瀬長亀次郎の「不屈館」

2013年09月30日 10時30分00秒 | 沖縄の生活

▲<ありし日の「瀬長亀次郎」さん>

2013年3月、那覇市若狭(若狭小学校付近)に、沖縄の復帰と平和な社会実現を目指して命がけで闘った、「瀬長亀次郎(元那覇市長&元衆議院議員)」の資料館が出来た。少し日が経ったが、9月27日に見学をして来た。

沖縄の戦後史、特に米軍統治下における民衆状況が学べる場でもある。

本人に贈られた、美術品や工芸品も公開されている。中には、瀬長氏が1971年、フランス訪問した時、フランスの平和団体から贈られた「ピカソの絵」<平和を象徴する鳩>と<花束を握る手>の2作品も含まれている。

彼を詳しく知らない人には、館内に設置されている、NHKTV番組「その時歴史が動いた」<瀬長亀次郎編>のDVD(60分)を観ればいい。那覇市長当選した際、米軍統制下にあった地元銀行から融資を止められ市予算がストップした。その時、市民が納税で協力した(77%→97%へ)エピソードは胸がすく。

瀬長亀次郎さんの演説は、凄く解り易く軽妙だったので、子供もたくさん聞きに行ったと聞く。人間的にも魅力のあった人だったらしい。

【不屈館】入館料:大人500円 休館日:火曜日・年末年始 開館時間:10~17時 駐車場:10数台あり 施設名は、占領軍の弾圧を受けながらも闘い続けた瀬長が、生前好んで揮毫した“不屈”にちなむという。


▲<「不屈館紹介冊子」より>

※「瀬長亀次郎」1907年沖縄県島尻郡豊見城村(現、豊見城市)我那覇で生まれる。旧制第七高等学校(現鹿児島大学)に進学、社会主義運動に加わった事を理由に放校処分となる。戦後、名護町助役、沖縄朝日新聞記者、毎日新聞沖縄支局記者を経て、1946年にうるま新報(現琉球新報)社長に就任。終戦後、米軍占領下の沖縄で「沖縄人民党」を組織し圧制に対する抵抗運動を行う。返還前の沖縄で立法院議員や那覇市長を歴任。返還後は、日本共産党に所属し衆議院議員を7期務める。2001年(91歳)死去。


「そして父になる」

2013年09月28日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<9月27日、先行上映ロードショーで「そして父になる」を観た>

「そして父になる」は、第66回「カンヌ国際映画祭」«審査員賞受賞作品»で、是枝裕和監督の作品です。

是枝監督が、福山雅治から声を掛けられて、かっこいい彼を「嫌な奴」にしたら、面白い作品が創れると考えたらしい。

キャッチフレーズになっている「6年間育てた息子は、他人の子でした」でも解る通り、「子供取り違い事件」をテーマにした、「生みの親、育ての親」「親子とは何か」「母と父」「家族とは何か」をずっしりと考えさせてくれる。

福山雅治演じる、エリートビジネスマンの嫌な奴が、どう変化して行くか?

過去の「取り違え事件」では、100%血の繋がりを取るといわれるが・・・。



同時進行で両方の親に気持ちが移り、自分ならどうするかを考え、ドキドキしながら観た。今年の日本映画の中で、ベスト3に入る作品でした。

映画「許されざる者」

2013年09月24日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<「渡辺謙」だから出来た、「許されざる者」«日本版»>

素晴らしい天気だった3連休最終日、9月23日に「おもろまち」のシネQへ、渡辺謙主演の「許されざる者」を観に行く。

ご存知の通り、この作品は「クリント・イースドウッド」監督・製作・主演で、第65回(1992年)のアカデミー賞を4部門受賞作品した(作品賞/監督賞/助演男優賞/編集賞)のリメイク版です。

渡辺謙が、主演を演じるという事で「クリント・イースドウッド」と「ワーナー・ブラザーズ」が了承して実現した。

西部劇を、日本でリメイクした監督・脚本は、李相日(「フラガール」で、第30回日本アカデミー賞最優秀作品賞・芸術選奨新人賞。「悪人」で、第34回日本アカデミー賞優秀監督賞)の実力者。明治維新10年後の北海道を舞台に、見事に創り変えた。これだけで、まず観に行く理由は十分にある。

日本版の配役は、主役「渡辺謙」オリジナル版(クリント・イーストウッド)。「柄本明」オリジナル版(モーガン・フリーマン)。「柳楽優弥」渡辺謙とともに、賞金首を追うアイヌ出身の青年。「忽那汐里」顔を斬られ心に傷を負う遊女。「小池栄子」年長の女郎。「佐藤浩市」街を牛耳る警察署長、オリジナル版(ジーン・ハックマン)。「國村隼」も・・・。

晩秋の北海道を舞台に選び、日本離れをした大きなスケールで、殺伐とした空気感を出し、人間の葛藤を見事に描いた作品に仕上がった。演じた役者陣の演技力に引き込まれ、あっという間の2時間だった。

でも・・・。オリジナルと比較したら、なぜ?主人公が10年間封印していた「殺人者」に、なったのか?や、人間の「業」の描き方は、クリント・イーストウッドの方が深みがあった。 

古民家食堂9月例会

2013年09月18日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<今回は、古民家食堂のメニューには無い「お好み焼き」です>

9月17日の夜、2カ月振りに「古民家食堂」の9月例会に出席した(前回は、パソコンが壊れて参加出来ず)。

久し振りに、「ゆいレール」で行く(「赤嶺駅」~「首里駅」へ行き、歩いて15分くらい)。

場所は、「南風原大名」だが、「那覇空港」近くの自宅から約一時間以内。

今夜は、幹事の又吉さんの企画で、参加仲間の「原川さん」の「お好み焼き」が、メイン料理です。

「お好み焼き」と聞いていたので、完全に「関西風」と思っていたら、なんと!「広島焼き」でした。


▲<返しがすごく難しいのだが、原川夫妻は、難なく行っていた!>

解る人には解ると思うが、「広島焼き」は、お好み焼きで一番難しい料理なのです。




▲<「レシピ」通りなのか解らないが、「きじ」が卵焼きのようで、上品なオムレツの感じ・・・>

原川さんは事前に、店にレシピを渡し、材料を店に用意させて創るやり方でした(エライ!)。

参加者10人に、10枚は焼いただろうか?

みんな、「おいしい、おいしい」と言ってたいらげた(関西風と違い、軽いので一枚くらいは食べれる)。

今回は、原川夫妻に感謝。お疲れさまでした!


▲<私は、用意されていた具材の「沖縄そば」で、「沖縄風焼きそば」を手伝った>

65歳以上が4人に一人

2013年09月16日 13時00分00秒 | 沖縄の生活


9月16日の日経新聞他で、高齢者(65歳以上)が、過去最高の3,186万人になり、初めて総人口の25%に達した(総務省調査)と報じている。

1947年~1949年の団塊の世代が続々と仲間入りしている事が増加の要因。

9月15日時点の、高齢者人口は昨年に比べて112万人増え、後期高齢者(75歳以上)も1,560万人と43万人増えた。



今は「敬老の日」と言うが、昔は「としよりの日」と言っていた。その頃の、65歳は本当に老人だったが、日本人の平均年齢も伸び続けている現在の65歳は凄く元気だ。健康そのもので、日本にまだ貢献しなければならない年代だ。日本の高齢者は、80歳以上にすべきと思う。



※【日本人平均年齢の驚異的な伸び】1947年(女性53.96歳、男性50.06歳)が、2010年(女性86.39歳、男性79.64歳)。63年間で、女性+32.43歳、男性+29.58歳伸びている。

※【敬老の日の始まり】兵庫県多可郡野間谷村の村長が、1947年に提唱した「としよりの日」が始まり。「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村作りをしよう」と、農閑期の気候も良い9月中旬の15日を「としよりの日」と定め、敬老会を開いていた。これが兵庫県全体で行われるようになり、後に全国に広がった。その後「としより」という表現は良くないという事で1964年(昭和39年)に「老人の日」と改称され国民の祝日「敬老の日」に制定された(日本以外の国にはない)。<ウイキペディアより>

女性に、好かれるいい店とは?

2013年09月12日 00時00分00秒 | 沖縄の生活

▲<那覇市内で見つけた女性に好かれる店>

私は、広島と沖縄で「飲食店」に、お客を誘う「フリーペーパー」の仕事をした事がある。

そして、たくさんの飲食店を訪ねて飲んだ。

当然ながら、「美味しい店」+「値頃感あり」の店が、繁盛する事を学んだ。

でも、別の視点で「女性に好かれる店」が繁盛する法則を発見した。

店を決めるのは女性。金を出すのは男性(笑)。そして、女性が集まる店には男性も集まる・・・。

よって、「女性に好かれる店は繁盛する」という法則である。



その、女性に支持される店とは、ズバリ「トイレ」です



「清潔感」と「女性のための気遣い用品」です。




▲<男の私が、何が凄いかは、ここでは述べないが、女性が見れば解るはず。※しかし、私から店に伝えたが、もう一つあり。それが出来ていれば完璧でした(上記の写真は、全てこの店の小さなトイレ内を撮影したものです)>

普通の居酒屋の小さな男女共有トイレでも、オーナが勉強していたら、女性客の集客を増やす事が出来るのです。


そんな店を、昨夜、那覇市内で見つけ、嬉しかったので紹介します。


▲<那覇市久茂地にある、ごく普通の居酒屋の「ふうりん」でした(恐るべし)>

沖縄は、9月に入ってもまだ夏です。

2013年09月10日 10時00分00秒 | 沖縄の生活

▲<9月4日の午後の空。美しい「入道雲」が出ていた>

9月に入り、驚いた事があった。那覇よりも緯度が北にある「久米島」付近で、「台風17号」が発生した事。

私の知る限り、宮古島や石垣島より北側で、台風発生の記憶はない。

17号は、那覇でも確かに2・3日強風はあったが、日ごとに沖縄本島から離れて行くので、台風の被害も無かった。

発達途上で勢力がある状態で、九州を横断したので九州や四国は大変だったと思う。

17号が本州付近で、「熱帯低気圧」に変わった頃から、那覇も朝夕は涼しくなった(とは言っても30度を切ったという事)。

今年の夏、雨の降らなかった沖縄に、「かたぶい」も、始まった(「かたぶい」とは、極小地域で降る、にわか雨の事)。


▲<家の近くの児童公園に咲いていた「鳳凰木の花」>

今朝、久振りにブログを書いている部屋は、30度をすでに超えている・・・。

ここ数日、TVは2020年のオリンピックの事ばかりを報じているが、パラリンピックを含めて、さすがに、日本だと言われるような、オリンピックになって欲しい。

9月4日は、「古酒の日」!

2013年09月04日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<沖縄県酒造組合青年部主催の「古酒の日」のチラシより>

沖縄では、泡盛を3年以上寝かせたものを「クース」と呼んで重宝する。「クースの日」は、琉球泡盛の古酒を世に広めるために、2000年9月4日、沖縄県酒造組合連会が9月4日を「クースの日」に決めたのが始まりらしい。

昨年まで「クースの日」は、マスコミが朝から伝えるのみだったが、今年(2013年9月4日)は、沖縄本島の居酒屋100店で、お客に限り一人一杯、「ふるまい古酒下さい!」と言えば、無料でを振舞って貰えるらしい(但し、参加店舗のみで有効)。


▲<参加店舗一覧、Webサイト「ちゅらグルメ」で検索すれば、詳しい情報が見れる>

古酒(クース)とは、泡盛を甕や瓶で寝かせると、コクや独特の香気が出て旨くなるので、古酒(クース)として珍重されている。

「泡盛の表示に関する公正競争規約」によって、古酒と表示する場合には「全量を3年以上貯蔵したもの又は仕次ぎしたもので、3年以上貯蔵した泡盛が仕次ぎ後の泡盛の総量の50パーセントを超えるものでなければ古酒と表示してはならない。古酒の表示に代えて、クース又は貯蔵酒若しくは熟成酒と表示する事が出来る。貯蔵年数を表示する場合は、年数未満は切り捨てるものとする。」と定められている。長期貯蔵酒の規定は単式蒸留焼酎の公正競争規約にもあり、3年、50%超の要件は同じである。

沖縄県酒造組合連合会の自主基準、本土並み課税を見込み、一般酒の価格競争力が無くなったとしても単価の高い古酒で対応すべく、古酒の基準を厳格化して品質向上を目指す機運が生じた結果、2004年6月から、沖縄県酒造組合連合会により自主基準が導入された。この基準では、「10年古酒」と表示する事が出来るのは、10年古酒100%、ブレンド古酒の場合は原酒には、最低10年を経た古酒を使用したものである。ブレンド古酒の場合は、「5年50%、3年50%」等のブレンド比率の表示も可能としている。

「古酒の日」を宣言/県酒連、9月4日を「古酒の日」にしようと4日、「古酒の日フェスタ2000」(同実行委主催)が、那覇市民会館中ホールで行われた。古酒の豊かな香りが漂う中、集まった人達が談笑しながら酒を酌み交わした。県酒造組合連合会の石川信夫会長は「泡盛古酒は琉球文化の華、文化遺産とも呼べ、ウイスキーやブランデーなどに匹敵するものだ」と挨拶。同青年部の新里建二さんが「古酒の日」宣言を読み上げた。2000年9月5日琉球新報より

PAIKAJI SALEへ

2013年09月02日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<8月31日の朝、バゲーン会場に行く途中に見た「鳳凰木の花」と「那覇市役所」>

8月最後の日、那覇市泉崎の「沖縄ハーバービューホテル」で行われている「PAIKAJI」のバーゲンに出かける。


▲<ゆいレール「県庁前」から、徒歩5分位にある「ANAクラウンプラザホテル沖縄ハーバービュー」>

「PAIKAJ」は、我が御用達「かりゆしウェア」(アロハ)、株式会社ジュネのブランド(豊見城市)。毎年2~4枚購入し、16着持っている。生地がしっかりしているので、遊び着ではなく「ビジネスウェア」として着用。


▲<いつ観ても美しい、ホテル前のマンションに育つ「ブーゲンリレア」>

10時30分過ぎに到着したら、ホテル2階一番奥の会場にはすでに100人近く入っていた。

過去SALEを行っていた、国際通り三越横の「那覇本店」は、店内が狭いので、20人くらい入ったら身動きが出来なくなっていたので、売り場環境はこちらの方が良い。


▲<自宅に送られてきた「DMハガキ」の裏面、表面に、日時と場所が記載>

大体、一着2万4000円~1万円位の商品だが、MAX80%OFFとDMに書いてあったが、会場の商品は一着1500円~6000円位で販売されていたので、PAIKAJIファンは喜んで買っていた(生地の布まで売っていた)。


▲<行く途中の県庁と市役所間の車道の街路樹「サガリバナ」が、まだ咲いていたのに驚いた>

2着を4,880円(現金でさらに5%OFF)で購入後、「パレット久茂地」に戻り、7Fで少し本を読んでから、「桜坂劇場」へ行き「さよなら渓谷」を観た。


▲<「さよなら渓谷」原作:吉田修一、監督:大森立嗣、出演:真木よう子、大西信義、大森南朋ほか>

ウルトラマンの生みの親「金城哲夫」

2013年09月01日 00時05分00秒 | 沖縄の生活

▲<我が子供の頃、日本のヒーロー「ウルトラマン」>

ウルトラマンの生みの親と言えば、円谷英二監督という事になっていますが、もう一人の生みの親として、円谷プロで脚本家として初期のウルトラマンシリーズを手掛けた金城哲夫さんがいます。


▲<「松風苑」敷地の一角にある金城哲夫氏の仕事場>


▲<仕事をした机の上には、金城さん創った、たくさんの子供達が並んでいる>

その金城さんは、沖縄出身です。金城さんが沖縄で仕事をした当時の仕事場が、南風原津嘉山の「松風苑」内に、今もそのままに残されています。沖縄に来た当時から、一度訪ねたいと思っていたが、なかなか訪れる機会がなかった・・・。

沖縄盲学校を訪問した時、車で10分くらいの所にあるのを思い出し、帰路に立ち寄った。


▲<「サンエーつかざん店」の少し奥にある「松風苑」の風格ある門>


▲<広い庭の一番奥にある小さな洋風の二階にある仕事場へ上がる>

古い門構えをくぐると広大な敷地に内に池や亜熱帯植物が茂っている。良くの営業時間には少し早い準備中の「松風苑」を尋ねたら、丁寧にも従業員の方が案内してくれた。

仕事場の中には、写真でよく見る金城さんの顔写真や、作品に出ていたフィギァがたくさん飾られている。懐かしいポスターもたくさんあり、金城さんが「よく来てくれたね!」と、その辺から出てきそうな雰囲気。ご存命であれば75歳。今の日本や沖縄に対して、どんな意見をお持ちだろうか?と思った。






▲<「金城哲夫の主な作品一覧」>

※金城さんは、1938年7月5日沖縄県島尻郡南風原津嘉山で生まれ、戦後間もない(復帰前)1954年に上京して、玉川学園高等部~玉川大学文学部に学ぶ。卒業後帰郷するが、再度上京し1963年に円谷プロに入社。「ウルトラQ」「ウルトラマン」「快獣ブースカ」「ウルトラセブン」など、黎明期の円谷作品の脚本を手掛けた。1969年に円谷プロを退社し帰郷。ラジオパーソナリイティーや沖縄芝居の脚本・演出や沖縄海洋博の構成・演出などで活躍するが、沖縄海洋博後の地域経済低迷などが重なり精神的にお追い込まれる。1976年2月23日、泥酔して2階にある仕事場への階段から足を滑らせて転落し3日後脳挫傷で死亡、享年37歳(合掌)。ウィキペディアを参照


▲<階段を降りる時に見えた「鳳凰木の花」>


▲<庭にはたくさんの亜熱帯植物があり「ハイビスカス」も咲いていた>