平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2015年8月2日 パレード

2015年08月08日 22時40分24秒 | Weblog
パレード

 福岡に再び来て13年目となるが、お祭り以外で、これほどのパレードは経験がない。地域の皆さんと憲法を語る会を結成して、10年近くにはなるのだろうか、一向に若者の参加が得られなくてこれからの日本はどうなるのだろうと憂いていたが、このパレードには、大学生たちも幾人も加わっていた。
 そして、女性大学生のシュプレヒコールの言葉が何ともほんわかしていて、街行く人の心に自然に飛び込んでいくように思われた。「戦争法案、いらんばい!」、「憲法9条よかろうもん!」、「憲法違反はいかんばい!」、「勝手に決めたらいかんばい!」、「戦争反対!憲法守ろう!」。歩道を歩いている人々とも何となく心が通い合っているような気持になって快かった。
 この日は水曜日だったので、多くのキリスト教会では、祈祷会の日だからなかなか参加は難しかったと思う。連盟の教会関係者は見当たらなかった。しかし、弁護士会、労働組合の各団体、他にも組織をあげてかけつけた人々が多く、そういうこともあって、大きなパレードになったのであろう。そして、我々のように個人的にこのパレードに加わった方々も大勢おられたに違いない。
 今は、老いも若きも挙って否を言う時だ。老いたる者は、「あのような悲惨な戦争を、過ちを二度と繰り返すな!」と、若い者は、「おれたちは戦争なんかに行きたくない、人殺しなんてまっぴらごめんだ!」と叫ぼう。キリスト者たちも叫ぶ。「殺すな!」、「平和を実現しよう!」。


平良 師

2015年7月26日 根底にあるもの

2015年08月08日 22時37分30秒 | Weblog
根底にあるもの

 私の根底にあるものは、キリスト者なら誰もが持っているものだ。つまり、聖書である。聖書には、どう書いてあるのか。それをどう理解するかである。しかし、そうであれば、キリスト者は皆同じ方向を向いているかというと、そうではない。右も左もおれば、そのどちらでもないという方もいる。それぞれが結構自由に聖書を読んでいるのである。聖書自らがそれを許しているからである。
 しかし、何か重要なことを決めるときには、聖書で議論して、どちらかを選ぶべきなのであろう。「教会は、聖書をこのように理解しているがゆえに、このような選択をこの時代に行う」、ということである。しかし、誰がどう読んでも、そのような理解の仕方はないだろう、というものもある。聖書に書いていないむちゃくちゃなことをもし私が熱心に主張し始めたなら、即刻、教会は牧師の解任の手続きをしなければならない。
 バプテストの牧師は、権限については他の信徒と同じとは言え、教会の代表役員であり、教会が社会的に信用を失うことになる。政治家の活動の根底にあるのは日本国憲法である。憲法に則って政治をしていかなければならない。どう読めば、そのようなことになるのか。
 多くの専門家が、それはどう考えても違憲だと言っているにもかかわらず、そのことをやろうとしている。憲法学者よりも自分たちの理解の方が上だというわけだ。この国は、為政者は憲法に従って活動しなければならない立憲主義国家である。


平良 師

2015年7月19日 無題

2015年08月08日 22時29分21秒 | Weblog
無題

実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし…十字架によって敵意を滅ぼされました。
エフェソの信徒への手紙 2章14~16節

 6月に、米国・南部のサウスキャロライナ州で、歴史的な黒人教会で9名が撃たれ、死亡しました。中で、議員も亡くなりました。私も南部で生まれ育ったので、興味深くその後の反応を見ています。私は、日本での生活の方が長くなったためでしょうか、不思議と、日本と米国南部文化との共通点に気付きました。
 例えば、①両方とも大きな戦争に負けた経験があります。南北戦争、そして第二次世界大戦です。それによって決定的な影響を受け、負けた側として、どのようにそのことを受け入れるか、向き合うか、乗り越えるのか、ずっと葛藤の中にあるのです。②負けたからこそ、プライドがあります。戦争の原因やあり方に対しては恥を持つべきですが、それと直面せずにプライドを絶対手放さないのです。③そのプライドに注目する右派が生まれてきました。長年経っても、今だ歴史を書き直そうとしている右派です。南部では、南北戦争敗戦の旗(南軍旗)を重んじ、奴隷制度の現実と切り離し、南部文化の象徴にしています。(旗ではなく、当然に自慢できる最高のピーチパイが象徴となるなら良いのですが。)
 自慢するもののシンボルはどうしても、軍事力や愛国主義につながりがちです。けれでも、圧迫され、苦しめられた人たちの気持ちは変わりません。70年経っても、150年以上経っても、です。
 南部も、日本国内も、「負けてよかった」という声があります。負けたことに納得していれば、弁護する必要がありません。「本当にすみませんでした」、と。
 キリストは私たちの平和です。キリストにより、過ちに対して赦しがあり、私たちは解放されました。誇るのは神の愛。絶対に忘れないのは、暴力の悪循環を止めるキリストの十字架。愛国主義よりもキリストに忠実になり、二つが一つになるようにお祈りします。


L.ハンキンス 師

2015年7月12日 キリスト教会へようこそ!

2015年08月08日 22時25分58秒 | Weblog
キリスト教会へようこそ!

 キリスト教会の建物には、カトリック、プロテスタントにかかわらず、いずれも十字架だけは、どこかに掲げられている。私たちの教会の屋根にもそれは掲げられているし、礼拝堂の正面のステンドグラスにそれはデザインされている。なぜ十字架なのかと言えば、キリスト教のすべては、イエス・キリストの十字架に極まるからである。
 十字架から始まり、十字架に戻ってくる。十字架は、つまずきであり、すべての解決ともなる。十字架は終わったことであると同時に、今なお続いている。そして、これはこの世にあって終末が来るときまで続く。人間の生をさらに生き生きとさせ、死へ向かっていく人間の「内なる人」を日々新しくしてくれるのだという。イエス・キリストの十字架は、罪ある人間のその罪を取り除き、私たちを赦すために、憐み深い神様がなされた救いの出来事であったとキリスト者たちは理解している。
 世の中には、神様がおられるというのなら、どうしてこのような悲惨なことが起こるのか、なぜ、一向に状況は好転してないのかと、思う方もおられよう。しかし、この十字架の出来事の中に、すべてのことを逆説的に捉えなおす目を持つことも教えられている。
 つまり、「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである」。現代は、情報が溢れに溢れていて、その情報をどのようにとらえるかが、この世を真実に生きていく鍵である。真理が満載されている聖書が提供する情報は不動である。


平良 師

2015年7月5日 なでしこのサッカーに学ぶこと

2015年08月08日 22時22分01秒 | Weblog
なでしこのサッカーに学ぶこと

 なでしこのサッカーは、実に地味で華麗だと思う。つないでつないでのサッカーで、他の国のようにパワーで押してくることはあまりない。しかし、こういうサッカーは日本だけではなく、他の国でもいくつかのところはこのようなサッカーをやっているのだろうし、監督の考え方だから、日本のというよりもその監督の考えているサッカーといった方が適切かもしれない。
 つないで、つないでシュートまで持ち込み、決まったときの達成感といったら他のチームよりも何倍もあるのではないだろうか。他のチームは、カウンターを得ると、一気に怒涛の攻めをしてくる。あっという間で、シュートが決まればうれしいだろうが、見ている側からすれば、やはり、つないでつないだ末にシュートに持ち込んで、それが決まると、最高の盛り上がりとなり、これ以上の面白味はない。
 なでしこの地道なつなぐサッカーに学ぶことはある。そして、考えてみれば、このサッカーでかつて世界一になったのである。あのときは、賞の正確な名称は忘れたが、スポーツマンシップを讃えるような賞も併せてもらったと思う。
 アメリカのチームなどを見ていると、パワーとスピードで圧倒される。つないでつないでの繊細ななでしこのサッカーか、パワーとスピードのアメリカのサッカーか、どちらが勝利するだろうか。どちらもお国柄に溢れている。ところで、伝道のスタイルにもお国柄というものはあるのだろうか。つなぐ繊細な伝道!


平良 師