浦添市仲間地区探訪(拝所巡り)

2010年01月29日 00時05分00秒 | 沖縄現地情報

▲<仲間樋川>

仲間地区は、「浦添の中の浦添」と言われる、古琉球時代に栄えた「浦添城跡」、沖縄最初の仏寺である「龍福寺跡」、英祖・尚寧墓陵(ようどれ)等の史跡があります。
「浦添グスク・ようどれ館」から「安波茶交差点」へ、下って来る途中に、うがんじょ(拝所)がいくつかありましたので、「うらそい道じゅねーマップ」を片手に探索をして来ました。

まず、「浦添グスク・ようどれ館」から、住宅街を下って行くと三差路の角に「サーターヤー跡」の標識があります。「サーターヤー」とは、砂糖屋(砂糖きび工場)の事です。


そこの三差路を住宅地へ降りて行くと、畑の中に小さな森があります。
そこが「クバサーヌ御嶽」です。
「クバサーヌ御嶽」は、仲間集落の発祥の地と伝えられ、戦前は大木がうっそうと茂っていた。
古老の話によると、石で積み封じた神墓があったそうです。
その昔は、クバの木の下で子供を出産したという言い伝えもあります。
旧正月の「初拝み」、5月・6月の「稲二祭(ウマチー)」、12月の「御願解」などの年中行事には、他の拝所ともに村拝みが行われます。
<クバサーヌ御嶽>

そこから、真直ぐ下へ降りて行くと小さな児童公園がありその一角に、「仲間ンティラ」があります。
ティラは、テラと呼ばれる拝所は、沖縄や奄美地方に広く分布し、その多くは洞穴になっています。
仏を祀る寺ではなく、ムラの神が鎮座している所と考えられています。
現在は、洞穴一帯は埋め立てられて、再建した祠の中から洞穴に入る形に変わっている。

▲<児童公園で遊ぶ子供達には、忘れられたように鎮座している「仲間ンティラ」>

「仲間ンティラ」の直ぐ東に、「仲間樋川」があります。
最近修復したらしく、新しくて綺麗な樋川です。
ここの井泉の水は、セジ(霊の力)があると信じられ、今でも信仰の対象になっています。
正月には若水を汲んで各家の仏壇に供え、子供が産まれた時には、産水として使われてきました。

▲<以前の井泉は、樋口から落ちる「水タンク」の蓋がされていたので、今回の改修で昔通りに上を開けている。今も、こんこんと美しい水が樋口から流れ出ていた。>


「仲間ンティラ」から、少し西へ県道153号線へ歩いた所に、「火ヌ神」があります。
気をつけないと、入口を見過ごしてしまうくらいの脇道です。
中に入ると、日頃から掃除をしている事が伺える綺麗な保存状態です。
火ヌ神(ヒヌカン)とは、各家庭で祀る火の神と、ムラの火の神があります。
この石の祠は、近世の仲間村の「地頭火ヌ神」です。

地頭は、琉球王国時代に間切や村を領地にした士族で、その就任や退任の時に拝んだのが地頭火ヌ神です。
また、王府の公式祭祀として、浦添ノロが執り行う「稲二祭」などでも、他の拝所とともにこの火ヌ神も拝まれた。

▲<この様な小道の奥に、由緒ある「火ヌ神」があるとは思えない。探す楽しみのある拝所でした>

「浦添城(グスク)跡」探訪その②

2010年01月28日 00時05分00秒 | 沖縄現地情報

▲<寒緋桜>

浦添城跡には、「浦添ようどれ」以外にも何カ所か見る所がある。
「ようどれ」から城跡入口に戻り、ゆるい坂道を奥へ進む途中右手に、「伊波普猷の墓」がある。

※伊波普猷(いはふゆう)は、「沖縄学の父」と呼ばれ、文学・言語学・民俗学・歴史研究を通じて沖縄独自の歴史・文化の解明に努め、沖縄学の出発点と言える「古琉球」を1911年(明治44年)に出版した。
この浦添グスクの墓には、畏友・東恩納寛惇の揮毫による「彼ほど沖縄を識った人はいない 彼ほど沖縄を憂えた人はいない 彼は識った為に愛し愛した為に憂えた 彼は学者であり愛郷者であり預言者でもあった」と刻まれた墓標が立っている。

少し奥へ進むと、「浦添按司家跡」がある。
尚真王の長男尚維衡が首里城を追放され浦添グスクに居を構えたのに始まり、尚寧(維衡のひ孫)が琉球国王に就任する事で栄華を極める。
しかし、薩摩侵攻(1609年)の際に焼き払われ、今は礎石が残るのみである。

一番奥には、浦添グスク内の御嶽(拝所)のひとつ「ディーグガマ」がある。
「琉球由来記」には渡嘉敷嶽(トカシキヌイベ)とされ「渡嘉敷」は浦添の古い地名と考えられている。
かっては大きいデイゴの木があったことからディーグガマとも言われている。


グスク内の、日当たりの良い南側に2本の「寒緋桜」があり、満開だった。





「浦添城(グスク)跡」探訪 その①

2010年01月27日 01時05分00秒 | 沖縄現地情報

12世紀初頭の舜天王統、英祖王統、察度王統までの220年間の居城が浦添城です。
第一尚氏王統の遥か229年前の時代です。
初期琉球王国の歴史・文化を理解する上で重要なグスクで、国の史跡に指定されている。
浦添城跡の北側中腹に初期琉球王国中山王陵「浦添ようどれ」があります。
「ようどれ」とは、夕凪(ゆうなぎ)を指す琉球語ですが、「極楽」を意味するとも考えられています。
浦添ようどれには、英祖王陵と尚寧(第二尚氏7代)王陵があります。



▲<右、戦前は、洞穴の中を通って王陵へ入った>



▲<右、尚寧王陵の前で拝んでいた人達>



▲<手前が英祖王、奥が尚寧王の墓です>

▲<宜野湾から残波岬方面を望む>

▲<浦添市内が一望出来る>

▲<今は復元中だが、完成予想図>

「牧港・港川」散策ガイド会に参加してきました。

2010年01月26日 00時05分00秒 | 沖縄現地情報

▲<9時30分には、約130名が集まり軽く体操をして出発を待つ>

1月24日、浦添市のNPO「うらおそい歴史ガイド友の会」(代表仲村孝蔵)の散策マップ「牧港・港川編」が完成した記念に、同地区の散策ガイド会がありました。
集合場所は、牧港漁港公園で、約130名が5つのグループに別れて10時にスタート。
最初の見学場所は、58号線沿いのパチンコ店そばにある牧港の御嶽「テラブのガマ」。



▲<左、ガマの「入口」。右、ガマ中は真っ暗だがストロボで撮影すると壺や香台が写った>
「テラブのガマ」は、琉球石灰岩の自然洞穴です。
源為朝が今帰仁に漂着し、大里按司の妹と結ばれ「尊敦=のちの舜天王」をもうけた。
尊敬とその母が、牧港から船出した父の帰りをこのガマで待ちわびたことから「待港」=「牧港」になった由緒ある場所で、この一帯最高の聖地。
このガマは、牧港川側にある「牧港ドライビングスクール」まで行ける洞道があるらしい。

次は、国道58号線を越えて牧港一丁目に入り、今は無い「土帝君(トゥーティクン)跡」(中国渡来の豊作・厄払いの祈願をした場所)のあった場所で説明を聞く。



▲<左、「軽便鉄道」(サトウキビを運んだ人・貨物共有トロッコ鉄道)が通っていた道は、今は小さな路地でした(奥が那覇方面)。右、牧港公民館前にある「牧港合祀祠」(周辺の祠を移転させた)を見学>

そのあと153号線を「伊祖城跡」方面に上がり、「立津ガー」を見学(住宅地の中にあり、地元の人の案内がないと絶対に探せない場所にあった)。

▲<「琉球由来記」によると伊祖グスクの用水にも使われ、天女伝説もあったカーだが、少し前オイルが染込む事件があり、それ以来飲料水としては、利用していない>

▲<右、「沖縄イチジク」>

153号線を国道58号線方面へ戻り、旧軽便鉄道と交差する道路下にある「牧港ガー」を見学する。

▲<左、牧港ガーは「シマヌ(村)ガー」と呼ばれるくらいの村井・産井で正月には若水を汲んだ。現在でも参拝されているガー。右、水を汲み出すモーターは米軍が設置したアメリカ製。>

再度、153号線を下り国道58号線の手前で右折し、ワンペーチン(湾親雲上)屋敷跡(何もない)を見学し、もう一つの東側を走る同じ153号線と国道58号線の交差した所の「牧港貝塚跡」「牧港遺跡跡」へ、58号線の高架下あたりだが、昔の地図や絵を見ながらその頃を偲ぶ。

▲<奥のスポーツ施設の場所が「牧港貝塚跡」>

▲<国道58号線あたりが海岸線だった。「旧牧港橋」や「牧港跡」は、まったく景色が変わって面影なし>

12時20分頃に、スタート地点の公園に戻り、全員で記念写真を撮ってから解散した。

さっそく、「オーシャンズ」を観ました。

2010年01月25日 00時05分00秒 | 沖縄現地情報


海の中の生物生態がイキイキと美しく大スクリーンに映し出される。
星空と海中をダブらせる映像は、海がもう一つの宇宙だという事が良く解る。
海の中には、地上以上にたくさんの生物が生息している事が良く理解出来る。
地上には比較にならないほどの大生物が生きていられる海の住み易さが良く解る。

どのようにして撮影したのかというような貴重な映像がたくさん出てくる。
相当、苦労して撮影した事が理解出来る。

ウミイグアナが、海底から陸に上がる映像は、人間が海から来た事を暗示させる。
サメと人間。くじらの生態。ジュゴンの生態。
マントを着たようなムラサキタコや、カサゴやコブダイの喧嘩。セイウチの赤ちゃんを抱く姿は、まるで人間と同じ。
コシマガニの脱皮時に凄い数が海底に集まる習性はとんでもない数だ。
イルカと同じ速度で撮影した映像は、観ている人がイルカになったような気分になる。

孵化した海亀が、海に入る直前を狙って食べる海鳥。フカヒレを取るためだけのサメ漁など、心が痛む映像がある。
乱獲や汚染される海、など、後半に海や海の生物とどう接して行くのかを人間に突きつける。

それにしても、クジラが大好きな西洋人には、クジラがどれだけ海の生物を食べて生態系が壊れても、日本人のクジラを食べる事が理解出来ないのだろうなぁ。
※沖縄にある「美ら海水族館」は、世界レベルで見ても水族館だというのが解る映像が、最後に少しだけ出ます。

民間ドクターヘリ「メッシュ・サポート」の話を聞く

2010年01月24日 00時30分00秒 | 沖縄現地情報

▲<パワーポイントを使って話されている小濱氏>

1月23日、21:00~23:00に「語る会」の新年会を兼ねた会合に参加して来ました。
会場は、いつもの「けんぱーのすばやー」(おもろまち)。20:45くらいに着いたら、百人近く揃っていた。
今回のゲストスピーカーは、県北部で活躍している。ドクターヘリの「NPOメッシュ・サポート」理事長の小濱正博氏です。
初めて聞く、ドクターヘリの実態話は、知らない事がいっぱいあって、あっという間の2時間だった。

以下、要約です。
2009年6月15日再開後、約8ヵ月間で出動件数:105件 
搬送患者数:92名 
平均年齢:58.1歳 
内訳:脳血管18、交通外傷15、外傷12、CPA11、循環器8、溺水6、減圧症6、他 

▲<色んなデーターを使って説明して頂いた>

患者居住区:北部67、中南部16、県外9 
北部53%、北部離島20%、中南部・県外27% 要請地域:国頭村33、本部町・今帰仁村14、伊江村12、名護市12、大宜味村10、他
北部地区におけるメッシュ運航対象地区12市町村の居住者:12万9246人
世帯数:5万3204、観光客300万人(美ら海水族館など)。

初期治療が大切で、心肺停止3分死亡、呼吸困難10分で50%死亡、大量出血30分で50%死亡。
よって、3~15分で到着する事が大切になる(特に、地震や台風など自然災害時は、車よりヘリが極めて有効である)。

救急病院が、県中南部に集中しているので、北部の患者を運ぶのには、ドクターヘリが北部に必要。
しかし、県のヘリは、中部の残波岬にあるのみで北部へ回り切れない。
また、ドクターが輪番制なので緊急時にはヘリに到着するのに30分くらいかかる。

全国的には、約100万都市に一つの救命救急センターが、沖縄本島では中南部に3カ所あり、北部にはない。

県からの補助が激減している状況下で、今後、サポーター制にして自力運営の方向へ。
そのために、ヘリに協賛企業の広告を貼ったりしている(ジャスコと我那覇精肉店のやんばる豚肉は、沖縄では有名な話)。

現会員数:1万3,453名
会費寄付:5,098万円、助成金4,200万円(地域医療再生基金申請中)。
「救急ヘリMESH」サポーター会員を急遽大動員の募集中との事。
今回わざわざ、那覇まで来られたのはこの事もあったからだ。
年間会費:1,000円、3,000円、5,000円、10,000円がある。
今後、会員と非会員の差別化やau携帯のGPSによる救急信号発信なども検討中。

★スイスでは、年会費2,700円を払えば国内外に飛んでくれる仕組みだとの事(スイス国民の40%、家族会員300万人)、それで15台のヘリと3機のジェット機を保有しているらしい。

沖縄県の現状で、人口集中地区(中南部)と北部の医療格差を見過ごせないので、民間のNPOでカバーせざるえないというのが、小濱理事長のご両親の出身地が「やんばる」という事もあり、この現状を放っておけないと思って立ち上がったらしい。
私も、今回話を聞いて、年間会員になって貢献したいと思いました。
※文中の数字などに間違いがあれば私の聞き間違い・記録間違いです。

「水が温み、ツバメが飛来?!」

2010年01月22日 00時05分00秒 | 沖縄現地情報

▲<海に流れる生活排水路に遡上する小魚>

県外では、初夏の風物詩となる「ツバメの飛来」ですが、沖縄では1月中旬に見られます。
八重山地方では、夏の終わりの8月下旬~9月上旬にかけて、飛来するようです。
という事は、沖縄は、ツバメの越冬の地になっているのでしょうか?

▲<頭上には、たくさんのツバメが飛んでいるのだが、あまり速さで、撮影が出来ない。かすかに影が写っているくらい>

昨日、那覇空港近くにある「スカイスポーツ」の裏にある生活排水路の脇道を歩いていたら、にどこから湧いて来たのか?と思うくらいに大量のツバメが勢いよく飛んでいた。
ツバメが排水路の水面へ、何度も低空飛行をしていたので、その排水路を眺めてみたら、小さな魚がたくさん遡上していたので、それを捕獲していたのかもしれません。



▲<目には、ヒッチコックの鳥のような感じで頭上を飛び回っているツバメだが、撮影してもスピードが速くて写らない>

日々刻々と、夏が近づいてきている沖縄です。

▲<左、街路樹の「オオハマボウ」方言名ユーナ。右、自衛隊の敷地に咲いているタンポポ>

ムーンビーチホテルでランチバイキング

2010年01月20日 01時00分00秒 | 沖縄現地情報

▲<ランチバイキングのレストランから見えるプライベートビーチ>

先日(1月17日)、沖縄本島中部西海岸の恩納村へリゾートマンションを見に行って来ました。
約束時間よりも早く着いたので、目の前に会った「ムーンビーチホテル」で、バイキングランチを食べて休憩しました。

ムーンビーチは、1957年に「月の浜海水浴場」として営業開始。
「ホテルムーンビーチ」は、沖縄国際海洋博覧会が開催された1975年に、オープンした沖縄県では老舗のリゾートホテルです。
近年では、中日ドラゴンズのキャンプ地の宿舎として利用されている。







ムーンビーチホテルは、沖縄の西海岸東シナ海に面したリゾートホテルとしては老舗のホテルです。
今まで、入った事がなかったが、落ち着いたホテルでした。

▲<4階建ての低層で落ち着いた建物がプライベートビーチを囲むように建っている>

特に、ロビー奥にあるエントランスの天井から下がっている緑のカーテンが美しい。


白い砂のプライベートビーチも初めて沖縄に来た人は感激するだろう。





行きは、高速道路で行きましたが、帰りは58号線を使って那覇ま約一時間で帰ってきました。
当日は、曇り時々晴れという天候でしたが、日中の温度は、20度くらいでしたが太陽が出ると車内が暑くなり、窓を開けて走っていました。

今日(1月19日)も、昼の気温は晴れで21度くらいで、那覇市首里「寒川樋川」の周辺を20分くらい散策していたら、汗をかきました。

リゾートマンションのオーナー、196万円~?

2010年01月18日 00時05分00秒 | 沖縄現地情報

▲<眼下には、東シナ海が広がり、左端にはムーンビーチホテルが見える>

1月17日の午後、沖縄本島中部の恩納村にあるユニークな分譲リゾートマンションを見学して来ました。3年前に、一度分譲したが、昨年、価格改定し再販分譲をしています。

▲<左、11階建ての最上階北西の角部屋。右、一階に、水深0.7mの小さなプールもあります>

この度、最上階の北西角部屋1室を沖縄タイムシェア株式会社が、沖縄で初めて12口に分けて分譲しています。

▲<エントランスや各階のコミュニティコーナーに、名嘉睦稔さんのアートがありました>

実際に部屋を見て来ました(分譲時には、5000万円以上で販売した一番高い部屋です)。
広いリビング(13.5畳)から、東シナ海が一望出来る、なにしろ眺望が素晴らしい部屋でした。
 
▲<3LDK、85.49㎡、バルコニー面積33㎡、間取り図面下側ベランダは西(沖縄本島の東シナ海は西海岸です)>

▲<北側は、名護方面で、東シナ海とサンマリーナホテルが見える>

▲<左、東シナ海に沈む夕陽を眺めながら入れる浴室に感激。右、対面キッチンと13.5畳のリビング、その先はバーベキューパーティが出来る広さのルーフバルコニーのようなベランダがあります>

▲<明るいキッチン>

購入した所有権者の物件管理組合(LLP有限責任事業組合、今回は10年で解散)で、このリゾートマンションをタイムシェアする形式です。

1月10日~1月9日を1月とし、以降11カ月に分けられている。口数を各人が選んで申し込む。
価格は、平均280万円ですが、月により異なる。
価格には、家具・電化製品、インテリア、消費税が含まれており、予定しているOPEN予定の4月1日以降は到着して、直ぐ使用出来るようになっている(ただし、電気使用料金、不動産登記費用は購入者負担)。

別途、維持費の、マンション管理費、駐車料金、タイムシェア管理費、固定資産税等は、物件価格で異なるが、約4.5~5.5万円(年間)必要。
権利のある月で、使わない日は沖縄タイムシェア社に委託して、有償貸し出しも可能。

このマンションがある恩納村は、那覇空港からでも、高速道路を使用すれば約40~50分で着きます。
中部西海岸にあるので、本島の主要観光地には、すべて1時間圏内で行ける。
この地区は、リゾートホテルや飲食店などの集中地区なので食べ歩きの楽しみも多い。
また、スーパーで買い物をしてベランダで夕陽を見ながらパーティをする事もなお楽しい。
私は、申し込むつもりですが、詳しい情報を希望の方は、沖縄タイムシェア㈱のホームページを参考にしてください。

「仮死状態になった魚が浜に打ち上げられ住民が拾う」

2010年01月14日 11時30分00秒 | 沖縄現地情報

▲<寒さにより、宮古島市の海岸に打ち上げられた魚>

沖縄は、日本で唯一の「亜熱帯気候」の地域です。
1月でも晴れの日は、20~18度です(車は、窓を開けて走っています)。

先日からの寒波で、九州にも雪が降った。
新潟に、一晩で80㎝の雪が積もったと聞くと、沖縄に住んでいる事のありがたさが解ります。

さすがに、昨日は沖縄も大陸からの寒気が流れ込み、沖縄本島北部の「国頭村奥」で、7.8度(15:54)、本島南部の「南城市玉城」で、9.5度(15:44)と今季最低気温を記録しました。
那覇市内でも、日中の最高気温は13.9度までしか上がらず、平年値を1.7~4.9度下回った。

沖縄では、14度以下になると海の魚が仮死状態になり、浜に打ち上げられると聞いている(まだ見た事はない)。

1月14日「琉球新報」の朝刊によると、宮古島の海岸で魚が浜に打ち上げられる様子が見られ、地元民らが早朝から魚を拾う光景も見られると写真入りで報じていました。

「平和音楽祭」

2010年01月13日 00時05分00秒 | 沖縄現地情報

▲<「平和祈念資料館前庭特設野外ステージ夕暮れが美しい」>

1月9日、糸満市「県平和祈念資料館」の野外ステージにおいて、夜空の下で「人間国宝」宮城能鳳さんと照喜名朝一さんの舞台「世果報の祝宴」がありました。
夕闇が迫る、18:00からのスタートで、舞台後ろの刻々と暮れなずむ風景が美しい中始まりました。
1月9日の真冬に、「野外ステージでの演奏&演舞」は、何と沖縄らしい催しでしょう。
昼は20度以上だったが、日が落ちると16度以下になり、海際なので風も出て、さすがに肌寒くなりました。

▲<後ろ側は、「平和祈念資料館」>


演目①舞踊「かぎやで風」→祝賀の踊り、座開きの踊りとして最も有名。国家安泰、五穀豊穣、子孫繁栄、延命長寿の思いが込められているめでたい踊り。


演目②舞踊「稲まづん」→五穀の豊かな実りへの感謝と喜びを表した女踊り。五穀豊饒の象徴である稲穂を持って踊る。


演目③舞踊「若衆揚口説」→艶やかな姿の若衆が春の息吹に誘われて、花を愛で、そして恋人への想いを膨らませ、さわやかに踊に興じる。


演目④舞踊「浜千鳥」→遠く離れた故郷へ想いを浜で遊ぶ千鳥に託して踊る。帯を使わないウシンチー着付けと柔かな手の動きで旅愁を誘う。


演目⑤舞踊「鳩間節」→八重山鳩間島に伝わるゆったりとした歌を軽快なテンポに編曲し、日本舞踊の所作を取り入れた振り付けでキビキビとした踊る。鳩間島の風光明媚な情景を讃えている。


演目⑥舞踊「加那よー天川」→相思相愛の男女の掛け合いを踊りにしたもの。軽快な加那ヨー節と唄三線のなかでも特に速いテンポの島尻天川節に乗せての踊りは最も人気のある踊りです。



演目⑦「諸屯」→≪貴重な人間国宝の共演≫踊り:宮城能鳳、唄三線:照喜名朝一。古典女踊りの最高峰といわれる踊り。他人に語る事の出来ない、慕う人への想いを動きの少ない中にいかに込めるか、最も内面描写を必要とする踊りです。


演目⑧「二揚げ仲風節」唄三線:照喜名朝一→ご高齢にもかかわらず、伸びのある高域の唄声は聞く者に感動を与える。流石だと思った。

※寒かったけど、年明けから素晴らしいものを観賞させて頂きました。(大感激!)
 スタッフが用意してくれた熱いお茶と、飴&ちんすこうのサービスありありがとうございました。

「石川洋講演会」

2010年01月11日 00時05分00秒 | 沖縄現地情報


1月8日の夕方から、石川洋さんの講演会が県立博物館・美術館でありました。
石川 洋さんは、昭和五年栃木県生まれで、十七歳の時「一燈園」創始者西田天香師に出会い入園を決意。平成十年一燈園を離れ、市井の托鉢者として再出発する。海外ではカンボジアなどで、難民救済にあたっている方です。

以前、数冊の著書を読んだ事があり、人間の生き方論を学んだ(今も本棚に「感謝にまさる能力なし」がある)。
今年最初の講演会が、沖縄から始まるとの事。
沖縄には、著名人があまり来ないので、直接話を聞く機会は貴重です。

最初は、中学生の詩を出されて、著書「13歳の人間学」を話された。
その後、ご自身が5年前に患った大病から、「80歳からの目覚め」を話された。

▲<2月15日には、80歳になられるのに随分元気だった>
「今しかない。ご恩を、次の世代へ残して行く自分の生き方大切」
「かりろい(明け方)に、あがる太陽に対して謙虚な気持で感謝する」
「一日一恩」(一日、一人の人を思い浮かべ、その人の恩に感謝する。特に難しかった人の恩を思い出す)
後半に、今回の講演会のテーマであった「12支」の話が出たが、子、丑、寅、卯で終わる。
その中でも、今年の干支である「寅」の意味が興味深かった。
寅という漢字の語源は、家中に二人が向かい合っている状況を表す。
意味は、お互いが助け合う様を示す。しかし、これが実に難しい・・・。
気持ちが、一つになる為には、目的を持つ事(目的を創る)だ。目的が決まると、方向と手段が決まって行く。
方向性が決まらないと、不平分子が出て、内部分裂が起こる。
だから、リーダーは集団を求めようと思えば、方針を出さなければいけないのだ。と、話されていた。

◎石川洋「自戒」(駄目になる自分のために5つの戒め)
辛い事が多いのは、自分に感謝が足らないからだ。
苦しい事が多いのは、自分に甘えがあるからだ。
悲しい事が多いのは、自分の事しか分からないからだ。
心配する事が多いのは、今を懸命に生きていないからだ。
行きづまりが多いのは、自分が裸になれないからだ。

「2010年まんだら年間計画表」

2010年01月08日 02時05分00秒 | 沖縄現地情報

▲<すみません。昨年の9月1日、朝の風景です。>

私は、かれこれ15年前から年頭に、「一年計画表」を作成しています。
縦横3枠ずつ9枠ある表です。
真中の枠には、「今年のテーマ(スローガン)」を記入します。
この型が仏様の「曼荼羅」に、似ているので「まんだら計画表」と呼ばれています。

他の、8枠の中には、A「仕事」、B「健康」、C「人脈・交流」、D「ファミリー」、E「読書・映画」、F「自己研鑽」、G「勉強・研修会」、H「趣味」となっています。

A~Hの内には、各3項目を記入しています。
3×8=24項目を選びます(項目は、その年によって変わります)。
いつも、12月30日頃に、年間の成果を確かめます(年に一回の年末反省タイムです)。
翌年の計画目標を、反省を含めて作成します。

一例:B「健康」では、①週に2回スポーツジムへ行く→○ ②週一回休肝日→×× ③体重65kg維持→× C「人脈・交流」①四木会→× ②古民家会→◎ ③那覇商工会議所→◎ E「読書・映画」①本を月に2冊以上読む→◎ ②映画年間120本観賞→×× ③沖縄伝統芸能観賞6回→× F「自己研鑽」①聴く→× ②相手に話させる→× ③怒らない→× このような感じです。全体を通して、10勝14敗でした。

達成出来ないから駄目という事ではなく、年初めに目標を立てるから日々に流されないで、一年を大切に生きるというような感じでやっています。
2010年も、昨年作成しました。

今年のテーマ(スローガン)は、「影響力の浸透」です。
今年は、もう少し沖縄県内に私の影響力を滲み出させるようにして行きたいと思っています。

2009年私が観た映画ベスト10を発表します

2010年01月06日 00時30分00秒 | 沖縄現地情報

▲<「マルタのやさしい刺繍」>

2009年は、89本の映画を観ました。
昨年比、58本減少しました。

今年は、週に4日仕事していた時期があったのと、研修会や講習会の原稿書きがあったりして、久し振りに年間鑑賞本数が100本を切りました。
特にDVDが、47本で半減の44本減少した。
劇場観賞は、24本(7本減少)にとどまる。
外国映画が、50本(39本減少)で、邦画の割合が、昨年比5%増えて44%になった(今年は、邦画に良い作品が多かった)。

※2009年の観賞映画とは、ロードショウだけではなく、DVDやTVの観賞も含まれていますので、新作のみではありません(私が2009年に観た映画すべてという訳です)。

★★★2009年ベストランキング★★★

1「マルタのやさしい刺繍」村の保守派へ老婆達の反抗がユーモラスで元気が出た。
2「未来を写した子どもたち」インドの実社会を隠さないで撮影したドキメント。
3「スラムドッグミリオネア」インドの凄いパワーと、そこに生きる子供の強さを見た。
4「ブタがいた教室」実話を再現した学校教育映画。子役達の自然な演技が良い。
5「グラン・トリノ」クリストンイーストウッド監督の凄い切れ味に感服。
6「おくりびと」納棺師の世界を紹介しながら人間ドラマをたくさん盛り込んだ。
7「青い鳥」阿部寛演じる臨時教員の筋を通した生き方に感動。
8「マンマ・ミーヤ!」地中海の明るさと、明るい母と昔の恋人たちの人間描写。
9「ROOKIES卒業」落ちこぼれたちの決して諦めない甲子園への道。
10「なくもんか」拾われて育てられた子供が、大人になっても泣かない理由。
11「トランポーター3」今回も、不可能な活躍が嘘っぽくなくぐいぐい引っ張る。
11「GOEMON」新しい歴史観に綺麗な映像のJAPANムービー。
11「レッドクリフⅡ」壮大なテーマに人間模様が良く描かれていた。

ちなみに、今年の観賞目標は100本にしています。



沖縄の正月と獅子舞

2010年01月04日 06時30分00秒 | 沖縄現地情報

今年の元旦の那覇は晴天で温かかった。
昼頃、窓の外で爆竹と鉦の音がした。
飛び出して住宅街を音の方へ追っかけて行くと、「旗頭」がなびいていた。

その下には、装束を身にまとった男達がいた。
そばには、二頭の「獅子舞」がいて髪を振り乱して踊っていた。

宇栄原地区を新年の舞をしながら、「道ジュネー」しているのだった。
私達の子供の頃には、「獅子舞」が、各家を廻り、各家庭の幸運をお祈りしていた事を想い出した。



沖縄の那覇市内でも、この様な風習がまだ残っている事に驚きと同時に尊敬をしました。
正月からいいものを見せて頂きました(今年は、春から縁起がいい!)。