豊見城市 民俗文化財巡り(21)『根差部地区』①

2008年01月31日 00時05分29秒 | 沖縄現地情報

▲<「オオベニゴウカン(大紅合歓)の花。英語名では、化粧用のパフに見える事から「Powder puff(パウダーパフ)とか「Red puff tree(レッドパフトゥリー)」と呼ばれます。蕾は少し奥に見える大仏の頭。沖縄の嬉しいところは、12~3月でも、この様な花が民家の庭や垣根に咲いているのが見られる事です。>

豊見城市根差部(ねさぶ)は、嘉数公民館前のバス通りから入るルートと、県道11号線の根差部入口から入るルートがあります。
今回は、県道11号線「根差部入口」から入ります。住宅街に入る坂道を道なりに上がって行くと、数分で「根差部公民館」に着きます。
公民館前の駐車場に車を留めます。その駐車場の北隅に「村石獅子」が座っています。右唇が欠けているのが痛々しい(琉球石は、風雨で少しずつ溶けてゆきます)。


公民館東側の道を北に真直ぐ進み突き当り、カーブ左側の少し引っ込んだ所に「グスクヌチヂガー」があります。井戸の中の水は美しく、大きな鯉が泳いでいました。
さらに奥には「グスクヌチヂ」があるはずでしたが、畑のみで探せなかった(きっと、北側別の場所にあるのだと思う)。


公民館に戻り、南側の道を東へワンブロック歩くと一角に「ウブガー」の形式保存を祀っている拝所があります。そこには、道路建設で移転した「クチャガー」もありました。




もうひとつ「印部土手石(ハル石)」も一緒にあります。
※ハル石とは、1737年~1750年に琉球王府時代の図根点で、先島を除く沖縄本島と周辺離島で行われた「元文検地」の際に設置された石の起点標識です。
「元文検地」とは、田畑を所有する集落に課税するために行われた測量で、その際、起点となったのが印部土手石と言われています。
差粒砂岩に、順序を示す記号またはカタカナあるいはひらがなで「い」「ろ」「は」などが書かれ、その下に所在地の小字名が書かれています。
豊見城市では、12個が確認されています(豊見城市教育委員会より)。

⇒次回は、根差部地区の聖地「ウタキ」を訪ねます。

豊見城市 民俗文化財巡り(20)『嘉数地区』③

2008年01月30日 00時05分02秒 | 沖縄現地情報

▲<民家の垣根から飛び出ていたカニステル。果肉の味は、焼き芋か蒸しカボチャらしい。>

嘉数地区の一番北にある小規模団地の公園に「イリカンガー」が、豊見城市教育委員会の地図にあったので行ってみたが、小さな公園をくまなく探しても気配すらない。
団地住民の方に聞いたら、北側斜面の下へ降りるとあるようだと教えてくれた。
ありました。時間にして、約5分位だが少し怖い壊れかけたコンクリート製の坂道を、足元に力を入れて降りて行くと、坂道途中の踊り場のような所に「イリカンガー」がありました。
岩肌を伝って綺麗な水が途切れずに降りそそぐ小さな滝でした。
滝壷の水は綺麗に澄んでいました。
最初は、降りて行く事をためらいましたが、勇気を出して降りて良かった。
いい物を拝見させて頂きました。




最後の探索は、嘉数地区東端のバス通りからワンブロック南に入った、賃貸アパートの合同駐車場の一角に「イナンガー」がありました。(教育委員会の名称は、マーダーガー(アガリガー)でしたが。
こちらは水はありませんが、住宅街の中に一区画を確保して、美しく整備されていました(長堂地区から移設したようです)。
駐車場の西側道路面の真ん中を占めているのは、この地域でも重要視されている事が推測できます。


※おまけです。ある家の庭に亀の置物と思って見て、それにしても良く出来ているなと少し見ていたら、動いた!! 庭の芝生を必死に食べていた。庭で放し飼いされている陸ガメでした(全長約1m)。


嘉数地区は、豊見城ニュータウンの整備された中にあり(グランドデザインがしっかりした大規模ニュータウンです)、各住宅が花を植えて美しく住んでいました。
時間の経過はずいぶん経っていると思うが、住んでいる人達の人柄が出ているような、落ち着いた那覇のベットタウンです。
ここなら、県外からの移住者も住めるのではないかと思えるような街並でした。

⇒これで、「嘉数地区」は終了です。

豊見城市 民俗文化財巡り(20)『嘉数地区』②

2008年01月29日 00時05分16秒 | 沖縄現地情報

「カニマン嶽」北側の道を西に数分位歩いた所に「嘉数之殿(トゥン)」があります。大きなクスノキと、ヒメフヨウに囲まれたコンクリート造りの祠がありました。
南側は、広場になって人が集まるためのスペースがあり、美しく整備しありました。


▲<ヒメフヨウの花、蕾のようですがこれで咲いています。>

その南側、バス通りから一筋入った所のある家は感動しました。特に家を取り囲んでいる石塀のオオイタビが美しい。
そして、東側の石塀には、相当古い「石厳当」が、塀の上に取り付けてありました。
入口も綺麗に手入れが行き届いていて、ヒンプンまでの少し長いアプローチが、何とも言えないくらいに素晴らしい。
そして、中に建つ家は沖縄では珍しい洋館でした(歩いているから見つけられる。車では絶対に、見つけられず完全に素通りです)。

▲<西側の角から入口を望む。竹が美しい。>

▲<突き当りに、オオイタビがびっしり付いているヒンプン。玄関は、左へ。>

▲<石塀の上にある古い「石敢當」>

▲<入口の一番前で、お客を迎える名のある人が創ったと思われるシーサー。>
⇒次回は、嘉数地区最北端にあった「滝のようなガー」を観に行きます。

豊見城市 民俗文化財巡り(20)『嘉数地区』①

2008年01月28日 00時05分33秒 | 沖縄現地情報

豊見城市嘉数(かかず)地区は、真玉橋側から入ると、県道11号線を南下し「嘉数入口」を左折して、「仲間世」を通り過ぎて行きます。
車なら数分で、嘉数公民館に着きます。近くの空地に車を留めて、公民館西側に隣接している6~7m頂上の「ウタキ(カカズヌウガン)」を観ます。
階段入口にあるガジュマルには精霊がいる気配がしました。頂上には、屋根が付いたコンクリートの祠がありました。

▲<左、登り口にあるガジュマル。右、頂上にある時代を感じる祠。>

▲<広場側にある石で組まれた拝所>

公民館南側に、東西200m位のサッカー場と思えるような芝生広場があります。
南側中央崖下に「ウブ(ウフ)ガー」がありますので、金網の扉を開けて下に降りますが、南面に関わらず、樹木で光が遮断され欝蒼としています。直ぐ近くにあったので安心して降りましたが、探すために降りるには不安な状況です。
撮影している最中にも、蚊が刺しに来ますので、早々に退散しました。
金網の中には美しい水が湧いていました。


公民館前の横断歩道を渡り、住宅街に入った直ぐの所に、農産物の直売所があります。その裏に「シリヌカー」があります。
教育委員会の地図では、ここは「ナカヌカー」のはずですが、標識には「シリーヌカー」となっていたので変更しておきます。


その裏には「カニマン嶽(うたき)」があるようになっていましたが、裏の民家の庭に小山があり、そこに小さな祠があったので、「カニマン嶽(うたき)」としておきます。
個人住宅の敷地で、入れなかったので北側と南側の外から撮影をしました。

▲<左、北側。 右、南側正面庭より撮影。手入れのされている庭でした。>


▲<民家の垣根に咲いていたハイビスカス。沖縄では、このように年中ハイビスカスが咲いています。>
⇒次回は、「嘉数之殿」と綺麗な個人住宅を紹介します。


なつかしの『手書き昭和映画看板展』

2008年01月27日 00時05分08秒 | 沖縄現地情報

赤木圭一郎、嵐寛寿郎、中村錦之助、市川右太衛門、長谷川一夫、美空ひばり、大友柳太郎、石原裕次郎、小林旭、宍戸錠、市川雷蔵、等々・・・。
映画スターの顔がそこかしこに、昭和30年代にタイムスリップしたような・・・。

1月22日~2月3日まで、「瀬長島ギャラリー」(豊見城市ウージ染め協同組合)で、なつかしの「昭和映画全盛期の手書き看板展」が行われています。
会場は、那覇空港南側にある「瀬長島」です。早速、行って来ました。

会場には、昭和20年~50年の代表的な、手書き映画看板が、大小約100点展示されていました。

作者は、野外広告1級技能士の資格を持つ大城敏夫さんで、看板を約30年間描いてきた集大成展です(書き直し含む)。

大城さんは、現在沖縄県豊見城市高安で看板全般製作の「大星広告」を経営しています。
1960年代は、沖縄には映画館が70ヵ所ほどあり、その中でも、最も大きかった琉映本館では多い時には、15人もの絵師が働いていたそうです。


ほとんどの作品は、上映が終わると塗り替えられて、次の作品に作り変えられるため、残されるものではありませんでした。そのために、現在当時の映画看板は保存されていません。

この作品展で、この仕事に携わった職人の手仕事を自分自身も含めて、再認識をするとともに、多くの人にその魅力に触れて欲しいと思って作品展を企画したそうです。
この作品展の会場に立って、懐かしいさと供に、職人芸のすごさを目の当たりに感じました。

残念ながらご本人は、今日はまだ会場に来られて無く、お会い出来ませんでした。

『八重山桜まつりとタンカン狩りツアー』参加記⑥《ヒカゲヘゴ》

2008年01月26日 00時05分52秒 | 沖縄現地情報

1月19日(土)、沖縄バス企画の「北部観光ツアー」に参加してきました。
その時のレポートです。本稿は、特別編「ヒカゲヘゴ観察記」です。
「ヒカゲヘゴの観察」は、ツアーのプログラムに入っていませんでしたが、沖縄本島北部八重岳に「寒緋桜」を見に行った時、山道をバスで上がる途中、車窓から「ヒカゲヘゴ」を観て感激しました。
バスを降り、「寒緋桜」を見物に行く途中、崖に自生しているのを発見し、崖に少し入って撮影をしてきました。



「ヒカゲヘゴ(日陰ヘゴ)」とは、ヘゴ科の多年生のシダ植物です。
奄美大島以南に生息する大型の常緑木性シダで、日本では最大のシダ植物です。
高さが5~6m、最大で10mになります。葉だけでも2m以上はあり、幹は蛇のような柄をしています(ヒカゲヘゴの成長した羽が枯れて落ちた痕)。
新芽がゼンマイのようになっています。約3億6000年前から存在しているとされ、生きた化石と呼ばれています。
「ジュラシックパーク」のような、恐竜時代を彷彿させる植物が、手の届く所に普通に生えている事に感動した次第です。


新芽および、高く成長した幹の芯は食べる事が出来るそうです。
新芽は80cm程度に成長したものが良く、茹でてアク抜きした後テンプラや三杯酢、酢の物にして食べます。
芯は煮込むと、大根のような食感となり、煮たヒカゲヘゴの芯は、八重山諸島では祭りの際に欠かせない食材とのことです。
島の人達は、ヒカゲヘコの芯を山ダイコンと呼んで食べているらしい。



これで「八重岳さくらまつりとタンカン狩りツアー」参加記は終わります。


『八重山桜まつりとタンカン狩りツアー』参加記⑤《ナゴ・パイナップルパーク》

2008年01月25日 00時05分00秒 | 沖縄現地情報

1月19日(土)、沖縄バス企画の「北部観光ツアー」に参加してきました。
その詳細レポートです。本稿は、プログラム⑤の「ナゴ・パイナップルパーク」です。(ツアー全体のプログラムは、以前に出しましたので省略しています)。

「ナゴ・パイナップルパーク」名護市為又にあるパイナップルだけに特化したフルーツテーマパークです。
団体客は、入場後パークのガイドさんが付いてくれます。最初のコースとして「パイナップル畑」で色んな種類のパイナップルを紹介してくれます。
次に、「パイナップルワイン工場」をガラス越しに見て歩き、突き当りの所で「パイナップルワインの試飲」があります。甘い、甘み抑え、アルコール控え目(5%)の3種類がありました。
ここから、買い物を勧められます。ワイン試飲場所で、もらった大きな紙袋に欲しい商品を入れて進んで行きます。
次のコーナーでは、パイナップル、シークワーサー、パインカステラ、パインパイなど、10数種類のお菓子等の試食をして、腹いっぱいになりレジに着きます。
※試食に忙しくて、試食コーナーの写真は一枚も撮れませんでした。

外には、「もずく入りのうどん」の即売をしていたのでまた試食をする。
いわゆる、「観光土産物購入所」ですが、パイナップルに関するありとあらゆる商品を考えているところ面白かった。
例えば、「パイナップルの化粧水」「パイナップルの炭」「パイナップの炭入りの石鹸」「パイナップルの芯の漬物」・・・等々。

▲<我が家の、購入は「パインカステラ」一箱でした。>

『八重山桜まつりとタンカン狩りツアー』参加記④《タンカン狩り》

2008年01月24日 00時05分33秒 | 沖縄現地情報

1月19日(土)、沖縄バス企画の「北部観光ツアー」に参加してきました。その詳細レポートです。
本稿は、プログラム④の「タンカン狩り」です。
(ツアー全体のプログラムは、前々回に出しましたので省略しています)。
プログラム③の「八重岳の寒緋桜鑑賞」は、すでに書きましたので省いています。


「タンカン狩り」は、名護市旭川の長嶺農園でした。タンカン畑の入口でビニール袋を手渡されます。各人自由に、もぎ採って畑の中では食べ放題です。
まず、最初に採ったモノを食べて甘かったらその木から採ると、教えられました。出来るだけ、陽当たりの良いものを選ぶと甘いらしい。タンカンは、果皮が汚いのが欠点ですが、中身は大変甘く、少し果汁少なめで、ネーブルとミカンの中間かな?幾らでも食べれます。
私は、今三線を学んでいるために、今、深爪にしているので、タンカンの果皮に爪が入らなくて困りました。

私達が入った畑には、タンカンの木が約20本くらいありました。それを2台のバスの客40人位で採っています。頭上の青いネットは、カラス対策です。カラスも美味しいのを知っていて、カラス対策が新聞記事になるくらいに食べに来ます。

採ったものは、1㎏350円で購入出来ます。私は、2.3㎏を800円で買いました。送る事も出来ますが、採りに行く時間が無かったので、採らないで宅急便を依頼したところ㎏当たり450円になっていました。フリーで行けば、入場250円です。行く時は、ミカン箱を1・2個持って行きましょう。

▲<狩り採ったモノを購入する際に、計っているところ。>

▲<レジの向こうは、宅配を依頼しているところ。>

▲<左、レジ小屋裏に植わっていた熟れた「シークワーサー」。右、販売所裏の「野の花」、赤とオレンジの花が緑葉の中に点在している。>

▲<我が家のタンカンです。>
※「たんかん」とは中国原産の果物であり、「ポンカン」と「オレンジ」の自然交配で出来た。名前の由来は、みかんを行商人達が短い桶に入れて売り歩いた事から「短桶(タンカン)」という名前で呼ばれるようになりました。
このタンカンがやがて海を越えて日本に伝わり、日本国内では、屋久島・沖縄・奄美などが主な産地となっています。おいしいタンカンを栽培するには昼と夜の温度差が重要で沖縄はこれに適しており、山の中腹で栽培する事で、昼間と夜の気温差が出来、美味しいタンカンが出来るということです。また、沖縄は石灰岩の混ざった土質のため樹勢がとてもよく、農薬などをあまり使用せずに栽培することが出来るためとてもタンカンの栽培に適しています。タンカン販売さんのHPより


沖縄産ラム酒『CORCOR』の産みの母に会った。

2008年01月23日 00時05分19秒 | 沖縄現地情報

▲<赤いラベルが「アンデュストリエル」。緑のラベルが「アクリコール」です。>
沖縄は、泡盛。奄美大島(鹿児島県)は、黒糖焼酎。
もう一つ、沖縄で造られている酒があるのを知っていますか?
『ラム酒』の、「CORCOR(コルコル)」というブランドで、3年前にデビューしています。会社の名前は、株式会社グレイスラムといいます。
全国どこでも、麹を入れた酒は「焼酎」として、酒税は安い。
特に、泡盛は復帰の特例として、今でも全国の焼酎より税金が安い(その分、泡盛製造業者は、本土の焼酎より安く売れる)。

しかし、「国内では、ラム酒は、外国酒と同じ税率となり、焼酎のような、国内保護の恩恵はない。また、沖縄といえど泡盛でないため、県産酒としての恩恵もない。
なにも恩恵の無い、「ラム酒」造りに取り組んだ、勇敢なOL(金城祐子)が沖縄にいた。
アステル沖縄の正社員OLが、2001年親会社の沖縄電力の「起業案」に採用された事から、彼女の企業家としての人生がスタートする。

▲<真ん中の女性が、社長の金城祐子さん>
本社は、沖縄でも屈指のサトウキビ産地の「南大東島」に置いた。
沖縄電力ベンチャー支援金で会社を2004年に設立し、製品の出荷をして3年目になった。

▲<サトウキビの蜜糖を原料とする。>

▲<サトウキビの搾り汁をそのまま使用する貴重なラム酒です。>

泡盛造りの「杜氏:玉那覇力」さんとの出会い、そしてスカウトの話はドキドキする。
今は、全国の酒販店回りや百貨店などの沖縄県産品展でPRする日々が続く。
そんな甲斐あって、東京のバーにもボチボチ置かれる様になって来た。
しかし、まだ知名度はまだ全国区ではない。
累損との闘いの日々が続いている。
酒税のため、国内の焼酎に対して少し高いのが悩み(私の意見)。
後、倍くらい売れて行くと販促費も出せてもっと知ってもらう事が出来るのだが・・・。

前から気になっていた人に、今日ひょっとした事で、那覇市内のオフイスでお会い出来た。
1時間少しの時間だったが、一生懸命「ラム酒」販売に命を掛けている事がひしひしと伝わってきたのだった。
私の、これからも応援して行きたい起業家です。
これを読んだ皆さんにも、是非、一度味わって頂き、応援をよろしくお願いします。
飲食店に行ったら、ラム酒の「コルコルは、無いの?」と言って下さい。

詳しくは、「CORCOR」グレイスラムのHPをご覧下さい。

『八重山桜まつりとタンカン狩りツアー』参加記③《ランチバイキング》

2008年01月22日 00時05分33秒 | 沖縄現地情報

1月19日(土)、沖縄バス企画の「北部観光ツアー」に参加してきました。本稿は、プログラム②の「昼食」の詳細レポートです。
(ツアー全体のプログラムは、前回に出しましたので省略しています)。

昼食会場は、本部町海岸側にあるホテル「マリンピアザ・オキナワ」で、ランチバイキングでした。品数も多く、楽しみながら食べれました。何よりも、沖縄の食材を中心にした料理が、ヘルシーでかつ食欲をそそりました。
デザートやドリンクも、豊富にあり、その中でも、自然茶の種類が多く、自分で選んだものを急須で飲めるスタイルで、好みに合わせて自由に試飲出るのが良かった。


▲<ずらりと並ぶ、地元食材の沖縄家庭料理。4番目は、サラダバー。>

▲<「ハンダマ」和名水前寺菜、葉は肉厚で表は深緑色、裏は赤紫で紅芋と同じアントシアニン系の色素を含む。沖縄では「血の薬」といわれ、カロチン、ビタミンB2、鉄分を含む。血液不良や貧血、目の疲れや腫れ、風邪の引き始めにも用いられる。>
 <アイスハイビスカス花茶>

▲<手早く飲みたい人向きの4種類の薬草茶コーナー>

▲<10種類以上の薬草茶が選べる(ブレンドもOK)コーナー>

ホテルは、全室オーシャンビューで、小振りながらも「もとぶ元気村」が併設されていて子供や大人も、プライベートビーチやイルカ遊びが楽しめる滞在型体験&健康指向のホテルで、家族旅行向きに大変良い感じでした。


※「マリンピアザ・オキナワ」の詳細は、こちらをご覧ください。

『八重山桜まつりとタンカン狩りツアー』参加記②《今帰仁城跡》

2008年01月21日 00時05分53秒 | 沖縄現地情報

▲<裏門の「志慶真門(シンジマジョウ)」がある「志慶真門郭」。>
1月19日(土)、沖縄バス企画の北部観光ツアーに参加してきました。以下、当日のプログラムです。

8:00 那覇市高良バス停から乗車。那覇市内~浦添市の7か所で客を拾いながら一路「今帰仁城跡」へ。
①11:10~11:40「今帰仁城跡」。
②12:25~13:15 本部町「マリンピアザ・オキナワ」でランチバイキング。
③13:50~14:30「八重岳さくらの森公園」で寒緋桜を鑑賞。
④15:00~15:35「タンカン狩り」。
⑤16:00~16:25「ナゴ・パイナップルパーク」。
19:00 宇栄原バス停で降りる。参加費は、大人一人4280円でした。

ツアー参加記です。以降、5回の連載です。
本稿は、①「今帰仁城跡(なきじんぐすくあと)」です。
「今帰仁城跡」は、沖縄世界遺産最北端の城(グスク)です。沖縄本島北部本部町、半島北部の標高100mの山頂にあります。
面積は、1万7000坪あり首里城に次ぐ規模です。明確な年代や誰が築城したかは不明ですが、発掘調査で13世紀頃に城造りを始めた事が解っています。
今帰仁城の特徴は、野面積み(のずらずみ)、荒っぽさの中にも地形をうまく使った美しい稜線にあります。
7つの郭「主郭(しゅうかく)」「大庭(うーみや)」「御内原(うーちばる)」「志慶真門郭(しじまじょうかく)」「大隅(うーしみ)」「カーザフ」「外郭」からなります。
かって中国との交易で栄華を誇った、難攻不落のスケール大きな城郭に歴史の盛衰を感じました。
観光バス駐車場上にある「今帰仁歴史文化センター」は、城跡から発掘調査時に出土遺物やこの地区のムラの歴史など、充実した内容になっています。是非、見学してみて下さい。

▲<「平郎門(ヘイロウモン)」手前から見る「大隅(ウーンミ)」の外郭。>

▲<左、平郎門。右、門を過ぎて続く参道。>

▲<「大庭(ウーミヤ)」、行事に利用された重要な庭。>

▲<左、本丸「火の神」。右、大庭「テンチジアマチジ」拝所。>

▲<左、「カラウカ」(空井戸?雨水溜まりのようでした。右、「大庭」の一番前にあった石碑。)>

▲<「平郎門」入って直ぐ左側にある「大隅」馬の調教・武術の訓練場。遠くに東シナ海が見えます。>

桜、ひとあしお咲きに。《日本一早咲き桜》体験記

2008年01月20日 00時05分15秒 | 沖縄現地情報

本日、1月19日、沖縄県本部町(もとぶちょう)八重岳(やえだけ)「桜まつり」に行ってきましたので、日本一早い桜をご一緒にお楽しみ下さい。
今日は、「桜まつり」初日でした。本部中学吹奏楽部の演奏があり、オープニングセレモニーのテープカットをしていました。

その後も、歌謡ショーや桜写真コンテストの表彰など、イベントが行われていました。
とは言え、会場になっている、「八重岳桜の森広場」の桜は、二分咲き。屋台なども出ていましたが、桜を見て花見をする状態ではありませんでした。
ちなみに本日本部町の温度は、21.1℃でした(これは気候の事ですからしかたがありません)。

会場になっている所の桜が一番咲いていなくて、本来の桜並木のある車道は、五分咲きくらいでした。
元々、この車道の桜並木が本命で、古く枝ぶりも良いため見栄えがします。あまり人が多くなり過ぎて、車道には歩道もないため危険が増したため、頂上に広場を造り、会場に観光客を誘導したみたいです。
そうであれば、古木の何本かを広場に移植は出来なかったんだろうか?と、思いました。残念な事ですが、当日の会場になった「八重岳桜の森広場」に植わっていた若木数本が、風で倒れていました。その木がまたなぜか五分咲きの木なんです。それくらいは、直しておいて欲しかった(残念です)。



本部八重岳の桜は、本土に良くある「ソメイヨシノ」や「八重桜」とは種類は異なり、「琉球カンヒサクラ(寒緋桜)」と言います。別名、ヒカンザクラ(緋寒桜)とも言います。原産地は、中国、他。開花期は、1月~3月で寒い早春に葉より先に緋色または濃桃色の小花を枝一杯に咲かせます。ヒカンザクラ(緋寒桜)の花は開ききらず、俯き気味に咲き、花弁や、ガクも緋色をしています。散る時は、ガクごとぽとりと落ちます。


豊見城市 民俗文化財巡り(19)『真玉橋地区』④

2008年01月19日 00時05分17秒 | 沖縄現地情報
現在、真玉橋に北上してくる県道11号線の拡幅工事が行われていますが、「真玉橋拝所」南側、県道11号線沿いの高台に「フルジマガー(古島)」があります。
ここは、他地域から移り住んできた人々の始祖住宅地跡とされ、1700年頃には人家が5~7世帯あったと伝えられています。


▲<上は、県道11号線から見た「フルジマガー」の遠景。グリーンの標識柱が見えたので行きました。下は、現地の状況。ソテツの下には形式井戸があります。>

「フルジマガー」から、県道11号線を南下し、初めての信号がある「嘉数入口交差点」を左に曲がって直ぐ、住宅地へ入る道路際の角に「仲間世(ナカマユー)」があります。年代は不明ですが、ここも真玉橋集落の先祖であると伝えられています。


「仲間世」斜め向いの理髪店の路地を入った所、民家の一角に「仲間址」があります。かつては、こぼれるほどの水が溢れている井戸だったと言われています。


嘉数入り口交差点からさらに南下、次の信号がある交差点を右に入ると、突き当りに豊見城高校があります。高校西側県営団地境界の一角に「ヒララス杜(ムイ:御嶽)」があります。
祠の中に祀られている霊石は、竜宮の神様が宿る石だとされ、多くの人が礼拝に訪れます。
またこの場所は、爬龍船(はりゅうせん)の発祥の地とされ、別名ハーリーモーともいいます。
豊見城藩の汪応祖(わんおうそ)が、中国から船の技術を習得して来てこの地で初めて漕ぎ出した。それから沖縄全島の漁港や港では大漁祈願として、旧暦の5月4日にハーリー行事を行うようになったとされています。
豊見城はジンス(お神酒)、根差部はポーポー(豚肉の油味噌を薄い生地に包んで巻いたクレープ風の食べ物)、嘉数はアマガシ(ぜんざい)、真玉橋はマーミナズーネ(もやし炒め)をお供えしたといいます。


▲<「ヒララス杜」の霊石>
<境内にあった歌の碑>

県道11号線から豊見城高校へ行く道の中間点辺りに「神グムイ」(井戸より大きな池)のビジュル祠があったとされていますが、ちょうどその土地辺りに、新しいマンションが完成していて、近所の工場の方に聞いても、どこに移転されたのか見当が付かないとの事でした。

▲<114戸の大規模マンション。入居平成20年1月、70~127㎡、2080~4550万円。>

⇒真玉橋地区は、新しい真玉橋や新しいバイパス、それに現在工事中の県道11号線の拡幅工事で、年々、様変わりをしている地域です。那覇市に近い分、若い人達のベットタウンになりつつあります。交通手段はバスのみになりますが、車があれば便利の良い場所だと思います。予想以上に公園が少ないので、国場川河岸の有効活用など、公園がもう少し出来れば、子育て層にとって住みやすい街になると思われます。
※この稿は、「オキナワグラフ」2007年11月号の《私のさんぽ道》を参考にさせて頂いて作成しました。

豊見城市 民俗文化財巡り(19)『真玉橋地区』③

2008年01月18日 00時05分59秒 | 沖縄現地情報

▲<「真玉橋拝所」の入口に立つ真玉橋拝所整備移転建立記念碑。地区内には24か所の拝所があったと書かれています。>

真玉橋の南側バイパスを渡った直ぐの所に「真玉橋拝所」があります。
国場川南側に建設された「那覇東バイパス」(1994年完成)によって、この地区の地形は様変わりしました。
その影響で、この地区にあった民俗文化財もずいぶん移転したり形が変わりました。

▲<大井の上(ウフカーノイー)、ちゃんと中には水が湧いていました。>

ここは、昔から村にとって重要な聖地であり、「大井の上(ウブカーのイー:御嶽)や「骨神」「地頭火の神」などが同じ場所に祀られています。

▲<左、真玉橋地区の祖先が祀られている「骨神」の祠。右、「地頭火の神」の祠。>

▲<左、「神風之殿」。右、「大神の御石」>

他には、「遊庭井(アシビナーガー)」「今帰仁井(ナキジンガー)」「臼井(ウーシガー)」は、バイパス建設のために、この場所に移転されている。


真玉橋地区の祖先が祀られている「骨神」とは別の、「骨神」の石碑があります。
こちらは、当時、国場川が氾濫するたび橋が流されていたが、一人の老神女が神のお告げとして、「子年生まれで髪を七色の元結をした女性を人柱に立てると成功する」と、告げた。しかし、探しても見つからなかったが、その神女自身が条件に合ったため、自ら人柱になりました。その後、真玉橋は流されなかったいう話です。うちなー芝居にもなっています。

▲<人柱になった人が祀られた「骨神」。>

「真玉橋拝所」は、真玉橋地区の神がすべて集まっている「真玉橋総合拝所」と言える場所です。
しかし、バイパス建設がなければ、こんな状況にはならなかったと思います。
我々の生活を便利にしていく事が、同時に民俗文化財の形を変えて行っています・・・。


▲<拝所の近くの民家の一角にある「井戸」。>
この井戸は、昔、真玉橋を造るために長嶺城から石を運んでいた人夫達の休憩場所として使用され、ここで水を飲んでいたらしい。水の恩を忘れないようにという感謝の気持ちで、今でも地域の住民は礼拝に訪ねています。
⇒次回は、真玉橋地区の集落始祖の碑や祠、およびハーリーの発祥の地を訪ねます。

豊見城市 民俗文化財巡り(19)『真玉橋地区』②

2008年01月17日 00時05分29秒 | 沖縄現地情報

公民館南側の住宅地内の道路を3分位歩いた民家の角地に村石獅子の「アガリヌ・シーサー」が、東を向いて四つ足で立っています。


アガリヌ・シーサーから直ぐの、バイパス北側に「真玉橋大屋(ウフヤー)」と「新屋(ニイヤ)」があります。
大屋は、村を起こした開祖が住んだ場所、新屋は、それと同等の先人の方がいる家柄だといいます。

▲<真玉橋大屋>
<新屋>


▲<「新屋」から「イリヌ・シーサー」へ行く途中に見たトックリキワタの並木>

真玉橋南東橋詰に、村石獅子もう一方の「イリヌ・シーサー」が西を向いて座っています。
昔、漫湖のガーナ森には大きな怪物が棲み、集落を襲おうと狙っていた。それを神様に見抜かれ、大岩を投げつけられ臀部を強く押さえ付けられたという伝説がある。そのため真玉橋では、神様への感謝と魔風を押し返すためにガーナ森の方向に向けてこの石獅子を設置したと言われています。特に、この村石獅子は、すごく怖い顔をしていますが、こんな言い伝えを聞くと納得が出来ます。

⇒次回は、真玉橋地区の聖地「真玉橋拝所」を訪ねます。