保栄茂のマチボー(巻き棒)

2011年09月29日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<9月25日に、行われた6年に一度の「糸満市保栄茂のマチボー」>

糸満市保栄茂(びん)の「マチボー」は、「卯年」と「酉年」【6年に一度】旧暦8月15日・16日の『大豊年祭』で、行われる伝統行事です。


     
毎年行われる「豊年祭」は、馬場から東西の旗頭を中心とした内の道ジュネー(行進)が始まり、馬場に再度集合してシタク(東西両陣営からシタクと呼ばわれる伝説上の人物に扮した若者が戸板に担がれて登場し、綱の中央で対峙して両陣営の士気を高める)、東西に別れて綱引きを行いますが、6年に一度の『大豊年祭』では、綱引きの前に200年以上の歴史を誇る「マチボー」が披露されます。




 
その日は、13歳から59歳までの男子全員が、タンカー棒(喧嘩棒とも呼ばれる1対1の棒術)、三人棒、五人棒などの棒術を披露。






 
そして、ウー(雄)棒、ミー(雌)棒の2つのグループに分かれ、別々に渦巻状の円陣を作り、指笛の合図と共にミー棒は円陣を解きながら先頭から順に、ウー棒の円陣と合流し、最終的には一つの大きな円陣になります。




 
円陣が完成したという合図があると、逆回りをしてウー棒、ミー棒の先頭が円から抜け出して円陣を解いていきます。



※「マチボー」は、大空を雄々しく旋回する鷹の群れの様子に似ていることから「タカマチ」とも呼ばれています。次回の『大豊年祭』は、2017年に行われます。

沖縄では、まだ「ドラゴンフルーツ」の花が咲いています。

2011年09月27日 01時00分00秒 | 沖縄の生活

▲<夜に咲いて朝に、しぼむ「ドラゴンフルーツの花」撮影:9月26日21:15>

9月26日は、朝から曇り空(31度‐25度)。
久茂地にある顧問先のMgr朝会議と朝礼に参加するために8時過ぎに出勤する。

会議を終え、その後、社長と30分くらい話をして10時過ぎに退社する。
途中、ゆいレール小禄駅で下車し、「沖縄銀行田原支店」で所要を終え、ゆいレール赤嶺駅前にある「BOOK・OFF」に寄り、本を2冊買って、11時過ぎに帰宅。

午後は、23・24日のテレビ録画をチェックする(楽園生活、探偵ナイトスクープ等々)。
夕方、7時~9時まで、小禄公民館で行われている「三線のサークル」へ行く。

帰り道「ドラゴンフルーツ」の花が満開だった!
いったん家に帰り、家人を呼び出して撮影をしに行った。






▲<手前にあるのは、明日咲く蕾>





7月頃から開花し始めて、何度も結実していたが、これが今年最後の開花だろうか?10月の中頃に、今年最後の収穫があるだろう。※「ドラゴンフルーツ」

「古民家食堂9月例会」

2011年09月23日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<夕暮れに映える「古民家食堂」(18時頃)>

9月21日の夜、「古民家食堂9月例会」があった。
今回も、高良さんの車に同乗させて頂き店に行く。途中、高良さんが明日から行く、「座間味キャンプ」の荷物を浦添市の呉屋さんに預けけに行くために立ち寄る。






▲<美味しかった!「豚ナンコツのカラアゲ」。沖縄の油味噌を付けて食べる>

今回は、新しいメンバーが二人参加した。
一人は、東京から最近移住してきた矢島さん。
もう一人は、糸満在住で地元O銀行勤務の上原さん。




▲<「おでん」沖縄では、これを「煮つけ」と呼ぶ。左上に「てびち」が見える>



矢島さんは、沖縄で「求職者支援制度」を活用した「介護士育成の教育施設運営」を行うために沖縄に来たと、話されていた。44歳だが頼もしい話だ。また、東京での人脈をこれからもっと沖縄に引っ張ってくる予定だと話されていた。楽しみに見守って行きたい。





月に一度の集まりだが、年に10回は参加しているくらい楽しくて刺激的な集いです。

「ゴーヤの破裂」で、今年の夏も終わりました・・・。

2011年09月22日 00時05分00秒 | 沖縄の生活


◎9月21日、台風15号は、本州へ去った。沖縄を出てから元気になった「台風」は、あまり知らない。今朝は、窓を開けていたら少し寒かった(最低気温は、25度くらい。最高温度も30度を切った)。


5月中旬に植えた。ベランダの「ゴーヤ」の花は、まだ咲いている・・・。

9月に入ると、結実しても大きくならない。
すでに、出来ていた「手のひらサイズのゴーヤ」も、待っていたが大きくならないで黄色くなってしまった。

それを収穫して、家の中で皿に置いていたら、数日たって「破裂」した!

▲<中の種は、「真っ赤」です>


▲<収穫した時点では、少し黄色く色づいた程度と思って油断していた>


▲<その後、ベランダの垂れ下がっていたゴーヤも破裂していた!>

今年の夏は、「ゴーヤの破裂」と、ともに終わったようです。

台風15号

2011年09月21日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<17日の夕方、珍しく綺麗な夕陽を自宅の窓から見る事が出来た。(那覇空港の滑走路を望む)>

私のパソコンが壊れていた、13日~16日の頃、沖縄に台風15号が近付いていた。
時速10㎞(自転車くらい)の速度で、沖縄本島と南大東島間の海上で時計の反対回りで一周してから、9月20日の朝、奄美大島の東側を通過し、九州方面へ北上して行った。


▲<19日琉球新報の台風情報より>

その後、TVのニュースによると「偏西風」に乗り、スピードを増して、本州へ地形に沿って駆け上がって行く。

出身地の奈良県五條市山間部の「土砂ダム」が、この台風15号の雨で崩壊しないか心配・・・。

沖縄本島では、この4年間殆ど台風が上陸していなかったので、地元の人達も今年の「台風の数」には驚いている。
観光業界は、予約キャンセルなどで実害が発生している(本島のホテルでは、台風15号だけで300名くらいのキャンセルが出たとマスコミが報じていた)。




「スミセイ子育てフォーラム」

2011年09月20日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<会場で、配布されたプログラム>

9月17日の13:00~15:45、浦添市「てだこ大ホール」で、「スミセイ子育てフォーラム」があった。
事前申込で無料入場出来たので、招待ハガキ持参で出かけた。


▲<浦添市「てだこ大ホール」の正面入口>


▲<「てだこ大ホール」の正面入口に来た、白ネコと戯れる子供>

名前の通り、公益法人住友生命健康財団が主催、実行はNPO日本子守唄協会。
NPO日本子守唄協会の理事長西舘好子さんと理事の市川森一さんのご挨拶から始まる。

会場内は、まさに子育て中のお母さん方が子供連れでたくさん来ていて、赤ちゃんの元気な泣き声が聞かれ普段にはない微笑ましい会場の雰囲気だった。

①お話:常田富士男(俳優)の「吉四六の天のぼり」「ザシキワラシの話」(常田さんは、「にほん昔話」のナレータで有名ですが、マイクの感度が良ければ、聞きやすかった)


②子守唄コンサート 
a.大村みのり(歌手&ピアノ)「我は海の子‐海」「浜辺の歌」「芭蕉布」「夏の思い出」「赤とんぼ」
 
b.川口京子(歌手)&長谷川芙佐子(ピアノ)「蛙の笛」「この子の可愛さ」「ホラねろねんねる」「ベーベーぬ草」「中国地方の子守唄」「ヨイトマケの唄」

途中休憩をはさみ後半へ続く。

c.NPOうーてぃらみやの「竪琴演奏」「名付けの子守唄」(竹富島の子守唄)、「南風原山川の子守唄」(沖縄本島の子守唄)「ねんねぐりしー」(徳之島の子守唄)「こねまぬ父や」(八重山地方の子守唄)


▲<「NPOうーてぃらみや」の演奏中、舞台投影映像の中の赤ちゃんや子供が活き活きとしていた(撮影今泉真也氏)>

d.「南風原町少年少女合唱団」「首里少年少女合唱団」「栄光メイツ合唱団」による合唱「いったーあんまーかいが」(沖縄本島の子守唄)「ばんがむり」(宮古地方の子守唄)「夜の子守唄」(八重山地方の子守唄)

e.古謝美佐子(歌手)「沖縄わらべうた童謡メドレー」(沖縄地方のわらべうた)「子守唄メドレー」(竹田の子守唄、江戸の子守唄、大村御殿、五木の子守唄、二見情話)「童神」【古謝美佐子さんは、私がこのイベントに出掛けて行った目的の人です】

最後は、古謝さんの三線演奏で「カチャーシー」が始まると、子供達数十人が舞台に上がり、「カチャーシー」を踊り大盛り上がりで締めくくった。

「夏祭り夕涼みの会」

2011年09月17日 21時00分00秒 | 沖縄の生活


顧問先の会社が、9月10日従業員向け「夏祭り夕涼みの会」を行った。
会場は、北谷町美浜にある「クロコダイル」という店(17時集合)。
従業員の自己負担は1500円で会社が1500円追加負担した。
企画運営は、今春入社の新人6名ですべて行った。



従業員の大半が、那覇市周辺に住んでいたので、参加者が集まるのか危ぶまれていた。
テーマが、「夕涼み」なので、女性は浴衣、男性は浴衣&甚平の姿で参加する趣向(女性は、貸衣装を使ったとかで、浴衣参加者が10数名いた)。家族の参加を歓迎にしたので小さなお子さんも参加して一層賑やかだった。





参加者は、入口で選んだ包紙の中に書いてあるミッションを果たす事(女性とヨーヨー釣りや花火をするなど)。

夏祭りをイメージした会場には、ゴム鉄砲の射的で、○○さんとデート券など当てて遊んでいた。

危ぶまれていた参加者数は、時間差はあったが、ほぼ全員参加して大成功だった。


▲<8時も過ぎると、北谷美浜の「観覧車」も美しい>

この会社は、年に4度くらい、このようなイベントがあり、その際に従業員同士が、部署を超えて語り合えるのは実に良い機会だ。


▲<今夜も楽しく更けてゆく・・・>


▲<お店に名前になっている。店内の片隅に飼われている「ワニ」君>

※9月13日の朝から、パソコンのインターネットが使えない!!「プロバイダー」や「パソコンメーカー」に連絡するが、時間が掛る割には、何も進まない。最終的には、「再セットアップ」をするしかないとメーカーのアドバイサーに言われる始末。仕方なしに、パソコンに入っているデーターや写真のバックアップに一日掛けて行う。15日深夜、「再セット」を一人で始めたが、最初の個所で躓く。最終的には、16日の朝、「パソコン技研沖縄」に電話をして出張修理を依頼。午前中のはずが、来たのが14時で、19時までかかりやっとインターネットが開通。・・・と言う訳で、9月17日に「沖縄楽園生活」の更新を行えた次第。

「今夜は十五夜」

2011年09月13日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<9月12日、那覇の自宅から見る事が出来た『十五夜』の月>

9月12日は、旧歴の『8月十五夜』中秋の名月の日です。
12時前、晴れていたのに突然の豪雨。夜も月が出ていたのに、突然に雨が降ったりの猫の目にような天候の日でした。

きのうと一昨日は、夜に首里城で『中秋の宴』琉球舞踊の演舞が中庭で行われていました。




▲<「首里城中秋の宴」いずれも昨年のもの>

今日の昼、妻が沖縄の友人から自家製の「フチャギ」を頂きました(スーパーで、はたくさん売られている)。


▲<小豆は甘くない塩味>

※「フチャギ」は、沖縄の十五夜のお供え物です。
「月や真中に、星やあまくまにふちゃぎあかまーみ、ぶったくわった」(月は真ん中に、星はあちこっちに、フチャギには小豆がべたべたと付いている)と、沖縄には、餅を月にたとえ小豆を星にたとえた狂歌が残っています。

「ご機嫌な職場」

2011年09月11日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<9月9日、豊崎総合公園の管理棟から駐車場を望む(中央に私の車が写っている)>

「どうせ仕事をするなら、明るい職場がいい」。いよいよ、この考え方が「間違い」である事が明確になった・・・。こんな言葉から始まる、この本「ご機嫌な職場」を豊崎総合公園の浜で、太陽を浴びながら読んだ。

「どうせ仕事をするなら」という小さなレベルではなく、経営者にとって最重要課題は、『絶対に明るい職場をつくる必要がある!』のです。



本論に入る前に、著者の酒井穣氏は、2008年に発表された「不機嫌な職場――なぜ社員同士で協力できないのか」(高橋克徳ほか)を紹介する。

本書は、職場を人間の「学習」が起こるコミュニティーとして捉えています。
しかし、この職場コミュニティーが、インターネットの登場により、猛烈な速度で弱体化していると警告する。


▲<台風14号がそれた沖縄の浜では、平日で人は少ないが海水浴を楽しんでいる>

「マズローの欲求の5段階」(下位の欲求が満たされてやっと次の段階の欲求を持つ)を例に、高度成長期の日本では、【終身雇用】が「生理的欲求」「安全の欲求」「親和の欲求」を提供していた。

しかし、現在の日本は、「生理的欲求」「安全の欲求」は、【自己責任で】。「親和の欲求」は、【危機にさらされている】状況。私達は今、「【親和の欲求】が弱体化した、他人の事など気にしていられない社会に生きている」そして、特に職場コミュニティーが弱体化している。



本の後半には、「ご機嫌な職場のつくり方」を9つ紹介している。
どれも大げさなやり方ではない、ごく自然でフレンドリーな方法です(どの企業も取り入れる事が可能)。経営者のみならず、現場を預かっている管理職も必読の啓蒙書だと思う。


▲<東洋経済新報社2011.9.8刊>

「昔、沖縄の風景展」

2011年09月09日 09時30分00秒 | 沖縄の生活

▲<牧志「サイオンスクェア」フロア通路で行われている「むかし沖縄写真展」>

◎【なでしこJAPANロンドン五輪決定おめでとう!】◎

現在、那覇市牧志の「サイオンスクェア」で、『明治時代と大正時代の琉球絵葉書』をパネルにしたものを展示中。




▲<昔の八重山の風景もたくさんあります>

これは、首里にある「首里琉染」の創業者故山岡古都氏が収集した、膨大な数の絵葉書を拡大パネルにしたもの169点です。


▲<辻町の”じゅり”さん達?の写真も>



展示されている“明治・大正時代”の琉球風景を観ると、那覇港がのどかな東南アジアの港の様に見え、現在知っている場所(壺屋)が、驚くほどたくさんの人で賑わっていて、昔は随分栄えていた様子が解る・・・。


▲<凄くにぎわっている昔の壺屋の街>


▲<昔の“港”や“軽便鉄道”(沖縄にも戦前は、鉄道があったのだ)の風景も>


▲<“軽便鉄道”与那原駅>

当時は、風景を撮影しただけの単なる「絵葉書」が、今では、貴重な歴史研究資料になっている。
山岡古都氏の先見の明に改めて感服する。


▲<凄い人数の“糸満市場”風景>



一見の価値あり!是非、一度訪れてみて欲しい(9月1日~9月15日)。

セーラが沖縄にやって来た!

2011年09月07日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<沖縄中小企業家同友会第32回輝く女性経営者のつどい>

2004年の頃、朝日新聞に長野県小布施町の老舗酒造会社にアメリカ娘が飛び込んで、凄い改革をしている「台風娘」の記事を見た。彼女の口ぐせは「投げたらあかん!」。関西弁のヤンキー娘[セーラ・マリ・カミングス]にすごく興味を持った。

その数年後、小布施町に行き彼女が勤めている㈱桝一市村酒造場を訪ねた。彼女には会えなかったが、同社が運営しているレストランで食事をし、「北斎館」も見学してきた。

それから、6~7年経ち、その彼女が9月6日那覇市天久「ザ・ナハテラス」で講演するという事を知り、急いで話を聴きに行きました。


▲<ザ・ナハテラスの大ホールには、約200名くらいの聴衆でぎっしり>

彼女は、2006年に代表取締役になっていた(結婚もして2歳児の母親です)。
以下、セーラさんの講演語録です。

「やりたい事がある時、ブレーキを掛けられても、やる気を試されていると思え」
「新しい事をする時は必ず、“ダメ”と言われるが、それは後で“タメ”になる」


▲<「“バツ”も、少し傾ければ“プラス”になる」と話しているところ>

「本当の事を言うと人は怒る。怒られたという事は本当の事を言ったからだ」
「私は、マラソンが好きで諦めない性格。だから何カ月も言い続ける」
「日本は四季を感じられる国。だから、毎月季節のイベントを行う事を考えた」
「“小布施見に(ミニ)マラソン”」(ハーフマラソン)を言い出して実行委員長を10年続けている」
「出来ない理由が100あっても出来る理由が一つあればやれる」



「新しい事をやろうと思えば、役場で“ハンコ”がたくさん必要と言われた。それを役場の“反抗”と言う」
「マラソンを計画した時、警察に制限時間を一方的に決められたが、制限時間のないマラソンにしたかったので、妥協してはいけないのは“安全”ですが、妥協してもいけないのも“時間”と言って制限時間の無いマラソンが実現した」
「小布施町を美しくしたいと思い、一人でゴミを拾っていた。“1530(市ゴミゼロ)”を発案して今では、住民ぐるみの活動になった」



「“瓦”に興味を持ち保存を考えた。“かわらなくては”の運動を起こし瓦製造技術を保存した」
「以前、会社は正月長期休業していた。しかし、会社の前をたくさんの人達が歩いている事にヒントを得て“餅つき”をして無料で振舞った。今では、正月の餅つきが小布施の恒例行事になり、旅行客も増えた。これを“モチベーション”と言う」
「何かやる時に必ず、20%の賛同者と20%の反対者がいる。残りの60%はどちらでもいい人。しかし、やれば途中から、必ず賛同者が出てくる」



「落ち込む事もある、悪い事ではない。その力を前向きに使う。押すだけではなく引く時も必要だ」
「旅は良い。“可愛い子には旅をさせよ”充電する時。リフレッシュして家に帰るのだ」
「汗をかかずに諦めるな!でも、走っても後から誰も追って来ない時もある(笑)」

日本的なものに対する外国人独特の視点と、超ポジティブマインドで突き進む生き方。現状に甘んじず、良いと思った事はとことんやる。反対されても敢えて聞かない。強い“志”に基づいた『突破力』に、感服しました!


※彼女の詳しい活躍は、日経ビジネス文庫「セーラが町にやってきた」をお読み下さい。

佐野眞一講演会

2011年09月04日 01時00分00秒 | 沖縄の生活


9月3日、17:00~19:30琉球新報本社(天久2階多目的ホール)で、「沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史」の文庫本化を記念して講演会があった[3・11と沖縄 佐野眞一×前泊博盛(元琉球新報記者)×司会岡留安則(元噂の真相編集長)]。

単行本が発行された2008年9月30日は、私が沖縄に移住してきて一年が経っていたが、650Pに書かれている内容すべてが、沖縄の内容で私が今まで知らなかった事が一挙に書かれている凄い本だった。大変なボリュームだったが、約一週間以内に一気に読んだ記憶がある。

その時の沖縄での発刊記念講演会は、琉球新報ホール(那覇市泉崎)で傾聴出来たが、今回も琉球新報本社で聴く事が出来て感激!(今回も最前列)。



この本を書かせるキッカケを作った、本の中に出ていた退職刑事から米軍兵士の沖縄女性暴行写真を見せられたベテラン新聞記者が、前泊氏の新米時代の話しだったと佐野さんの口から聞いた。

単行本発刊から3年、今年の3.11の東日本大震災があり、テーマは「福島&沖縄」。
どちらも戦後日本の国内植民地という共通な立場があると佐野氏は語った。
続けて、自ら福島原発の1㎞まで踏み込んで観て来たマスコミが書いていない真実を語り、日本のマスコミの足腰の弱った現状を非難した。

佐野氏にかかると、沖縄だけでなく日本中のマスコミ関係者の立場は弱い。私も最近の新聞記者の弱体化は日頃から感じているだけに溜飲が下がった。

司会の岡留氏の切り込んだ進行で、最後の参加者からの質問や意見も面白く、最近にない盛り上がった講演会だった。



最後に、佐野氏が「原発も基地も人間が造ったものだから、無くすことは可能だ」と話された事は心強かった。岡留氏が、「マイケルムーア監督に依頼して、沖縄の基地をテーマにした映画を創らせ、世界で上映させたら状況が変わるはずだ」。の意見に喝采。

「涙そうそうのロケ現場」

2011年09月02日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<豊崎総合公園「豊崎美らSANビーチ」の片隅ある「涙そうそう」のロケ地記念プレート>

映画『涙そうそう』(なだそうそう)は、作詞:森山良子・作曲:BEGIN「涙そうそう」の歌詞を元に映画化した作品です(土井裕泰監督・2006.9.30公開)。



沖縄県那覇市で、自分の店を持つ事を夢見みて市場や居酒屋で働く新垣洋太郎(妻夫木聡)のもとに、離島から高校に合格した洋太郎の妹・新垣カオル(長澤まさみ)がやって来るところから始まる。たしか異母兄弟だが、小さい頃から兄はいつも妹を守ってきた。今回も無理をして身体を壊しても妹を必死に守る。泣いたなぁ・・・。

その兄が、海の造成現場で働くロケ地になったのが当時造成中の豊崎総合公園「豊崎美らSANビーチ」だった。今はその場所に、記念のプレートと小さな展望台(兄ィニィの丘)がある。


▲<「兄ィニィ」の丘から海を望む>


▲<中央奥にいつも私が「日光浴&読書」をしている「豊崎美らSANビーチ」の管理棟が見える>