カラ梅雨の沖縄です。

2008年05月30日 00時19分31秒 | 沖縄現地情報

一週間前の22日に沖縄は梅雨入りしましたが、殆ど雨が降らず今年は、カラ梅雨のようです。
今日(5月29日)は、午前中に仕事が終わったので、豊見城市にある豊崎総合公園に行って、人口浜で日光浴と読書をして来ました。

帰りは、ガソリンを入れに瀬長の交差点から田頭を抜けた。
そしたら、以前あれほど探して見つけられなかった「村獅子」を道路脇に見つけたので、早速、車を止めて撮影した。



近くに、美しい赤瓦の民家があったので撮影する。垣根には、沢山のフルーツが栽培されていました。





※今、沖縄のガソリン価格は、地元大手の「リュウセキ」で会員価格157円ですが、来月から、また値上げでしょうかね。
⇒22:00頃から、雷&にわか雨になりました。

『三線入門』体験記⑳

2008年05月29日 00時05分30秒 | 沖縄現地情報
少し前の話ですが、「三線修行記」最終回です。

⇒あっという間に、三線の初舞台は終った!
我々の後、演目最後の「那覇太鼓」が始まった。
カチャシーで締めくくり、発表会の全演目が終了した。



会場の片付けを手伝い、打ち上げに参加させて頂いた。
裏方の運営委員の方々や公民館事務室の人達で、簡単な食事をしながら、話したりして、楽しい時間を過ごさせて頂いた。

ほとんどが、地域の方々だった。
移住4ヶ月くらいで、地元の人と交流出来た事は、「公民館の三線サークル」に飛び込んだ事が大きい。

沖縄移住を成功させるには、このような地域活動に参加する事が重要な事だと身体で実感した。
特に、仕事を持たない「リタイヤ組」は、必ず「公民館サークル」や「地域ボランティア」に関わる事が重要です。
そうしないと、いくら沖縄が好きで最初は物珍しくても、沖縄で生活が永く続かない。


⇒あれから、4ヵ月経った。4月に平成20年度のサークル代表(窓口)になった。
発表会の後から、8名入会して来たので、8名の先輩になった。
今後も、私の「三線」修業は続きますが、この辺でこの稿は、終了します。
古い話と、飛び飛びのの連載にもかかわらずお付き合い頂き、恐縮致しました。

『地上5センチの恋心』

2008年05月28日 08時41分23秒 | 沖縄現地情報
5月26日「桜坂劇場」で、会員更新を兼ねて映画を観に行って来ました。

普通の生活の中にある「幸せ」を感じ再確認する映画です。
夫が亡くなって20年間、2人の子育てに専念し、化粧品売り場で働いてきた。
その主婦オデットの心の拠り所になっていたのは、一人の作家のロマンス小説。
その小説家にサイン会で会っても、自分の名前すらはっきり言えなくて、違う名前でサインをされて落ち込む。

その後、話せないなら手紙にして2度目のサイン会で手渡した。
そこから、新たな展開になる。
主婦役のカトリーヌ・フロの可愛さと、しばしば歌うジョゼフイン・ベイカー(シャンソン)の代表曲がいい。

彼女が出す「ハッピーウィルス」に、後必ず感染して幸せな気持ちになれます。
主役のカトリーヌ・フロは、フランスの大女優だそうです。主な作品は「家族の気分」「女はみんな生きている」など。
監督は、「イブラヒムおじさんとコーランの花たち」のエリック=エマニュエル・シュミット。音楽は、「ライフ・イズ・ビューティフル」のニコラ・ビオヴァーニ。


『三線入門』体験記⑲

2008年05月26日 00時25分54秒 | 沖縄現地情報
少し古い話ですが、私の三線修行記です。今回は、山場の発表会の演奏の話です。
⇒ついに、我々の出番が来た。舞台の裾で待っている時に、プレッシャーが最高潮になった。


▼覚悟して、舞台の最前列に座った。強いスポットがあたり観客席は暗くて見えない。

直ぐに、「渡りぞう滝落し」の演奏が始まった。
高音部分に入った時点で、皆から遅れてしまった!!

最後まで追い付けなかった(後で代表から聞いたが、普段より凄く速かったらしい。舞台に上がると興奮して、演奏のテンポが速くなるらしい)。

2曲目は、弾けないので、恥ずかしながら三線を横に置いてボーカルに徹した。
舞台の上は、音が反響して聞き取りにくかった。

あっという間に、出番は終わった。
終わってしまえば、もっと練習をしっかりしておけばよかったと、後悔の気持ちで一杯だった。

しかし、入って3ヶ月。私のレベルで舞台に上がれるなんて、リーダーの人柄とサークルの内部事情要因があったとは言え、良い経験をさせてもらったと思った。

⇒次回は、最終回。三線修行をまとめます。

3番目に遅い沖縄の梅雨入り

2008年05月23日 00時06分53秒 | 沖縄現地情報



月桃花が咲くと沖縄は、梅雨に入ると伝え聞く。
18日、4号台風余波の大雨があったが、まだ梅雨にならない沖縄です。
やっと、22日から梅雨に入ったようです。
今年は、統計を取り始めた1951年以降、過去3番目の遅さ。
沖縄の梅雨入りは、例年5月8日頃らしい。
一番遅かったのは、1963年6月4日。2番目は1976年5月26日。
3番目が、1967年5月20日だった。
今回はそれを抜いて3番目に入ったとの事です。

昨年の6月13日に、沖縄へ移住した時は、梅雨の真っ最中だった。
湿度計は、80%~90%を指していたし、洗濯ものが全く乾かなかった。
そして、革靴、カバン、スーツなどが、完璧にカビを生やしました。
今年もまた、除湿機が大活躍する時期が来ました。
そして、6月23日頃には梅雨明です。
今年は、海に入ったりして沖縄の夏を楽しみたいと思います。


梅雨が遅い沖縄。5月の晴れ間に

2008年05月22日 00時05分09秒 | 沖縄現地情報

5月20日(火)は、仕事が無い日だったので、近所の「Big1」で買った。
「ボンボンベッド」(ビニール編みの簡易ベッド)を積んで、自宅から車で15分位の所にある豊崎総合公園の「人口ビーチ」で、日光浴をしながら、「石垣島移民団」の本を読みながら、那覇空港へ降りて来る旅客機を撮影してきた。







時々、ライトを付けたプロペラ機も見ました(離島からの小型機か自衛隊機かも?)。



風は、強かったが、大変気持ちの良い日光浴が出来ました。


『三線入門』体験記⑱

2008年05月21日 00時22分46秒 | 沖縄現地情報
今日は、台風が過ぎて、晴天でした。
隣町の豊見城市の海浜公園へ行って、日光浴をしながら本を読みに行きました。
風は強かったですが、まだジリジリとした太陽では無く、丁度良い感じでした。


少し古い話(今年の2月)ですが、お付き合い下さい。
⇒覚悟して、2月10日の発表会「公民館祭り」に臨むことになったが、発表会前の2週間位から、大変さに気づき、すごいプレッシャーが襲って来た。それでも、発表会当日はカレンダー通りにやって来た。


2曲の演目の内、一曲しか弾けない私。
それでも舞台に立つしかなかった(もう逃げられない)。

発表会は、13:00からスタートだった。我々の、出演時間はラストから3番目だったが、妻の出る番が3番目だったので12:30に会場に入り、妻の踊りの撮影をしていた。

出演メンバーが、13:30頃に揃ったので、屋外で最後の練習を行った。
会場には、200名以上の観客が集まっている。
演目が22あり、出演者が各10数名いるので、出演者が多い分、身内の観客が増えるという仕組み。

舞台に立つのは、高校一年生の「卒業記念演劇」以来(その時は主役でした)。
『そんな事は、関係ない!!』くらいに、緊張していた(ドキドキ)。

三線の発表は、我々以外にもう一つあり、出番が先だったので演奏を観たが、すごく上手だった。
代表の話では、メンバーに数名セミプロが入っているとの話だったが、めちゃめちゃまとまりも良く、全員が譜面を見ないで正面を向いて弾いていた。

⇒次回へ続く(我々の発表の場面)。

『三線入門』体験記⑰

2008年05月20日 00時05分10秒 | 沖縄現地情報
古い話ですみません。今年2月の公民館発表会の頃の話です。

⇒公民館の発表会で、2演目ある中の一曲「ひやりかち節」がどうしても弾けないので、後方に座らして欲しいとお願いしたが、弾かなくても良いので、前列の上手代表の横に座るように決められた。


練習会では、いつも会議机を使い折りたたみ椅子に座って練習をするのだが、本番はステージの床に正座して演奏をするとの事。
教室で、正座して何度か練習をしたが、正座に慣れていないので、足がすごく痛い。
演奏時間は、約8分らしいが我慢出来るか心配。
演奏が終わった後、立った時に足がしびれて歩けなかったらどうしょうかと、別の心配も出てきた。

さらに、悪い事に譜面を机に上に置いて練習をしているのだが、本番では「三線ケース」の上に置いて、弾くとの事。
少し遠くなっただけで、譜面が見えない!
それでなくとも、未だに譜面のどの個所を弾いているか時々解らなくなる状況なのに・・・。
真剣に見つめると、姿勢が前のめりになり見苦しいと代表に指摘された。

あーーっ!!本番に向けて混乱が最高に極まってきた。

⇒次回へ続く。

『最高の人生の見つけ方』を観ました。

2008年05月18日 00時05分28秒 | 沖縄現地情報

70歳位の2人が、余命6か月の「ガン」を宣告され同じ病室に入る。
一人は、学生結婚以来生活のために、自動車修理工をやり働きつめの人生を送ってきた男(モーガン・フリーマン)。
もう一人は、会社を大きくする事だけに生きてきた、お金持ちの実業家(ジャック・ニコルソン)。
何の共通点の無い2人を結びつけたのは、原題名にもなっている「THE Bucket List=棺桶リスト」だった。
モーガンが、大学生だった頃、哲学の授業で出された課題を、思いだして病室でこっそり書いていた死ぬまでに「これだけやっておきたいリスト」を、ジャックが見つけて、自分だったらこうすると付け足し、ジャックのお金で生涯最後の冒険旅行(すべて実写で、スケールの大きな世界旅行)に出る。
その間、他人には語らなかった自分の人生を語り始め、お互い生涯の友となって行く。
夢をあきらめ続けてきた男が最後に見つけたものとは?
望むものは何でも手に入れてきた男が最後に本当に欲しかったものとは?
監督は、「スタンド・バイ・ミー」のロブ・ライナーです。
今月末に、57歳を迎える私には、人生とは、人生の最後をどう迎えるかを考える秀作でした。


5月15日『沖縄本土返還記念日』に考えたこと。

2008年05月17日 00時05分39秒 | 沖縄現地情報

復帰後、沖縄振興開発事業費は、8兆5542億円投じられたらしいが、道路・橋・港湾・埋め立ての整備と、市民ホールは、全国トップクラスに造られた。
沖縄振興費はハード面に費やした感がある。
まず、働く場があまりにも少ない。本土の工場や企業誘致が進まない。
農業と観光関連しかないのが現状である。
最近は、特例を使ったコールセンターが増加しているが、圧倒的な雇用にはなっていない。

個人的見解ですが、今後も企業誘致は強化するとしても、観光関連を沖縄発展の中心として、最大限発展拡大し、東洋のハワイにする道が一番効果的と思う。
高級リゾートホテルの点展開ではなく、地域的・面的な連携や、もっともっと楽しめるソフトと娯楽施設が必要だ。
特に、沖縄が日本で最初の公営カジノをスタートさせるべき立地だと思う(県と那覇市商工会議所の研究部門が出来ているが、地元マスコミは大反対だ)。
那覇空港以外にも、なぜ「読谷空港」や「名護空港」が地域でまとまらないか不思議だ。
国から下りたお金を観光客や雇用拡大にも使って欲しい。

ゆいレールを、沖縄市へ伸ばす計画を言い出す人がいるが、飛行機が一番早効率的だ。
中・北部へ車で行かせている現状で、喜んでいるのはレンタカー業界とGS位だ。
那覇空港をもっと大きくすれば、国内外からも呼びこめる。
滑走路を2本にするのが根本的に遅れている(那覇空港付近には自衛隊の敷地を含めて十分にある)。
同じ様な各市町村の市民ホールを空港整備拡大に振り替えて沖縄振興費を使っておけば、観光来場者は1000万人は超え、2000万人が来るポテンシャルは沖縄には十分あると思う。

やっぱり、沖縄は観光産業でしょう。2007年の観光来場者が581万人らしいがあまりにも少ない(飛行機での輸送がハンディになっている)。
少なくとも、現在1200万人位が来ていれば、ホテルは倍必要だし牧志公設市場は、もう2つぐらいあっていい。
国際通りと同じものが、3つくらい出来るだろうし、土産物屋や飲食店も倍くらい出来ても稼げる。

そうしたら、観光業界が半分出して台風で足止めをされた旅行者の1万人位は、空港ホテルやその他那覇市内のホテルで無料宿泊させるべきだ。
こうなれば、航空会社も今の半値くらいで羽田と那覇の料金を設定してくれるだろう。

米軍の基地も観光を基盤にした視点から、安全性や観光立地面からの施策を県と国が優先して行けば意外にうまく行くのではないだろうか?

少し力が入って、沢山書いてしまいました。お付き合いいただきまして、ありがとうございました。

5月15日は『沖縄本土返還記念日』です。

2008年05月16日 00時05分58秒 | 沖縄現地情報

▲<左「1969年ニクソン大統領と佐藤首相の共同声明」右「沖縄県初代屋良知事の式典挨拶」>
沖縄が、本土に復帰して36年目に入りました。
私が沖縄に初めて来たのが、1973年の夏でした。
その時は、パスポートもいらなかったし、車は左を走っていました。
国際通りは、ステーキ屋と米軍の払い下げ屋が目立っていた記憶がある。
当時まだ与儀にあった「奥原硝子」で、コーラ瓶で創った吹きガラスを、段ボール3箱分配送料込で1万円位買ったりした。

▲<右通行最後の交通整理>
今から思えば、復帰1年後に沖縄へ行ったのだった。
本土にいた時は、沖縄が終戦から27年後もたってから本土に復帰した事は、記憶に無い。ニュースは出ていたのだろうが、鮮烈な出来事ではなかったような気がする。

▲<銀行でのドルから円への通貨切り替え風景>
沖縄県民の、終戦後27年間はアメリカの統治下での生活が本土のニュースに取り扱われていなかったし、
昭和47年当時、日本国(本土)の繁栄が沖縄には及んでいなかった。
当時、米国統治下の沖縄では、自由の束縛を始め、生活の格差は勿論、パスポートや基本的人権差別もあったとこちらに来てから伝え聞く。

▲写真は、沖縄タイムスカレンダーより転載しました。

『三線入門』体験記⑯

2008年05月14日 00時05分41秒 | 沖縄現地情報
少し古い話(私の三線修行記)ですが、お付き合い下さい。

⇒発表会(今年の2月10日)の役割が決まり、私は弾けない「ひやりかち節」を、マイクを使って歌う事が正式に決まってしまった。

1月の練習会は、発表曲を毎回10数回以上練習した。
最後の2回は、発表会の曲だけやっていた。
私は、まだ「ひやりかち節」が弾けないので、やっぱり歌を唄いながら弾く事が出来ないので、後側へ回して欲しいと代表にお願いした。

しかし、弾かなくても良いので、前面上手の代表の横に座るように言われる。
覚悟して、2月10日の発表会「公民館祭り」に参加する事を承諾した。

後で聞くと、正しい入会方法は「公民館祭り」で下見をし、その後に入ると一年間練習出来るので発表会に出るには、一番良いらしい。

それを、私は約3か月前に入って発表会に出たのだった。
発表会前の2週間位から、大変さに気づきすごいプレッシャーが来た。
それでも、発表会当日はカレンダー通りにやって来た。

『少林少女』を観て来ました。

2008年05月13日 00時05分26秒 | 沖縄現地情報
5月12日の今日は、那覇の映画館が男子のみ一本1100円でした。
前から気になっていた、「少林少女」と「ノーカントリー」を観て来ました。
「少林少女」は「柴咲コウ」が、一年間の特訓を受け代役なしで演じ切った演技を観たかった。
少女とは言えない年なのに良く頑張っていました。
さすがに、少林寺拳法の演技の切れが良かった。
大学のキャンパス内にある秘密のアジトのセットでの戦いが、日本映画では観られないくらいのスケールがあって、凄かった。
江口洋介と中村トオルが、少し役不足か。
特に、中村トオルはもっとダークなキャラと演技力が欲しかった(キャラクターとしては善人なので、もっと悪役の演技・演出が必要だったと思う)。
ラストも肩透かしをされた気持ち。
何が悪か解らない。もっと、悪の帝国にしないと、セットのスケールが凄いだけに、人間のダークな部分が描き切れていないので、締まらないラストになってしまった。

『三線入門』体験記⑮

2008年05月12日 00時05分34秒 | 沖縄現地情報
台風2号も、何とか過ぎ去った様子の沖縄です。
今年の年明け頃の話で申し訳ありませんが、引き続き「三線修行記」です。お付き合い下さい。
⇒正月は、2月に行われる発表会のプレッシャーで練習の日々だったが、「ひやりかち節」が、全く弾けないので、唄だけの参加を決意した。

年明けは、1月9日から練習がスタートした。
代表は、発表会の事で頭がいっぱいの感じ。
しかし、火曜日の練習メンバーは、私を入れて3名、うち一人は当日仕事で参加出来ない事が決まっていた。
土曜日のメンバーも人数が確定していなくて、私の役割が技術とは別次元で勝手に大きくなって行く。

特に、女性3名は弾く事も唄う事も出来るのだが、前面に出て唄うなら出ないと、代表に言ったとか言わなかったとか・・・。
私が、前面に出て代表と二人で、マイクを使って唄う事を代表が決めてしまった。

▼普段は、こんな曲も練習しています。
<かぎやで風節>
▲妻が、踊りで習っている曲。いつか私が弾いて踊れれば・・・。

<世果報(ユガフウ)でーびる>
▲この曲は、「泡盛残波」のTVコマーシャルで流れているので親しみやすい。

<豊年音頭>
▲練習の最後に弾く曲。エイサー早や弾きについて行けず・・・。
⇒次回へ続く。

伊江島名所簡単巡り記

2008年05月10日 00時05分04秒 | 沖縄現地情報

▲<伊江島では、そこかしこで、広い「たばこ畑」を見る事が出来ます。>

「伊江島データー」面積:22.77㎢、人口:5230人。
特産品:葉タバコ・サトウキビ・落花生など。
観光名所:島のシンボル[城山(グスヤマ:愛称タッチュー)]、[リリーフィールド公園(季節限定)]、具志原貝塚、湧出(ワイジー)他にたくさんあり。

▲<最近のヒット商品「イエソーダー」4種類になっていた。>

GWに伊江島へ行ってきました。「リリーフィィールド公園」で、ユリの群生を見た後、港までバスで帰り、レンタサイクル借りて、帰りの船の出発時間までの、2時間弱で観れる範囲で、ペダルを漕いだ(結構、起伏があるので油断しないように)。

まず、①東江公民館内にある「伊江村教育委員会」へ行き、「伊江島史跡・名勝・戦跡・民俗芸能・歌碑」小冊子を入手。
 

②東江公民館敷地内にある「公益質屋跡」を観る。

▲<米軍の攻撃で村の建物はことごとく焼き払われたが、かろうじて原形をとどめていたのがこの公益質屋の建物。同施設は、1929年(昭和4年)に政府の融資を受けて設立された村営の金融機関。当時は、世界大恐慌期で村の財政や村民の生活も苦しかった時代でもあり、高利貸しの暴利に泣く貧民を救う福祉施設であった。>

③一番観たかった、「ミンガザントウ」を観る(伊江島空港川平線ルート181道路沿)。

▲<昭和15年頃、水に不自由していた島人の知恵の遺構です。岩盤を利用して雨水を受け、下にタンクを造り流れた水を貯水した、いわば露天のタンクです。畑の往来に人々はここで水を飲み、水の補給地としての大きな役目をした。>

④最後に「アニー・パイル記念碑」を観てから、帰りのフェリーに乗船した。

▲<アメリカ軍の通信員として、北アフリカやヨーロッパ戦線の記事で1944年ピューリッツアー賞を受賞。1945年アメリカ軍の沖縄上陸に同行し、伊江島に4月16日に上陸するも、取材中に死亡。彼は、兵士の視点から戦争を情緒的に書く事で、人気の有名なジャーナリストだった。トルーマン大統領も死を悼んで特別にステートメントを発表した。>

今回は時間の都合で、戦跡はほとんど見ていない。次回は「団結道場」「ヌチドゥ宝の家」を見学し「城山(タッチュー)」にも登ってみたい。
それにしても、出会った島の小学生や中学生、青年までみんなが「挨拶」をしてくれた。礼儀正しい人達の島でした。

▲<西小学校の壁画>