「古謝美佐子ライブin浜比嘉島」

2011年02月27日 16時00分00秒 | 沖縄の生活


2月26日(土)、古謝美佐子さんのライブが「ホテル浜比嘉島リゾート」で行われた。
1月中旬に「ゆいレール」に置いてあったチラシを見て、古謝美佐子さんのライブを聴いてその上、「ホテル浜比嘉島リゾート」に宿泊(ディナー&朝食付き)@1万2,000円が、凄いお得企画だったので即、予約した(この収益の一部は、沖電開発株式会社が行われる「サンゴ苗移植事業」に活用される)。

当日15時過ぎ、昼のライブが終わった頃を見計らってホテルに入ったら、何とロビーに、ライブを終えた「古謝美佐子」さんが、ステージ衣裳のままコンサート用のメイクだったので、思わず「普段よりも美しい!」と話しかけたら、「どこで見たのよ!」と、笑いながら叱られた。でも、快く記念写真を撮らせてくれた。


▲<ホテルのロビーに造られたライブ会場(コンサート風景は撮影不可なので会場見本)>








▲<ステージの後は、太平洋が拡がる>

ディナー後、19:30~21:30まで、約20曲を歌われたライブは本当に最高だった。
声が、どこから出てくるのかと思えるような、心地良い声の質に時の経つのを忘れた。
アンコールにも応えてくれ、さらに5曲を歌ってくれた。
約100人の客は、感動をし続けた夜でした。
古謝さんが話した中で、「沖縄には、“さよなら”という言葉がない。もう会えないと思っている人にも“また会いましょう!”と言って別れる」という印象深い言葉を教わった。

▲<「童神」の詞と内容解説>


▲<ホテルで渡されたコンサートチケット>

※「古謝美佐子」沖縄民謡歌手。1986年より坂本龍一のCDやコンサートツアーに参加。1990年より沖縄コーラスグループ「初代ネーネーズ」のリーダーとして参加。1995年脱退後、ネーネーズのプロデューサ佐原一哉とソロ活動開始。作詞作曲の「童神(ワラビガミ)」は、夏川りみ他多くのシンガーにカバーされ、幅広く愛されている。2010年宮良長包音楽特別賞受賞。

「プロ野球沖縄キャンプ情報」

2011年02月25日 01時00分00秒 | 沖縄の生活

▲<ついに「沖縄セルラースタジアム那覇」へ、読売巨人軍が来た!>

プロ野球の春季沖縄キャンプが、2月1日から始まっています。
県内(先島含む)で、10球団が亜熱帯気候の中で、練習を行っています。
今年から、読売ジャイアンツが那覇市奥武山公園で初めてキャンプが始まり、沖縄は盛り上がっています。加えて、名護市は、「日本ハム斎藤祐樹投手」。久米島は、「楽天星野新監督」が就任し、ファンの沖縄来県が爆発的に増加!今までになく、沖縄の春季キャンプが熱いです(名護のホテルは、シーズンオフにもかかわらず満室です)。
2月22日、13時~奥武山公園の「沖縄セルラースタジアム那覇」で、「巨人vsオリックス」の練習試合(無料)が行われたので、覗いてきました。

▲<どちらのチームも、開幕戦のメンバーだ!>

▲<3番「小笠原」>
どちらのチームも一軍のレギュラー選手が本気で試合を行っていた。オープン戦と変わらない内容です。昨年同じ球場で観た「ヤクルトvs横浜」のファーム戦とは、オーラとスピード感がまったく違う。
いつもテレビ中継で観る選手が、真近でプレーを行っているのに感動した。

▲<4番DH「ラミネス」>



▲<5番「阿部」>

▲<7番「高橋由伸」>

▲<素晴らしい天気でした(23℃位で暑かった!原監督の様な日でした)。プロ野球観戦が、那覇市内で出来るようになった運の良さに感動した。>



▲<球場の外では、CS放送の同時中継が行われていた。解説者は、長島一茂?>
小笠原が、2回?走者とクロスプレーになり、負傷でベンチに下がったところで、球場を出た。
試合は、オリックスが、李承のホームランでリードするも、巨人が追いついて3-3の引き分けだったと翌日新聞で知った。

「じゅり馬」

2011年02月24日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

今年の「じゅり馬」は、2月22日でした。
毎年、旧二十日正月(はちか・そーがち)に行われる「那覇市三大祭り」のひとつです。

午後2時過ぎに、奥武山公園の「沖縄セルラースタジアム那覇」から、タクシーで辻町に入った。
しばらくすると、近くのお寺に参拝した一行が、ドラを鳴らしながら帰って来た。
その後も、辻界隈の「祠」を3カ所お参りをした後、最後に開祖の墓にお参りをする。



「じゅり」は、350年前、琉球王朝時代、王女や王女の側女、三司官の娘たちの「薩摩や中国の貿易商人の接待役」が開祖と言われていますが、その後、貧しさの中で親兄弟の犠牲になって、辻に売られてきた女性が増えて行きました。



「じゅり馬行列」が行われる旧二十日正月には、肉親を恋うる哀歓が秘められています。「じゅり」にとっては、見物人の中に紛れた日頃会えない肉親が、密かに顔を会わせられる日なのです。

▲<現在、辻町には「じゅり」は存在しません。ご覧の通りの紅型の衣装に身をまとった踊り子(辻の料亭で踊る琉球舞踊免許保持者)が、腰に馬の人形を付け、手に鈴を持ち「ゆいゆい」の掛け声で踊る様は、美しくきらびやかです。この踊りを私は、沖縄の「サンバ」だと思っています。>

戦前は、「那覇市三大祭り」の一つとして、栄えた「じゅり馬行列」は、近年、色んな問題を発生させて、一般の人達がたくさん観る事が出来ないお祭りになりつつあります。とても残念です今年も、見学者は数百人程度でした・・・。
私にとっては、4年前に沖縄に移住した時、沖縄で観た祭の中で、一番感激した祭りでした。
以降、毎年観賞しているほどです。これからも、反対の人達が難しい事は言わないで「じゅり馬」を続けさせて欲しい伝統行事と思っています。
※「旧二十日正月実行委員会」:財団法人辻新思会(098-863-1212)

「東京出張」その③

2011年02月23日 00時05分00秒 | 生き方・人生観

▲<東京最後の19日に、両国の「亀戸餃子」4号店に行った帰り「浅草橋」の岸壁から、建築中のスカイツリーを記念撮影>

2月16日~19日まで、3年振りに東京へ行って来ました。
2月18日の夜は、私が関連会社の関西支社長時代(1998~2004年の6年間)の東京在住メンバーとの飲み会。

▲<今回も、話し過ぎて飲み会風景撮影をし忘れた・・・。昼に飲んだ「銀座風月堂」の850円のコーヒー>

こちらは、東京で頑張っている現役を中心に、OBを含めて、20名少しが集まり、東京駅八重洲口にある親会社41階の社員食堂を会場にして飲み会を行った。
食堂とは名ばかりで、「東京天空レストラン」の眺望に驚いた!(東京タワーが眼下に観えた)。

▲<午後の空いた時間に寄った、「銀座三越東館」12階、沖縄料理の「御茶屋御殿(ウチャヤウドン)」琉球民謡が流れていた>

私が支社長当時(6~12年前)に入社した人達が、すべて管理職になっていたのには嬉しかった。
メンバー指導やマーケットに対して真剣に取り組んで、活躍している様子は、頼もしく大変嬉しい時を過ごさせて頂いた。

▲<同じく、「銀座三越東館」12階、沖縄の「鉄板焼きステーキレストラン碧(ヘキ)」外国人のグループがランチをしていた>

会社のお金で採用させて頂き、会社のお金で楽しい思いをさせて頂き、またこのようにみんなそれぞれ違った部署や社外で働く状況。

▲<「銀座三越東館」12階のレストラン階から眺めた銀座の風景>

私が、沖縄に移住した後も会いに来てくれる人や東京に出てきたら集まってくれる事は、Mgr冥利に尽きます。毎月では、嫌われるだろうが、3年に一度くらいなら、許してくれるだろう。

「東京出張」その②

2011年02月22日 00時05分00秒 | 生き方・人生観

▲<「新橋鳥新」の店構えHPより>

2月16日~19日まで、3年振りに東京へ行って来ました。
2月17日の夜は、私が久し振りに東京に出て来たという事で、1970年入社の東京在住者同窓会を「新橋鳥新」の2階座敷で行いました。

1970年「大阪万博」が、開催された年に入社した我々は、丁度、今年が還暦で定年の年である。
約100人いた仲間は、数年前に、全員OBになっている。

今回参加メンバーは、すでに元の会社経験を活かして、すでに独立し事業を起こしている。

I君は、東京で30数年前に各種学校を創業し、今では学校法人の理事長兼校長。
O君は、数年前に関連会社の役員を早期退職して、東京近郊で自然農法の農業法人を起こし発展中。
後の3人は、私を含めて個人事業者だ。

初めは、I君の健康話で盛り上がり、後半は、O君が今後の人生をどう社会に貢献出来るかを語り、大いに盛り上がった。老いるにはまだまだ早い。下の世代からは、「団塊の逃げ切り世代」と思われているかも知れないが、我々は団塊世代とは、一味違う人生を送る世代だと自負している。

22時頃に、店を出て全員新橋駅で簡単に解散した。以前ならば、必ず2次会までは続いたがメンバーだったが・・・。私が、少し風邪気味で翌日も飲み会が入っていたので無理に2次会を要望しなかったが、みんな年を取ったという事なのか。
しかし、同期の飲み会は、上下関係が無いだけに、良く笑い屈託ない会話が続き、非常に楽しい時間を過ごした。


▲<話し込み過ぎて、同窓会の写真は一枚も撮影していなかった?!この写真は、宿泊ホテルへ帰る道で撮影した「赤坂の夜」>


▲<東京赤坂の寒空の下「Bra」の外で飲むお客達>

※明日は、関連会社の関西支社メンバーとの飲み会の話です。

「東京出張」その①

2011年02月21日 15時00分00秒 | 生き方・人生観

2月16日~19日まで、3年振りに東京へ行って来ました。
16日の夜は、元の会社の「関西部署OB会」に参加した。

それだけのテーマで、銀座6丁目の割烹「富貴洞」に、約22~23名集まった。
ほとんどが、東京在住。現役は、4名くらいでそれ以外は、OB。

20年振りに会う人もいましたが、だいたいが5~10年振り。
頭の毛が少なくなったり、白いモノが混じったり・・・時代を感じさせる人も数人いた。
私が、今年還暦になるのだから人の事は言えない。

私が30代前半の関西で企画課長の時、東京から関西へ連れて帰って来た新入社員達が、事業部長になっている事に、頼もしさと年月を感じた。
その昔、同じ部署で仕事をした「紅顔の美青年・美女」が、70~40代になり、その人達が当時にタイムトリップして、昔話を楽しく語る姿は、微笑ましくも不思議な光景だった。


※明日は、「1970年入社同期会」の話です。

「那覇市内の“レトロな飲み屋”巡り」

2011年02月18日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<「あんつく」の名物「あんつくの特性いため物」豚タンを使っている(ほとんど食べてから撮影をした)>

1月の下旬の寒い日、博多のTさんが沖縄に「寒緋桜」を観に来た。那覇に宿泊してくれたので、夜の食事を付き合った。

店の希望が、若者向きの店やチエーン店には行きたくないとの事だったので、一軒目は、牧志にある地元向きの古い店「あんつく」へ行く。
すいていると思ったら、私達と同時に、男性3人が入り、その後も3グループが入り、10数人も入り大変賑わった。今まで行った中で、一番多くお客が入っていた。

▲<300円からあり、一番高い料理で700円。すべて安くて美味い!>

▲<何気なく最後に頼んだが美味しかった!「うむくじちゃんぷるー」。芋の粉に「すちーかー(豚肉の塩漬け)」を入れ、卵で柔らかく炒めている>

▲<今日は、忙しかったでしょう。「あんつく」の料理を一人で作るお母さん>

二軒目は、桜坂にある「Barエロス」へ歩いて行く。
そこで、ママに以前一緒に来た人の噂をしていたら、突然、本人が同僚と3人で入って来た!(転勤で、しばらく沖縄を離れていたが、今日戻って来たとの事。奇跡のような話・・・)。

▲<「Barエロス」の店内(カウンターに座った)>

▲<70年代の選曲がバッグン!オーナーのゴンザレス・平良さん>

▲<店の前でママと記念撮影>

三軒目は、同じく桜坂にある知る人度知るお店「悦ちゃん」へ行き、沖縄の「おでん」で、仕上げる。

▲<今でも現役で活躍する「ジュークボックス」。奥の座敷では「扇風機」が活躍してた>

▲<おでん2品を泡盛で・・・。豚足おでんの骨が・・・>

▲<会員制のおでん屋「悦ちゃん」のドアを開けるにはコツがある>

桃原正男氏の思い出

2011年02月16日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<在りし日の、我が尊敬する桃原正男さん>

2月6日の琉球新報の社会面のに小さな死亡記事が出ていた。2月3日、「琉球ガラス発展に尽力した、桃原正男氏が胆管がんのため宜野湾市の病院で死去、享年70歳。1983年琉球ガラス工芸協同組合の初代理事長に就任。那覇市伝統工芸事業協同組合連合会会長などを務め、2001年には、「現代の名工」にも選ばれた。」

1956年、アメリカ軍が沖縄統治時代に、「奥原硝子製造所」に見習工として入り、現場から叩き上げの琉球ガラス職人だった。そして、今日の琉球ガラス職人(作家)の道を先頭に立って継承してきた人です。

私が初めて、沖縄に来た1974年の夏。まだ、奥原硝子製造所が与儀の住宅街の中にあった。
コーラー瓶の廃材で創る琉球ガラスに惚れ込み、工場の片隅や庭に無造作に置かれていた作品を工場にあった段ボールを頂き、一つひとつ値段を確認し、自分の手で新聞にくるみ、自分で詰め込み、確か4箱を自宅に送った記憶がある。その後、沖縄に来るたび、工場を訪れては、数箱単位で購入した。

ある時、訪問したら工場が忽然と無くなっており、潰れた!と驚いて近所の方に聞いたら、新しく出来た那覇市伝統工芸館(現在の赤嶺駅付近)に移転した事を聞き新しい工房を訪ねた。
最近では、国際通り三越前の「テンプス館」の3階の工芸フロアに移り、時々、指導しながら制作をしているのを眺め、休憩するのを見計らっては昔話をしたりして、少しずつ近づきつつあった。

▲<テンプス3階のガラス工房で、琉球吹きガラスを制作する桃原さん>※2点の写真は、「MOOK沖縄で過ごす一週間(ダイヤモンド・ビック社)2007年版」のインタビュー記事からお借りしました((+_+))。

最近は見かけないと思っていた矢先だった・・・。
まだまだ、現役で後輩たちの指導をして欲しかった。悲しい知らせです。ご冥福をお祈り申し上げます(合掌)。

「与儀一丁目スジーグァー(路地裏散歩)」後篇

2011年02月15日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<探していた「ヨリノ御嶽」[与儀集落の神様]が、ようやく見つかった!>

少し前の2月の晴れた日、あまりにも気候が良いので、ビジネスカバンに入れて持ち歩いていた、「与儀公園の周りお散歩マップ」を片手に、与儀一丁目のスージグワーを行った。
「土帝君」は見つからなかったが、「地頭火の神」「ウフガー」を見届けてから、「ヨリノ御嶽」を探す。

観光客は、まったく踏み入れない住宅街の中の美しい路地を歩きながら、「ヨリノ御嶽」を目指して歩きまわるが、見当たらない。その近くに、「与儀八三会館」という建物があるようなので、今度はそれを探す。

日差しがきついので、汗が湧き出てくる。ハンカチで汗を拭きながら、鎮守の森を探すのだが、住宅街の中にそのようなものは見当たらない。

▲<住宅街をさまよっている時に見つけた可愛いシーサー>

近くの人に聞いたら、随分歩き過ぎていたようだ。
そうだ、こんな時こそ「スマートフォンのナビ機能」を使う事を思い付く。
早速、画面を見ると立っている位置から少し離れた地図上の隅に「与儀八三会館」の文字が見えたのでまずそこまで戻った。

そこは、美しい路地を歩いていた時に、チラット見えた道路から少し高台にあった児童公園のような場所だった。
この近くに、「ヨリノ御嶽」が、あるはずなので、「与儀八三会館」の敷地をひとまわりした。
上の道路から見ると、広くて綺麗な芝生の広場で、その端に「祠」がありそれが「ヨリノ御嶽」だった!








鎮守の森を勝手にイメージして探したのが私の思い違いで、住宅街の中に建物も併設して美しく保存されていたのだった。


▲<帰りに見つけた、美しい路地の塀に貼ってあった、お守り札の「フフーダー」>

与儀一丁目を探索して満足していたら、丁度ランチタイムになっていたので、与儀小学校向かい(樋川一丁目)に、前から気になっていたカレー店「カリータイム」があったので食事をした。



▲<「ムルギー・カレー」(インド風チキンカレー)のNo3「中辛」を頼んだ@700円>

「与儀一丁目スジーグァー(路地裏散歩)」前篇

2011年02月14日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<このイラストマップを片手に与儀一丁目地区をスジーグワーした>

2月上旬の良く晴れた日、久茂地で仕事を終えた後、ビジネスカバンに入れていた、「与儀公園のまわりお散歩マップ」(琉球新報挟み込み冊子「Lrquio2011.1.27」を片手に、スージグワーを決行した。

与儀一丁目とは、那覇署、県立看護大、与儀小に囲まれた一角で、有名な「与儀十字路&与儀公園」の南側に位置する。

▲<「トックリキワタの街路樹」の綺麗な花も散り、綿が入った果実が膨らみ始めている>

楚辺交差点の与儀小学校西側、「トックリキワタの並木通り」から入り、土地神の「土帝君(トウテイクン)」を探したが、すぐに、「津波古酒造」に着いてしまった(行き過ぎている)。

▲<那覇市内中心地の住宅街にある「津波古酒造」>

目的の「土帝君(トウテイクン)」[中国伝来の土地の守り神]が見当たらない!何度かその辺りを行き来して探すが、ついに見つけられず残念する(前途多難のスタート)。
気を取り直して「与儀小学校」の境界沿いの小路から住宅街に入り、「地頭火の神(ジトウヒヌカン)」を目指す。


▲<途中の駐車場の敷地内にあった。美しい「祠」>


▲<駐車場から斜め向かいの路地に「地頭火の神」が見えた>


その先の味わいのある階段を降りる。階段下の公道の脇にひっそりと「ウフガー」があった・・・。

▲<与儀一丁目の「産ガー(ウフガー)」>

太陽はサンサンと降り注ぎ、スーツを手に持って汗をかきながら住宅街を歩く。
公道を横切りさらに、住宅街に入ると、マップにも描いてあった細い美しい道に出た。




※「与儀一丁目スージーグワー」後篇に続く

「花と食のフェスティバル」花編

2011年02月10日 08時00分00秒 | 沖縄の生活

▲<武道館の入ったすぐのところに飾られている巨大な花のオブジェ>

2月5日・6日、那覇市奥武山公園で、「花と食のフェスティバル」が開催された。
花き品評会のコーナーは、地味だったので、「フラワーデザインコンテスト」のコーナーを中心に観た。
「いけばな&フラワーアレジメント」の知識がないので、どの作品が良いのかは分からないが、南国の花や葉を使った作品が多くあったような気がしました。



















「花と食のフェスティバル」野菜編

2011年02月09日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<主催「おきなわ花と食のフェスティバル推進本部」協賛「沖縄県農林水産物販販売促進協議会」、「沖縄県地産地消推進県民会議」のイベントです>

2月5日・6日、那覇市奥武山公園で、「花と食のフェスティバル」が開催された。
5日の午後、会場まで自宅から歩いて行った。晴天で、22度は超えていたのではないだろうか。
会場は、4つに分かれていたが、今回は、武道館の「野菜品評会」と「花き品評会」を行っている第4会場のみ見学。武道館の中には、沖縄県下の農産物が所狭しと、並べられていた。

▲<真ん中の黒い玉は、「パッションフルーツ」。右端は、「冬瓜」。>


▲<人参は、うるま市「津堅島」の特産品(他に糸満市)>


▲<ピーマンは、「八重瀬町具志頭地区」>


▲<菊は、国内最大の産地です。写真は、「食用菊」です。>


▲<これが、沖縄にしかない「島人参」産地不明。>


▲<ご存じ、「島ラッキョ」塩もみもいいし、天ぷらも美味しい。血液をがサラサラにする効用あり>


▲<これは、私が大好きなズル天の材料、「田芋(ターム)」。金武町や宜野湾が有名で、沖縄でも希少な食材です。>


▲<「スイカ」沖縄では、今帰仁が有名。>


▲<「たんかん」見た目は悪いが、中身は本当に甘い!1月~2月が旬。>


▲<「シークワサー」最近、糖尿病の予防効果があると報じられて一躍有名になり品不足。未熟果は酢ミカン、完熟はジュースになるが生産が少なく台湾品に比べて非常に高い。私は、台湾産混合品をトレーニング時のスポーツドリンクに使用。>

◎花編は、明日に続く。


「奥武山公園の寒緋桜も咲き始めました」沖縄から春の便りその③

2011年02月08日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<ここにはたくさんの「メジロ」がいたので、カメラに収まった>

沖縄は、立春を過ぎて毎日暖かい日が続いています(那覇市の5~7日は、22~21度です)。
2月5日の午後、「花と食のフェスティバル」を観に行ったら、奥武山公園の日当たりいい所の寒緋桜が開花していました。













「公民館まつり」

2011年02月07日 00時05分00秒 | 沖縄の生活


2月6日、朝から「小禄南公民館まつり」に参加して来ました。
今年で、もう4回目の参加になります。私が、習っている「三線サークル(水曜ロハス他)」の出番は、今まで2回あったのだが、今年は先生が唄を歌い過ぎてのどを痛めたので、出演が一回になった。

▲<いざ出陣!舞台に上がる直前の記念写真>

演目は、「渡りぞう、滝落とし」と「童神(わらびがみ)」の2曲。


今年の選曲は、延べ4年弾いている、「渡りぞう、滝落とし」と、好きな古謝美佐子の「童神(わらびがみ)」なので、私的には弾きやすい選曲だったので、落ちこぼれ生の私でも、今年は余裕で発表会の日を迎えられた。
でも、「童神」の歌詞が、「くちな口(沖縄の方言)」なので、ちゃんと唄えなかった。

▲<先生が、「うちのサークルには、大和の人が多くいますよ」と、面白く話をしたので皆で笑っている>


▲<午前の司会は、小学生のコンビで、淡々と普段の話言葉で進行していて好感が持てた>

これで、2月の大きな行事が一つ終わった。

「近所の寒緋桜が咲きました」その②

2011年02月06日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<手前に「ブーゲンビレア」が咲いている(ブーゲンビレアは沖縄では、ほぼ年中咲いている)>

2月5日、自宅のあるマンションのアプローチから見える隣家の「寒緋桜」が満開になった!


ここ数日、沖縄も小雨が降る寒い日が続いていましたが、2月5日は久し振りに晴天になった。


朝から太陽の日差しがあり、暖かくなった。すると隣家の庭の寒緋桜の蕾が一斉に開花した!
すぐに、どこからかメジロが数匹飛んで来て、嬉しそうに花の蜜を吸っていた。