「ガーデンパーティー」その(2)

2014年09月29日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<8時過ぎに着いたら直ぐに当主さんの挨拶が始まった>

9月27日の夜、沖縄本島中部にある旧家の庭で行われる、「ガーデンパーティー」に参加させて貰った。

北中城の高台にある、旧家の庭で行われる「ガーデンパーティー」です。


▲<立派な、「ソテツ」の下には色んな食べ物とお酒が並べられている>

例年は、6月末に行われるのだが、今年は9月末に行われた。


▲<6月に比べて「蚊」が、いなくて快適だった。>

聞くところによると、今夜も1,500人の参加者だったそうです。



「レイシ」の木が茂る木の下で、美味しい酒と食べ物が一杯です。

風が心地いい。木の下に色んな人が集い、楽しく会話していた。







「ガーデンパーティー」その(1)

2014年09月28日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<宜野湾にある、「アヒルの丸焼き」を買いに行く>

9月27日の夜、沖縄本島中部にある旧家の庭で行われる、「ガーデンパーティー」に参加させて貰った。

参加者は、参加費用はいらない。「手土産」だけで良い。

我々は、瀬崎君の提案で、宜野湾にある「アヒル」の丸焼きが美味しい店で、買って行った。






▲<「ニワトリ」に比べて、「アヒル」は、倍くらいの大きさです>


▲<手際よく、中華包丁で「パンパン」と切り分ける>

※会場で食べたが、皮は「パリパリ」。お腹に詰めていた「ニンニク」が、めっちゃ美味しい!!かった。

あっという間に、食べた。

◎会場の風景は、明日に続く。

映画「がじまる食堂の恋」

2014年09月25日 00時05分00秒 | 沖縄の生活


以前、このブログ(2月8日)で映画撮影に参加した事を報告した。その作品が、遂に9月20日から、全国ロードショーが始まった。

この作品は、有限責任事業組合(LLP)「名護まち活性計画」が製作。「名護大通り会」「株式会社パム」など6社が、名護市の街おこしや観光客誘致を図る官民プロジェクトです。

9月24日の午後、「桜坂劇場」へ観に行った。

大谷健太郎監督が、名護の街を美しい映像に仕上げてくれていた(特に、私の好きな「備瀬集落」が美しい)。

残念だったのは、「久志の浜辺」が太平洋側であり、浜の砂が赤かった事。


▲<映画の中では、生活圏で撮影という感じだったが、名護全体を見せるために、結構広範囲で撮影しています>

映画を観ながら、結構ストーリーに引き込まれている、自分がいておかしかった。

空港のロケ撮影に4時間近く参加したのだが、映像には出てこなかった(残念!)。

でも、エンディングロールには、私の名前もバツチリ出ていました(感激!)。

嫌われる勇気(6)

2014年09月23日 09時30分00秒 | 沖縄の生活

▲<台風16号は、台湾を北上してくれて沖縄には、殆ど影響がなかったが、24日あたりから「九州~中国地方」へ行くようです。ご注意を!>

第3章 『他者の課題を切り捨てる(2)』 
アドラーの「嫌われる勇気」岸見一郎+古賀史健著より 139~146P

c.「課題の分離」とはなにか
例えば、子供が「勉強する」という課題があった時、アドラー心理学では「これは誰の課題なのか?」という観点から考えて行きます。勉強するのは子供の課題です。それに対して親が「勉強しなさい」と命令するのは、他者(子供)の課題に対して、親が土足で踏み込む行為。これでは、衝突を避ける事は出来ないでしょう。

私達は「これは誰の課題なのか」という視点から、自分の課題と他者の課題を分離して行く必要があるのです。

およそあらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に対して土足で踏み込む、あるいは自分の課題に土足で踏み込まれる事、によって引き起こされます。課題を分離するだけで、対人関係は激変する。

子供を勉強させるのは、親の責務と言う人もいます。誰の課題かを見分ける方法はシンプルです。「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるには誰か?」もしも、子供が「勉強しない」という選択をした時、その決断によってもたらされる結末は、親ではありません。間違いなく子供です。すなわち勉強とは、子供の課題なのです。

親達は、明らかに自分の目的(それは世間体や見栄、支配欲かも知れません)それを満たすために動いています。

つまり、「あなたのため」ではなく「私のため」であり、その欺瞞を察知するからこそ、子供は、反発するのです。

じゃあ、放任して子供がまったく勉強しなくても放任しろ?アドラー心理学は、放任を推奨するものではありません。

放任とは、子供が何をしているのか知らない、知ろうとしない、という態度です。そうではなく、子供が何をしているかを知った上で、見守る事。勉強について言えば、それが本人の課題である事を伝え、けれども、子供の課題に土足で踏み込む事はしない。頼まれもしないのに、あれこれ口出ししてはいけないのです。

無論、精一杯の援助はします。しかし、踏み込まない。「馬を水辺に連れて行く事は出来るが、水を飲ませる事は出来ない」という諺通りです。

アドラー心理学におけるカウンセリング。また他者への援助全般も、そういうスタンスです。本人の意向を無視して「変わる事」を強要したところで、後で強烈な反動がやって来るだけです。

カウンセラーには、相談者の人生を変えられません。自分を変える事が出来るのは、自分しかいません

d.他者の課題を切り捨てよ
例えば、「引きこもり」を考えてみましょう。引きこもりの状態から抜け出すか抜け出さないか、これは原則として本人が解決すべき課題で、親が介入する事ではありません。とはいえ、子供が窮地の陥った時、素直に親に相談しょうと思えるような普段からそれだけの信頼関係を築けているかになります。

子供との関係に悩んでいる親は、「子供こそ我人生」だと考えてしまいがちです。要するに、「子供の課題」までも「自分の課題」だと思って抱え込んでしまう。

自分の人生から「私」が消えている状態です。しかし子供は、独立した個人です。親の思い通りになるのではありません。

子供は、親の期待を満たすために生きているのではない。信じるという行為もまた、「課題の分離」なのです。

他者との関係でも、相手の事を信じる。あなたの期待や信頼に対して相手がどう動くかは、他者の課題なのです。そこを線引きしないままに、自分の希望を押し付けると、たちまちストーカー的な「介入」になってしまいます。

例え、他者が自分の希望通りに動いてくれなかったとしても、なお信じる事が出来るか。愛する事が出来るか。

アドラーの語る「愛のタスク」には、そこまでの問いが含まれています。難しいと考えるでしょう。でも、こう考えて下さい。他者の課題に介入する事、他者の課題を抱き込んでしまう事は、自らの人生を重く苦しいものにしてしまいます

もしも人生に悩み苦しんでいるとしたら、その悩みは対人関係なのですから、まずは、「ここから先は自分の課題ではない」という境界線を知りましょう。そして他者の課題は切り捨てる。それが人生の荷物を軽くして、人生をシンプルなものにするのです

※「親と子供の関係」は、教育評論家が良く言われる話です。「馬を水辺に連れて行く事は出来るが、水を飲ませる事は出来ない」という諺通りですですね。真剣な親ほど、我を忘れてしまうのですね。

嫌われる勇気(5)

2014年09月20日 11時25分00秒 | 沖縄の生活

▲<台風16号が接近中の沖縄です。昨夜から風が強くなって来ました>

第3章 『他者の課題を切り捨てる(1)』 
アドラーの「嫌われる勇気」岸見一郎+古賀史健著より 128~138P

a.承認欲求を否定する
我々は、どこに行こうと他者に囲まれ、他者との関係性の中に生きる「個人」で、「対人関係」から、逃れられない。アドラーの語る「すべての悩みは対人関係の悩みである」に行き着く。

いったい、対人関係の何が、我々の自由を奪っているのでしょうか?他者を「敵」と考えるか?それとも「仲間」だと考えるか?「仲間」と見なす事が出来れば、世界の見え方は変わる。例えば、「親」は、どう見ても「敵」ではない。

特に子供時代は、最大の庇護者として私を育て守ってくれた。
大人になっても、親に認めて貰いたいと、「承認欲求」を求める人は多い。しかし、アドラー心理学では、「他者からの承認を求める事を否定します」。

b.「あの人」の」期待を満たすために生きてはいけない
他者から承認される事は、確かに嬉しい。もっと端的に言えば、なぜ他者から誉められたいと思うのでしょうか?例えば、あなたが職場でゴミを拾った。しかし周囲の人は感謝しない。誰からも感謝されないゴミ拾いだったら止めてしまう?

「承認欲求」の危うさはここにあります。多くの場合は、「処罰教育」の影響です。適切な行動を取れば褒めて貰える。不適切な行動を取れば罰せられる。

アドラーは、こうした処罰による教育を厳しく批判しました。
「処罰教育」の先に生まれるのは、「褒めてくれる人がいなければ、適切な行動をしない」「罰する人がいなければ、不適切な行動もとる」という、誤ったライフスタイルです。我々は、「他者の期待を満たすために生きているのではないし満たす必要はない」。

ユダヤ教の教えに、こんな言葉があります。「自分が自分のために自分の人生を生きていないのであれば、一体誰が自分のために生きてくれるのだろうか」と。人は、誰のために生きているのかと言えば、無論自分のためです。

他者からの承認を求め、他者からの評価ばかり気にしていると、最終的には、他者の人生を生きる事になります。承認される事を願うあまりに、他者が抱いた「こんな人であって欲しい」という期待をなぞって生きて行く事になる。つまり、本当の自分を捨てて、他者の人生を生きる事になる。

他者の期待に応えようとして、苦しんでいる人が何と多い事か。
自分本位に振舞う事が出来ない人達です。これは身勝手、傍若無人に振る舞う事ではありません。
ここを理解するには、アドラー心理学における「課題の分離」という考え方を知る必要があります。

※この章は、現代人に加速する「承認欲求の弊害」を100年も前に、アドラーが良く言い現わしています。フェイスブックの「いいね」現象を考えると、ズバリ言い当てていますね(笑)。

第6回「マネージャー養成研修」

2014年09月18日 00時05分00秒 | 沖縄の生活


9月17日、18~20時まで、顧問先の「マネージャー養成研修」の講師を行った。

今年の4月から開講して、今月で半年経った。

参加メンバーは、上長推薦のマネジャー候補者で、東京支店の2名を含む、11名(37~27歳)。

前半の1時間は、毎回、前回の研修内容の「質問&意見」に対して、メンバー同士で討議を行う。

私へ質問も、極力メンバーに振り、討議させた上で応える。


▲<ハックマンとオルダムの「職務特性モデル」を使いケーススタディの内容を検証し討議中>

後半の60分は、先月から一般社団法人モチベーション・マネジメント協会編集の「モチベーション・マネジャー資格」(新曜社刊)をテキストにして、働く人の「モチベーション」を体系的に学習する。私の解説を挟みながら進めて行く(専門用語と学術的研究が頻繁に出て少し難解なテキストだ)。

最後の20分で、第一章の「ケーススタディ」を行う事が出来た。

次回は、10月15日だ。第二章「内発的モチベーション」に入る。

おやじラブロックフェスティバル

2014年09月15日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<9月14日、「豊崎美らSANビーチ」イベント会場>

9月14~15日、豊見城市にある「豊崎美らSANビーチ」で、第9回「おやじラブロックフェスティバル」が行われた。


▲<18時過ぎから、夕陽が沈み始める>

地元中高年の「おやじ達」が、熱演する。熱い熱いイベントです。


▲<「SAZANGA9」(サザンオールシタースコピーバンド)>

14日は、アマチュアバンドが出演し、15日は、プロも加わる。

3年前にも、同じ「豊崎美らSANビーチ」で、行われたコンサートを観た。どのバンドも、フアンが嬉しいコピーバンドです。

14時から、「TEDDY BOWY」、「BEARS」、「GYMM」(忌野清志郎)、「38NOTE」、「REVOLVER」、「PennyLane」(吉田拓郎)、「風は南から」(ベンチャーズ&グループサウンズ)、「SAZANGA9」(サザンオールシターズ)、「ON THE DO=RO」(浜田省吾)、「AVE YDO=RO」の順で、20時過ぎまで行われた。

お目当ての、「ON THE DO=RO」が、19時過ぎから登場!








▲<ビールを飲みながら浜風に当たり、「野外ステージ」の大音響の中、大満足でした>

「嫌われる勇気」(4)

2014年09月13日 00時05分00秒 | 沖縄の生活


『すべての悩みは対人関係(2)』 アドラーの「嫌われる勇気」岸見一郎+古賀史健著より 91~94P

人生は他者との競争ではない

アドラーが、過剰な「劣等感」や「優越感」に関して警鐘を鳴らす一方で、「優越性の追求」を普遍的な欲求と認めた事に、違和感を覚える人が出て来ると思います。

「優越性の追求」というと、他者よりも優れていようとする欲求や他者を蹴落としてまで上に登ろうとする欲求のように思われがちですが。

アドラーは、そんな態度を否定します。

同じ平らな地平を前に進んでいる人、その後ろを進んでいる人もいる。進んできた距離や歩くスピードはそれぞれ違うが、みんな等しく平らな道(縦軸が無い)を歩んでいる。

「優越性の追求」とは、自らの足を一歩前に踏み出す意思で、他者よりも上を目指す競争の意思ではありません。

健全な劣等感とは、他者との比較の中で生まれるのではなく、「理想の自分」との比較から生まれるものです。我々は、誰もが違っています。性別・年齢・知識・経験・外見、まったく同じ人間など、どこにもいません。

他者との間に違いがある事を積極的に認めましょう

どんな違いがあろうとも、我々は「対等」なのです。我々は、「同じではないけど対等」なのです。

子供も、大人も同じ、「人間扱い」するのです。

我々が歩くのは、誰かと競争するためではない。「今の自分よりも前に進もうとする事によってこそ、価値がある」のです。

あらゆる「競争」から自由になる事(身を引く)は、自分が自分であろうとする事で、「負け」たという事ではない。

※私が、社会人になった1970年代の前半の頃。いつも他人と競争で、「勝った負けた」を気にしていたら、先輩が「そんな事を気にするな!」と何度も、諭してくれてた。しかし、私にはその声が届いていなかった・・・。その後、随分してから「他人との競争から自分との競争」になったが、その頃、アドラーさんを知っていたら、もっと、人生が変わっていたと思った。

古民家食堂9月例会

2014年09月11日 00時30分00秒 | 沖縄の生活

▲<19時過ぎに、陽も落ち爽やかな風が吹く中、外での「焼肉」>


▲<地元企業「大三食品」の普天間社長持参の肉>

9月9日の夜、南風原町大名にある「古民家食堂」で9月例会があり参加した。

昨日、9月8日は旧暦「八月十五夜」でした。


▲<今夜は、「スーパームーン」で、絶好の「月見の宴」です>

しかし、「月」は9月9日が満月で、今夜が最高の「月見」になった。


▲<高良さん持参の、餅に小豆をまぶした「フチャギ」(沖縄の十五夜のお供え物)>


常連のパーマ屋姉さんの姪が参加していた。今、オーストラリアに留学中で、しばしの帰郷とか。

高校卒業後の海外留学に、「偉い!偉い!」を連発している、私がいた。


▲<私の後ろの子が、留学女子>

沖縄だけでなく、日本中の若者が(親が家から出したがらない)、育った土地を離れる事を嫌い、生活範囲が拡がらず視野が狭くなっている現状をよく見る。


▲<「古民家食堂」が8周年を迎え、川満オーナーが挨拶していた>

今夜も、焼肉を食べながら色んな話をした。


▲<南城市の「仲善」仲本社長も参加(「卵黄ウコン」を頂く)>


▲<「海老」や「帆立」に「下足」も、たくさん食べた食べた・・・>

昼に、「豊崎美らSANビーチ」で読んだ。恵隆之介氏の「迫りくる沖縄危機」の影響を受け、11月に行われる沖縄県知事選について、私の考えを話してしまった・・・。酒の場で、政治の話はご法度なのに(ダメな私でした)。


▲<南風原の街の夜景が美しい>

久し振りに参加した、小出さんが、すこ振る、ご機嫌だったので、私も楽しく大いに飲んだ・・・。

「嫌われる勇気」(3)

2014年09月09日 11時30分00秒 | 沖縄の生活

▲<9月に入って、沖縄の空は美しい>

『すべての悩みは対人関係』 アドラーの「嫌われる勇気」岸見一郎+古賀史健著 70~83P

a.すべての悩みは「対人関係の悩み」である

アドラーは、「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」と断言した。

個人だけで完結する悩み、いわゆる内面の悩みなどと言うものは存在しない。

どんな種類の悩みであれ、そこには必ず他者が介在する。


b.劣等感は、主観的な思い込み

アドラーが使った劣等感とは、「自らへの価値判断」に関して「自分にはこの程度の価値しかないのだ」という感覚です。

我々を苦しめる劣等感は「客観的な事実」ではなく、「主観的な解釈」です。もっと言えば、「勝手な思い込み」です。

それ故に、「自分の手で選択可能」だという事です。我々は、客観的な事実を動かす事は出来ませんが、主観的な解釈はいくらでも動かす事が出来る」


c.言い訳としての劣等コンプレックス

人は無力な存在としてこの世に生を受けます。この無力な状態から脱したいと願う普遍的な欲求を持っています。

アドラーはこれを「優越性の欲求」と呼びました。

これに対をなすのが劣等感です。人は誰しも優越性の追求という「向上したいと思う状況」にいる。

何らかの理想や目標を掲げ、そこに向かって前進する。しかし、理想に到達出来ていない自分に対し、まるで劣っているかのような感覚を抱く。

アドラーは、これは「健康で正常な努力と成長を促すきっかけになりうる。劣等感それ自体は、別に悪いものではない」。

一方、劣等コンプレックスとは、自らの劣等感をある種の言い訳に使い始めた状態の事で、「見せかけの因果律」という言葉で説明した。

※「嫌われる勇気」では、劣等コンプレックスの実際例として「学歴コンプレックス」や「結婚コンプレックス」を解き明かしている。



「嫌われる勇気」(2)

2014年09月06日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<9月5日、「那覇空港沖の夕陽」>

『トラウマを否定せよ』 アドラーの「嫌われる勇気」岸見一郎+古賀史健著 24~32Pより

a.なぜ「人は変われる」なのか?
人は誰しも、変わりたいと願っているが、変われないと思い込み悩んでいる。

「過去」に、トラウマなり何んらかの「原因」となる出来事があり、その結果そうなった・・・、と思っている。

違います。これは「原因論」と「目的論」の違いです。我々は、「原因論」の住人であり続ける限り、一歩も前に進めない。

b.トラウマは、存在しない
アドラー心理学では、トラウマを明確に否定しています。ここは、非常に新しく画期的なところです。

確かに、心に負った傷(トラウマ)が、現在の不幸を引き起こしていると考える、フロイト的なトラウマ議論は、興味深いものでしょう。

人生を大きな「物語」として捉えた時、その「因果律」の解りやすさ、ドラマチックな展開には心を捉えて離さない魅力があるからです。

しかし、アドラーはトラウマ議論を否定する中で、「いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。我々は自分の経験によるショック、いわゆるトラウマに苦しむのではなく、経験の中から目的に叶うものを見つけ出す。自分の過去の経験によって決定されるものではなく、経験が与える意味によって自らを決定するのである」と説く。

幼い頃に受けた大きな出来事が、人格形成に及ぼす影響がゼロだとは言いません。影響は強くあります。

しかし大切なのは、それによって何かが決定される訳では無い、という事です。

我々は過去の経験に「どのような意味を与えるか」によって、自らの「生」を決めている。

人生とは誰かに与えられるものではなく、自ら選択するものです。どう生きるかを選ぶのは「自分」なのです。

我々は、みんな何かしらの「目的」に沿って生きている。それが、アドラー心理学の「目的論」なのです。

※「トラウマ」で悩み、人生を自分の力で上手く進めない人が多い。そんな人には、少しでもアドラーの「人生目的論」を知り・学ぶ事は、とても有意義だと思います。

第29回「喜業会」開催

2014年09月03日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<9月2日19時から行われた「喜業会」。本日のゲストスピーカーは、並里康次郎さんです>

9月2日、夜19時~21時まで、那覇市泊の「ビジネスセンターKEEPFRONT」で、私がかれこれ7年くらい幹事をしている「喜業会」の定例会があった。

今回のゲストスピーカーは、並里康次郎さん(農業生産法人株式会社アセローラフレッシュ企画・販売担当)にお願いした。


▲<農業生産法人株式会社アセローラフレッシュ社の「商品」>


▲<沖縄県北部本部町の位置とアセローラの生産地(「美ら水族館」の近く)>


▲<上の写真は、1958年にハワイから移植された「アセローラ」の原木が8メートル以上に育って、5月12日「アセローラの日」に、「リボン」を付けて感謝する>


▲<アセローラフレッシュ社の「VISION]>


▲<「アセローラ」とは、ビタミンCダントツNO1果実です!(なんと、アセローラ一粒で、レモン5個分)>

並里氏は、昨年11月~今年2月まで、沖縄県の人財育成研修事業で選抜され、アセローラの本場「ブラジル」に行った報告もしてくれた。

同社、商品の「ぴゅあなアセローラ」の小瓶を持参してくれたが、濃縮だったので、会場では飲めなかった。残念!(笑)


▲<最後に、参加者と、アセローラフレッシュ社の方々と名刺交換会>

勉強会終了後は、有志による懇親会を近くの「温石(オンジャク)」で行われた。



店で、「アセローラジュース」を、「泡盛」で薄め飲みながら、販売促進策を各人で語り合い、大いに盛り上がった。

農業生産法人株式会社アセローラーフレッシュは、1989年創業(創業25年の老舗企業)。沖縄県本部町で、アセローラ生産と普及に努めてきた。1999年に、5月12日を『アセローラの日』と制定し、2006年には日本記念日委員会に正式に認定された。2008年には沖縄県知事より、本部町が『アセローラの拠点産地』として認定され、本部町が名実ともにアセローラの里となった。アセローラは、一粒でレモン4.8倍のビタミンCを含む植物。本部のアセローラは、1958年ハワイからヘンリー仲宗根氏より移植。並里さんの父が、琉球大学で「ビタミンC」を研究した縁で、本部町で栽培が始まり、今日の基礎を築き今日に至る。