那覇市遺跡探索散歩 コースL.『壷屋巡り』(1)

2007年10月31日 00時05分22秒 | 沖縄現地情報
 南ヌ窯から「壷屋やちむん通り」を望む
今回は、「壺屋」にある遺跡を巡ります。壺屋は、焼き物で栄えた陶器工房集積地域です。あまりのも有名な場所だけに、誰もが一度は訪れている場所です。しかし、壷屋の全く知られていない一面をお伝えします。
今回は、少し遠いですが牧志駅から歩く事にします(徒歩で約15分)。牧志駅を降りて、国際通りを県庁方面に歩きます。3分位歩いたら「琉球銀行牧志支店」で左折(グランドオリオン通り)します。2分位歩くと二差路になる。右の道を行くと直ぐT字路に、(このあたり一帯は「桜坂社交街」の南端です)

T字路を右へ行くと下り坂(てんぷら坂)があります。てんぷら坂を降りた所が、壺屋「やちむん通り」の西入口です。

そこはに以前あった「壺屋陶芸センター」は、建て替え中で、現在は青空駐車場になっています。そこにあった「番所ガー」は、マンホールの中に隠されていて今は観る事が出来ません。

隣にある「市立壺屋焼物博物館」の、右側の階段を上がると広場があり、その奥に「西の宮」があります。壺屋の拝所の一つで、ニシヌーメーと呼ばれています。ニシは北の事で、北の窯の前という意味です。土地の守り神「土帝君(トーティークン)」と、焼き物の神様が祀られています。

※博物館は、出来れば見学をして下さい。壺屋と沖縄の歴史が一時間位で学べます。出る時に「小さなガイドパンフレット」をもらって下さい。そこに壺屋の遺跡イラストマップが付いていますので、それを持って歩くと迷わないで済みます(大まかな地図ですガ・・・)。

「西の宮」広場、脇の小道を通ると直ぐに「南ヌ窯(フェヌカマ)」が見えます。斜面を活用した幅3.2m、奥行き16.5mの立派な登り窯で、県の有形文化財指定です。

喫茶店「南窯」も併設されていますので休憩に活用してください。

⇒次回は、壷屋の中央エリアです。

『沖縄の産業まつり』参加記

2007年10月30日 00時05分49秒 | 沖縄現地情報
奥武山公園駅から
10月26~28日まで、那覇市奥武山(おうのやま)総合運動公園で、第31回「沖縄の産業まつり」が開催された。那覇市民には、秋の恒例行事でマンネリも言われているらしいが、私にとっては初めてのイベントなので楽しんで来ました。
 酒造会社ブース
27日のお昼に見学しましたが、広い公園&県立武道館を目一杯使い、8会場520ブースありました。沖縄県産の特産品、泡盛、発明品、健康食品&サプリ、焼き物、映画、まんが、等々・・・。一日では、すべて見れない出展数の多さだった。
 三線は15,000円~
私は、健康食品と泡盛のコーナーで時間を使った。
特に、「瑞泉酒造」の21年物の古酒の量り売りがあり釘づけに、普段買えないものだけに、360ml(5,500円)を2本買いました。「崎山酒造」の松藤(まつふじ)44度<粗濾過>『'07モンドセレクション金賞』(2,200円)も買いました。「忠孝酒造」のブースでは、「翠古(すいこ)」という、「シー汁浸漬法(古式泡盛製法)」を試飲をさせてもらい、そのうえ100mlのミニボトルまで頂きました(石川さんありがとうございました!)。
 忠孝酒造ブース

 
ともかく、色んな沖縄の県産品が一堂に集まった、大変沖縄のパワーを感じた沖縄県最大クラスのイベントでした。やっぱり、沖縄県はすごいと思いました。


沖縄県産品映画『琉球カウボーイ、よろしくゴザイマス。』を観ました。

2007年10月29日 00時05分15秒 | 沖縄現地情報
 チケットの半券
10月27日、沖縄県産品指定映画『琉球カウボーイ、よろしくゴザイマス。』を、桜坂劇場で封切を観て来ました。
沖縄を拠点に活躍する、クリエーター(製作・監督・出演者)が創った純沖縄県産ムービーです。
3つの短編作品(計94分)が、それぞれ違うトーンで、共通するのは徹底的に沖縄にこだわった作品という点です。
「See Me?」(當間早志監督)、「Happy Pizza」(福永周平監督)、「マサーおじいの傘」(大城直也監督)詳しい内容は、省きますが私は「マサーおじいの傘」が、一番面白くて良かったです(1970年代の糸満が舞台)。
案内役の「仲田幸子(沖縄喜劇王)」が面白く、いっぺんにファンになりました。
終了後、監督・出演者の舞台挨拶があったが、すべての挨拶が終った時は、次の上映開始時間直前!沖縄らしい(笑)。
 上映後の舞台挨拶
終わって、劇場の外に出たら、製作委員会実行委員長の「藤木勇人」さんがいたので、買ったパンフレットにサインをして頂いた。そしたら、後ろに當間監督もいて同じくサインを頂く。
そしたら、「マサーおじいの傘」のマサーおじい役の「かっちゃん(コザのミュジシャン)」さんが、椅子に座っていたのでお願いしたら「今、病院で3つ子が生まれて忙しい人にサインをねだるのか?そんな人は見たこと無いよ。」と言われたが(笑)。心良く、私の名前入りでサインを頂き、写真撮影までOKしてくれた。ラッキーだった!
 かっちゃんと私
沖縄県以外では、きっと小劇場でこっそりと、上映される映画だと思うが、沖縄ファンの方は是非、ご覧になって下さい『よろしくゴザイマス!』。
 パンフレット






沖縄の魔除けまじない その④『貝』(1)「シャコ貝」

2007年10月28日 00時05分02秒 | 沖縄現地情報
沖縄の魔除けまじないその④『貝』(1)「シャコ貝」。
シャコ貝の事を俗にアジーケと言う。それは、シャコ貝の口が噛み合った時の形が十字形になることに由来します。

沖縄では、一般に十字に組み合わせたものを「アザカ」と言い、それに特別な呪力を認める考え方があります。その事から「シャコ貝」もアザカの貝と見なされ、それが転じてアジケーとなったのです。

しかし、シャコ貝が魔除に用いられているのは本来、貝の開いた形が女陰を連想させる事から来たものであろうと言われています。女陰の持つ呪力については、日本の記紀神話にも記録されています。

沖縄においても鬼餅(ムーチー)の由来や「火返し(ヒーゲーシ)」のまじないにその事が出てきます。

シャコ貝の魔除は、現在では沖縄本島中部、勝連町・与那城町で比較的多く見られ、中でも津堅島や伊計島に多い。(山里純一著:「沖縄の魔除とまじない」より)
※写真は、すべて津堅島で撮影しました。

沖縄の魔よけとまじない その③『フーフダ』

2007年10月27日 00時05分51秒 | 沖縄現地情報
「フーフダ」といっても、知らない人が殆どだと思います。実は、お寺や神社が出す「御札(おふだ)」の事です。
沖縄では、家・屋敷に邪悪なものの侵入を防ぐために、お寺や神社の発行する紙製の札や木製の札を火の神や中柱、門の左右、屋敷の四方に取り付けている家が普通に見られます。
発生の年代は、新しく大正時代に、易者やユタが個人的に出していたらしいが、戦後になって普天間宮や波上宮、あるいは護国寺、安国寺などが発行するようになり、取り付ける家が増えたらしい。
本土各地の遺跡から、短冊型の板にまじない(呪文)を書いた札(呪符木簡)が数多く出土しているが、近代になってからは、もっぱら紙の札が用いられるようになったが、沖縄では紙と共に木製の「フーフダ」が現代でもさかんに用いられています。
屋敷に「邪悪やもの」を防ぐだけではなく、めでたい事(吉祥)や家に七福をもたらす事も書かれています。
沖縄の一般住宅地を歩く時は、屋根の「シーサー」を観て、街角の「石敢当」を観て、家端の足元に貼られている「フーフダ」を探すので、忙しいでのす。
 
 
 

沖縄の魔除けとまじない その②『石敢当』(2)

2007年10月26日 00時05分10秒 | 沖縄現地情報
 那覇市内Max Valu
沖縄では最近、「石敢当(いしがんとう)」が、ちょっとしたブームです。すべてを自然石にしろとは言いませんが、白のプラッチック板の「石敢当」だけは許して欲しいです。
「石敢当」は、中国から伝わったと研究者の中での意見が一致していますが、いつ頃伝わったのかは、はっきりしていません。

おそらく、那覇の久米村(当時の、出島チャイナタウン。現在の那覇市久米)を発信地として、沖縄の士族層が最初に真似て、やがて金持ちから、農村・漁村に広がったと推測されています。移住して来た中国人によって久米村が創られた15世紀の半ばには、「石敢当」を立てる習慣が沖縄に伝わったと考えられます。
 
現存する「石敢当」の中で、年代の特定できる最も古いものは、久米島西銘にあるものとされています。正面の「恭(泰)山石敢當」と刻みこまれた横に、小さく「雍正十一年癸丑」と彫られている。「雍正十一年癸丑」は、西暦1732年です。
 沖縄最古の石敢当
那覇から、久米島へ伝わるには長い時間がかかったと思われます。したがって当然、久米島の石敢当よりも古いものが、那覇市内に数多くあった事になります。
 
現存する石敢当の中にも、久米島のものより古い時代のものが多くある可能性は高い。しかし、石敢当に、年代を彫ったものは殆どないために、作成時代が確定しないのです。

沖縄の魔よけとまじない その②『石敢当』(1)

2007年10月25日 00時05分43秒 | 沖縄現地情報
石厳当は、沖縄の最もポヒュラーな呪符で、T字路あるいは、三叉路の突き当りには至る所に見られます。


 
沖縄では、普通「いしがんとう」と読んでいるが「せきかんとう」と言う所もあります。石厳当は、古代の勇士とか力の強い人の名前とする説もありますが、悪霊や悪鬼、妖怪(ヤナカジ、シタナカジ)を屋敷に入れないようにするため「石が敢えて当たって」圧伏するという、石の呪力を認めた古くからの中国の石に対する信仰に由来するものいう説が強いようです。
 
沖縄には、文字が彫られていない「霊石(ビジュル)」も石厳当と同じく魔除けとみなされているが、沖縄における石厳当受容の背景には、そうしたビジュル信仰がベースにあったと思われます。
粟国島や久米島にはビジュルの上に後から「石厳当」の文字が書かれているのが散見され、これなどは、ビジュル信仰に石厳当の習合した事を示す好例です。
石厳当は、本来石に対する信仰でありながら、やがては文字そのものに魔除けの力があると信じられるようになったと考えられます。
 首里で見たビジュル?

沖縄で、Myたこ焼きを食べる。

2007年10月24日 00時05分09秒 | 沖縄現地情報

今夜の夕食は、『Myたこ焼き』でした。
壷川にある「A-PRICE」という業務スパーを大変気に入っている。
今日、冷凍の「タコ焼き用のタコ」1kgを見つけ1,400円で買って帰った。
先日は、業務用たこ焼きの粉1kgをそこで買ったので、早速、夕食をタコ焼きにした次第。
我が家の、電気たこ焼き器(一度に18個焼ける)で、5回焼いた。
延べ、90個焼いたことになる。

2人で、30数個食べて、残りは冷凍にしました。
レシピは、タコ、天かす、アキあみ小エビ、紅ショウガ、ネギ、キャベツです。
たこ焼きの粉は、業務用「日清フーズのかつおだし風味」。外はカリッと中はとろーりの通り、そのように焼けた優れモノでした。味付けは一切不要(値段は600円位)。
家内は、何も付けずに食べ、私は「タコ焼き用オタフクソース」にマヨネーズ+青のりでした。

現代版組踊『肝高の阿痲和利』について

2007年10月23日 00時52分50秒 | 沖縄現地情報

10月20日、「勝連城(かつれんぐすく)跡」をツアーで見学して来ました。
「勝連城」の按司(あじ:各地を治めていた領主)の「阿痲和利(あまわり)」は、琉球王朝に王権奪取を企み戦いを挑み滅ぼされた悪人と、されていましたが、近年の研究で人望のあった、海外貿易の成功者との評価に変わっています。
妻は、尚泰久王の王女百十踏揚(ももとふみあがり)で、彼女の悲劇は後世まで語り伝えられています。
琉球古典劇では、その辺の話を地元俳優によってたくさん舞台で上演されています(私は、地元テレビの通訳字幕入りで観ました)。

当日、城跡で中・高生約50~60名が、城跡をめいっぱいに使って、熱心に踊りとセリフの練習を行っていたので、何かと、ガイドに聞いたところ、琉球史劇「肝高の阿痲和利(きむたかのあまわり)」の練習風景との事でした。

「肝高(きむたか)」とは、「心豊か、気高い、品位のある」などの意味で、勝連城の美称です。

うるま市の中・高生100人が、本格的琉球史劇を「東儀秀樹」とのジョイントで、勝連城跡広場を使い現代版組踊(ミュージカル仕立て)で演じられるとの事。

2000年から通算113回の公演が行われ、延べ7万人が来場したらしい。

今年の上演日時は、11月17日と18日。場所は、勝連城跡。開場は、16:00。
チケットは、「チケットぴあ」や「ローソン」で購入出来るとの事。
県外者には、羽田発の「2泊3日歴史を学ぶツアー」が、近畿日本ツーリストで企画されているらしい。
地元、中・高生育成のために行われるイベントですが、他県にはこの様なスケールでの本格的な、地元芸能伝承の取り組みはないと私は思います。
関心のある方は是非、ご覧頂きたいと思います。
問合せ先:「あまわり浪漫の会」http//amawari.com

「津堅島&勝連城」めぐりツアー参加記(2)

2007年10月22日 00時05分49秒 | 沖縄現地情報
「津堅島&勝連城」めぐりツアー参加記 その②
3時頃津堅島を出て、平敷屋(へしきや)港に戻り「勝連城(かつれんぐすく)」へバスで移動。


 
勝連城は、15世紀の「阿痲和利(あまわり)の乱」で落城し、城壁のみの状態ですが、海抜60~100mにそそり立っています。

他の城(ぐすく)と比べても、琉球珊瑚石で組まれた城壁の美しさと、5つある「曲輪(くるわ:平らな土地)」が、城全体の空間と高低差による変化を創り出している。
 
また、城跡に残された数々の遺跡「玉ノミウヂ(建物の基礎で霊石)」「ウシヌジガマ(ウシヌジとは、敵に攻められ危険な時に、身を凌ぐ場所という意味)」「火ヌカン(火の神)」「五つの井戸」などが、綺麗な形で残されていて、観て知る楽しみが多い事です。
 
団体ツアーだったので、事前に予約した「ボランティアガイド」の説明を約1時間聞けた事が、さらに理解を増したと思います(是非活用下さい)。
  
4時30分頃、「勝連城」を後にして、バスで帰路に就いたが、高速を通らず首里・泊・久茂地経由で、客を降ろしたため赤嶺駅に着いたのは7時過ぎだった。
旅行会社から「もずく(500g×2個)」のお土産を頂き、大人一人6,980円でした。

『津堅島&勝連城』めぐりツアー参加記(1)

2007年10月21日 00時05分13秒 | 沖縄現地情報
「津堅島&勝連城」めぐり その①
10月20日、地元旅行会社のバスツアー「島唄ライブショーとの~んびり癒し旅」に参加してきました。
朝8時に、自宅から徒歩10分の赤嶺駅でオンボロ観光バスに乗り、市内の数ヵ所で他の客を拾い38名のグループ旅行(全員地元の人)でした。
沖縄県中部のうるま市(東海岸)平敷屋港から「津堅島(つけんしま)」へ渡る(約60人乗りの高速船で15分程度)。

この島は、別名「キャロットアイランド」といわれ、人参の生産で有名な島です。実際に島の畑はすべて人参畑(残念ながら畑は、すべて収穫後だった)。
昼食までの約一時間は、「土だけの畑」と「人参展望台」と、岸壁に出来た「ホートゥガー(鳩が見つけた泉という伝説の井戸)」&「小祠(しょうし:鍾乳石を御神体としたもので、男女が抱き合っている様に見え、子孫繁栄の神として崇められている)」を観光。
 
 
昼食は「神谷ファミリー」が経営しているレストラン。食事のボリュームと味は十分に満足。食後に1時間「島唄ライブショー」があり、大感激!五男三女のファミリーで、三線三名に太鼓の演奏&踊りが素晴らしかった。最後は、全員で食後のカチャーシーで締めくくる(三男の娘さんが、最近売り出し中の神谷千尋さんとの事です)。





⇒次回は、島を出て「勝連城(かつれんぐすく)」へ。

那覇市遺跡探索散歩 コースK.『城岳巡り』(2)

2007年10月20日 00時05分26秒 | 沖縄現地情報
「城岳(じょうがく)」めぐり その② 最寄駅:壷川
「王川」の十字路を、東へ少し進むと三叉路があります。そこを左に入ると「城岳公園」の裏側坂道へ通じます。

公園入り口付近に「殿・南無志や加如来碑(トゥン・ナムシヤカニュライヒ)があったとされていたが、今回は探せませんでした(近くの散髪屋さんのご主人に聞いたが解らなかった)。
公園に入った直ぐ右側に「城嶽・古波蔵之嶽」があります。
石碑には、「城嶽は、樹木がうっそうと生い茂る霊地で、600年前は進貢船の舟子達が立ち寄った所。住民の御守護、海上安全を祈願した場所」とあります。ここは、「貝塚」でもあり、1923年の調査では、中国の戦国時代(紀元前403~221年)に、燕の国で使われた明刀銭が日本で初めて出土した場所でもあります。
戦後は、芝居小屋が建てられ、遊園地にもなりにぎわったらしい。

公園の片隅には「二中健児の塔」が建立されています。
県立二中は、現在の那覇高校の前身で、戦争中は軍命により北部の防衛と首里以南の通信隊として役務に従事し、多くの戦死者を出した。奥の道を降りると那覇高校の正門に出ます。

東南の角「かどや食堂」の裏には「汪樋川」があります。
17世紀、尚真王の冊封使(さっぽうし)だった汪楫が、首里城の龍樋の次に美味しい水だと称えた。高台の拝所の下には、ドーム型に造られた樋口があり、左側には長方形水槽が設置されている。湧き出る水の量は多くはないが、奇麗な水で子魚が住んでいます。

先ほどの交差点から、東方面の通りは「せせらぎ通り」と呼ばれています。
車道と歩道の間に人口の小川を造り「汪樋川」の水を使用していたらしいが、今見る影もなく水は枯れ廃れています(残念!)。

小川の造作が途切れた所を右に上がって、T字路を左に折れると少し高くなった所に「神里之神」と彫られた石碑が建っています。
「琉球国由来記」によると、楚辺大阿母が祀りをした由緒ある御嶽で、神名をトモヨセノ御イベと呼ばれています。

ここから戻って、那覇高校を西に進み「沖縄レインボーホテル」を右に曲がれば、ゆいレール「県庁前駅」へ行けます。反対側に直進すると「新天地市場&牧志公設市場」行く事が出来、少し足を延ばせば「壺屋」も近い。

那覇市遺跡探索散歩 コースK.『城岳巡り』(1)

2007年10月19日 00時05分25秒 | 沖縄現地情報
「15日~18日まで、関西へ出張に行ってまして、ノートパソコンを持たないで行ったため、ブログを休みました。ご心配をおかけしましたが、また再開しますので、よろしくお願いいたします。」

「城岳(じょうがく)」めぐり その① 最寄駅:壷川
※今回は、那覇市楚辺地区の「城岳公園」を中心に東西に歩きます。
壺川駅、東口ロータリーから東に向って歩き、壺川通りを横切って坂を上がる途中「琉球銀行健保会館」の真向かいに「獅子松尾(シーサーマーチュー)」が、真西に向かって鎮座しています。
火を飛ばして火事にすると恐れられていたガジャンビラ(那覇軍港の西南の丘)に向けて、火伏せのために石造の獅子を置きました。それが、シーサーマーチューで、現在あるのは戦後に造り直された物との事です。
このあたりを仲田松尾といい、付近から古い陶片が多く出土しており、湧田壺屋の窯跡だったようで、火伏せの獅子を置いたのも、火を使ったからだろうと言われています。

シーサーマーチューの前の通りをさらに突き進むと「泉崎リウボウ」があります。四つ角を右折して数m進み電気店前の筋を左折して、住宅街に入ると十字路になった右角に「王川」があり、左に少し入ると「王の殿(オウノトゥン)」があります。16世紀、この辺り一帯を治めていた王農大親(オウノウウフウヤ)という豪族の屋敷跡です。王川はその井戸で、中が広いワンドゥー(椀胴)形になっています。
 
「王の殿」は、王農大親を祀った拝所です。周りをブロックで囲い、奥に破風屋根を乗せて朱塗りの観音開きの扉を付けた拝所があり、その両側には扉を付けた囲いに中に小さなシーサーがいます。

⇒次回は、いよいよ「城岳公園」から「汪川樋川」へ行きます。

『第37回 那覇御大綱挽』参加記

2007年10月15日 00時05分44秒 | 沖縄現地情報

10月14日、「第37回那覇大綱挽」に参加して来ました。
那覇市国道58号線、久茂地交差点の交通を遮断させて、全長200m・総重量43tの大綱を東西に分かれて引き合います。
始まりは、約400年前で沖縄での綱挽は、雨乞い・五穀豊穣祈願などが一般的だったが、那覇では、琉球王府時代、国をあげた祝い事などに行う「祝い綱」でした。現在では、1995年ギネス認定を受けた県民の一大イベントで、県内外の誰でも飛び入り参加できる数少ない行事です。今年は、台風で一週間延期されましたが15:00頃から開始しました。
 西(女綱)
 東(男綱)
最初は、各地区の旗頭(はたがしら)が約50㎏の旗を持ちあげて披露します。
 旗頭揃い踏み
途中、琉球空手や武将の戦い、楽器演奏があって、いよいよクライマックスは、結合です。
 
東(男綱)、西(女綱)が、交差点の中央に接近して開始。この時、観客が動かすのを手伝う(私も東側の綱移動に参加しました)。
合体は、保存会の人達で、直径約50㎝全長3m位の太い棒を穴に入れて、二本の綱を繋げます。

それから、「ハーイヤー」の掛け声で引き合います。43tの綱にさらに人がたくさん乗っている重い綱が動くさまは、感動します。
約30分の引き合いの末、今年は東が約3m動かして、勝ちました(人数制限がないので、観客がたくさん付いた方が勝つようです)。
 
終わった後の綱は、自由に切り取って、参加者が持ち帰れます。
この綱を家の飾っておけば、一年家内安全との事です。

これが終われば、那覇の夏が終わり、浴衣を納めると聞きました。

沖縄の魔除けとまじない その①

2007年10月14日 00時05分17秒 | 沖縄現地情報
沖縄では昔から、「ヤナカジ・シタナカジ」(悪風・よごれた風)が屋敷内に入り込む事を極度に恐れました。
ひとたび「ヤナカジ・シタナカジ」が屋敷内に入り込むと、屋敷は荒れ、家族の健康は冒され、円満な家庭生活はたちまちのうちに損なわれてしまう。
いつ何時、屋敷の中に入り込むか分からない「ヤナカジ・シタナカジ」の屋敷への侵入を防ぐために、沖縄の人々は色んな工夫(まじない)をしてきました。沖縄では、そうしたものを「ムンヌキムン」と称しています。

T字路の突き当りや道の曲がり角に建っている家では、直進してくる悪霊・悪鬼・妖怪が境界を越えて屋敷に侵入してくるのを防ぐために「石敢當(いしがんとう)」を立てました。

万が一にも、門の中までこれらの悪霊が入って来ても家の中まで入り込めないように「ヒンプン」を立てました。

村の要所や家の屋根には、「ヤナカジゲーシ」(悪風返し)あるいは「ヒーゲーシ」(火返し・火伏せ)として「シーサー」(獅子像)を据えました。
 
屋敷囲いの塀、四隅、門、玄関には「貝や珊瑚」を置きました。貝は、悪霊の侵入を拒む魔除けの効果があると信じられてきました。

屋敷の四隅、門の左右には、屋敷の中に邪悪な物が侵入するのを防ぐために「フーフダ」(符札)を張り付けました。

沖縄では、一般に十字に組み合わせたものを「アザカ」と言い、それに特別な呪力を認める考えがあります。ススキと桑の木で十字の形に結んだ「ゲーン」はもっとも便利な魔よけとして用いられました。その小型「サン」は、煮物や重箱料理を戸外に持ち出す時に、その上に載せて邪気が付かないようにしました。また、死霊が屋敷内に入るのを防ぐために「サン」を門に置いたり、葬式の時墓内を浄めるために「ゲーン」を用いました。

このように、沖縄の人は目に見えない力によって、自分達を守護してくれると信じて来た神々へ、深い祈りを捧げて生きてきました。
観光客が歩く、観光地や都心では、見る事は少なくなりましたが、一歩路地を入れば、那覇市内でも上記のような、お祈りや魔除けを生活の場で見る事が出来ます。