「第18回喜業会」

2011年11月28日 16時30分00秒 | 沖縄の生活

▲<11月24日国際通り「みみリフレ」会議室で行われた【喜業会】>

平成23年11月24日(木) 19:00~21:00で、「第18回喜業会」を開催した。
定例のメンバー近況報告を終え(今回、いみじくもメンバー二人から事業閉鎖の報告を聞く)、本日のゲストスピーカー「矢島宗昌」さんの講話に移る。

「矢島宗昌」さんは、1967年神奈川生まれ(44歳)。投資情報専門商社「株式会社BARIKI総研」代表取締役。今年5月沖縄に移住し、『介護施設職員育成スクール』を開校。11月より、沖縄新規事業第2弾として、『琉球VIPサービス11(オンセ)』を活動中。





今まで、飲食店コンサルタントや、マリン事業(クルーザーサービス事業)、メディカル事業(リラクゼーションサロンの展開)、ニュージーランド&シンガポールを中心とした資産運用&管理、相続サービスを展開中。「商品先物取引」「FX」などの金融投資話は、まったくついて行けなかったが。



彼が19歳の時、クーデーターが起きた厳戒令下のペルーに渡り、そこで実際に生活し、ビジネスを始めて大金を手にするまでの破天荒な人生を聞いて参加者全員が興奮した。当時の話を、後年、多少脚色は入ったが「ジャパンボーイ」という漫画になったそうだ。
名前が矢島だけに「サラリーマン金太郎」をイメージさせるストーリーでした。

いつもの通り、21時から会場から徒歩3分にある居酒屋「舞天」に場所を移しお酒を入れて「2012年望年会」を行った。









※「喜業会」は、那覇商工会議所起業塾OB会で、2007年10月~3カ月に一度開催されている起業家交流会です。

「マネーボール」を観る。

2011年11月25日 09時00分00秒 | 沖縄の生活


11月18日の夕方、ブラッド・ピット主演の「マネーボール」を観た。

大リーグの弱小球団「アスレチックス」を勝てる球団にした、GM(ゼネラルマネージャー)ビリー・ビーンの半生を描いたベストセラー本(日本での出版は2004年)の映画化。

GMのビリー・ビーンが、貧乏球団ゆえに、活躍した選手は高給で他球団に引き抜かれ、新しい選手獲得に大きな金が使えないで、いい選手が取れなくて悩んでいた。他球団に低額で選手を獲得しに行った時、選手獲得は不成立に終わるが、その時、相手球団のスタッフで、野球の素人で数字おたくの「ピーター」を見つけ、選手は取れなかったがピーターを獲得する。


▲<他球団から引き抜いてきた「ピーター」を従えて、球団の改革に臨む>

その後、球団の立て直し策では、スカウトの考え方を無視し、打点や本塁打ではなく、出塁率や低コストの選手を集める等の戦略(のちに「マネーボール理論」と呼ばれる)を開始する。



当然、監督やスカウトから大反発される。「マネーボール理論」は、直ぐに効果は出ず、マスコミをはじめ社内外から批判・反発にさらされる。本人は、周囲に対して強気で持論を貫き通すが、効果が出るまで内面的には、不安や葛藤、時には弱気になるなど孤立感を深め悩む日々が続く・・・。



夏場を超えた頃、メジャーリーグ史上類の無い「公式戦20連勝」を達成し、リーグ優勝戦を行えるまでになり、理論が正しかった事を実証する。

理論実証の成果は、彼自身が、レッドソックスから史上最高額のGM移籍料を提示される。その時、彼の下した判断は?



日本でもGMの去就がマスコミを騒がしているが、野球界のGMの立場をこの映画からうかがい知る。野球業界だけでなく、一般のビジネスマンやリーダーにも胸にジーンとくる作品になっている。

ご近所の「花めぐり」

2011年11月23日 14時30分00秒 | 沖縄の生活

▲<「ベニガククサギ」長く飛び出した雄しべと雌しべが特徴的>

11月22日、朝から日差しが心地良かったので、歩いてスポーツセンターに行く。
24-19度だが、歩くと少し汗ばむくらい。
スポーツセンターまでは、徒歩25分位の距離だが、写真を撮りながら行ったので40分くらいかかった。


▲<「ゲンペイクサギ」花冠の鮮紅色と、がく片の白色のコントラストが美しい(名前由来は、源氏の白旗と平家の赤旗を見立た)>


▲<「サンダンカ(スーパーキング)」(年中咲く)>


▲<「サンダンカ(スーパーキング)」の蕾>


▲<「ジャスミン」>


▲<「キントラノオ」>


▲<「プルメリア」?>


▲<「ニチニチソウ(日々草)」街路樹の下やブロック塀の下によくある>

毎回、ストレッチとトレーニングで2時間、風呂とサウナで1時間、計3時間を使う。

帰りは違うコースを通り、撮影をしながら帰った。


▲<「オオハマボウ」>


▲<「ハイビスカス」年中咲く>

「金城盛弘紅型展」を観る

2011年11月22日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<個展の入り口に置かれていた「紅型作品の一部を撮影した写真」。那覇空港下にある珊瑚礁に囲まれた無人島の「海の蒼」を表現したとの事>

11月18日、午後「沖縄県立美術館」の県民ギャラリーで行われていた「金城盛弘紅型個展“ウルの島”」を覗いた。

県民ギャラリーの二部屋を使い、一つ目の部屋は、作家生活30年以上の集大成「伝統的紅型」の作品を展示していた。

二つ目の部屋は、実験作品を展示「現代デザイン紅型」作品や色を少しずつ変えた「藍染め着物」が10着並んでいた(美しいグラーションだった)。

一つひとつの色違いが面白く詳しく確認していた時、その作品を撮影している人と目が合って、話をしたら金城盛弘氏本人だった。

その後、家人を入れて「沖縄の紅型の現状」や、「藍染」の“琉球染め”や”徳島の藍染め”さらに“化学染料”の違いについて教えて頂いた。


▲<許可を得て、金城盛弘氏と同じように、廊下側から展示作品を撮影させて頂いた>

金城盛弘氏は、新しい技法や表現方法に挑戦しているチャレンジャーだった。

最後に、名刺を頂いたら「工房」が、我が家の近くだったので、より親しみが湧いた。

「漆展~アジアが育んだ宝もの~」を観た。

2011年11月21日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<朱漆花鳥沈金膳(琉球王朝時代)>

ジュデ・オング木版画展を観た後、同じフロアの常設展会場で、「漆展~アジアが育んだ宝物」が行われていたので入った(平成23年9月9日~平成24年1月22日)。

漆を利用する文化は、古くからアジアにはあった(日本では縄文後期。アジアには、漆の種類は3種あるらしい)。
漆の光沢や質感、見た目の美しさや使い心地の良さは、いつの時代も人の心を引きつけてきた。また地域の風土・文化を反映した特色ある漆芸品がアジア各地で作られた。
今回の常設展では、「琉球」をはじめ「アジア各地」で作られた、多様な漆芸品を製作地ごとに紹介していた。


▲<黒漆春秋草蒔絵徳利(日本)>


▲<朱漆人物花文堆起漆供物器(ミャンマー)>


▲<屈輪筆(中国)>


▲<黒漆米水陸編成隊漆絵箔絵壁掛(沖縄米国統治下時代)>

私も、1970年代。沖縄に度々旅行で来ていた時、土産物は「沖縄ガラス」ばかり購入していたが、ある時「沖縄漆器」の【茶卓5点セット】を購入した事があった(朱色で黒縁のモノで、今頃は、あまり店に出ていない品物です)。
沖縄漆器は、土産物では、ハイビスカス花文様の「堆錦」技法が良く見られるが、高級美術品では、「螺鈿」「箔絵」「沈金」がある。

「琉球漆器」は、交易が盛んであった14~15世紀頃、琉球王国の貴重な貿易品でした。
沖縄で漆器が発達したのには、沖縄の湿度が製造工程に丁度いいらしい(現代は、原料の漆は県内で採れない)。

「ジュディ・オング木版画展」を観に行く

2011年11月20日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<「祇園白川」2004年作>

11月18日の朝から、「ジュディ・オング倩玉(せいぎょく)木版画の世界展 日本・沖縄・故郷台湾を描く」を観に行った。
ジュディ・オングさんは、25歳から木版画を本格的に学び、1983年に初めて日展に入賞し、2005年の第37回日展で、特選を受賞。現在までに12回入選する、本格的な木版画作家です。


▲<「琉球朱夏」1996年作>


▲<「台南古邸」2001年作>


▲<「蓮池石渡」2009年作>

今回の展覧会では、日展特選作品の「紅楼依緑」や、夏の沖縄を題材にした「琉球朱夏」他、初期の白黒作品から色版画、日展入選作品など、処女作~最新作品まで約70点を出展。



「日本家屋」や「神社仏閣」など、力強い線と光を上手く使った作風で、100号を超える作品は、観る者をくぎ付けにするくらいの迫力があった。女優・歌手以外の「ジュディ・オング倩玉」という本格的な木版画作家だった事を初めて知って驚いた。


▲<館内の風景は、撮影出来ないので「琉球新報」の新聞広告から転載させて頂いた>

木版画は、気の遠くなるような工程を経て創られるが、日展入選した「鳳凰迎祥」(宇治の平等院)の製作工程を本人出演の制作風景ビデオで観るコーナーもあった。


▲<「浦添美術館」の正面入り口(私達の後に入場した、ご婦人二人が、入場者15,000人目のお祝いをされていた)>


▲<いつ見ても異様な「浦添美術館」の建物>

めずらしく、「文化的な今日」

2011年11月19日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<浦添美術館で開催中の「ジュディ・オング」さんの木版画展の作品(2008年日展入賞の【涼庭忘夏】>

11月18日、曇り時々小雨で風が強い。それでも、28-25度。さすがに短パンサンダルは止めたけど、半袖のかりゆしで丁度良い気候。

朝から、家人に誘われて、11時から家を出て、浦添美術館で行われている「ジュディ・オング木版画展」を観に行く(10月14日~11月20日)。

「ジュディ・オング木版画展」を堪能した後、常設展の「漆の世界展」を観てから、浦添美術館を後にしておもろまちへ向かう。

11月24日に行う「喜業会」のゲストスピーカーと、14時30分から「おもろまちのオフィス」で、打ち合わせがあった。

まだ、13時だったので、「けんぱーのすばやー」昼食をとる。いつもながら、あっさり系のスープが美味しい。

まだ、少し時間があったので、県立博物美術館で行われている「金城盛弘びんがた展」を覗きに行く。
素晴らしい「紅型」を観ていたら、ご本人がいらっしゃったので、少し話をさせて頂く(工房が自宅近くだったので親しみがわいた)。

「喜業会」のゲストスピーカーをお願いした㈱BARIKI総研代表取締役の矢島さんと、オフィスで打ち合わせをする。まだ40代だが、面白い人生を歩んでいるので24日の話が楽しみ。

終わった時間が、15:20だったので、シネQで上映中の「マネーボール」を観る。
映画を観て、家に着いたのが18時30分だった。

今日は、大変充実した日を過ごせた事に感謝(それぞれの観賞の話は、次回に続く)。


「人財パワー望年会」inロワジールホテル&スパタワー那覇

2011年11月18日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<参加者(派遣登録者)は、男性も少し混じっているが圧倒的に女性が多い>

11月12日、ロワジールホテル&スパタワー那覇で行われた、地元老舗人材派遣企業「人財パワー」さんの『望年会』に、ご招待を頂いたので、今年最初の忘年会をしてきました。

人財パワー派遣登録者の日頃の働きに対して、年に数回、慰労と感謝の場を設ける派遣企業は稀少だ。
すべて、同社スタッフによる手作り企画で、毎回凝った内容に感心させられる。


▲<恒例のスタッフによる「他己紹介」>


▲<地元ボーカリストによる歌を参加者が一緒に歌う>




▲<今年のスタッフによるコントは、「ストッキング」を被ったお笑いゲーム?だった>

メインイベントは、参加社全員による、8テーブル対抗「万歩計カウント合戦」(色んな箇所に装着した万歩計のカウント数競争)で、会場の盛り上がりは最高潮へ。


▲<各テーブル代表による「万歩計カウント数」が、時々ボードに時々表示され、順位が入れ替わり最後まで、ハラハラドキドキする>


▲<「望年会」の総合プロデューサーの同社取締役部長浦部さんの締めの挨拶で終了>

あっという間の2時間を過ごし、大いに笑い、大いに会話を楽しんで、2001年も暮れて行く・・・。
来年も素晴らしい年にと、スタッフ皆さんに『望年』の挨拶をして会場を後にした(スタッフ皆さん、お疲れさまでした!)。

「忠孝酒造秋祭り」後編

2011年11月16日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<「くぅーすの杜・忠孝蔵秋祭り」に出演していた『親父バンド』>

豊見城市名嘉地にある「忠孝酒造」で、11月12日・13日の2日間で「くぅーすの杜忠孝蔵秋祭り」があった。

「ふるまい酒」を頂きながら楽しく参加させて頂いた。

大きなテントの前面には、忠孝酒造の大型トラックを舞台にして、「親父バンド」の演奏セットが用意されていた。



その辺で飲んでいたおやじが、サングラスをかけて舞台に上がったので、素人のバンドと思って油断していたら、往年の「ベンチャーズ」をかっこ良く弾き始めたので驚いた!本格的な、ベンチャーズが聞けると思っていなかったので感動した。





いったん演奏を終えて、休憩をはさみメンバーを少し入れ変えて、今度は、1970年代のホークソング(いちご白書~吉田拓郎など)を、歌い始めたので再び聞き入る。





「きき酒正解者発表」と「大抽選会」まで、ギリギリ演奏をしてくれたのでおおいに楽しんだ。

「きき酒」と「大抽選会」はどちらも当たらなかったが、【ふるまい酒】と【親父バンド】にすっかり酔ってしまい満足して歩いて帰りました。


▲<舞台が終わってから、私の席に挨拶に来てくれた「親父バンド」リードギター&ボーカルの「吉田さん」と乾杯!>

※「親父バンド」は、糸満市潮平にある『風は南から』に、出演しているらしい。近い内に観に行く事を約束した。

「忠孝酒造秋祭り」前編

2011年11月15日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<会場2カ所で行われていた「ふるまい酒」のコーナー。>

豊見城市名嘉地にある「忠孝酒造」で、11月12日・13日の2日間、「くぅーすの杜・忠孝蔵秋祭り」があった。
私は、土曜「人間ドック」の帰りに立ち寄る予定であったが、「胃カメラ」の失敗がショックで、家に帰ってしまった。
改めて、翌日の日曜日の2時頃に、家から歩いて20分の所にある忠孝酒造のイベント会場に行った。「くぅーすの杜・忠孝蔵」の空き地には、200名くらい収容のテントが張られていて、すでにたくさんの参加者がいた。


▲<地元、「宜保青年会」のエイサーの演舞>


▲<一番奥の人が、忠孝酒造社長の大城さん。はっぴ着て参加者の中に入り、楽しく接待をされていた>

秋から新発売の「くーすロック(15度)」が、【ふるまい酒コーナー】で参加者(20歳以上)に、提供されていた。みんな美味しそうに飲んでいた。食べ物は、さすがに有料だったが、すべてリーズナブルな値段で提供されていた(町内さんの「名嘉地そば」ので店もあった)。


▲<私は、「やきとり」(3本300円)を買って、「ふるまい酒」を飲んだ(15度だからロックで飲んでも、ノドごしがいい。かち割氷なので溶けても美味しいかった)>

「陶器工房」では、酒器(カラカラ・おちょこ)・陶器コップ・花器など70~30%で特別販売されていた。



私は、泡盛をボトルから移し換えて美味しくなる陶器ボトル3,000円を1,500円で購入した。

「忠孝蔵」内では、「きき酒コーナー」があり、3テーマ各3問【9問】にチャレンジした(全正解すると、商品が貰える。しかし、13日の2時時点で正解者ゼロ)。


▲<自信満々で臨んだが、「度数当て」「年数当て」「種類当て」、結果どれも少しずハズレて惨敗>


▲<結果、2日間で、3名しか正解が出なかった>


▲<「くぅーすの杜・忠孝蔵」の売店では、祭り期間は、全品割引で販売されていた(当然すべて試飲出来る)>

土・日いずれの日も、16時に「大抽選会」(総勢120名当たる)があり盛り上がった(当日1,000円で抽選券1枚あり)。一等:南蛮5升甕(6万円相当)二等:南蛮3升甕(4万円相当)三等:南蛮一升甕(1万4500円相当)他、多数・・・。


▲<抽選で、盛り上がる子供達(すごく楽しそう)

▲<抽選の商品群>


▲<大城社長から一等賞を受け取る>

「人間ドック受診」

2011年11月14日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<那覇空港に、着陸する旅客機が「豊見城中央病院付属健康管理センター」屋上から下りてくる4階待ち合いルーム>


▲<左に「瀬長島」、右に「小禄バイパス豊見城道路架橋」が一望>

毎年、10月の下旬~12月上旬に、「人間ドック」検診を行っている。
今年は、11月12日「豊見城中央病院付属健康管理センター」で、人間ドックを受診してきた(最近出来た新しくて、スムーズな検査体制が気に入っている)。

胃の検査は、ここ数年「バリュウム検査」よりも、「胃カメラ検査」をオプションで行っている。
検査前の夕食は、今回は17時に食べ、その後は、酒を一滴も入れずに11時に就寝した。

朝、6時30分に起床し、病院に7時前着く(受付は、7時15分から)一番に受付を行いNO1の番号を貰う。

検査は、順調に進み、9時過ぎにすべて終了したが、胃カメラを入れたら夕食に食べた、「焼肉いため」が、胃にたくさん残っていて「胃カメラ検査」は、出来なかった。


▲<順調に進んでいた検査が、最後に「胃カメラ検査」が出来ずカックリしている私>

9時30分に、今日初めての水を飲み、4階の待ち合いルームで医師の説明を待つ。






▲<4階、食堂前に広がる「豊崎総合公園美らサンビーチ」(私が日頃、日光浴&読書をしに行く管理棟が見える)>

11時前、4階食堂で「検査後昼食」のメニューから「鯖の味噌煮セット」(895カロリー)を選ぶ(4品から選べる)。ゆっくりと、窓外の「豊崎総合公園美らサンビーチ」を眺めながら30分かけて食べる。


▲<朝食を抜いていなくても、実に美味しい!>

受付で、オプションの「胃カメラ検診」の清算を行い(特定健診差額19,200円)。再度「胃カメラ検査」の日程を決めて帰宅した・・・(残念)。

「若狭町村今昔物語」

2011年11月12日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<講師の島袋文雄さん>

11月11日、19時~21時「那覇市若狭公民館」で、市民講座『若狭の昔むかし』第一回があった。事前申し込みをして参加した。
講師は、「泊前島今昔物語」著者の島袋文雄(元若狭公民館社会教育指導員・泊小学校創立130周年期成会会長)さん。お歳は、昭和5年生まれの81歳。

話は、昭和14年小学3年生の頃の思い出から始まる。当時は、タクシーの乗れるのはお金持ちで、一般の人は「人力車」だった。食事は、コメは特別の時のみで普段は芋が多かった。那覇には、デパートが2軒あった(山形屋と丸山堂)。

当時の那覇は人口が、6万人くらいだったが、町の人は少なく感じた。
那覇には、町が4つあり、東町、西町、泉崎町と若狭町。若狭の町は、漆器の工場があり、他に織物や染物の職人達が住む町だった。

旧移民会館の「開洋会館」という3階建の洋館建物があった。泊の方から那覇方面を望めば、何棟かの3階建ての建物があるくらいで、ずーと遠くまで見通せた。

昔は、飴玉一つを子供同士で舐め合っていた。ある日、相手が青洟を垂れていて、目をつぶって飴をなめた事があった(笑)。

東町の市場に教科書を買いに、叔母と行った時、コメを1俵買って持って帰ろうとしたら、歳をとった車夫で走らなくて困った。それ以降は、若い車夫に乗るようにした(笑)。


▲<受講者と、平成8年に作成した昭和19年当時の若狭の古地図。波の上の東側に広大な高台があった(「上の毛」戦前までは、広大な墓地だった)>


▲<現代の「久茂地交差点」から一歩、若狭に入ると、「那覇尋常高等小学校」「県立第二女学校」「松山小学校」「県立病院」「裁判所」「日本軍司令部」など、たくさんの公共機関が多くあった>


▲<同じ時に作成した「立体古地図」も会場に展示されていた>


▲<泊港側から、波の上を望む。手前の大きな建物は「那覇商業学校」。(手前の泊から若狭までの間は、那覇カタバル(干潟)で何もない)>

平成7年に、島袋さんが若狭公民館で開校した「うきしま大学」の受講者と作成した『若狭町古地図』【昭和19年版】を頂きそれを見ながら解説して頂いたので随分解り易かった。

最後は、参加者(当然地元の方が中心)からの質問に時間を30分くらい取ったら、質問か知識の発表かどちらか解らなくなる一幕もあった(笑)。

「古民家食堂11月例会」

2011年11月10日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<今月から、冬バージョンの鍋になった「古民家食堂例会」>

11月8日、毎月第二火曜日に行われる「古民家食堂例会」に参加した。
本日は、浦添市勢理客(ジッチャク)にある顧問先から直行する。

8時少し前に到着したら、丁度、「きりたんぽ鍋」が囲炉裏に出たところだった。
新しい(知念さん・根間さん)2名の参加があった。


▲<突き出しの「刺身三品盛り」は、ボリュームが多く食べきれないほど。きりたんぽ鍋に入っている「ごぼう」が薄くスライスされていて美味しい>


▲<先月欠席だった友利さんが、鍋奉行。囲炉裏の鍋まわりには、「鮎」と「きりたんぽ」が刺されている(ここが沖縄だと思えない風景)>


▲<奥から、又吉さん、知念さん、川満さん>

少し遅れて、田村夫妻が到着。


▲<先日の「久場川旗頭」に誘ってくれた田村さんが「鮎」の塩焼きを食べるところ>


▲<「鮎」が、炭火で美しく焼けている(「きりたんぽ」は、調理場ですでに焼目を付けてある)>


▲<「鮎」を背骨だけ残しきれいに小骨も食べる(写真は、食べる前の姿。しっかり焼いた方が好きなので強く焼いた)>


途中から、友利さんが先月持ち込めなかった名護の“津嘉山醸造所”「国華(コッカ)43度古酒」を提供してくれた。
口当たりが良くて実に美味しい!普段は、外で泡盛を飲まない私もビールを止めて泡盛を飲む・・・。
夕方から降り始めた雨はますます激しくなる中、タクシーで帰った(那覇の端から端まで、タクシーで帰っても2,120円だった)。


「沖縄にも地震がある!」

2011年11月08日 15時00分00秒 | 沖縄の生活

▲<トレーニングに行く途中「桜」が咲いていると思ったら、桜に「別の花」が重なっていたのだった。>

11月8日、11時59分頃、沖縄本島に震度4の地震があった!
その時、私は自宅近くの「スカイスポーツ」で、ウォーキングマシーンが終わり、ドリンクタイムだった。
最初、少し揺れたが、直ぐに止んだ。そしたら、その後、館内のマシーンがガタガタと大きな音を立てて揺れた。約1分位だったと思うが、長く感じた。少したって、館内のTVに「地震速報」が流れ、本島北部と糸満市が震度4、なぜか那覇市は震度3だった。
その後少しして、「津波の心配がない」と、TVにテロップが流れ、館内放送で「安心してトレーニングをして下さい」とアナウンスが流れた(「スカイスポーツ」の立地は、那覇空港隣接地海抜ゼロメートル地帯にある。津波の危険性をそれまで忘れていたので後で焦った・・・)。


▲<家に帰って、図鑑[亜熱帯沖縄の花]で調べたら、「シクンシ」という花だった。インド南部原産常緑の半つる植物、花期は5月~11月。咲き始めは、白っぽいが時間が経つと赤色に変化するらしい。>

トレーニングを終えて、家に帰ったら沖縄に来て初めての地震による被害があった。「琉球ガラス花瓶の破損」(床が水浸し)だった。以前地震で震度4の時は、食器棚の引き出しが飛び出したり棚の小物が少し落ちた程度だった。

沖縄は、「花粉症」と「地震がない」と思って移住したが、今後は「地震対策」を心しておかなければいけないと思った。

※自宅の地震被害の模様は、私が帰宅した時は、すでに家人が片付けた後で、形跡は撮影出来なかったので、今日見た花の写真を掲載しました。

「琉球王朝祭り首里」旗頭行列参加記(首里城下編)

2011年11月05日 01時30分00秒 | 沖縄の生活

▲<11月3日、「琉球王朝祭り首里」の「久場川」旗頭行列風景(琉譚通り)>

ひょんなことから、首里久場川町の「旗頭」に参加出来る事になり、10月30日の「国際通り行列」に参加出来た。
本番である、11月3日の「琉球王朝祭り首里」の旗頭行列にも参加した(首里の全旗頭が揃って城下を行進する)。


▲<朝8時に、久場川公民館に集合(私は8時30分に到着)。装束に着換えたら、全員で体操>


▲<鉦と太鼓の音と掛け声を高らかに「久場川公民館」を、いざ出陣!>

朝9時から、久場川町内を練り歩く(町内の皆さんから、結構な数の寸志に驚く!)。


▲<旗頭のガーエーは、町内の駐車場だったり路地(スージー)の交差点で行う>


▲<町内の最後は、「の」文字で有名な「儀保まんじゅう」の店頭で行う(寸志は、「儀保まんじゅう」100個?!>

12時前に、町内を練り歩きを終え「Jimmy’s首里店」に着く、店内で昼食かと思ったら、外の駐車場(青空の下)で、旗頭の装束を着た数十人が、仕出し弁当を食べる(異様な風景も風物詩?)。


▲<食事後の休憩中、鉦を叩いて全体を仕切る方(オーケストラの指揮者の役目)と、記念撮影(実は、小学校の先生)>

昼食をゆっくりとり、Jimmy’sで買ったアイスを食べた後、トラックの荷台に乗り、集合場所の「首里高校」へ移動。


▲<待機中、子供達は大人の「旗頭」を真似て遊ぶ(ここから、次世代の旗頭隊が生まれて行く)>

「首里高校」で待機していた首里の旗頭が、琉譚通りに出て行く(順番の変更があり、ほぼ先頭で出発)。久場川町の旗頭は、大人の旗頭の後に「子供旗頭」が続く(これが可愛くて人気)。掛け声は二通りあり、「旗頭」を引く時は、「おーいや!」、「旗頭」を上げる時は、「サーサー、サーサー」と声を発する。


▲<10月30日には、前を歩いていたが、太鼓は、鉦の後に続く事を11月3日初めて知る(冷汗)>


▲<「ガーエー」が終わると、観客の方を振り向いて一礼をする>

「琉譚通り」の旗頭行進は、距離も短くて早く終わったが、この後が凄かった・・・。
終点の「首里中学校」で、暗くなるまでビールを飲みながら、私達の後に出た旗頭すべてが行進を終えて上がるまで待つ。


▲<首里中学校の夕闇の空に出ていた月と「久場川の旗頭」>

夕やみに包まれた頃から、首里の全旗頭による、ぶつかり「ガーエー」が始まった(これが、本日のメインイベントでした)。
「ガーエー」の最中、旗頭の矢が折れた!(そしたら突然、観客の殴りこみがあり騒然となる)。
首里旗頭達の、熱い熱いガーエーの中に、初めて参加し大興奮!!。





「首里中学校」から、国道の車道を堂々と「旗頭」押しながら、興奮冷めやらず久場川町公民館へ。帰る途中に、地元の「スナック」と「次郎長寿司」「かねひで」の前で、本日最後の「ガーエー」を行ってから公民館へ帰還(時、すでに22時30分)。
公民館では、すでに女性陣が宴会場のセッティング完了。一人3分のスピーチが始まる。私は、「いい機会に恵まれて嬉しい。本日は大変疲れました!また、来年も参加させて頂ければ光栄です」とスピーチした。ゆいレールの最終発車時間が23時30分だったので、宴はたけなわだったが、走って駅に向かった(素晴らしい経験が出来た事に興奮してなかなか眠れなかった)。