嫌われる勇気(13)

2014年10月30日 11時00分00秒 | 沖縄の生活

▲<沖縄の空も、秋模様になりました>

第4章 「世界の中心はどこにあるか(4)」

アドラーの「嫌われる勇気」岸見一郎+古賀史健著より 185~189P

d.あなたは世界の中心ではない

まず、我々は共同体(=社会)の一員として、そこに所属しています。共同体の中に自分の居場所があると感じ、「ここにいてもいいのだ」と感じられる事、つまり所属感を持っている。これは人間の基本的欲求です。

例えば学業、仕事、交友、そして恋愛や結婚も、すべては「ここにいていいのだ」と思える場所や関係を探す事に繋がっています。

そして、自分の人生における主人公は「私」である。

しかし、「私」は、世界の中心に君臨している訳ではありません。「私」は、人生の主人公でありながら、あくまでも共同体の一員であり、一部なのです。

自分にしか関心を持たない人は、自分が世界の中心にいると考えてしまいます。

こうした人にとって他者とは「私のために何かをしてくれる人」と考えます。すべて私のために動くべき人であり、私の気持ちを最優先して考えるべきだと、本気で思ってしまいます。

そのため、他者と接する時にも「この人は私に何を与えてくれるのか?」ばかりを考えてしまいます。

でもその期待が満たされる訳ではありません。何故なら、「他者はあなたの期待を満たすために生きている訳では無い」のです。

期待が満たされなかった時、大きく失望し、ひどい侮辱を受けたと感じます。そして憤慨する。

「あの人は私に何もしてくれなかった」「あの人は私の期待を裏切った」「あの人はもう仲間ではない、敵だった」と。自分が世界に中心にいる、という信念を持っている人は、遠からず「仲間」を失う結果になる。


あなたは共同体の一部であって、中心ではないのです。我々はみな「ここにいてもいいんだ」という所属感を求めている。しかしアドラー心理学では、所属感とはただそこにいるだけで得られるものではありません。

共同体に対して自らが積極的にコミットする(「人生のタスク」に立ち向かう)事によって得られるものです。

つまり、仕事、交友、愛という対人関係のタスクを回避する事無く、自らの足を踏み出して行く。「この人は私に何を与えてくれるのか?」ではなく、「私はこの人に何を与えられるか?」と、考えなければならないのです。

所属感とは、生まれながらに与えられるものではなく、自らの手で獲得して行くものです。

※「所属感」は、マズローの欲求の5段階「愛と所属の欲求」に影響を与えました。そして、「私は、世界の中心に君臨している訳では無い。「私」は、人生の主人公でありながら、あくまでも共同体の一員であり、全体の一部なのです」は、アドラー心理学の壮大な世界観を表現しています。

10月の劇場鑑賞映画

2014年10月28日 11時00分00秒 | 沖縄の生活

最近は、TVの映画をハードディスクに録画して観る事が多くなった。

そんな訳で、DVDを借りに行き観る事が減った(そしたら、先月末、近くのビデオ店が閉店した)。

10月は、今年で最も多く劇場で映画を観た月になった。

以下、まとめて作品紹介。


「柘榴坂の仇討」(10月4日)
江戸から明治に時代が変わる中、「かたき討ち」を目指す者と追われる者が、13年の歳月が流れ「仇討禁止令」が出た日に、二人が遭遇する。中井貴一、阿部寛、広末涼子、中村吉右衛門 【★★★★★】


「蜩の記」(10月16日)
ある罪で10年後に「切腹」を命じられている武士の監視役が、一緒に生活する中で芽生えてくる尊敬。そして発端となった事件を調べ始める。役所広司、岡田准一、原田美枝子、堀北真希、寺島しのぶ 【★★★★★】


「ふしぎな岬の物語」(10月25日)
千葉県の海岸が、ヨーロッパのような風景に見える岬にある喫茶店を舞台に、普通の人達の普通の生活を映画にした。吉永小百合、阿部寛、竹内結子、笑福亭鶴瓶 【★★★】


「イコライザー」(10月25日)
昼は、ホームセンターの真面目な従業員。夜は、世の悪人を始末する必殺仕置き人。身の回りのモノを武器に変えて、完全に抹殺する。デンゼル・ワシントン、マートン・ソーカス、クロエ・グレース・マレッツ 【★★★★★】


「ウィークエンドはパリで」(10月27日)
結婚30年目の記念日を祝って、パリへやって来たイギリスの夫婦。記念のホテルの記憶違いでそのホテルを飛び出す。お互いの気持ちの違い、人生観の差が鮮明になって行く・・・。ジム・ブロードベント、リンゼイ・ダンカン 【★★】

第38回「沖縄の産業まつり」開催

2014年10月25日 21時00分00秒 | 沖縄の生活


10月24~26日まで、奥武山総合公園で「沖縄の産業まつり」が行われている。

10月24日、朝から久茂地に会社に行った帰り、少し立ち寄って来た。


▲<ゆいレール「壷川駅」側から入る>

各出店企業ブースは、メインの「武道館」を始め、「芝生駐車場」と「川沿いの道」に出店されていた。

「食品」と「工業製品」が、半々か(過去最高の533件の出展らしい)。


▲<沖縄の古い「ネイネイ」が、もらった風船を手に持って休憩中>


▲<石垣牛の塊りを鉄板で焼いて売っている(結構火が通って「美味しそうなステーキ」になっている>


▲<「泡盛コーナー」、各企業が新商品を競ってPRしている。私は、「忠孝酒造」の秘蔵古酒10年42度を購入した>


▲<会場で一番長い行列の店>


▲<「牛中味(モツ)炒め」と「牛中味汁」の店>


▲<私は、「牛中味炒め(味噌味)」300円を購入して、ビールのつまみにする。ビールは、「ヘリオス酒造」の「酵母入りラガー」500円>


▲<9月の「喜業会」で、ゲストシピーチをしてくれた、「アセロラフレッシュ」さんが、出店していたので激励する。手に持っている「5倍で薄めて飲むアセローラ」を3本購入した。左側の女性が並里社長>

最後は、テニスコート脇に出店していた「育陶園」で、プレゼント用の「酒器3セット」を購入して、ゆいレール「奥武山駅」から帰った。

嫌われる勇気(12)

2014年10月23日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<10月23日の気温は、22-27度。昨日の午前中は、南風でしたが午後から北風に変わった>

第4章 「世界の中心はどこにあるか(3)」

アドラーの「嫌われる勇気」岸見一郎+古賀史健著より 182~184P

c.なぜ「私」にしか関心がないのか

具体的に考えるために、解り易く、「自己への執着」を「自己中心」と言い換えます。一般的に考える「自己中心」的な人とは、「暴君」や「自分勝手な人」ですが、もうひとつのタイプも付け加えます。

実は「課題の分離」が出来ておらず、「承認欲求」にとらわれている人もまた、極めて「自己中心的」なのです。

承認欲求にとらわれている人は、「他者はどれだけ自分に注目し、自分の事をどう評価しているのか?」つまり、「どれだけ自分の欲求を満たしてくれるのか?」ばかりを考えている。

承認欲求にとらわれている人は、他者を見ているようで、実際には自分の事しか見ていません。

他者への関心を失い「私」にしか関心がない。すなわち「自己中心的」な人なのです。

「私」に執着している人は、すべて自己中心的です。だからこそ「自己への執着」を「他者への関心」に切り変えなければならないのです

※「承認欲求」にとらわれている人を、Facebookにのめり込んでいる人が彷彿されますね(笑)。

嫌われる勇気(11)

2014年10月21日 09時00分00秒 | 沖縄の生活

▲<沖縄も、台風19号が去ってから朝夕が涼しくなり、昼も歩いていても気持ちがいい>

第4章 「世界の中心はどこにあるか(2)」

アドラーの「嫌われる勇気」岸見一郎+古賀史健著より 178~181P

b.対人関係のゴールは「共同体感覚」

「課題を分離」する事が、対人関係の出発点であれば、「ゴール」はどこにあるのか?結論から言えば、「共同体感覚」です。

他者を「敵」と見なすか?あるいは「仲間」と見なすか?他者が仲間で仲間に囲まれて生きているとしたら、我々はそこに自らの「居場所」を見出す事が出来る。さらには、仲間達(つまり共同体)のために何か貢献しようと思う。

このように、他者を仲間と見なし、そこに「自分の居場所がある」と感じられる事を、「共同体感覚」と言います

アドラーが述べる「共同体」とは、家庭や学校、職場、地域社会だけでなく、国家や人類などを包括したすべて。時間軸においては過去から未来まで含まれ、さらには範囲を宇宙まで拡げた。

アドラー心理学では「全ての悩みは対人関係である」と考えます。不幸の源泉は対人関係にある。逆に言うとそれは、幸福の源泉もまた対人関係にある、という話でもあります。

そして「共同体感覚」とは、幸福な対人関係を考える、もっとも重要な指標なのです

「共同体感覚」=「社会への関心」です。社会学が語る社会の最小単位は、「あなたと私」です。アドラーの語る「共同体感覚」を理解するには、まず「あなたと私」を起点にすると解り易い。

自己への執着を他者への関心に切り変えて行くのです

※アドラー心理学の「全ての悩みは対人関係である」を「不幸の源泉=対人関係」。逆に言うと、「幸福の源泉=対人関係」と言い換えた。そして、「共同体感覚」とは、「宇宙」から「あなたと私」へ無限に拡大して、「自己への執着を他者への関心い切り変えて行け」と言い切った。ここに、アドラーの世界観が、うまく表現出来ていると思いました。

「ひやみかち なはウォーク2014」参加記

2014年10月20日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<10月19日、7時。スタート地点の様子>

「ひやみかちなはウォーク2014」に参加するために、「那覇セルラースタジアム」(奥武山総合公園)に集合した。

那覇市が主催する。第1回目「那覇市内」を歩く5000人規模の大イベントです(5つのコースに分かれる)。



我が家は、最初、最長距離の「御城上がり(うぐしくぬぶい)19.8km」に申し込んだが、少し距離が不安になり、そのワンランク下の「今昔(なまんかし)マチグヮーまーい12.7km」に変更した。

距離の長いコース順にスタートする。我々は、2番目の8時30分スタート!



奥武山総合公園内を一周してから、「ゆいレール壷川駅」に抜け、明治橋東詰めを右折して、「バスターミナル」へ。



久茂地川沿いを北上して「ゆいレール美栄橋」へ、そこから、「おもろまち」を目指す。


▲<途中、「那覇大綱挽」に参加する、「泊旗頭」に出会う>


▲<「おもろまち」の第一給水所で、先導ガイドの旗を上げている>


▲<「おもろまち」メインプレスの裏の高架歩道を歩く>

那覇市の新しい街「おもろまち」の中を抜けて、那覇市の古い町「壷屋」を目指す。

桜坂から抜けて壷屋へ行く。壷屋では、メインストリーを抜けて行く。


▲<壷屋の裏通りを抜ける>


▲<新しく改装中の「東ヌ登り窯」の前を通る>

公設市場を抜けて、県庁・市役所へ戻る。


▲<壷屋側から「牧志公設市場」に入る(間を歩く人の背中に大量の汗)>


▲<牧志公設市場の通りに、第二給水所があった(「多良間の黒砂糖」と「冷水」があった>

「バスターミナル」を抜け、「明治橋」を渡れば、ゴールの「那覇セルラースタジアム」。


▲<最後に少し雨が降り始めたが、無事、ゴール!>

約3時間で、延べ13kmを2万歩で走破した。

天候は、最初曇りで時々晴れ間が出て、風があったので爽快に走破出来た。

最初に一人一本のペットボトルが渡され、途中、給水所が2か所あったので、適度な給水も出来、持参水筒の水は残った。

那覇市内は、移住した当時、街巡りを精力的に行ったので、殆ど知っているつもりだったが、「おもろまち」の西側下(泊1丁目)は、知らない所で発見があった。

おもてなし経営推進フォーラムin沖縄

2014年10月18日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<10月17日、産業支援センターで行われた。内閣府沖縄総合事務局主催の「おもてなし経営推進フォーラムin沖縄」>

経済産業省の平成26年度「おもてなし経営企業選」(24年50社、25年28社)の説明会を兼ねるセミナーです。

事例発表として、株式会社ONAHA(愛知県)と、株式会社みたのクリエイト(沖縄県)があった。



OHANA 代表取締役社長 松田真輔氏の話によると、採用面接に力を入れていて「アルバイト」で、1時間。「社員」では、5~10時間行っているらしい。「教育の始まりは面接から」の主義で、「人生観」、「大切にしている事」、「悩み」などから、「ライフプラン」を観る。聴き切れば信頼感が絶大になる。最後の決め言葉は、「で、どうする?」すべて本人の自己責任。

「やりたい事」(ミッションリンク)が大切で、価値観の共有を大切にする。「やり方」より「あり方」。

280P!の、理念書を3年間かけて作成した。



たくさんの社内イベントや表彰制度も素晴らしかったが、「面談の効用」をお聞きして納得。聞いて上げる事で、相手に元気が出る。

従業員の働きがいを考え、「世の中が良くなる事」に力を入れる。従業員を「コントロール」するより「導き」を大切にしたい(寄り添い力)を聞き感動を覚えた。


株式会社みたのクリエイト COO末吉弘晃氏の話によると、従業員が楽しく働ける環境を創る事を重視している企業。



「理念」を「オペレーション」に落とし込む事を共有。

店内では、お客様に2時間以上楽しんで貰う(回転率は問わない)。座席は、他店の1.5倍に広くしている。


▲<店舗のデザインも凝っているが、料理や「おもてなし」の内容にも、半端でないこだわりを持つ>

仕事が出来るという事はどういう事か?を追求し、毎月、全従業員の「スキルテスト」が行われる(出来ていると給与が上がる)。

この事は、店舗別比較も見る事が出来、店舗別のバラツキが解る(見える化)。これを海外店舗にも導入済み。

「やりたい事をやらせてあげる」そうすれば、アルバイトでも勝手にやるようになる。

この会社でやりたい事は何になのか?本人の「自己肯定感」を大切にして、各人の自分らしさを伸ばして上げる。

両企業とも「面談に時間と力を割いている」点は同じ。急成長の会社には、他社には無い「従業員満足」の秘訣があった。


▲<左から、末吉氏、松田氏、平良氏(メディアフラッグ沖縄社長)>

※両氏の言葉には、最後に行われた「トークセッション」のコメントも含まれている。

古民家食堂10月例会

2014年10月15日 08時30分00秒 | 沖縄の生活

▲<古民家食堂の10月例会の、メイン料理は、野菜たっぷりの「豚シャブ」です>

台風19号が遠くに去って、爽やかな風の中、10月14日の夜、古民家食堂の10月例会があった(沖縄の気温は24度で快適)。

まだ外でもやれるが、今月は室内で鍋です。

メイン料理は、「沖縄豚のシャブシャブ」。



今回は、参加者が多く、「囲炉裏」の部屋と、隣の部屋を使った。


▲<いつもは、囲炉裏の部屋で充分だが、我々は、隣りの部屋で「シャブシヤブ」を「した>

私は、ダシに使ってた「昆布」を、一枚一人で美味しく食べた。

昔、沖縄では「昆布」が散れなかったのに、日本で有数の「昆布」消費県でした。

又吉さんが、8月から手伝っている沖縄地元食材専門店「琉風」の商品も加わり、バライティに富んだ内容でした。

瀬崎君の就職祝いもやり、本日も、19時過ぎから22時まで、楽しく語らい美味しく食べ、たくさん飲みました・・・。

「諫言」(かんげん)は、苦い薬。

2014年10月13日 13時05分00秒 | 沖縄の生活


NHK大河ドラマ「軍師黒田官兵衛」が面白い。

10月に入ってから、二夜連続で、官兵衛の「諫言」が、秀吉に聞き入れられず裏切られる。

秀吉に「諫言」を言えていた弟、「秀長」も病気で亡くなる。

「千利休」も、官兵衛を守り「諫言」を行った事で切腹になる(石田光成の策略)。

「おね」の言う事も聞かなくなる中で、「諫言」を言えるのは、官兵衛だけ。

官兵衛は、身を捨てる覚悟で「諫言」を言い続ける・・。。

しかし、秀吉は、以前にも増して寵愛している寵臣「石田光成」の甘言を聞き入れて行く・・・。

天下人になった、秀吉は、官兵衛の「諫言」を聞き入れず暴走する。

現代の企業経営者に、とても示唆に富んだ歴史(人間)ドラマです。



『甘言は毒であり諫言は薬である。愚者は甘言を好み諫言を憎む。賢者は甘言を憎み諫言を好む』

嫌われる勇気(10)

2014年10月12日 14時00分00秒 | 沖縄の生活

▲<10月12日、台風19号は夜半沖縄本島を東側から西側に横切り、東シナ海へ抜けた。南城市で最大瞬間風速49.7m、沖縄県のけが人25名、避難勧告15万人。幸いに、那覇市の我が家は停電も無く被害は無かった(写真は8月3月5日の「豊崎美らSANビーチ」)>

第4章 「世界の中心はどこにあるか(1)」

アドラーの「嫌われる勇気」岸見一郎+古賀史健著より 174~178P

a.個人心理学と全体論

「課題の分離」は、「私は私、あなたはあなた」と、境界線を引くような発想で自己中心的な個人主義と考える人もいる。

また「アドラー心理学」は、人を孤立へと導く個人主義の学問と言う人もいます。確かに、アドラー心理学の正式名称「個人心理学」という名称は、誤解を招きやすいところがある。

まず、個人心理学の「個人」は、英語の語原的に「分離出来ない」これ以上分けられない最小単位という意味です。

アドラー心理学では、心(精神)と身体は一体のもので、理性と感情。意識と無意識を分け、二元論的価値観に反対しました。人間をこれ以上分割出来ない存在だととらえ、「全体としての私」を考える事を「全体論」と呼びます

「全ての悩みは対人関係である」というアドラー心理学の基本思想の「課題の分離」という考え方は、「良好な対人関係を結ぶには、ある程度の距離が必要。密着し過ぎると、向かい合って話す事も出来ない。しかし、距離が遠くてもいけない」と述べている。

「課題の分離」は、他者を避けるための発想でなく、複雑に絡み合った対人関係の糸を解きほぐして行くための発想です。

しかし対人関係は、「課題を分離」したところで終わるものではありません。むしろ「課題を分離」する事は、対人関係の出発点なのです。

※「アドラーの個人心理学」の「個人」で、「心と身体の一体論」の説明は解り易い。「課題の分離」が、対人関係の出発点と述べています。



嫌われる勇気(9)

2014年10月09日 12時00分00秒 | 沖縄の生活

▲<台風19号が近づく沖縄ですが、昨日は、顧問先の若手向け研修に18~20時まで行ってきました。その後、参加者3名と最近出来た「大阪串カツ」の店に行きました(二度漬け駄目のルールも健在でした)。>

第3章 『他者の課題を切り捨てる(5)』 

アドラーの「嫌われる勇気」岸見一郎+古賀史健著より 160~170P

h.本当の自由とは何か
他者から嫌われたくないと思う事。これは人間にとって、極めて自然な欲望です。

カントは、そうした欲望の事を「傾向性」と呼びました。本能的&衝動的な欲望という事です。しかし、そうした「傾向性」の欲望や衝動のおもむくままに生きる事(坂道を転がるように生きる事)は「自由」ではなく、欲望や衝動の奴隷です。

本当の自由とは、転がる自分を下から押し上げて行くような生き方です。我々は、坂を転がる石ころではありません。「傾向性」に抗う事が出来る存在なのです。転がる自分を停止させ、坂道を登って行く。

人は、誰からも嫌われたくない(承認を受けたい)ために坂道を転がり続け、転がる石のように自らを摩耗させ、丸くなって行くのか?そこで出来上がった球体は「本当の私」だと言えるのでしょうか?

何度も繰り返しているように、アドラー心理学では「全ての悩みは、対人関係の悩みである」と考えます。

つまり我々は、対人関係からの解放(自由)を求めている。しかし、他人と接触しない(この宇宙にただ一人で生きる)事は絶対に出来ない。ここまで考えれば、「自由とは何か?」は見えたも同然です。

すなわち、「自由とは、他者から嫌われる事である」。あなたが誰かに嫌われているという事は、あなたが自由を行使し、自由に生きている証であり、自らの方針に従って生きている事の印なのです。

でも出来れば、誰からも嫌われず、承認欲求を満たして生きたい・・・。しかい、全ての人から嫌われないような生き方は、不自由極まりない生き方であり、同時に不可能な事なのです。

自由に生きたければ、そこにはコストが伴います。対人関係における自由のコストとは、「他者から嫌われる事」なのです。

あなたは、自由とは「組織からの解放」で、家庭や学校、会社、国家などから飛び出す事だと思ってませんか?

しかし、組織から飛び出したところで、本当の自由は得られない。他者の評価を気にせず、嫌われる事を恐れず、承認されないかも知れないというコストを支払わない限り、自由な生き方を貫く事は出来ないのです。

でも、わざわざ嫌われるような生き方をしろとか、悪行を働けと言っているのではありません。

「嫌われる事を恐れるな!」と言っているのです。嫌われる事を恐れず前に進んで行く。

坂道を転がるように生きるのではなく、眼前の坂を登って行く。それが、とって自由なのです。幸せになる勇気には、「嫌われる勇気」も含まれます。その勇気を持ちえた時、あなたの対人関係は一気に軽いものへと変わるでしょう。

i.対人関係のカードは、「私」が握っている
幼い頃、親に殴られた経験のある人は、「あの時殴られたから関係が悪くなった」と考える。フロイトの「原因論」から言えば「恐怖のトラウマ」を持って成長して来たとなります。

しかし、アドラー心理学の「目的論」に立てば、因果律の解釈は完全に逆転します。つまり、私は「父との関係を良くしたくないために、殴られた記憶を持ち出していた」のです。これは「対人関係カード」、という観点から考えるといいでしょう。

原因論で「殴られたから、父との関係が悪い」と考えている限り、今の私には手も足も出せない話になります。しかし、「父との関係を良くしたくないために、殴られた記憶を持ち出している」と考えれば、関係修復のカードは私が握っている事になります。私が「目的」を変えてしまえば、それで済む話だからです。そこで、「課題の分離」です。

殴った方は、殴った事も忘れているかも知れないし、殴った人の考え(「ライフスタイル」)を変える事も不可能です。

しかし、例え相手に関係修復の意思が無くても一向に構わない。問題は私が決心するかであって、「対人関係のカード」は、常に「私」が握っていたのです。

多くの人は、「対人関係のカード」は、他者が握っていると思っています。だからこそ、「あの人は自分の事をどう思っているのだろう?」と気にして、他者の希望を満たす生き方をしてしまう・・・。

でも「課題の分離」が出来れば、全てのカードは自分が握っている事が理解出来ます。対人関係というと、どうしても「二人の関係」や「大勢との関係」をイメージしてしまいますが、先ずは「自分」なのです。

「承認欲求」に縛られていると、対人関係のカードは、いつまでも他人の手に握られたままです。人生のカードを他者に委ねるか?それとも自分が握るか? 「課題の分離」、そして自由について、ゆっくりと考えてみて下さい。

※この本の題名にもなっている「嫌われる勇気」が理解出来るでしょう。親との「トラウマ」が、無い事も理解出来るでしょう。「原因論」から「目的論」へ考え方を変える勇気もゆっくりと考えてみて下さい。



嫌われる勇気(8)

2014年10月07日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<台風18号は、沖縄本島を少し離れたコースをとり、大きな被害は出なかった(南大東島のサトウキビ被害と国頭村で荒れた海に近づいていた米軍関係者が波にさらわれて亡くなった)>

第3章 『他者の課題を切り捨てる(4)』 

アドラーの「嫌われる勇気」岸見一郎+古賀史健著より 156~160P

g.承認欲求は不自由を強いる

自分の好きなように生きる事は、言葉通りのように簡単な事ではありません。

それに比べて、他者の期待を満たすように生きる事は、楽です(自分の人生を他人に任せているのだから)。

例えば、親の敷いたレールの上を走る事は、多少の不満はあるにせよ、レールの上を走っている限りにおいて、道に迷う事はない。

しかし、自分の道を自分で決めようとすれば、当然迷いは出て来る。「いかに生きるべきか」という壁に直面するからです。

「他者が見ている事」を頼りに自らを律するしかないと他者から承認される事を目指して、他者の目を「道しるべ」にして生きる人があまりにも多い・・・。他者の視線を気にし、他者の顔色を窺いながら生きる事は、他人の望みを叶えために生きる事です。

他者からの承認を選ぶか、それとも承認なき自由の道を選ぶか?これは重要な問題です。

確かに、他者からの承認には「道しるべ」があるかも知れませんが、これはとても不自由な生き方です。

どうしてそんな不自由な生き方を選ぶのでしょうか?それは、「誰からも嫌われたくない」という気持ちでしょう。

もしも周りに10人の他者がいたら、その10人全員に忠誠を誓う。そうしておけば、当座誰からも嫌われずに済む・・・。

しかしこれには、大きな矛盾が待っています。これは丁度ポピュリズムに陥った政治家のように、出来ない事まで「出来ると」約束したり、取れない責任を引き受けてしまう事になるからです。

その嘘は、ほどなく発覚し信用を失い、自らの人生をより苦しいものにしてしまうのです。

勿論、嘘をつき続けるストレスも想像を絶するものがある。

他者の期待を満たすように生きる事は、自分の人生を他人任せにする事です。

これは、自分に嘘をつき、周囲の人々に対しても嘘をつき続ける生き方です。

「課題を分離する」事は、自己中心的になる事ではありません。

むしろ他者の課題に介入する事こそ、自己中心的な発想です

親が子供に勉強を強要し、進路や結婚相手にまで口を出す。これなど自己中心的な発想以外の何物でもありません。

不自由な生き方を選んだ大人は、今この瞬間を自由に生きている若者を見て「享楽的だ」と批判しますが、これは、「人生の嘘」です。

自分自身が本当の自由を選んだ大人なら、そんな言葉は出て来ませんし、むしろ自由であろうとする事を応援します。

※「自立」「自律」。自分の人生は自分が選んでこそ、真の人生です。【自己実現の欲求】=バースデービジョンを見つけられた人間は幸せだ。だから、20歳を過ぎたら、真剣に自分の人生の脚本を書く。大河ドラマの主役は自分なのですから。

嫌われる勇気(7)

2014年10月02日 14時00分00秒 | 沖縄の生活


第3章 『他者の課題を切り捨てる(3)』 

アドラーの「嫌われる勇気」岸見一郎+古賀史健著より 146~155P

e.対人関係の悩みを一気に解消する方法
自分について出来る事は「自分の信じる最善の道を選ぶ事」です。そして、その事に対し他者がどんな評価を下そうが、これは他者の課題(行動)であり、自分にはどうにも出来ない事です。

他者の目や評価が気になる。それはなぜか?アドラー心理学の答えは簡単です。まだ、「課題の分離」が出来ていないからです。

本来は「他者の課題」であるはずの事まで「自分の課題」だと思い込んでいる。

話がまったく通じない上司がいて、事ある毎に怒鳴りつけてくる。どんなに頑張っても認めてくれず、話さえもまともに聞いてくれない・・・。このような状態では、その上司に認めて貰う事が最優先に考えるべき「仕事」でしょうか?上司があなたの事を嫌っている。しかも、明らかに理不尽な理由によって嫌っている。だとすればもう、こちらからすり寄る必要などないのです。

直属の上司から疎まれていては仕事にならないと思いますか?それもまたアドラーのいう「人生の嘘」なのです。
上司から疎まれているから仕事が出来ない。私の仕事が上手く行かないのは、あの上司のせいだ。そう思う人は「上手く行かない仕事」への口実として、上司の存在を持ち出している。

むしろあなたは、「嫌な上司」の存在を必要としているのです。この上司さえいなければ、私はもっと仕事が出来るのだと。「あの上司がいるから仕事が出来ない」と考える。これは完全な原因論です。

そうでなく、アドラー心理学では「仕事をしたくないから、嫌な上司を創り出す」と考える。あるいは「出来ない自分を認めたくないから、嫌な上司を創る」。アドラー心理学の「目的論的」な発想です。

「課題の分離」が出来ていたら、上司がどんなに理不尽な怒りをぶつけてこようが、それは「私」の課題ではない。理不尽なる感情は、上司自身が始末するべき課題です。すり寄る必要もないし、自分を曲げてまで頭を下げる必要はない。

自分のすべき事は、「自らの人生に嘘をつく事なく、自らの課題に立ち向かう事」だと、理解する事です。

我々は、家族関係であり職場関係で「対人関係」に苦しんでいます。まずは「これは誰の課題何か?」を考える。そして「課題の分離」をする。どこまでが自分の課題で、どこからが他者の課題なのか、冷静に線引きする。

そして他者の課題には介入せず、自分の課題には誰一人介入させない。これが具体的な対人関係の悩みを一変させる可能性を秘めた、アドラー心理学ならではの画期的な視点です。



f.「ゴルディオスの結び目」を断て
「課題の分離」は、理屈としては正しいが、自分と他人の間に境界線を引いてしまうような生き方は、倫理的、道徳的に正しいのだろか?他人の好意を踏みにじるようなものにならないのか?と考える人がいるでしょう。

そういう方には、「ゴルディオスの結び目」という有名な逸話があります。複雑に絡み合った結び目、つまり対人関係における「しがらみ」は、もはや従来的な方法で解きほぐすのではなく、何かまったく新しい手段で断ち切る。

良好な対人関係を結ぶには、ある程度の距離が必要です。距離が近過ぎると、相手と向かい合って話す事が出来なくなる。とはいえ、距離が遠過ぎてもいけない。手を差し伸べれば届く、けれど相手の領域には踏み込まない。そんな適度な距離を保つ事が大切なのです。

「相手の好意を踏みにじる」という考え方は、「見返り」に縛られた考え方です。他者に何かして貰ったら、それを自分が望んでいなくても返さないといけない、と。これは好意に応えているというより、見返りに縛られているのです。

相手がどんな働きかけをしてきても、自分のやるべき事を決めるのは自分なのです。対人関係のベースに「見返り」があると、自分はこんなに与えたのだから、あなたもこれだけ返してくれ、という気持ちが沸き上がって来ます。

これは、「課題の分離」とはかけ離れた発想です。我々は見返りを求めてもいけないし、縛られてもいけない。

アドラー心理学には、常識へのアンチテーゼという側面があります。「原因論」や「トラウマ」を否定し、「目的論」を採る。人の悩みはすべて対人関係の悩みだと考え、「承認を求めない事」や「課題の分離」も、すべてが常識へのアンチテーゼなのす。

※ここの部分は、日本人には受け入れにくい難解な箇所です。他者への関与は優しさであり、見過ごせない日本人の美徳。農耕民族の「助け合いの精神」と、欧米人の、取ったもの勝ちの「狩猟型民族」の違いを感じる。常識へのアンチテーゼの「目的論」も、同じく日本人には、仏教の「原因論」(因果関係)が、身に沁み込んでいるので、「目的論」は、直ぐに理解しがたい。しかし、「原因論」から「目的論」に考え方を変えると、何事もシンプルに考えられるし、自分にとって不幸と思える過去の出来事から断ち切れ未来志向になれるのです。アドラー心理学は、「ライフスタイル」を変え実践出来るには、「それまで生きてきた年数の半分」が必要になると言われる所以です。