沖縄の「夏祭り」団地編

2010年09月30日 09時00分00秒 | 沖縄の生活

9月25日の昼、ゆいレール「赤嶺駅」のホームから、向かい赤嶺団地に祭りの準備がされていたのを見たので、夜になってから観に行った。
沖縄の祭りでは、どこから湧いてきたかと思えるような、子供の多さにいつも驚かされる。




7時過ぎに行ったら、三線の演奏は終わっていた(残念!)。
丁度、金城小学校教諭2名のバンド&歌が行われていた。ステージの前にはクラスの生徒がお応援していた。終わった後は、フアンがタレントを取り囲むような感じでいい生徒と先生だなぁと見ていた。

子供ジャズダンスは、ステージ上で踊っている子供達を真剣にビデオ撮影する父母で盛り上がっていた。

途中プログラムに入っていない、アニメキャラの面を付けた2人組のダンスパーフォーマンスダンサーが、アニメソングで踊った。それがすごくうまいので驚いた。そしたら横で、母に抱かれていた幼児が、「琉神マブヤー!」(を踊って)と、叫んでいたのが面白かった。

「赤嶺団地夏祭り」の一番の見物は、「金城太鼓」と「大嶺獅子舞」です。昨年も観て、感激しました。

今年は、獅子舞の数が多くなったような気がした。
 
▲<「獅子」が観ている人に、喰いついたりするからさらに盛り上がる>
  

 <中に入って演じているのは、中学生です>

◎今時の中学生は、悪い事をする者もいる。しかし沖縄では、このように伝統古典芸能の「獅子舞」や「エイサー」の練習に没頭している子達もいるのが嬉しい。

「第17回首里城公園“中秋の宴”」

2010年09月27日 00時30分00秒 | 沖縄現地情報

▲<沖縄の18:30頃はまだ明るいが、少しずつ暮れなずんでくる頃。ライトアップされた「正殿」が幻想的で美しい(右側、漆塗り工事途中なのが残念!)>

一週間前の9月19日、首里城内「御庭」で「第17回首里城公園“中秋の宴”」(当夜800席が無料開放)が行われました。
残念なのは、18日には、「人間国宝の演奏と演舞」があり、島袋正雄・照喜名朝一・宮城能鳳の3名が観る事が出来る素晴らしいイベントになるはずだったが、台風11号の影響で中止になりました(残念!)。

19日一日だけのイベントとなりましたが、琉球舞踊「四つ竹」「上り口説(ヌブイクドゥチ)」「下り口説(クダイクドゥチ)」「本貫花(ムトゥヌチバナ)」、国王・王妃選出大会、組踊「万歳敵討(マンザイティチウチ)」、琉球舞踊「醜童(シュンドウ)」が、月夜の下で行われました(夜風が肌に心地よく快適な状態で観劇出来ました)。

▲<「上り口説」薩摩藩に統治されていた時代、王府の役人が薩摩へ旅立つ姿を凛々しく描いた「二才踊り(ニーセーオドリ)」。薩摩在藩を歓待するために創作された祝儀舞踊>

▲<「下り口説」薩摩での役目を終えた王府役人が故郷へ帰ることの喜びをかみしめながら琉球へ戻る船旅の様子を表した「二才踊り」>

首里城「中秋の宴」とは、琉球王朝時代に中国皇帝の使者である「冊封使(サッポウシ)」を歓迎するために開かれた「冊封七宴(サッポウシチエン)」(その七つの宴の一つが「中秋の宴」で、旧歴の8月15日、十五夜(中秋の名月)の下で行われものの再現です)。
  


▲<「本貫花」白瀬川に散り浮かぶ赤白の桜の花びらを糸に貫き、恋人に贈るという内容の歌詞にのせて踊る。貫花の赤は情熱的な女の恋心をあらわし、白は純真無垢を意味している。美しい衣装とゆったりした踊りに時を忘れる・・・。>

国王・王妃選出会から会場を後にした。「広福門」を出たところで振り返ると月が雲間から出ていた。


「糸満大綱引」後篇【大綱引】

2010年09月25日 00時05分00秒 | 沖縄現地情報
  
▲<「道ズネー」が始まる前の国道331号線に置かれた「大綱」の前で記念写真。綱の大きさが解る>

「糸満大綱引」は、古式伝統を尊守し、毎年、旧歴の8月15日に行われ(今年も9月22日、平日の水曜日でした)、豊年と大漁祈願、家内安全、無病息災を祈る神事です。
「大綱」は、毎年、字糸満の人達で当日の午前中に作り上げます(午前8時~19時頃まで国道331号線を交通規制をして行われる)。全長180m、太さ1.5m、総重量10tです。
「糸満大綱引」は、衆人綱(スニンジナ)、万人綱(マンニンジナ)とも呼ばれ、誰でも参加出来る綱です。

▲<綱引きの前に、「旗頭」の「ガーエー(披露)」が行われます>

北組(ニシカタ)と南組(ヘーカタ)に分かれて引き合います。
競技時間は30分、勝敗は10m引いた方が勝ち(時間内に10m引けない時は、2m以上引いた方が優勢勝ち、双方2m以上引けない時は引き分け)。
昭和21年以前は、時間制限が無く勝敗が決するまで何時間も引き合ったと言われています。平成21年度は、北組の勝利。過去の対戦成績は、北組31勝、南組28勝、4引き分けです。

 
▲<「大綱」の「雄綱(ウージナ)」と「雌綱(メージナ)」を人力で寄せます。左「雌綱」、右「雄綱」>

▲<観ている側にも力が入って疲れる>
  
▲<「カヌチ棒」を入れて結合させると完成です>
雄綱と雌綱を人の力で、引き寄せて結束させます(これが一番時間がかかった・・・)。


▲<糸満の伝説上の人物に扮した若者(シタク)が戸板に乗って現われます。「雄綱」には「マカビチャ―ン」と従者が乗り、「雌綱」には「イチマンマギー」と従者が乗り、向かい合って対峙して、お互い陣営の士気を高めます(いずれも糸満中学3年生から選ばれる)、にらみ合いが終わったら綱引きが始まります>

「糸満大綱引」は、一斉に引き合うのは、最初の数分で、相手が引いている時は、綱に乗って座ったりして休みながら重量をかけ引かせないようにして、疲れが出た頃を測って引くなど、他の大綱引にはない駆け引きの特徴があり面白い。

今年は、約30分間引合った末、昨年に引き続いて「北組」に軍配が上がった。

「糸満大綱引」前篇【道ズネー】

2010年09月24日 00時05分00秒 | 沖縄現地情報

▲<「ちょんだらー」の二人。道ズネーの演者達のお世話役で、水などを積んだ手押し車を担当。左は女性で、スタイル抜群できっと美しい人何だろうなぁと思って見てました>

9月22日(旧暦の8月15日)、糸満市で「糸満大綱引」が行われた。
「糸満の大綱引」は、旧歴8月13~15日にかけて、「白銀堂」を中心に行われます。
戦後昭和22年に復活し、今日まで続く「糸満ハーリー」と並ぶ糸満の大イベントです。

大綱引きに先立ち、字糸満の各区による「道ズネー」11グループ(52~157名)が、糸満小学校~糸満ロータリー~白銀堂まで、約1㎞を練り歩きます。
  
▲<「旗頭」は、各地区のシンボルです。10本あったがどれも個性的で美しかった!すべて紹介出来ないのが残念>

今年は、北組(ニシカタ)の「世果報(ゆがふう)」の旗頭を先頭に、(南組:ヘーカタは、「嘉例吉(かりゆし)」)約2,000名の市民が参加した各地区の「旗頭」を先頭に、趣向を凝らした「道ズネー」(舞踊・歌・子供エイサー)が続き、沿道の観客に披露しながら練り歩きます。
 












▲<最終地点の「白銀堂」に、奉納して「道ズネー」は終わる>

各地区の「道ズネー」は、伝統的なエイサーを始め、個性的なものあり、次から次へと楽しめた。14:00~17:00まで続くが、長くは感じなく本当に面白い!!私が今まで見た沖縄県内のものでは最大規模の「道ズネー」だ。大綱引にも負けないくらい、見所満載の「糸満大綱引道ズネー」でした。
※次回は、後篇【糸満大綱引】です。

「第18回なは青年祭」

2010年09月23日 02時30分00秒 | 沖縄現地情報

▲<「新都心公園」内の自然の傾斜を生かしたすり鉢型会場で繰り広げられる「なは青年祭」>

おもろまちの「新都心公園」で、9月18・19日の両日で那覇市青年団体連絡会が主催する祭りがありました(開催時間は、15~21時)。
実施されているのは、以前から知っていたが、今年初めて観に行った。

今年は、台風11号の強風で、18日は中止になり19日のみ実施。
会場で配布されたプログラムを観ると、開催地の新都心「おもろまち」という事もあるのだろうか、演目は、「エイサー・獅子舞」「棒術」「旗頭」だけでなく、半分くらいが「ストリートダンス」「パラテク」「歌」「パーフォーマンス」「台湾舞踊」などが多かった。
出場者は、那覇市内の高校や子供クラブが多かった。

▲<真嘉比っ子ダンスクラブ>
 
▲<左「ダンスを見て踊る子供」、右「城西っ子ダンスクラブ」のパラテク>

▲<「真地青年会」のエイサー>
各出場時間は15分だったが、皆んな真剣で元気に踊っていた。
観客も青空の下で芝生に座り、のどかな感じの、若いファミリーが多かった。

「興南高校我喜屋監督春夏連覇優勝報告会」

2010年09月21日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<会場にあった横断ポスター、夏&春甲子園大会の戦績が表示されていた>

興南高校のわれらの我喜屋監督が、日米高校親善試合を終えて沖縄に帰って来た。
待ちかねた、我喜屋優野球応援部隊&沖縄早朝野球協会主催の「我喜屋監督春夏連覇優勝報告会」が、9月20日の夜、那覇市内の某所で行われた。
報告会&祝勝会に駆けつけた参加者約300人が、夏の甲子園のビデオを観ながら、春夏連覇の喜びを再び祝した。
会場入られた我喜屋監督は、乾杯のビールを一口飲んだ後、約30テーブルを2時間かけてすべてまわられた。


 

 

 
▲<我喜屋監督は、参加者の依頼に答えて、丁寧に色紙・ボール・Tシャツにサインをし、記念写真にも快く応えていた>

最後に、壇上に上がり感謝のスピーチを行った。
興南高校野球部員は、入試を合格してからの入部との事(試験があるから獲れなかった生徒もいるらしい)。入学してから監督が寝食を共にし、毎朝の散歩&一分スピーチで、人間力を育む方針。そうする過程で、試合中にユーモアまで出せるようになった・・・。
興南高校野球部員は、「ガッツポーズはしない」に対して、我喜屋監督のコメントは冷静だ。相手に対するマナーの問題だけではない「選手は喜んだり、落ち込んでいたらダメだ。早く切り換えられれば、次の事に対応出来るような選手になる」だった。次の選手へのアドバイスだったり、周囲に気を配れたり、全体に気を配れないと試合には勝てないのだと話された。

興南高校野球部の監督に請われて、北海道から沖縄に帰って来た4年前、「なんくるないさの県民気質」に対して「間一髪の世界では、それでは、なんくるならないさ!」と言い放ったそうだ。
それを聞いた当時の沖縄県知事の稲嶺さんが驚いたらしい。そして、同時に5年以内に全国優勝すると発言した。そして、それから3年目に春夏連覇を果たしたのだった(他の人のスピーチから)。
日米高校親善試合のエピソードも話なされたが、今回は割愛する。


「甲子園、春・夏連覇の優勝旗」

2010年09月19日 22時00分00秒 | 沖縄の生活


高校野球が始まって、春・夏連続優勝は、まだ5校しかなかった。
今年の8月、その6校目を沖縄県代表の興南高校が成し遂げた!
夏の深紅の優勝旗が、初めて海を越えて沖縄に渡った。

その優勝旗が、今、沖縄県立博物館・美術館に展示されていると聞いた。
二つの優勝旗が、並んで、その都道府県で観る事は大変貴重だ。
それも、今、沖縄の地にあるのだ。

めったに見れないものだから、近くに行ったので、立ち寄って観て来た。

博物館・美術館を正面入口ではなく、裏から入ったら、ロビーが突然の人だかりで驚いた!なんと百人くらいの人達が、二つの優勝旗の写真を撮っていたのだった。
 
▲<左「夏の優勝旗」、右「春の選抜優勝旗」>
 

同じくロビーで、優勝記念の写真展もやっていて、そちらにもたくさんの人が観ていた。
 



「嘉手志川(カデシガー)」見学記

2010年09月18日 00時15分00秒 | 沖縄の生活


糸満市大里に、夏に子供達がプールにしている「井泉」があると知っていた。
何度も、近くの県道7号線を通ったが、子供達が泳いでいる様子を見たかったので、立ち寄らずに時が過ぎていた。

8月29日(夏休み最後の日曜日)に、南城市奥武島へ行く途中に立ち寄った。
県道から少し下りた所に、そのプールのような井泉の「嘉手川(カデシガー)」がありました。幸運にも、子供たちが数名泳いでいました。

湧き口は、完全に「井泉」です(美しい冷たい水がこんこんと湧き出ていました)。

泳いでいるところは、思いのほか広く本当にプールのようです。

▲<撮影をしてたら、排水路にいた大きな魚が2匹プールへ逃げ込んだ!>

深さは、1mくらいらしいので、子供を安心して遊ばせる事が出来る(プールの中にはグッピーもいるらしい)。



同地区の住民で、毎月一回、川底の石を拾ったり、周囲の草刈りなどを行って、日頃から手を尽くして保存しているという。とっても、沖縄らしい風景を観せて頂いた。

沖縄で、また不発弾2113発!発見

2010年09月16日 10時00分00秒 | 沖縄の生活
 <琉球新報9月10日の社会面>

以下、琉球新報(9月9日、10日の記事)より
今年の7月、糸満市真栄里の道路工事現場で、不発弾が902発が発見された(以前、7月18日のブログに書きました)。
9月8日に、そこから約900m離れた畑の中から、不発弾2113発が発見されました。
発見したのは、県発注の「広域地区不発弾等処理工事」を受注した業者で、磁気探査中に反応をした場所を掘削したところ発見したとの事。
 <琉球新報9月9日の記事より>

また、翌日の9月9日にも、北中城村「米軍泡瀬ゴルフ場跡地」から、米軍のものとみられる未使用の20m砲弾2700発、機関銃弾60発、150m砲弾3発、照明弾26発など計2789発が地中から発見されたとの発表があった。
「米軍泡瀬ゴルフ場」は、平成10年まで営業をしていて、今年の7月に返還され、大型ショッピングモールと住宅地になる予定で、沖縄防衛局が8月2日から、同ゴルフ場を10カ所に分けて磁気探査をしていたところ、20日に75m砲弾1発が発見されたのを皮切りに、23日に20m砲弾が2700発みつかり、その後、25、30日、9月2日、3日に、150m砲弾3発、50m砲弾1発、機関銃弾60発、砲弾発射に使用する火薬3500発、照明弾26発、地雷などが発見された。なかには、箱に詰まったものもあった。9月17日まで磁気探査は続けられる。【追信】17日の琉球新報で、沖縄警察署が10日に未使用砲弾は、小火器弾など約8940個と発表したと報じていた。
 <琉球新報9月10日の記事より>

北中城村の担当者は、「沖縄戦争当時は、同ゴルフ場があった場所から米軍が砲撃していたと聞いている。土地収用後も、ずっと放置していたのかもしれない」と語っている。
日米地域協定4条一項により、米軍は返還に際し、原状復帰や補償の義務を負っていない。
戦後65年、沖縄戦の傷跡が今も残る沖縄であります。

※沖縄戦では、約20万tの弾薬が使われ、そのうち1万tが不発弾と試算されている。戦争後約7,800tが処理されているが、残る2,200tが今も地中に埋まったままだと見られている。毎年発見されるのが30~40tくらい。完全に処理するにはあと70~80年かかると言われている。

10月17日には、首里の住宅街で発見された不発弾を「市街地では初めての爆発処理」が行われる。半径300m、約1,140世帯、40事業所の2,850名が避難対象。那覇市内で爆破処理が行われるのは初めてだと、翁長那覇市長が記者会見で話していた。

第46回「青年ふるさとエイサー祭り」

2010年09月14日 22時00分00秒 | 沖縄現地情報

▲<第46回「青年ふるさとエイサー祭り」>

9月11日・12日に、那覇市奥武山野球場で、第46回「青年ふるさとエイサー祭り」が開催されました。
昨年までは、「北谷球場」で開催されていたが、今年から会場が那覇市奥武山野球場に移った。主催は、「青年ふるさとエイサー祭り実行委員会」(沖縄県青年団協議会、沖縄青年会館、琉球放送、沖縄タイムズ)。

今年は、台風の影響で「全島エイサー」(会場:沖縄市)が、一週間ずれて同じ日の開催となり、大会主催者&参加者は調整に苦労をしただろう。

12日の15時過ぎに、最寄駅の「赤嶺駅」から2駅目の「奥武山公園駅」で下車し、「奥武山野球場」に入った(入場料500円)。丁度、「若鷹太鼓」の演舞が始まった時だった。

▲<「若鷹太鼓」>

途中から、グランドに下りて、「名護市城青年会」、「金武町金武区青年会」、「恩納村安祖青年会」を観た。

▲<名護市城青年会」>
  
▲<「金武町金武区青年会」>
  
▲<「恩納村安富祖青年会」>

▲<スタンドでも、グランドでも観る事が出来る。観客は家族連れが多く、食事をしながら観ている>
17時~18時まで、演舞がなく時間が空いたので家に帰った。
那覇市内の人には、エイサー祭りが奥武山公園で観れるのが嬉しい。
沖縄県青年団協議会の実行委員会の皆さまありがとう!来年もよろしく!




沖縄名物「ビーチパーティ」

2010年09月13日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<糸満市の埋め立て地に出来た新しい「美々ビーチいとまん」>

うちなんちゅうの人達は、海で泳がないが、海辺で「ビーチパーティ」は良くやる。
「ビーチパーティ」とは、海辺で行う「バーベキューパーティ」の事。
「公設ビーチ」では、必ずバーベキューが出来る棟かテントがあり、「バーベキューセット」の貸し出しもある。

▲<「焼肉」と「焼きソバ」を焼き終えて乾杯!>

▲<手前が私が焼いた「焼きソバ」と「焼肉」、奥には「焼き鳥」「ウィンナー」も>

沖縄では、年中「ビーチパーティ」を行っているが、やはり真夏の暑い時が盛り上がる。
9月11日の午後から、「糸満美々ビーチ」で、顧問会社の「ビーチパーティ」があったので参加した(参加費1000円)。

▲<バーベキューコーナーは、たくさんのグループで、ほぼ満杯です>

▲<我々のグループ、子供や奥さんの姿が見える>

沖縄本社の約60名が参加する大イベントで、例年新人が、企画運営する恒例の社内行事です。

 
▲<左「赤い屋根がバーベキューコーナー」奥の建物は「サザンビーチホテル&リゾート」、右「美々ビーチいとまん」真夏のように泳いでいた>

社員の家族も参加するので、子供達もたくさん来て、ファミリーパーティの様子です。
日頃お目にかからないご家族の様子が見られる(子供の成長振りも確認出来る)。

▲<飲んで食べた後は、泳いだり・バレーボールをしたりして過ごす。隣のグループは「スイカ割り」をして盛り上がっていた>

我々の焼台は鉄板が3台あり、私が最初に「焼肉」と「焼ソバ」を作り、別の台では、新人が「ウィンナー」と「焼き鳥」を焼いた。


18時くらいまでたっぷり遊んだり話をしたりして、最後は皆で撤収して三々五々帰宅した。全員、車で来るので、飲まない運転担当がいて、各グループ毎に帰って行く。

▲<帰路の「豊見城大橋」(331号線)から見えた夕陽>

「宮古島初旅行記」その④特別編「かたあきの里」

2010年09月10日 01時00分00秒 | 沖縄現地情報

▲<今年の7月9日にOPENしたばかりの「かたあきの里」>

「宮古島市総合博物館」(平良仲宗根添)を見学に行った。
その手前にある「宮古島市体験工芸村」(藍染・陶芸・貝細工・民具作りなど9つのコースがある)敷地内の植物園を散策しながら、隣接地の博物館へ行った。
「宮古島市総合博物館」は、2つ展示室だが解説のDVDが充実していて、「祭」「宮古上布」「台風」などが解りやすい。一時間以上も見学をした。

▲<「宮古市総合博物館」入口のレトロな郵便ポストと「パーントゥ面」>

 
▲<左「等身大のパーントゥ像」、右「宮古上布」>

帰りに、体験村の駐車場まで車道を歩いていたら、美しい沖縄の民家集落が出現した。
「かたあきの里」という看板があり、別荘の分譲?と思って中に入った。


一番手前の家から女性が出て来たので、「ここはどういう施設か?」と尋ねたら、一棟貸しの宿泊施設だと話された。
長期滞在やショートスティが出来るように、電化製品や食器など完備らしい。
宿泊棟は6つあり、一日8万円(大人12人)~2万円(大人2名)、ウィークリーやマンスリーの割引きあり(詳しい利用方法は、HPをご参照されたし)。



▲<当日は、小雨が降っていたが足元は珊瑚石で水はけが良く水溜りがひとつもなかった。赤瓦と緑の芝生のコントラストが綺麗だった>

「かたあき」とは、宮古の方言で「役割」という意味らしい。
運営母体の合同会社「かたあき」は、2008年に起業・設立し、今年7月9日に施設がOPENしたところらしい。
この施設は、国土交通省が推進する「地域住宅モデル普及推進新事業」として採択され、建物の建材は、山形の金山杉を屋根は沖縄の赤瓦を使用している。
時間が経つにつれて、いい感じになって来るだろう。




説明してくれた人は、垣花優子さんで合同会社「かたあき」の代表社員だった。


※2泊3日の駆け足で巡った、初めての「宮古島」だったが、古い沖縄が残っている美しい島だった。「東平安名崎」「来間島」「伊良部島」は、観れなかったが、次回の楽しみにしておこう。


「宮古島初旅行記」その③「ホテルブリーズベイマリーナ」&「うえのドイツ文化村」

2010年09月09日 01時30分00秒 | 沖縄現地情報

▲<「シギラリゾート」の広大な敷地>

9月4日の午後に、宮古空港から送迎バスに乗り込み、「ホテルブリーズベイマリーナ」へ向かう。
バスは、空港から南部へサトウキビ畑の中、県道202号線をひたすら走る。
最南端の中央に、ユニマットが造った、巨大リゾート地がある。

▲<台風9号も夜の内に抜け晴天へ>
 
ホテルは、我々が宿泊したホテル以外に、高級な「シギラベイサイドスィートアラマンダ」と滞在型ホテル「リゾートヴィラブリッサ」の3パターンがある。他に、ゴルフ場「シギラベイカントリークラブ」、温泉「シギラ温泉」、プライベートビーチ「シギラビーチハウス」、数カ所にレストラン、「琉球の風アイランドマーケット」等々が広大な土地に点在している(各所はすべて巡回バスで行ける)。

沖縄本島にあるカヌチャリゾートに良く似ているが、こちらの方が上手く造られている。

隣接地に突然洋館立てが数棟出現するのに驚く。これがかの有名な宮古の「ドイツ村」である。

▲<広大な土地にヨーロッパの風景が出現する。運営(財)博愛国際交流センター(上野村は、宮古市吸収合併された)>
ただのテーマパークではなく、明治6年にドイツ商船が、中国からオーストラリアに向かっている途中、台風に遭遇して上野宮国沖のリーフで座礁難破した。
それをこの地、上野村宮国の住民が救助、その後一カ月間余にわたり面倒を見て、無事本国に帰国させた。
帰国した船長の報告を受けたドイツ皇帝が、救助してくれたお礼に軍艦を派遣し、宮古島に「博愛記念碑」を建立したいわれのある事業だ(沖縄サミット時には、ドイツの首相がこの地を訪問している)。
 
▲<「マルクスブルグ城」の窓から撮影したドイツ村の風景>

それにしても、一つの村でよく造ったものだ(やり過ぎ)。ホテルはすでに閉鎖し廃墟になっているし、敷地内の土産物屋(テナント)には、ドイツに何の関係もない物品が多く並べられている。

▲<「マルクスブルグ城内のドイツ食堂」>

「マルクスブルグ城」(ドイツの風景絵画がたくさん展示)と「キンダーハウス」(本物のドイツの壁が展示されている)の二つの建物は、有料(800円)だが見学する事が出来る(ドイツ田舎屋敷のビアレストランは、夜間のみの営業)。

▲<海側から見る「博愛パレス館(ホテル)」左下の岩の浸食された箇所がハート型に抜けている>

※次回は、特別編「かたあきの里」です。

「宮古島初旅行記」その②宮古島史跡巡り&宮古上布

2010年09月08日 06時00分00秒 | 沖縄現地情報

▲<「仲宗根豊見親の墓」15世紀末~16世紀初頭に宮古を統治した、仲宗根豊見親の親真誉之豊見親のために築造したと伝えられる墓>

池間島を後にして、県道83号を南下し、宮古島の中心街「平良(ヒララ)市街」へ向かう。

市街手前にある「大和井(ヤマトゥガア)」を見学する。
  
▲<左、大和井の手前にある「ブトゥラ井」、中央「大和井(ヤマトゥガア)」入口、右「大和井」の石組みが素晴らしい!1720年頃の堀年で、一部の上層役人だけが使用したとの伝承ある宮古唯一の井戸>

妻が、市役所の近くにある「エコハウス」を見学している間に、私は、宮古港側にある「アントマ墓」→「仲宗根豊見親墓」→「知利真良豊見親の墓」→「人頭税石」→「蔵元跡」→「漲水御嶽」→「漲水石畳道」を見学する。
 
▲<左「アントマ墓」仲宗根豊見親を元祖とする忠導氏ゆかりの墓で、同氏の継室だけを葬った。右「知利真良豊見親の墓」仲宗根豊見親の三男の墓、1745~1762年まで平良の頭職を勤め造林業や宮古で瓦を初めて製造した>

▲<「人頭税石(ニントウゼイセキ)」143㎝の石柱。15~50歳の男女が課税された>
 
▲<左「漲水御嶽」宮古創世神話などがある宮古最高の御嶽八重山のオヤケアカハチの乱平定出陣にさいして戦勝祈願し、凱旋記念に築いた。右「漲水石畳道」漲水御嶽から祥雲寺に伸びる石畳の跡(一部が残っている)>

第二市役所が、市立図書館仮施設になっているので、少し宮古島の情報を入手に行く。

※街角に建てられている史跡案内看板「平良(ピサラ)綾道(アヤンツ)マップ」の印刷物が市役所にある事を後で知る。それを先にもらった方が解りやすく解説もあり有効です。

市役所で、妻を拾ってペンションへ帰る。
ナビが付いてないので、途中解らない所へ迷い込んでしまった。
途中にあったコンビニで、ビールを買って、再度、午前中通った道に戻り、そこから逆に走ってやっと帰る事が出来た。

いったんペンションで休憩してから、夕方に再度、市役所のそばにあった「宮古織物事業協同組合」へ宮古上布を見学に行く。
  
▲<一階が展示室・売店、二階が作業場になっていて当日も6名の女性が織っていた>

※次回「南西楽園シギラリゾート地区」&「うえのドイツ文化村体験記」へ続く

「宮古島初旅行記」その①レンタカー付きペンションとは?

2010年09月07日 00時22分00秒 | 沖縄の生活

▲<池間大橋(池間島側から宮古本島を望む)>

9月3日~5日まで、「宮古島」へ2泊3日の旅行をした。
今まで、石垣島は良く行ったが、「宮古島」はなぜか一度も行った事が無い。
今回、旅行計画は妻がすべて行った。自宅から、タクシーで10分弱の「那覇空港」に9時に着く。

ボーイング737-500(126人乗り)は、那覇空港9:40フライト!
真後ろの席の3歳くらいの女の子が飛ぶまでは、アナウンスに対して「解りました!」「OKです!」と、調子が良かったのに、飛び立った途端!火の付いたように泣き始め、宮古島に着陸するまで泣き通しだった。

飛んでいる時間は、30分くらいで宮古島空港に到着。

▲<大きな3階建の「宮古島空港」、平良市の市街地に背を向いて玄関がある>

妻が予約した「ペンションX」のお迎え車は、軽四のボロボロのワゴン車?!足元マットは砂だらけ・・・。レンタカー付き宿泊7000円(ガソリンは自己負担)だったが、レンタカーとは、その車だった!(結果、ナビも付いていない軽四で、空港で入手したフリーペーパー「ガイドブック宮古島」を頼りに、翌日の午後まで島内観光をするのだった・・・)。

昼食は、外で食べる予定だったので、最北端にある「池間島」を軽四のワゴン車で目指す(ハンドルに付いているオートマは初めて、慣れるまで少し時間がかかった)。

市内を抜けたら直ぐにサトウキビ畑になる。サトウキビ畑の中の農道(県道)をひたすら北へ走る(途中凄いスコールに合う)。

「池間大橋」を渡った直ぐのところにある展望台「海美来(カイミール)」で「沖縄そば」と「ゴーヤーチャンプル」で昼食をとる。
 
▲<「サザエ入り沖縄そば」は売り切れていた。何の変哲もない「沖縄そば」だったが、豚肉は、美味しかった。>

島の中を少し走り、灯台を観に行く(島の中央は湿地帯になっていて、渡り鳥の休息地になっているようだ。一周はしなかった)。
  
▲<左「池間島側から西平安名崎を望む(風力発電の下あたりに宮古雪塩製作所がある)」、中央「海美来の食堂と展望台」、右「池間島灯台」>

※次号「宮古島の史跡めぐり編」へ続く。