ポークランチョンミートは沖縄名産品?

2006年06月30日 00時30分26秒 | 沖縄グルメ
最近は、内地でも買えるようになったポークランチョンミートは、
ゴーヤチャンプルには欠かせない材料だ。
これを入れると、誰が作っても完全に沖縄ゴーヤチャンプルになる。
沖縄では、ポーク卵やポークカツなど、なんにでも使われている沖縄の万能食材だ。
自分用の沖縄土産に良く買うが重たい!
最初は、アメリカの缶詰と思っていたが、デンマーク産でした。
しかし、双葉社発行の沖縄ナンデモ調査隊「沖縄ナ・ン・ダ!?」を読むと、
「チューリップ社」や「ミットランド社」は、デンマーク産でありながら、
国内ではあまり知られていなくて、輸出用だけのものらしい。
そもそもは、第2次世界大戦で米軍の野戦食だったのが、沖縄に残ったようだ。
いまでは、沖縄の生活に溶け込み沖縄料理特有の食材として、
生き残った沖縄の名産品といえる。
中年には、カロリーが気になる食材だが、ゴーヤと一緒なら許されるような気がする、
妙な食べ物だ。


モズクといえば、沖縄産。

2006年06月29日 08時10分26秒 | 沖縄グルメ
沖縄には、たくさんの健康食材がある。
モズクは、すっぱくて好きにはなれなかった(最初食べたのは、モズク酢だったのだ)。
健康に良い食べ物である事は知っていたが、最近まで好んで食べなかった。
沖縄の生産量が、日本の99%を占める事も、ずいぶん後で知った。

しかし、いつの間にかモズク酢も食べられるようになった。
中でも、モズクのてんぷらは、大好物だ。
沖縄料理店に行っては、「モズクのてんぷら」をメニューから探してしまうくらいいだ。
まだ、食べていない人は是非食べてみて下さい。
触感がなんともいえない。

☆写真は、モズクのてんぷらです。美味しそうではありませんか?
沖縄県農林水産部水産課からお借りしました。

豆腐ようは、酒飲みの必需品。

2006年06月28日 00時03分08秒 | 沖縄グルメ
最初、食べた時は発酵したチーズかファグラかと思った。
初めて食べた時から、美味しかった。
箸でつまんだら、店の人が爪楊枝で、少しずつ食るのだと教えてくれた。
私の性格からすると、イライラした事を覚えている。
今では、少しずつ食べられるようになった。(我慢が出来るようになった)
泡盛を飲みながら、「豆腐よう」で、ちびりちびり飲れるような年齢になったのだ。
若い者が、箸で食べたらしっかり食べ方を教えている私がいる。
「豆腐よう」は、少しずつ少しずつ、味わって食べて頂きたい。
時間のかかった食べ物なのだから・・・。

☆美味しそうな豆腐ようの写真は、有限会社マリンフーズさんからお借り致しました。

ドゥル天食べた?

2006年06月27日 08時31分43秒 | 沖縄グルメ
沖縄に行ったら必ず、一晩は安里の「うりずん」に行く。
そこで食べる(美味しいから、飲むより食べるになってしまう)なかでも、
必ずオーダーするのが「ゴーヤチャンプル」だ。
先日行って気に入った食べ物が、「ドゥル天」だ。
田芋(ターンム=里芋に似た沖縄の芋)に豚肉、かまぼこ、しいたけを混ぜて
練り合わせ、揚げた田芋のコロッケ。
「うりずん」のオリジナル。人気ナンバー1らしい。
外は、サクサク。中はもちもち感。
一度お試しあれ。



豆腐の中の豆腐!島豆腐。

2006年06月26日 08時16分57秒 | 沖縄グルメ
沖縄の豆腐はなぜ、崩れないのか不思議だった。
ゴーヤチャンプルの中にある豆腐が頑丈で美味しい。
最近知ったが、作り方が違うのである。
大豆を煮ないで呉汁とオカラを分ける「生絞り」製法。
内地は、一晩水につけた大豆を挽いて呉汁をつくり、
それを煮て漉す「煮とり」。
島豆腐は、濃厚で硬い
水分含有量も少なく、絹ごし豆腐が約82%に対して島豆腐は約75%。
豆腐の中の豆腐。豆腐の王様だ。
ヘルシーで健康に良い島豆腐をもっと食べよう!

30年ぶり?竹富みやげ星砂入り小瓶。

2006年06月25日 00時40分49秒 | 私の沖縄(回想編)
昨日、法事で実家に帰った。
実家の倉庫の棚に、小さなガラス瓶(高さ5cm)があった。
中を見たら、星砂が入っていた。
私が30年前に竹富島に始めて渡った時に買ったものだ。
しかし、あの時はカメラのフイルムケースに入れて、
数個持って帰ってきた記憶がある。
その後に、行った時のものか?
しかし、蓋のコルクの色が深い茶色になっている。
この古さはどうだろう?
少なくとも、20年前位のものには違いが無い。
早速、このブログに出演して頂いた訳です。

沖縄ガラスの魅力

2006年06月24日 23時09分32秒 | 私の沖縄(回想編)
30年前に沖縄へ初めて渡った。
その時、那覇の公設市場を通り抜けて、
与儀の住宅街に中にあった奥原硝子製作所へ寄った。
コーラやペプシのビンを砕いて、美しいガラス器を創っていた。
ガジュマルの大きな木がある庭に転がっているガラス器を自分で、
古新聞で包み、ダンボールをもらって梱包して、4~5箱を自宅に郵送した。
釜の近くにも寄れたし、創っている人とも、いくらでも話せた。
何時間いても飽きなかった。
失敗作を探して買うことも、楽しみだった。
そんな沖縄硝子器がたくさん増えた。
ある年に行ったら、台風で屋根が抜けて、工場が壊れていた。
それからは、工場が無くなった。
それ以来、無いと分かっていても
与儀の工場跡地に寄ってしまう。

最近、雑誌で「那覇市伝統工芸館」に引っ越したように書いてあった。
今度、寄ってみようと思っている。

☆写真は、当時買った牛乳瓶に似た水差し。

ゴーヤは、にがくてまずかった。

2006年06月23日 03時11分48秒 | 沖縄グルメ
ゴーヤを食べたのは、いつの頃だろう?
30年前に行った、初めての沖縄旅行だったはず。
沖縄の食べ物といえば、ゴーヤと豆腐ようを思い浮かべる。
どちらも、最初は食べられなかった。
しかし、今では沖縄の食べ物で好きなものベスト1・2だ。
とくに、ゴーヤは苦くて「こりゃなんじゃ?!」の、食べ物だった。
沖縄の人は、どんな味覚をしてるのか?と、思うような食材だった。
当分、食べられなかった。
それがいつの頃からか、本土の八百屋でも売られ、
中の種と身の接点をきれいに取って、湯を通すと苦くなくなる事を
知ってから食べれるようになった。
最近のゴーヤは、沖縄の人も苦くない物を好むとかで
そのような品種が増えているらしい。
今では、ゴーヤチャンプルは、私の得意料理のひとつになった。




永島慎二さんのご遺族家族からプレゼントがきた!

2006年06月22日 06時52分00秒 | その他
永島慎二という漫画家がいた。その3.
6月8日に、阿佐ヶ谷の喫茶店COBU(コブ)で行われた、
永島慎二一周忌展で、偶然にも直筆の絵を買った。

奥様と娘さんが偶然いらっしゃって、遺品の絵筆を頂いた。
その時に、購入者備忘録に名前と住所を書かせて頂いた。

3日前に、奥様から手紙が来た。
開けてみると、永島氏の絵葉書が一枚入っていた。
裏面には、お礼が書かれていた。
恐縮して、丁寧でありがたいなぁ・・・と、思って台紙のようなものを見たら、
なんと、永島氏の銅版画が入っていた!!
「ピエロ・ナガシマ」のサインがあり、
サインの横には7/7と書いてあった。(7枚しか刷っていない作品だ)
嬉しーい!!
奥様ありがとうございます!!
家宝に致します。(合掌)

☆写真は、頂いた銅版画です。

沖縄に住まいを移す その10.「就職活動編」

2006年06月21日 00時14分12秒 | 沖縄移住計画
2年前の11月に、模擬移住計画&就職活動で沖縄に渡った。その会社は恩納村にあった。面接で会った社長は、小さな会社だが将来の計画をたくさん持っていて、地元を中心に活動を広げようとする経営姿勢に共感を持った。
断られると思っていたが、来月からでも来て欲しいと言われ、戸惑う私であった。

在職中であった私は、どれだけ早くても入社は、半年後になる事を伝えた。
その時、私はまだ営業責任者にお会いしていない事に気づき、不在の営業部長に、お会い出来るように依頼して、出直す事を伝えた。
数時間後にお会いした営業部長は、さすが営業責任者だけに、ストレートな方だった。
まず、私に、本当にやる気があるのかを疑った。やる気さえあればオール歩合でやれば良いと言い、社員にする気が無いのが、見え見えだった(不動産営業経験が無い私を判断すると、当然といえば当然の話だ)。
実際に販売している現場を数ヵ所車に乗って案内してくれた。(これは、どんな商品か理解出来て良かった。)
その時に「本土の客にどれだけ高く売れるかが商売のコツだ」と、本音が出た。
この営業部長と会って、この会社の印象がまったく違ってきた。(私には、この営業方針は、絶対に従えない!)
社長の言う事は、信用するにしても、直接一緒に仕事をする上司にあたる営業部長の考え方が、私の生き方と異なるのでは、この営業部長とは、すぐ衝突するだろう。営業方針で反発するくらいなら最初から、この会社には、近づかない方が良いと思った。
社長には、即答を避け会社を後にした。
帰って、面接をして頂いたお礼と、即入社が出来ない事をお伝えしてお断りした。
私の転職活動は、この事でいったん休止した。(終了)

那覇市内でも、給与の相場を聞いたが、最初は契約社員かアルバイトからが普通。即正社員は少ないようだ。給与も、沖縄の地元企業だと年齢は関係なしで、15~16万円くらいが相場らしい。本土のキャリアともらっていた給与額を忘れないと話が進まない事を理解しておきたい。
またの機会に、沖縄の就職事情について書く予定です。

沖縄に住まいを移す その9.「就職活動編」

2006年06月20日 00時50分26秒 | 沖縄移住計画
2年前の11月に、模擬住まい探し&就職探しで沖縄に渡った。ルート58号を南下して、目的の恩納村にある会社の面接に臨んだ。

社長から、会社の現状や経営観を聞せて頂いた。今は小さな会社だが、たくさんのプランをお持ちな社長だった。それを実現させるために、人材を広く求めていた。
今いる従業員をとても大切にし、地元を中心に頑張っている様子に好感が持てた。
売り上げは、4~5億円だとお聞きした思う。
面接のポイントは、「社長の考え方に合う人物か?」だったと思う。
五つくらいの質問に対する私の考えと、好きな言葉を聞かれた。
小一時間位話をしただろうか。この社長とならやれそうな気がした。
給与提示は、基本給16万円だった。
驚いたが、地元相場の初任給範囲だと思った。
住まいは、近くの自社管理物件から月5万円以内で探して上げると言われた。
最後に来月からでも来て下さいと言われた。
採用になった。
断られる覚悟もしていただけに、話は、トントン拍子に進みすぎて、面食らってしまった。
さあどうする?(続く)
☆写真は、名護西海岸(イメージです)。

沖縄に住まいを移す その8.「就職活動編」

2006年06月19日 00時02分01秒 | 沖縄移住計画
2年前の11月に、模擬住まい探し&就職活動で沖縄に渡った。
近い将来に移住するためのリサーチだ。
住みたい希望地は、名護市~恩納村。
仕事もしなければならない。住む場所が先か?就職が先か?
履歴書も書いた。キャリアシート(職歴書)も履歴書とは別に2枚書いた。
顔写真も写真店で撮ったものを貼った。
志望動機は、沖縄で遊びたいのではなく、まじめに仕事をしたい事を強調した。
履歴書が、届いた頃をはかって確認の電話をした。
幸運にも、2社に送った内の1社が履歴書を見て、会いましょうと言ってくれた。

当日は、約束した時間の20分前に着いた。
社長さんが、電話中だったので待たせて頂いた。
事務の方は、今日の約束をご存知で、コーヒーを出してくれた。
小さなオフイスだったので、待っている間に、会社の雰囲気がつかめた。
アットホームな会社らしい。
社長の電話が終わり、面接に入った。(続く)
☆写真は、名護の夕陽イメージ)。

沖縄に住まいを移す その7.「就職活動編」

2006年06月18日 01時00分50秒 | 沖縄移住計画
沖縄で、移住候補地を探しながら、ルート58号線を南下する。
実は、恩納村には大切な用事があった。就職の面接をしに来たのだった。
恩納村に入った所に、サイデイング張りのペンションが海側に見えたので、通り過ぎてからUターン。ホテル名は、B&Bロックウッド。

しかし、飛び込むが誰も居ない。
一階のフロント兼レストランも閉まっている。
看板にあった電話番号に電話を掛けると繋がり、二階の住居兼事務所から奥さんが降りて来てくれた。
ルームキーを頂き宿泊のOKは出たが、夕食は間に合わなかったので、朝食つき5800円(くらい)だった。宿泊者は、ここも私一人。
二階の一部屋に通された。8畳二間(二部屋)ロフト付。
風呂は、室外の2階の端にある2つのシャワールームを共有使用。
オーナーが、ニュージランド住宅を気に入り、沖縄に普及させたくて建てたらしい。
宿泊ルームは、6~8部屋位あっただろうか?
素晴らしく天井が高い。ロフトは、3畳位あった。
窓の外は、少しの庭とその先は浜。沖には、無人島が見えた。
干潮だったこともあり、波の音すらしない静かな夜だ。
二日連続で、憧れの海際の宿に泊まれた。

泊まったからこそ考えた。
海のそばは、台風の時に泊まらないと本当に住む予行練習にはならない。
沖縄は、やっぱり台風を経験しないと、住まいは語れないと悟った。

明日は朝から、就職の面接だ。ワクワクしながら眠りに付いた。(続く)

☆写真は、名護海岸(イメージ)です。

沖縄に住まいを移す その6.「就職活動編」

2006年06月17日 08時51分14秒 | 沖縄移住計画
2年前の11月。本部から恩納村へ、将来の移住先を探してルート58号線を南下する。名護と恩納村の間にあったホテルで一泊し、恩納村へ向かう。

恩納村へは、就職先を探す目的地があった。
沖縄に移住するにも、当時も今もそうだが、私は、リタイヤする年齢ではない。
移住する事は、職を探す事でもある。
沖縄で、本土の人間が職を探すには、地元に知り合いがいてそこで働ける人以外は、土産物屋か飲食関係。リゾート地なら、ホテル関係か不動産会社ぐらいだろう。
ホテルでは、カヌチャベイホテル&ヴィラズの従業員の求人が出ていたが、パスした。
残るは、不動産会社。北部の不動産会社を探すが、気に入ったホームページを作成している会社は、3社位しかなかった。
まだ、ホームページが珍しい頃だったからこそ、進んでいる会社を探せる思った。
写真も無い会社や仲間で同じ造りにしている会社もあった。
第一候補に、履歴書を送り、付いた頃に社長に電話をして、売り込んだが、身内でやっているので、新しい採用はしないと丁重に断られた。
第二候補は、同じく、履歴書を送り、付いた頃に電話をしたら、来られるなら、お会いしましょうと言ってくれた。
その会社が、恩納村にあるのだ。

まず、どんな会社なのか、どんな経営者か、自分の目で確かめる事が大切だ。
規模や給与ではない。一緒に仕事をする人が大切だと思っている。
沖縄の就職事情は、日本最悪なので覚悟はしている。
新しい職と、新しい人生への、二つのドキドキが交差していた。(続く)
☆写真は、ルート58号線。右手は海、美しい風景が続く。
(当日は、雨でこんなに美しくはなかった。)

沖縄に住まいを移す その5.

2006年06月16日 08時24分35秒 | 沖縄移住計画
2年前の11月。沖縄移住の事前調査で本部から恩納村へ、ルート58号線を南下する。昼から降った雨は止まない。リゾート地のシーズンオフは、観光客がいなく閑散とて寂しい。夕暮れが迫ってくる。宿はまだ決まらない。海沿いの小さなペンションか民宿を探すが、それらしきものが見つからない・・・。
そうしていると、恩納村にはいる手前の海側にレストラン&ホテルの文字が目に飛び込んできた。
レストランが営業しているからホテルも営業している?と、期待して飛び込んだ。朝食付きでOKが出た。
レストランの奥が、宿泊棟になっていて平屋の部屋が海に向かって6部屋くらいある。
すべてオーシャンビュー。2m幅くらいのデッキが付いている。デッキの下はビーチ。波打ち際は数10メートル先だが、台風の時は完全に海水をかぶるだろうと思われる低いデッキだ。
デッキは、奥の部屋に行く人の廊下にもなっている。
部屋は、バス・トイレ付のワンルーム。窓が海に向かって天井まで大きく開いているので開放感が一杯。しかし、宿泊客がデッキを通るので、カーテンは開けられないが、船の客室にいるような感じで、充分にリゾート感が満喫できる設計だ。オフだから泊まれたのだろう、満足だ。
宿泊客は、私一人のようだ。一人でデッキに出て、手すりに足をかけ、本降りになった雨の中、暮れなずむ浜辺を眺めながら、ビールを飲んで時間をゆったり過ごした。「沖縄で、こんな生活がしたいのだ!」。(続く)

※ここまで読んでくださった方へ。ホテル名の紹介がない事をお気づきになったと思います。残念ながら、その時の事を記録した手帳が出てこなくて、レポート出来ない事をお許し下さい。お読みになった方で、お解りになる方がいらっしゃったら教えて下さい。
☆写真は、現地ではありません。名護屋我地海岸(イメージです)。