晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

山田道から大栗峠(考察編1) 5/22

2012-05-23 | 山・峠

2012.5.22(火)曇

  大栗峠をめぐるルートをほとんど踏破したわけだが、竹原道、上粟野に下りる尾根道など残っている。いつかの機会に歩いてみようと思う。
 大栗峠の魅力は石碑、石仏が多くあることだ。紛失したものや未発見のものもいくつかあるのだが、数が多いということはこの峠が多くの人に利用される重要な街道であったということではないだろうか。地図を拡げて見るまでもなく、若狭方面、田辺(舞鶴)方面、そして上林の城下から和知方面その先にある京都にむかう拠点となっている。
 大栗峠に向けて、志古田道、弓削道、山田道と主要な道があり、付属するように瀬尾谷道、竹原道があるという形も峠としては特異である。志古田、弓削道が若狭、田辺からの、山田道は城下からの人と物資の流れを受け持ったのだろう。もちろん瀬尾谷道、竹原道はそれらの主要街道に直接繋がる道として作られたものだろう。
 竹原道は歩いていないので解らないのだが、弓削道、瀬尾谷道、山田道とも牛馬、荷車に対応出来る広い道幅であり、各村々から直接登ることが出来るということは、上林側からの人と物の流れが主であったという風には考えられないだろうか。もちろん峠を行った人は帰ってくるだろうし、荷車だって空身では帰ってこないだろうが、物流の方向としては上林各村から和知へと考えると道の有り様の説明がつく。
 柳田国男氏の峠表裏論は単に地形の問題では無くて、人が峠を越える目的、必要性が重要であり、大栗峠の表は上林側であろう。P1010075
 
八津合町府道から瀬尾谷、竹原、山田道の山を望む。真ん中のピークに見えるのは582mのピークか。(2012.2)


 大栗峠を巡る石碑石仏について、わたしが歩いた上林の峠のものより年代が近いようで、銘のあるものがほとんどで保存状態というか風化のすすみ具合も少ない。ほとんどが江戸時代の末期のもので、山田道の道標など明治12年とある。このことは峠のできた時代の先後はともかく、近年まで主要道として使われてきたことを表している。つまりモータリゼーションが発達し、誰もがそれを利用しうる時代まで主役として存在した峠だろうと思う。

 誰もが目をひくのは石碑や道標の大きさであって、「どうやって運んだのだろう」と首をかしげるところだが、おおきいのは峠に横たわっている道標の石柱と弓削道、山田道の分岐にある南無遍照金剛の石碑のみである。この二つは同時期に作られているようだが、一体どのようにして作られたのだろう。つづくP1000079 P1000085

大栗峠に横たわる大道標、大きさがわかるように人の姿を入れてみる。(2011.10)




【作業日誌 5/22】
胡瓜ネット、トマトの屋根作製

今日のじょん:一ヶ月ぶりのじょんシャンプーの日。体重はっと、19,4Kg。え゛~
測り直すと19Kg、大体この体重計おかしいんじゃ。でも一応黄信号なので、夕食に添えているご飯を禁止とする。目標-500gってところか。最近動作にキレが無い、体重のせいかな。P1010778


なんとなく動作が、、、


 

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