」があるはずだったが、その場所らしき所には、「大浜第二病院」と、「おもととよみの杜」があり、入口に居た守衛さんに聞いたが、敷地内にはそのような物は無いとの事で探せなかった。

渡嘉敷地区南端「渡嘉敷集落センター」敷地内にあるはずの、「ティールガー」も判明せず。
「ナントーガー(シラアミガー)」は、渡嘉敷集落センター前広場の一角にあったものを撮影する。

渡嘉敷地区は、南斜面にあり陽当りが良い。赤瓦の美しい家が点在し、庭の手入れや花が美しく、屋根のシーサーを入れて、撮影をしたくなるほどの地区でした。


⇒これで、「渡嘉敷地区」は終了します。

豊見城市 民俗遺跡巡り(12)『渡嘉敷地区』①

2007年12月24日 00時05分01秒 | 沖縄現地情報

豊見城市渡嘉敷地区は、上田地区の南端「バプテスト教会」から入ります。北側に標高92.3mの丘陵があり上田側に「クバジョーガー」があるはずだったが、住宅街の一番高いところまで上がったが、個人住宅が一軒あるだけでガーは無かった。「渡嘉敷の嶽」「渡嘉敷の殿」も探せなかった。
上田地区南部県道249号線道沿い「チャナガー」斜め向いの美容院横に「ナントゥガー(ウブガー)」がありました。中の水は美しく金魚が一匹住んでいました。

渡嘉敷地区には、「村石獅子」が一匹います。住宅街の中にある駐車場の南端に座っていました。顔の表情は判明出来ないが、雑草の花の中にちょこんと座っています。

住宅街北端に「スムヌカー(ウブガー)」がありました。こちらは、形式保存でした。

付近の東側住宅の中に、「ミートグサイ井」が2か所にありました。


⇒次回は、後編です。渡嘉敷地区のシーサーを紹介します

豊見城市 民俗遺跡巡り(11)『上田地区』

2007年12月23日 00時05分18秒 | 沖縄現地情報
豊見城市上田地区は、豊見城中学の南側県道68号線から県道249号線に入ります。バス停「上田」の周辺に2つのガーがあります。
「ナカバルガー」は、住宅街の一番奥大きな木の下にありました。中には、奇麗な水がありました。

 <ナカバルガーの中>
「ミーガー」は、少し探しにくかった。駐車場の中に小さな祠があり、みかんのお供えもあり、その隣の井戸跡か?と、思ったが手前の家の猫が顔を出していたので、撮影に行ってその家の裏に回ったら「ミーガー」がありました(「ミーガーは、蓋がされていて小さな祠が傍にあるのみでした)。こうして、偶然に見つかる事もありますので、探す面白さを感じるのはこんな時です。
 
▲<駐車場にあった大切にされいる祠>
 <間違った井戸跡>
 <綺麗な猫たちでした>
 <ミーガー>
「フルジマガー」は、少し南下した住宅街の中の「むつみ保育園」付近にありました。建物と隣のグランドの間に、形式保存の状態でした。
 <古島ガー>
最後の一つは、地区の一番南側のゼネラル石油の手前、コーポ大嶺の付近にあるはずでしたが、探せなかった。ご近所の人に案内して頂き、持ち主の自宅入口に発見する。以前は、農業用水に使われていたそうですが、モーターが外されていて役目は、終わった様子でした。
 <チャナガーの跡>

映画『夕凪の街桜の国』を観ました。

2007年12月22日 02時19分07秒 | 沖縄現地情報

この映画の原作は、平成16年度文化庁メディア芸術祭アンガ部門大賞、第9回手塚治虫文化賞新生賞を受賞したマンガです。作者は、1968年広島生まれの「こうの史代」さんです。私は、賞を取った時知りました。早速、購入して、柔らかいタッチの絵と静かに流れるストーリの中に、しっかりとした戦争批判があり、感激して周りの人に薦めた記憶がある。

この度、「佐々部清」監督で映画化が進んでいるとは聞いていたが、沖縄にはいつ来るのだろうかと、思っていたが、那覇市久茂地の「リュウボウホール」で12月19日~25日まで上映がある事を知り前売り券を購入して、20日に観賞しました。
ストーリは、ここでは書きませんが漫画では、戦後13年目と現在(映画では平成19年)の繋がりが、解りにくい面があったが、映画では役者(麻生久美子と田中麗奈)が異なる事で解り易く創られていました。
各役者の抑えめの演技は、原作の雰囲気を上手く伝えてあり、好感が持てました。

麻生久美子が演じた「皆実」が死ぬ間際の「なぁ、うれしい?13年も経ったけど、原爆を落とした人は私を見て『やったぁ、また一人殺せた!』って、ちゃんと思ぅてくれとる?」という言葉は、ずっしりと心に入ってきます。
今年の映画における最高のセリフだと思います。
一人の戦後生まれの漫画家と、今、一番力のある監督が、新しい名作を誕生させました。

※佐々部清監督は、1958年下関生まれ、「チルソクの夏」「陽はまた昇る」「半落ち」「カーテンコール」「四日間の奇跡」「出口のない海」など、完成度の高い作品を創り出す実力派です。

那覇市遺跡探索散歩 コースN.『奥武山公園巡り』(3)

2007年12月21日 00時10分18秒 | 沖縄現地情報

ゆいレール「奥武山公園駅」の歩道橋を渡り、肉屋側の階段を下ります。「SANフルーツ」の角を左折して住宅街に入り、坂上のカーブミラー前に「山下町第一洞穴遺跡」があります。しかし、崖崩れがひどくなったので、掲示板等も無くしてありました。山下町第一洞穴遺跡跡は、1962年と1968年に発掘調査時に、約3mの堆積層が確認され、鹿の骨や角を加工した骨器などと共に、人骨(約3万2000年前の女児)も発見されました(日本でも最も古いとされる化石人骨のひとつです)。

再度、県道7号線に戻り奥武山公園を右手に見て少し歩くと、県公社の住宅があり、一階のコーナーに「落平(ウティンダ)」が、新しく造られ、今も奇麗な水が流れ続けています。付近一帯の、崖地から水が湧き出ている所には、拝所も何ヵ所か造られています。当日も、お祈りを上げている方がいらっしゃっていました。

 
国道331号線の一つ内側の道を10分位歩くと「山下西児童公園」に着きます。公園の中には「タチチガー」が保存されています。タチチガーは、山下町や隣接の住吉町の人達が利用した井戸で、正月の若水もこの井戸の水を汲んで使った。昔はタチトゥジガー(太刀研ぎ井戸)と呼ばれていましたが、いつの間にかこの名前になりました。

公園の奥は、小高い丘になっていて、階段を上ると「住吉神社」があります。住吉神社は、「琉球国由来記」には、儀間村の神社として登場しますが、沖縄線で破壊され元の位置も米軍基地に取られたため、現在の位置に移設されました。



 
 
⇒「奥武山公園」は、トレーニングセンターに通ったり、イベント会場になったりしているので、良く行く「奥武山公園」ですが、今回、本格的に民族遺跡を訪ねて、再度、「奥武山公園」のすごさを再評価しました。

那覇市遺跡探索散歩 コースN.『奥武山公園巡り』(2)

2007年12月20日 00時05分39秒 | 沖縄現地情報

児童公園の遊歩道の木製の階段を下りるとテニスコートに出ます。その後ろ側に人口の池があり売店の横に「心海上人の墓」が、ひっそりとありました。心海上人は、真言宗の僧侶で、護国寺の第24代の住持で、そこを辞して奥武山に龍洞寺を建立して隠居した18世紀頃の人物です。
そこから、陸上競技場の方へ少し行くと、「護国神社」があります。
 
護国神社は、元は招魂社と称して、日清・日露戦争などで犠牲になった御霊を合祀していたが、戦後は沖縄戦で犠牲になった県内外の御霊を祀っています。
帰りは、途中の右の道を降りると陸上競技場の裏へ出る。

そこから公園の外周道路に出て弓道場の間の道に入ると、「沖宮(神社)」手前の、少し高台にコンクリートブロックで造られた「当間家の墓」があります。「平(へい)」氏(うじ)当間家の墓は、始祖伊知地太郎兵衛が後に当間重陳と名乗り、ウコンや砂糖の専売で功績があったほか、当間銭と呼ばれた金銭も鋳造した。1871年に移築した時に建立した。
 
プールの南斜面は、「沖宮」の境内になっています。沖宮は、琉球八社の一つで、「琉球国由来記」によると、海に浮かんでいた霊木を拾って来て祀った神社とあります。那覇港埠頭の三重城へつながる海中道路の途中にあった沖山臨海寺と一つになっていたが、1908年、那覇港の工事の際に安里八幡の境内に移された。1938年には社殿が国宝に指定されたが、大戦で破壊され、現在の場所に再建されました。

この神社の一番の高台「天頭山(テントウザン)」は、奥武山で最も高い場所で霊験あらたかな場所として、いくつかの碑文が建っています(真中は、インドの古い文字で、仏教と関わりのある梵語と短いお経が記されている。右側は、仏教思想で世界のもとを表す「空地水火風(タウチスイカフウ)」が記されている。左側は、梵字らしいものが記されているが判明不能)。
 
左側、少し下のスペースには新しく、喜納昌吉の「花(すべての人の心に花を)」の新しい碑が建造されていました。
沖宮では、この日たくさんの中学生らしい人達が清掃をしていたので、聞くとこちらの宮司の弟さんが、エイサーの有名人で、その教え子達が、清掃に来ているとの事だった。こんなところでも、伝統芸能の影響が良い形で表れていました。

▲<天頭山から南東方面の国場川を望む>
ここで、奥武山公園内の遺跡巡りは終わり、公園西側の山下町にある遺跡を訪ねるために、公園を出て、ゆいレール「奥武山公園駅」へ行く。

那覇市遺跡探索散歩 コースN. 『奥武山公園巡り』(1)

2007年12月19日 00時05分27秒 | 沖縄現地情報
 北明治橋
「奥武山公園(おうのやまこうえん)巡り」は、公園内に点在する民俗遺跡と周辺山下町に所在する遺跡などを巡るコースです。奥武山公園は、沖縄復帰記念事業の一つとして開催された特別国体「若夏国体」の主会場になった事から、スポーツ施設が集中する大規模なスポーツ公園です。NAHAマラソンのスタート&ゴール地点にもなりますので、全国的にも有名な運動公園です。
出発地点には、三つの駅がありますが、今回は「壺川駅」とします。まず、壺川駅を降りて公園に掛かる歩行者専用橋(北明治橋)へ行きます。
 

 
橋のたもと(各4か所)の説明板で、奥武山公園内の名所や埋め立ての歴史などが学べますので、基礎知識を学んでから公園に入って下さい(私は、奥武山公園が昔、島だった事を学びました)。

陸上競技場を左手にして歩くと県立武道場があります。その左側に「世持神社」入口の鳥居があります。

▲<奥の祠には、恵比寿・大黒・木のご神体が祀られています>
世持神社は、蔡温や野国総管や儀間真常など沖縄産業の恩人が祀られている神社です。階段を上がると小さな境内があるだけで、紹介する案内板もなく隣の児童公園の片隅に存在する状態です。

▲<世持神社隣接の児童公園から見る那覇ドーム球場建設現場>
⇒次回は、護国神社から沖宮神社へと回ります。

週刊アサヒ芸能に、出ました!

2007年12月18日 00時05分43秒 | 沖縄現地情報
このブログを見た、週刊アサヒ芸能(徳間書店)の記者さんから、10月にメールを頂きました。「ご存じの大人の週刊誌ですが、『ちょっとだけ田舎暮らし』という、唯一と言っていい硬派の連載企画があり、今度沖縄を取り上げたいので、沖縄に行った際に取材をしたい」と言って来ました。
11月20日に、来られ夕食を一緒にしながら、那覇市内旭橋付近の居酒屋で取材を受けました。
2時間くらい、沖縄移住の現状や、石垣島の住民紛争について、私の意見を述べました。他にも数人取材をしていると聞いていましたので、どんな記事になるか楽しみにしていましたら、一昨日、掲載された最新号(12月20日号)が届きました。

140~141ページに記事はありました。記事の内容は、私が述べた「沖縄は移住者は多いが、定住者が少ない。地域に溶け込めない人にその傾向が強い。」という事と、それを解決する方法という内容になっていました。

そして、沖縄に移住している3名と、地元企業の担当者1名のインタビューを中心に記事が作られていました。
4名の一番目に、私が出ていました。当然の事ですが、たくさん話をした中からの、一部分ですが、私の話を上手くまとめてくれていました。そして、嬉しい事に、この『沖縄楽園生活』のブログ・アドレスも記事下に入れてくれていました。



この企画は、残念ながら年内に一区切りつけ、次号で終了(連載35号)するとの事のようですが、このような企画は、形を変えて今後も企画をして頂きたいと思います。
時間のある方は、書店かコンビニで立ち読みをしてみて下さい。
単行本になったら購入をして下さいね(西内記者がんばれ!)。

豊見城市 民俗遺跡巡り(10)『座安地区』

2007年12月17日 00時05分19秒 | 沖縄現地情報
豊見城市座安(とみぐすくしざやす)は、渡橋名地区の西隣にあり、国道331号線の東側に位置します。座安小学校裏の住宅街に「井戸」が二つあるはずがなかなか探せず、住宅街を行ったり来たりしました。

▲<歩き回っている途中にあった美しい民家>

住宅街の一番高い所にある畑の中にありました。公道が無く畑の畝を歩いて入らせて頂いた。「ミーカー」は完全に形式保存(形だけ残した状態)だった。

「ウブガー(ナカヌカー)」は、現役で農業用水として活躍中。中の水溜りも広くて、水も美しかった。

この地区の御嶽は、地区西側分譲住宅奥の森にあるはずだっだが、進入路の雑草が多くて、歩けなかったので残念しました。住宅地は、南西向きで日当たりの良い地区でした。

老人ホームへ「三線練習会」に行って来ました。

2007年12月16日 00時05分34秒 | 沖縄現地情報

12月15日、10時~12時まで、那覇市寄宮の老人ホームへ「三線練習会」に行ってきました。
10月から入会した、地元公民館行っている「三線サークル」の練習会に誘われ、参加した次第。

老人ホームには、60名くらいのお年寄りの方がいました。
ラジオ体操を一緒に行い、その後、サークルメンバーの演奏する沖縄民謡を一緒に歌いました。



演奏曲は、「芭蕉布」「娘ジントヨー」「てぃんさぐぬ花」「二見情話」「十九の春」「百歳の歌(十九の春の替え歌)」「南洋小唄」「芋の時代(ンムヌジダイ)」「ひやみかち節」「童神」「「渡りぞう滝落し」最後は、「豊年音頭」でカチャーシーで締めくくりました。



私は、まだ弾けないので手伝いで参加しました。
まずは、2月の「公民館祭り」でデビュー出来ればいいなぁと思っています。