「沖縄楽園生活」さよなら編(5)ビジネスの接点は「那覇商工会議所の起業塾」から

2017年03月31日 00時10分00秒 | 仕事
 
▲<3月28日、久し振りに、那覇市具志の住宅地の高台にある「印部石」(ここの石には、“ふ”の文字書が刻まれている)を観て、「スカイスポーツ」へ行く(「印部石(しるべいし)」とは、琉球王朝時代の1737~1750年に行われた大規模な検地で設置した「測量石」です。当時の「大字、小字(あざ)」に、相当する地名を「原(はる)」と呼んでいたので、「ハル石」とも呼ぶ。石に刻んでいる文字は「いろは・・・」と、平仮名とカタカナで、設置順を表した)>

移住した2007年の夏、「琉球新報」に「那覇商工会議所起業塾6期生」の募集広告が出ていた。8月から3カ月間の講習で、5,000円だった。すぐ電話で申し込んだ。

講習は、那覇商工会議所の大会議室で、講演会のような講義だった。講師は地元地方銀行OBで、内容は銀行時代の自慢話であまり参考にならなかったが、地元起業家の職場を訪問する企画は面白かった。


▲<道路際の個人住宅の手入れされた「草の塀」が美しい>

受講生はスタート時、50名くらいいたが卒業出来たのは20名位だった(卒業生には、県産業支援センターからの開業資金の融資権利があった)。

我々6期生のまとまり良かったらしく、事務局から卒業後も「勉強会」を続けたら?と言われた。「いいですね」と話していたら、知らぬ間に私が幹事になっていた。その後「起業塾OB喜業会」を2008年2月から6年間続ける事になった(最初の2年は那覇商工会議所の小会議室で行ってた)。


▲<具志の住宅地の小道がすごく気持ちがいい>

3カ月に一度、私が講師を探し、2014年12月まで28回続けた・・・

講師は、「りゅうせき」の尚取締役やLCCピーチ沖縄所長仲村さんを始め、NHK沖縄局長向江氏、マリンコムズ上間取締役、沖縄特産販売代表取締役社長與那覇氏。今も大活躍中の人達が、無償にも関わらず講師を快く引き受けて頂いた。他にも、大西広告制作所代表大西氏、堀田満氏、松本直人氏、オフイスタカスギ代表高杉氏、ファイヴプロジェクト永井代表、又吉マネジメント代表又吉氏、沖縄ロングスティ代表円尾氏、イクシム代表石山氏、まる吉そば代表宮里氏、小金丸氏、沖縄の風合同会社代表上原氏、和磊店長古舘氏、ベロタクシー高江洲氏、日野氏、BARIKI代表矢島氏、コミチャン代表島袋氏、ビザップ代表砂川氏、ヴードゥラウンジリミテッド代表稲福氏、農園計画部長水落氏、レビオ代表上原氏、J-アヴァンス取締役田中氏、アセローラフレッシュ取締役並里氏、パムちゅらグルメグルメマップ編集長下地氏。皆様に感謝申し上げます!

登録メンバーは、6期を中心に5期と7期の約30名。勉強会の参加者は15名くらい。終わった後の「飲み会」も毎回店を変えて大いに飲み、たくさん話をして、たくさんの縁を頂いた。


▲<「具志の印部石」に続く、小さな小道。「印部石」は、小高い丘の個性的な枝ぶりの松の下にある>

この縁から、「中小企業庁」主催の「新現役チャレンジ事業」に誘われて登録し「沖縄県中小企業経営支援コンサル」を行う事に繋がって行く。


▲<珍しい、「一本の木なのに3色のブーゲンビレア」>

この政府予算プロジェクトは、形を変えて5年くらい続く。私は、延べ7社にコンサルを行った。その中には、契約更新して7年続いた会社もあった。

誰でも移住当初は、地元企業とのパイプや信用も無いのは当然なので、「商工会議所」や「県産業支援センター」などの力を利用して地元企業の縁を得る事はとても有効な事だと思う。


▲<「マンゴー」の花が咲き始めています>

【移住成功の秘訣】仕事をするなら、まず「商工会議所」や「県産業支援センター」などの力を有効活用する。接触するためには、情報を入手し、「セミナー」や「講習会」に参加して現場の担当職員に聞けば良い。

「沖縄楽園生活」さよなら編(4)ビジネス接点は「勉強会」から

2017年03月30日 00時05分00秒 | 仕事

▲<年中咲いている「ハイビスカス」>

沖縄に移住した直後、近くの「公民館&図書館」で、「地元情報誌」(ローカル新聞・タウン誌・経済誌)をたくさん読んだ。その中に、「オキナワグラフ」という地元経済誌と地域情報を兼ねたグラビア月刊誌があった。

記事の中に、「サークル・勉強会紹介」があり、「沖縄観光研究会」(主宰NPO沖縄人財クラスタ研究会)という会を取り上げていた。毎月勉強会を兼ねた飲み会を行っているらしい、長嶺社長に聞いたら、主催者の「白井さん」を紹介してくれた。



▲<住宅街の中でこっそり色づいている「島唐辛子」>

毎月参加した、会費は飲み会代の3,000円だけ。沖縄の旅行業界の役職者~新入社員まで、毎回10~15人と出会えた。この縁で、白井さんが行う「大学生向け観光業界就職セミナー」の講師を引き受ける事になる。

大学生に「働く事の素晴らしさや生き甲斐」を話す場を得て、沖縄県の若い人材を育成する講師を行った。沖縄に移住して、沖縄に貢献出来て嬉しかった。


▲<こちらも色づき始めている「ピパーツ(島胡椒)」>

4年ほど講師を引き受けた。その中で、沖縄国際大学の大講堂で「沖縄の観光業界を語る」パネラーに選ばれて、星野リゾートの星野社長と一緒に登壇させて頂き、打ち上げでも直に話が出来て、素晴らしい経営者に良い刺激を頂いた。

また、沖縄の旅行業界で頑張っている教え子が、たくさん出来た事も嬉しい。

この仕事をしていたお蔭で、「ハローワーク」でも、「第二新卒就活セミナー」や「沖縄高専」での講師をさせて頂く機会を得た

そして講師を続ける中で、今までの経験や知識を整理したり、新しく本を買って知識を増やすなどして、脳や身体が活性するのを実感した。



【移住成功の秘訣】地元情報を最初に徹底研究しろ!そこで見つけた人や組織には遠慮なく飛び込め。

「沖縄楽園生活」さよなら編(3)ビジネス人脈は「OB」から

2017年03月28日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<最近は、23~21度の日が続き暖かい。3月27日は、最高気温19度で、少し寒い(笑)>

2007年6月に移住して、知り合いもほとんどいなくて、毎日、那覇市内「ゆいレール沿線探索」の日々・・・。
秋にさしかかったある日、携帯に、一本の電話が入る。相手は、那覇市内で旅行情報誌を出している株式会社パムに勤める東濱(ありはま)さんからだった。

彼とは、面識がないので尋ねたら、元の会社上司に「今度、こんな人が沖縄に移住したから会ってみたら?」と紹介されたらしい。私を紹介してくれた「原さん」は、元の会社の他部署の部長だ。

東濱さんが「今勤めている会社の社長も、同じOBなので合わせたいがいいですか?」と言われた。聞けば「ゆいレールの駅」などで、いつも手に入れていたフリーペーパー2誌を発行している会社だった。「タビンチュウ」は、しっかりした編集だが、もう一誌の「タウンチュウ」は、正直言って残念な編集だった。

後日、社長の「長嶺さん」と、他のメンバーを加えた会食に誘って貰った。その場に、紹介者の「東濱さん」の他に、「Gさん」がいた!彼は前の会社の後輩(世間は狭いなぁと思った)。

長嶺社長とは、年齢や勤務地も違っていたので、まったく面識はなかったが、同じ会社に勤めた者同士、卒業したOB感覚を覚え、すぐに打ち解けた。

その場で、「タウンチュウ」をけなしていたら、リニューアルをする事を依頼されてので、その場の流れで期間限定で引き受けてしまった(笑)。

4カ月かけて、「ちゅら+」という「グルメフリーペーパー」に、変身させるために「営業マンの採用」「教育」「営業指導」を行い2008年3月に創刊した。


▲<営業期間約2ヵ月、4名の営業担当の内3名の女性は営業未経験。32P掲載107社(全て有料掲載)

創刊で仕事を終える予定だったが、3年ほど「編集&営業顧問」を引き受け、その後、「取締役」も引き受け現在に至る。

その会社は、その後9年間、毎年30~25%成長し、従業員も約30名~150名に雇用を拡げている。

※【移住成功の秘訣】どこに人脈が潜んでいるか解らないので、OBの縁を大切にしょう!
私は、住所変更通知を沖縄に来る前に、約200枚出した。

映画「アシュラ」(R15指定)

2017年03月25日 00時05分00秒 | 映画・DVD

▲<3月4日より全国ロードショー中の韓国映画「アシュラ」>

主人公の刑事は、現職の刑事でありながら副業で、街の利権を独り占めする事には、手段を選ばない極悪人市長の裏仕事を引き受けていた。

そこに、市長逮捕に燃える検事が、刑事の弱みを掴んで脅かし、市長の不正証拠を出させようと画策する。

進むも地獄、引くも地獄。刑事の苦悩が続く・・・。

後輩の刑事も巻き込み、「同僚刑事殺し」、「市長の兄の殺害」、「市長室長の犯罪」等々がて立て続けに起きる。

息もつけないくらいに次々と事件が勃発!早い展開して行く。

高速道路での「カーチェイス」~「最後の40分間」へ、予測不能になる・・・。

観賞後、力が入り過ぎて疲れた。

正義は、ひとつもないく、悪・悪・悪・・・。人間の怖さをこの映画で観た。


監督・脚本:キム・ソンス 出演:チョン・ウソン(刑事)、ファン・ジョンミン(市長)、クァク・ドウォン(検事)、チュ・ジフン(後輩刑事)

【評価】★★★

「偶然に対して、能動的な人のみに、幸運が訪れる」

2017年03月23日 09時05分00秒 | 仕事

▲<いつもの通り、パワーポイントを使って話しをした>

3月21日、顧問先の朝礼で「講話」を行った。約3年前から、月一回続いている「講話」も、今回で終了です。

月に一回とはいえ、平均年齢29歳の全国150人に対して、どんなテーマを選ぶか?何を話なせば、仕事やキャリアに役立つか?を考え続けた。

この事は、私にとって凄く勉強になった。本もよく読んだ(「教える方が良く学ぶ」という事を実感した)。

今回は、4月大異動があると聞いていたので、「異動」「転勤」にまつわる、「キャリア形成における“山登り型”と“川下り型”」の違いを話した。

元になっているのは、スタンフォード大学のクランボルツ教授の「計画された偶発性理論」だが、普通に解説すると難しくなるので、学説の紹介は省略し、「山登り型」「川下り型」に例えた。


▲<「山登り型」の方がいい感じに見えますが・・・

調査によると、8割の人は「川下り型」でキャリアを形成していた事が解りました


▲<とは言っても、キャリアを偶然に任せておけばいいという意味ではありませんよ。日頃から、自分が出来る事を一生懸命にやっている能動的な人のみに、「幸運」はやって来ます


▲<偶然に幸運が訪れる人の5つの行動特性とは?

最後に、この一言で締めくくった。


「沖縄楽園生活」さよなら編(2)人の始まりは「ジュリ馬」から

2017年03月21日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<旧二十日正月に那覇市で行われる「ジュリ馬祭り」>

【那覇の三大祭り】は、「大綱曳き」「ハーリー」「ジュリ馬」である。
その中でも「ジュリ馬」だけは、那覇市民は、ほとんど知らない。

その理由は、戦前辻にあった女性達は【じゅり】と言われた。「花街の祭り」です(花街は廃止された)。
一般市民が、足の踏み入れない地区の祭りだから、今でもいつどこであるかも地元新聞でも事前に伝えない。


▲<建物の中に「祭壇」があった>


▲<踊っている人は、【じゅり】ではなく、すべて「琉球舞踊」免許皆伝、プロの踊り手です>


▲<2010年は、途中から雨になり、「ふるまい御膳」を頂きながら室内で舞を観た>

私は、沖縄に移住した翌年に、偶然観て感動し、その後毎年観に行き、このブログでも盛んに取り上げた。


▲<「ジュリ塚」での奉納の舞(写真は、すべて2010年3月2日のものです)>

初めて観た、2008年の「旧二十日正月」(その年は3月2日だった)、辻で「ジュリ馬」が始まるのを、おっさんが3人一つのベンチに座って待っていた。

一人は、北海道から「ジュリ馬」を観るために間違って新暦の1月20日から来ていた人(笑)。
もう一人は、仕事の転勤で那覇に住んで数年目の人(偶然、同じ赤嶺駅周辺に住んでいた)。

この那覇移住先輩(小出さん)と知り合い、会社を訪ねたリしているうちに、年末の「壺屋育陶園忘年会」に招待してもらった。

そこで、地元の人達と出会える場所【古民家食堂】仲間の、又吉さん、髙良さん、川満さんに出会い現在に続いている・・・。、

※【移住成功の秘訣】飲みに誘われたら断らずに参加する事。

「沖縄楽園生活」さよなら編 (1)始まりは「ゆいレール駅周辺物語」

2017年03月18日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<世界遺産「識名園」>

207年6月に沖縄移住が実現した。

住んですぐ、夢中になって「那覇市内」の遺跡巡りをしていた。

参考書は、2003年に出版された「ゆいレール駅周辺物語」(188P、ゆいレール駅沿線ガイド)です。

「小禄南図書館」で見つけて、発行元の「沖縄都市モノレール株式会社」に、問合せたら在庫があったので即購入した(1,300円)。

内容は、第一章 ゆいレールのすべて 第二章 駅周辺の今と昔 第三章 遺跡めぐりベスト15

私は、第三章の「首里駅~赤嶺駅」までの15か所の遺跡を歩いて回ったのだ

私の住まいが、「赤嶺駅」だったので、那覇の南側から北上した。


▲<首里「金城の石畳」>

15駅中12駅。駅を下車して歩いて回れる遺跡巡りをした(所要時間1~3時間くらい)。


▲<首里「龍潭池」付近の住宅街>

各遺跡場所が写真入りで、6~10Pで紹介されていて、地図もあり楽しく散策出来た。

丁度、夏に入り「首里城から金城ダム」を巡った時は、「熱射病」で倒れる寸前だった(笑)。


▲<首里の住宅街の中にある「赤丸醤油」発祥の建物>

夢中で、歩き回った初めての夏だった・・・。

だから、今でも那覇市内は住宅街の路地の奥までよく知っている。

※【移住成功の秘訣】地域の情報は、「図書館」を活用し、「地元情報誌」や「広報誌」をたくさん読め!

「古民家食堂」3月例会

2017年03月15日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<原川さん手製の「岡山焼」>

3月14日の夜、「古民家食堂例会」があった。
いつもの通り、「髙良さん」の車で連れて行ってもらう。

今回のメイン料理は、「お好み焼き」でした。


▲<本日の付き出しの、「沖縄近海でとれたマグロ」です>


▲<どんどん作ってくれた、7枚焼いただろうか?>



一緒に行った、「原川さん」が、「広島風」と「大阪風」の中間「岡山焼」を焼いてくれた
※「岡山焼」とは、下地は「広島風」で、キャベツの中に「溶き卵」を流し込み、最後に生地をかけるので、「広島風」よりも、少し重くなる。


▲<真ん中のテーブルにあるのは、汁物の「味噌汁」>

奥のテーブルは、「沖縄そば」を使った、「焼きそば」を焼いた(最初は、ゆでた麺を出してきたので、途中から生めんにした)。




▲<自宅でもよくつくる「沖縄そばの焼きそば」>

新しい参加者で三河から沖縄に置いている「ヨット」を乗りに来た、牧野さんも加わってワイワイ飲んだ。


▲<最後の一品>


▲<「わったー那覇めし」に行って、顔が日焼けしている>

この「古民家食堂」では、たくさんの方にお会い出来た場所でもある(感謝!)。

第6回「わったー那覇めし」

2017年03月13日 00時05分00秒 | 沖縄グルメ


3月11・12日で、「わったー那覇めし」が、奥武山総合公園(補助競技場)で行われた。
11日は、一日中小雨が降っていたので行かず、12日が晴天になったので、自宅から散歩を兼ねて行って来た。





会場の大テントの中も外にも、家族連れで人が溢れ返っていた。
 

 
最初に、1,000円でチケットの束を購入する(250円の食事券が4枚入っている。他には、「領収書」と「投票券」)。

大テント内に、参加店舗が26ブース出ている。

「餃子酒場金五郎」に並ぶ、約30分待って、焼き上がった餃子(5つ)を手にする(食事チケット2枚)。

 
「ドリンクコーナー」で、「オリオンビール」を購入(チケット2枚)。

▲<外のテーブルに座って食べた>

家族連れは、野外の芝生に座って楽しそうに食べている(一人だと、ひとつの店にしか並べないので、購入が限られる。手分けして並べば、複数の料理が一度に食べられる)。

毎年思うのだが並ぶ時間は、何とかして欲しい(一時間待ちという店舗もあったらしい・・・)。ビール一杯が、チケット2枚(500円)は高い!

「わったー那覇めし」は、那覇市商工会議所青年部が企画運営するイベントで、今年6回目を迎える那覇市民楽しみのイベントになっている。

「ぬみあっちゃー栄町」

2017年03月12日 00時05分00秒 | 沖縄グルメ

▲<「ぬみあっちゃー」とは、沖縄の方言で「飲みに行こう!」という意味らしい>


▲<チラシ裏面は、31店舗のメニューになっている>


▲<待っている時、非常に人なっこい猫とたわむれた>

那覇市栄町で、「ぬみあっちゃー栄町」というイベントがあり3月10日の夜に行って来ました。

地元のグルメフリー雑誌「ちゅらグルメ」主催のイベント(3月10日~11日)です。

会社の仲間二人と「安里駅」前にある「りゅうぼう」で、19時に待ち合わせた。

3000円(5枚綴りチケット)のクーポンを購入して、参画の31店舗で、「一枚でドリンク一杯と料理一品」を頂けるシステムです。

一軒目の「ゆ~み」は、飲み物は「泡盛セット」だったが、「ビール」をお願いしたら出してくれた!



▲<写真の料理は、二人前です>


▲<二杯目は、600円のチケット一枚で「泡盛のブラス」を2杯出してくれた。「呼子のイカの塩辛」が乗っている豆腐は、サービス品です(サンキュー!!)>


▲<二軒目の「ちょうきん」ここでも「ビール」を飲み、二杯目は、「泡盛にした>


▲<三軒目の「牛タンあそび処Kazu」二階の大広間でゆっくり話をした。ここの一品は、ボリューム満点でした!>

チケットも使い果たして、最後に参画店ではないが、栄町市場外の店に行った。


▲<四軒目の「潤句庵(ウリズンアン)」の「筍の天ぷら」>


▲<「卵焼き」>

三人で、大いに食べ飲み、話をした。普段なかなか行けない「栄町市場」を、今回の企画で飲み歩き出来て幸せだった。
※月曜日に聞いたら、5軒行ったらしい!?4軒目の店が思い浮かばない・・・。

仁丹いわく、「案外、オッサンたちがこの国の希望かも知れない」

2017年03月08日 11時15分00秒 | 社会問題

▲<那覇の「寒緋桜」もピークを過ぎました>

「日経ビジネスオンライン」「河合薫」さんのメルマガ2017.3.7 の抜粋(10分の一くらい)です。

森下仁丹が、“第四新卒”の採用をスタートさせた。 
               
毎日新聞では「『第四新卒』おっさん、おばはんWANTED」
東京新聞では「森下仁丹が『第四新卒』採用へ おっさん、おばはん求む」
読売新聞では「求む中高年、森下仁丹が『第四新卒採用』」
日経新聞では「森下仁丹、50代中心の中途採用導入へ 幹部候補に 」

森下仁丹の定義によれば、「社会人としての経験を十分積んだ後も仕事に対する情熱を失わず、次のキャリアにチャレンジしようとする人材」をいい、「性別・年齢を問わず採用」していく事を、第四新卒採用と呼ぶのだという

採用募集のTVCMは、泣けます!                                
「オッサンたちへ」
「あの頃は仕事がすべてだったんです。」
「ずっといた場所から出てみたい、そう思ったんです。」
「まだ、できると思うんです。」
「案外、オッサンたちがこの国の希望かもしれない。」
「オッサンも変わる。ニッポンも変わる。」


“オッサン”の連発で申し訳ないのだが、結論から述べると私はオッサンの「やる気」が、「人格的成長(personal growth)」というポジティブな心理的機能によるものなら、変わると確信している。

「人格的成長」とは「自分の可能性を信じる」気持ちの事で、専門家はこれを「チャレンジ精神」と同一に扱う人もいるが、実際には異なる。

チャレンジ精神が、 自分の行動する力に価値を見出している事に対し、人格的成長は、自分の内在する力に価値を見出すもので、TVのCMでいえば「まだ、出来ると思うんです」という、実にシンプルかつ根拠なき確信である

そう。「根拠のなき確信」ほど、人間の底力を引き出す無謀な心の動きは存在しない。・・・・以上(抜粋)。



私も同感!「退職後の約10~20年の人生をどう生きるか?」が、現代ニッポンに生きる人達の課題です。

森下仁丹によると、若干名の採用人数に、1000名を超える応募があったらしい。

貴重な経験を積んだ、仕事に対する情熱を失っていない。まだ発展余地ある「おっさん&おばさん」の「根拠のなき確信」で、ニッポン活性化に大いに期待したいものです(私も頑張ります!)

映画「スンノーデン」を観ました。

2017年03月06日 00時05分00秒 | 映画・DVD

▲<全国で上映中の「スノーデン」>

話題作ですが、少し遅く「スノーデン」を観ました。

「ロシア」や「中国」などの「情報スパイ合戦」が、報じられますが、やはり一番、情報を収集している国は、「アメリカ」だという話でした。

忠実に再現しているのだと思いますが、それでも現代のIT社会の「情報(サイバー)戦争」は、ここまで凄いのかと恐怖すら感じる映画です。

主人公の「スノーデン」は、ロシアに情報を持ち込みたかったのではなく、滞在中の「香港」から、途中の「ロシア空港」で、乗り換え中で入国していない状態だった。

スノーデンは、空港内にある露外務省窓口に、「キューバ」、「ベネズエラ」、「中国」、「スイス」など18カ国の国々に対して亡命申請を行ったが、「アメリカ」から旅券をストップされ留まったのが「ロシア」だったという事を初めて知った。

人間の正義・モラルに悩みながら仕事をしていたが、自分のやっている事は、絶対いけない事だ。と悩み抜いて、告発するに至る。

まっとうで、正義感溢れる人間に描かれていた・・・。


▲<「携帯」「パソコン」など、すべての情報が傍聴されている・・・>

映画の中で、彼が勤務した「日本」での情報機密問題に触れている。日本は当然「機密を守る」と、アメリカからの要求を拒否したが、スノーデンが「ボタン一押し」で、日本のネットがストップするシステムを構築して、日本を離れたと語っていたのに、衝撃を受けた。

難しいITの仕組みが、いっぱい出て来るので、多少解りにくい作品だが、素人でも現代社会の「情報(サイバー)戦争」の怖さが、肌身に感じられる映画でした。

【評価】★★★★☆

※「エドワード・ジョセフ・スノーデン」は、アメリカ国家安全保障局 (NSA) および中央情報局 (CIA) の元局員である。NSA局員として、アメリカ政府による情報収集活動に関わった。2013年6月に香港で複数の新聞社(ガーディアン、ワシントン・ポストおよびサウスチャイナ・モーニング・ポスト)の取材やインタビューを受け、これらのメディアを通じてNSAによる個人情報収集の手口を告発した事で知られる(PRISM計画)。2013年6月22日、米司法当局により逮捕命令が出され、エクアドルなど第三国への亡命を検討しているとされていたが、同年8月1日にロシア移民局から期限付きの滞在許可証が、発給されロシアに滞在中である。2014年1月、ノルウェーのボード・ソールエル元環境大臣からノーベル平和賞候補に推薦された。【ウィキペディアより】

沖縄住生活を終了します

2017年03月02日 13時00分00秒 | 沖縄の生活


わたくし事ですが、4月に「沖縄移住生活」を終えます。

沖縄を嫌いになったからでも、私の健康問題でもありません。

沖縄を離れる要因は、妻の95を超える母の介護問題です。

そしたら、妻だけ母のもとに行けばいいという事になりますが、今回色々話し合ったすえ、私も沖縄の地を去る事にしました。



新しい住まいは、妻と私の実家の中間地点である、「大阪市」になりました。

沖縄での顧問先の仕事が一番気がかりだったのですが、2月末に沖縄を離れた後も、引き続き契約を残す事に決まり、同社の管理職を前に報告をしました。

対外的にもこうして、報告が出来る事になった次第です。



2007年6月に、那覇市内で沖縄生活がスタートして、9年と10カ月。

ほぼ知らない土地で、たくさんたくさんのご縁を頂き、夢のような楽しい沖縄生活を今日まで過ごせた事は、ご縁を頂いた人さまのお蔭です。



今日まで、ビジネスをしながら、美味しいお酒を飲み語らいや遊びの毎日でした(感謝感謝!)。

4月12日に、荷物を出します。



この日を持って、11年続いたブログ「沖縄楽園生活」を閉じます

つたない文章にお付き合い頂いた皆様に、感謝を申し上げます!



※もう少し、続きますのでお付き合いをお願い頂ければ幸いです(拝)。