晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

スキー 2/12

2010-02-13 | 日記・エッセイ・コラム

2010.2.12(金)雨

 ドッグランどの建設を始めようと準備した途端に雨続きで仕事にならない。椎茸の猿除けネットも張らなければならないし、イライラがつのる毎日だ。世間ではバンクーバオリンピックで持ちきりである。現地では雪不足とかで大変そうだが、フィギアなど楽しみである。
 冬季オリンピックとなるとどこかで話題が出るのが猪谷千春氏で、冬季五輪の日本人初の銀メダリストと言うことである。それも男子回転種目だから凄いことである。1956年のことだから、知らない人も多く、コルティナダンペッツォなんて一体どこの国かい?なんて調子である。イタリアの国であり、その時金メダルを取ったのがトニーザイラーである。白銀は招くよという歌が流行ったことがあり、わたしは歌手かなあと思っていた。
 猪谷氏はトライアスロン連合の会長をされていたことがあり、(現在は名誉会長)何度かご一緒させていただいたことがあった。関空で日本初のワールドカップが開催されたとき、酒席で銀メダル獲得の時の裏話を聞かされた。実は2位のタイムでゴールしたが、旗門の通過についてクレームが出たということだった。げすの勘ぐりをするなら、日本人が好タイムで滑るはずがないという意識があったのだろうか。審議の結果、その時の審判員がきっぱりと旗門は正式に通過していると発言され、無事に日本初のメダルを獲得したということである。
 スキー競技に歴史のない日本がなぜメダルを獲得できたかと言うことになると、それは千春氏の父親六合雄氏の独特な英才教育の賜であると思う。樺太に始まり、北海道や信州、雪のあるところを求めて、自ら小屋を建て、ゲレンデをつくり訓練してこられた様子は六合雄氏の著書「雪に生きる」に詳しい。乗鞍高原の番所にあるいがやスキー場はその名残である。それは用具や設備が潤沢にある現在では考えられない方法である。六合雄氏は何でも自分で作られ、家から生活用具、ジャンプ台やゲレンデなども総て手作りでなされている。スキーを離れても、セルフビルド、自給自足の神様のようだ。
 実はわたしも猪谷六合雄氏にスキーを習った一人なのだ。「雪に生きる」と「雪に生きた八〇年」はその際に購入したものであり、戸隠の吹雪の夜にサインを頂に上がったのを憶えている。つづくImg_3879 Img_3880

1976年と1977年のサインが裏表紙にある。わたしが25才、26才の時である。

 今日のじょん:じょんの宝物はじょんのび村に来たときに持参したゴジラとクッションである。どちらもいつも一緒にいるのでとても大事にしている。クッションは当時のまま原型を保っているが、ゴジラはさすがに手が取れ目が取れ、はらわたを引っ張りだして原型を保っていない。ぺっちゃんこになっても一番のお友だちである。気の毒なのはゴジラ君だ。Img_3877

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引地のこと(13-2) 2/11

2010-02-12 | 歴史・民俗

2010.2.11(木・祝)曇、雨

 引地(6)熊本県天草市本町本引地
 天草市引地という住居表示はない様だが、本町本に引地という小字がある。県道名としては引地本町線というのが残っている。天草市の中心部から県道44号線を4,5Kmのあたりで、県道292号線の起点となっている。
 天草市の郊外の谷間の集落という感じだが、北の山間部を走る広域農道を西に行くと吹の峠という峠がある。また県道292号線を南下すると弘法大師堂というお寺があり、古代金属産地を思わせるものがある。中央構造線は八代海に抜けているという説もあり、そうするとその延長線上にあり、鉱山などの可能性はありそうなんだが、陶石はあっても鉱物の産出は見あたらない。そんなはずはないと調べていると、江戸期の長崎出島に滞在したケンプァーというドイツ人の医師が書いた書物に日本の鉱物に関するものがあった。
「Geschichte und Beschreibung von Japan」という本の中に「日本の気候と鉱物」という記述があり、その中の金について以下の記述がある。
2.金
最も良質の金を産出するのは佐渡である.高品位の鉱脈では1Cattiの鉱石から1~2 thailの金を得る.最近では,脈も少なくなり品位も下がってきていると言われている.当地では良質の砂金も産するという.佐渡に次ぐのは駿河の金山である.ここの金鉱石は高品位で大量に産し,同時に掘り出される銅にも含まれる.薩摩にも何カ所か金山があるが,最高品位では1Cattiの鉱石に4~6 thailの金が含まれる.また大村地区の「おおくす」湾では良質の砂金が産出したが嵐による大波で泥に埋まってしまった.その他筑後の「としの村」,天草島で金が産した.

 天草は上島下島と二島に分かれているが、果たしてどこに金が産出したのだろう。インターネットで調べてみるが、それらしい記事は見つからなかった。地名としては上島の上天草市松島町に金山と言うところがある。金山橋というバス停もあり、金性寺というお寺もある。引地のある下島には天草市新和町、赤城山の麓に碇石(いかりいし)という地名があり、その西北宮地岳町に金の入(きんのいり)という地名があり、水銀鉱を思わせるものがある。宮地町を西に進み十三野山の南に金山という地名がある。これらは八代から南西に並んでおり、中央構造線の延長かも知れない。いずれにしてもかつて天草に金が産出したことは間違いないようだ。

今日のじょん:じょん語録(47)おっさんじょん
じょんは表情が豊かでいろんな表情があるのだが、おっさんくさい顔になるときがある。「おっさんじょ~ん」と呼んでいる。Img_3873

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引地のこと(13-1) 2/10

2010-02-12 | 歴史・民俗

2010.2.10(水)曇

 長い間「引地のこと」を書いていない。その後に進展がないことがその原因だ。前回(2009.11.29)に「引」の意味なすものを列挙したが、私自身がこれではないかと思っているのは水を引く、つまり水車を回しているところである。水車をまわして鉱石を砕くところが引地だったのではないかと見当を付けている。もちろん確固たる根拠は無いのだが、今読んでいる書物に少しヒントになるようなことがある。読了していないので、いずれ御紹介したいと思う。
 前回に淡路島の引地水車(ひきじりすいしゃ)について書いたが、詳しいことを現地の歴史民俗資料館に尋ねているところである。引地水車の場所は淡路市長澤というところで、かつて沢山あった引地水車が一軒再建されたと言うことだ。地図で調べると、阪神淡路の震災の野島断層保存館から南西方向に10Km程度のところである。 この野島断層記念館から北へ1Kmも行かないところに蟇浦(ひきうら)がある。「大陽の道」で日置氏に由来するのではないかといわれた地である。また、同書に出てくる伊勢の森神社は長澤にある。
 
驚いたのは長沢保育所の向かいに金山比古神社があるではないか。上林の引地の氏神である葛禮本神社の祭神が金山彦命であることは再三述べている。やはりこの地も金属関連の地ではないだろうか。歴史民俗資料館のあるところも浅野といい、金属地名かも知れない。引地(ひきじり)というのが一体どういう意味をなすのか、回答があり次第報告いたしたい。
 引地については北海道、九州について地図検索で出てこなかった。北海道はともかく九州に無いとなると、話が余計複雑となる。引地で検索を続けていると、引地本町線という熊本県の県道が出てきた。調べてみると天草市に引地という小字が出てきた。つづく

 今日のじょん:じょんが夜に吠えるのは、その理由がいまだに定かではない。何かに気配を感じて吠えているのだろうが、立って見に行くとゴジラ咥えていたりする。「遊んでくれい」と言ってるだけだ。今夜は強烈な吠え方だ、外へ出て見ると、向かいの竹藪でミシミシと音がする。どうもイノシシが来ているみたいだ。やっぱりじょんは凄いなあ。Img_3871昼間は寝てばっかし。

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浅原のこと(3) 2/9

2010-02-09 | 歴史・民俗

2010.2.9(火)曇

 アソ、アズのもう一つの意味は崩壊地形と言うことがある。特に火山地帯に多く、阿蘇山は著名である。アイヌ語で「熱い岩」という意味もあるそうだ。黒部下廊下にある阿曽原(あぞはら)などはそのまま熱い岩である。上林の浅原をあずらと呼ぶことと、葛禮本(くずれもと)という名の神社も気になっていたので、崩壊地形という意味も調べてみなければならないと思っていた。浅原を航空写真で見ても顕著な崩壊地形は見あたらない。植生のために確認できないのかも知れないし、過去において崩壊があったかも知れない。これらは現地に通って目視、あるいは聞き取りが必要だ。
 葛禮本神社の川向かいに分水というところがある。わけみず、ぶんすい、どうよむのか今のところ解らないのだが、「古代の朱」(松田壽男著)の中に分水嶺に配置されていた水分(みなわけ)神社が、一転して農民に水を配る水分(みくまり)の神様として性格を変えたという内容の記述があった。いわゆる古代の神様が、住民の生活様式の変遷に伴い性格を変えるということである。同様に阿蘇山に祀られた阿蘇明神は火の山の神であるが、やがては雨師となって流行したと言うことである。それは農耕文化が最終的に定着したということであり、ほとんどの神が農耕の神様となっていると言うことである。そういう意味で奈良県宇陀市榛原町にある、丹生雨師神社について調べてみる。というのはこの神社、小字は朝原なのである。分水に始まり雨師神社にたどり着いた。日本書紀の神武紀の伝称の地であり(注)、この神社は元々祭神が丹生都姫(ニュウズヒメ)であり丹生神社として発足しているが、主役をミズノハメ、タカオカミに奪われているというのが松田氏の論である。つまり元々朱砂、辰砂の神が水、農耕の神に変わったわけである。水銀鉱山の形跡は無いようだが、「黄金と百足」若尾五雄氏によると竜王池がある朝原と言うところは赤土である、と言われている。また、神武紀にある飴は水銀ではないかとも言っている。そして水銀鉱脈は風化速度が速く、崩壊しやすい、と言う記述もあるのだ。朝原=丹生=水銀=崩壊地形という関連性がなきにしもあらずということである。水銀にこだわるのは、上林の浅原に大入(おおにゅう)姓の家があることだ。念道にも数軒あるがそれは大丹生であり、又違った株の家だろう。いづれ訪ねて見たいと思うのだが、古代のことについては期待出来ないだろう。それと現地を観察すること、できれば鉱物の濃度を簡便に測れる方法を模索しているところである。
 机上では鉄と水銀の両方の可能性が出てきた、時代を異にして扱われていたのかも知れない。 
 たたら製鉄には一回の操業(一代)に12,3tもの炭を使うそうだ。炭はかさばるため原料の砂鉄よりも近くから調達する必要があり、「砂鉄七里に炭三里」と言われていた。炭焼職人は良質の炭を焼くよう工夫を重ねていたそうである。
 浅原の里は炭焼の技術が群を抜いていたと聞く、その技術の源がたたら製鉄であったとしたら、これはロマンである。

注 日本書紀 神武紀
 九月五日、(中略)丹生の川上に登って、天神地祇を祀られた。宇陀川の朝原で、ちょうど水沫のようにかたまり着くところがあった。天皇はまた神意を占って言われ、「私は今、沢山の平瓦で水なしに飴を造ろう。もし飴ができればきっと武器を使わないで、天下を居ながらに平らげるだろう」と。飴造りをされると、たやすく飴はできた。また神意を占っていわれる。「私は、今御神酒瓮を、丹生の川に沈めよう。もし魚が大小となく全部酔って流れるのが、ちょうどまきの葉の流れるようであれば、自分はきっとこの国を平定するだろう、もしそうでなければ、ことを成し遂げられぬだろう」と。そして瓮を川に沈めた。するとその口が下を向いた。しばらくすると魚は皆浮き上がって口をパクパク開いた。
(宇治谷孟「全現代語訳 日本書紀 上」講談社学術文庫)

【作業日誌 2/9】
ドッグランどコニファー植え付け

今日のじょん:2月には必ず4月、5月並の日があるもんだ。今日はその日で18℃にもなっていた。じょんは表に出て、おとー、おかーの作業をボーと見ていた。Img_3868

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浅原のこと(2) 2/8

2010-02-08 | 歴史・民俗

2010.2.8(月)曇

 さて、その倉敷市浅原の地名の由来について、「倉敷雑学口座」の原文を紹介する。 

   今は「浅い原っぱ」と書く、この「浅原」は1300年代前半までは朝昼晩の「朝」という字が使われていました。清音・山手村境にある福山(ふくやま)から、安養寺、そして現在の浅原集落のあたり までは、僧侶の住居(=坊(ぼう))がたくさんあるということで「朝原千坊(あさばら せんぼう)」と呼ばれ、高野山(こうやさん)や比叡山(ひえいざん)に匹敵する大伽藍 (だいがらん)、仏教の聖地でした。全国からたくさんの偉い僧侶が訪れる地でもあったそうです。また、東側が開けているため、西の山が朝日に映えて美しい土地でした。 「朝日さす夕日かがやく木のもとに朱瓶(しゅびん)ここのつ瓦万々(まんまん)」という歌が残されています。「朱瓶ここのつ」とは9つの大きな塔があったこと、「瓦万々」とは、僧侶の住居がたくさんあったことを表しています。「朝」は「朝日に光り輝く聖地」、「原」は場所とか国という意味、このふたつの文字で「朝原」という地名ができたというのが、一般的な由来です。
 というものである。
次にしめされているのが、朝鮮語のアサが鉄を表すという説で、わたしはこれが本流だと思うのだが、全国にある朝日夕日伝説が金属の鉱床を探し出すためのものであるという説が主流となっていることを考えると両方とも浅原の由来は鉄であることがわかる。
 倉敷市浅原の東に西坂というところがあり、現実に三吉鉱山というのがあって、ウラン鉱、鉛、マンガン、鉄、錫などの鉱物が採れたそうである。また浅原安養寺は高野山真言宗のお寺のようで、最も鉱山に関係の深い宗派である。そしてまた、毘沙門天の信仰が厚く、毘沙門堂には本尊の毘沙門天がまつられている。毘沙門天は生野銀山の山神でもあり、佐渡の金山で大切にされている百足は毘沙門天の使いでもあり、鉱山に関係することが多い。そしてその隣に素盞嗚神社が存在するに至っては信仰の分野でも、鉄、あるいは鉱山に関連する土地だということが解る。
 倉敷の浅原が鉄関連だからと言って上林の浅原がそうだとは限らないが、小字のいくつかが金属地名のようなので説明しておこう。
中風呂、風呂というのが鞴(ふいご)を指すという説がある。これについては引地のこと(5)で徳島県東みよし町の風呂塔という山の説明をしたとおりである。
先日(2010.2.5付)あやべ市民新聞に華浪山の錫という記事があった。続日本記にこの地から錫らしき金属を献上したという事件についての記事である。このあたり、福知山市瘤木は大江山から連なる鉱山地帯である。どのような地形かなと地図を開いていると、瘤木の上流に大呂というところがある。その道、府道528号線を北上すると金山と言うところに達する。また、菅坂峠を越え行永にいたり、東進すると与保呂に至る。この地も古代の鉄に関係する地と聞く。わたしは「呂」というのがなにか意味のある言葉なのではないかという気がしているのだが、単に「炉」では面白くないし、今後の課題と思っている。
 夕船、ゆふねとよむのだろうか、確認していないのだが、「ゆ、湯」は溶けた鉄を表す言葉で、製鉄の古典である隅屋鉄山絵巻にも溶けた鉄を溜めているところをユツボと描いている。また、たたら製鉄の道具に「湯ハネ」「湯ナデ」などが残っている。弓削の伝説で書いたように、鉱物そのものを指すようになったのではないかとも思っている。「ふね」はいわゆる船状になった入れ物とでも言おうか、いろんな事に利用されるものだが、鉄で言えば鉄穴(かんな)流しに鉄船という木製の装置が使われたようだ。地名辞典を見ているとV字状に底のえぐれた谷を指すこともあるらしい。現地が支流の谷であれば鉄の出る谷と理解できるが、ちょっと出来すぎのような気もする。鉱山のメッカ大江山、内宮の東に湯舟山という山があるのも注目したい。 つづく

Img_3229_2
金山彦命を祀る葛禮本神社氏子圏南限。


 今日のじょん:朝のポンポコポン、二段ジャンプが出来るようになった。ドッグランの作製と並行して、市販のアジリティグッズじゃなくて、ワンちゃん達が喜んで遊べるグッズを自然の素材を使って作っていきたいと思っている。良いアイデアがあれば教えてね。ワン。Img_3860 この丸太をもう少し高くして、巾をもう少しとって、、、、。
 

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雪の朝 2/7

2010-02-07 | 日記・エッセイ・コラム

2010.2.7(日)曇

 自転車旅行中、青森の三内丸山遺跡を訪れた際に(2006.9.26参照)学芸員さんに「なぜ縄文文化は東北や北海道などの寒い地域に発展したのですか?」という質問をした。その答えのひとつに「狩猟文化は積雪があることが必要なんですよ」というのがあった。なるほど、狩猟は積雪による獣の足跡が必要なんだ。
 今朝も少し積雪があり、新雪状態となっている。昨日は一気に積雪となったためか動物の足跡も見られなかったが、今朝は様々な動物が行き交い、彼らの胸の内が覗けるようで楽しい。まず犬の足跡だが、近所で放されている犬は二匹居るのだが、どちらも体格が同様でどちらの足跡かは解らない。糞があると解るのだが、新雪時の糞は見つけにくい。ガーデン内に侵入しているが、いつものルートとはちと違う。
 じょんと府道に出ると、隣家との間の道でやたら臭ぎだす。不明な足跡をたどっていくと明瞭になってくる。蹄の跡があり、猪のものと判明、じょんと一緒に追跡する。隣家の畑、じょんのび村の水源あたりをうろつき、木小屋の境まできて、山に帰っている。見事に我が家の周りをうろついているが、侵入はしていない。少なくとも猪に関しては人が居住する地域には侵入していないのだ。隣家は空き家で、普段は居住されていないが、まめに通っておられ、草刈りや野菜つくりをされている。柿や栗、柚子やキウイなどの実もなっている。いろんなものをいただいて助かっている。こういう家が数軒有り、よく頑張って帰ってこられるなあと感心していたのだが、少なくとも獣害に関しては不在地主は居住者にとっては迷惑なこととなっているのではないか。不在だから獣が寄ってくる、おまけに野菜など作っているから余計獣が寄ってくる。帰ってこないなら売り払って、新しい居住者を迎えることが、村のためになるのではないかとふと思えるのである。Img_3864 Img_3865 Img_3866




左:じょんのび水道水源付近の猪の足跡、いつもの行動である。
中:猪の出入り口、山に続く道である。
右:猪は隣家の柿の木のあたりを掘っていた。

 念道橋付近に行っても、犬たち、猪の行動が手に取るように解る。鹿やその他の動物の痕跡は今朝は無かった。獣害に対して大規模なネットが各地に張り巡らされている。果たしてこれが最終的に有効なものであるか、かなり疑問である。ではどうしたら良いのかって、それも解らないけど、徹底的な駆除、絶滅まで持っていく方策以外に無いのじゃないだろうか。日本狼が居なくなって困ったことは無いように、生態系がどうってことは無いと思うんだが、、、、。極端かなあ。

今日のじょん:今日の記事はじょんと一緒なので、お休み。 

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春遠からじ 2/6

2010-02-06 | 日記・エッセイ・コラム

2010.2.6(土)雪

 先日から低温が続いていた。一昨日の夜、大町の温度計が-3℃を指していた。朝はじょんの水や水道が凍っていたので相当夜は冷え込んでいたのだろう。ただ、身体は冬の寒さに慣れきって、そう寒さを感じない。その上陽の光はずいぶんと明るくなり、日照時間も長くなっていたので、春遠からじの感がしていたのである。吉右衛門が来たときにも「もうこのまま雪もきそうにないし、春がくるんかなあ」なーんて脳天気なことを言っていたのだが、今朝は窓を開けてびっくり、真っ白の積雪に吹雪となって、冬が一気に逆戻りした。やっぱそんなに甘くないんだ。

今日のじょん:雪のじょん君をしっかりお見せしやしょう。Img_3838Img_3843まずはうんPして、しばらく雪Img_3845の中を駆け回りやす。それからリードを付けて念道橋までサクサク散歩。念道橋から念道の村を振り返る、橋にはおとーとじょんの足跡だけが続いている。
   
おとーが写真撮ってる間、待ってるワン。上林の奥の方はまだ雪の中。帰ってきたらポンポコポンで二段ジャンプ。Img_3854 Img_3857 Img_3860





おかーも出てきてこんにちわ。もう一回走り回って朝ご飯。Img_3862 Img_3840 Img_3863

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猿襲来か? 2/5

2010-02-06 | 日記・エッセイ・コラム

2010.2.5(金)晴、曇

 休みというのは何千回と経験しているのだが、嬉しいものである。朝寝して、昼前までボーとして、いつものように綾部に買い物に出かける。帰りに27号線沿いの魚幸さんで鯖のへしこやサザエ、鯵のつくりなど買って帰る。へしこは昔のようにやたら塩辛いものでなく、安くて旨い、特に焼いているときのあの香ばしい臭いがたまらない。
 買い物から帰って車を片付けたりしていると、どーも様子がおかしい。んっと畑を見ると、「あー、やられた」、じょんのびファーム最後の野菜である大根が見事にかじられている。「くそー、鹿かなー、猪かなー」しかし朝は気がつかなかったのだ。これだけやられていたら、朝から気がつくはずだ。現場をつぶさに調査する。マルチも破れていないし、足跡もない、猪や鹿なら足跡が残るはずだ。アナグマかなあ、しっかりかじったのもあるが、ほとんどが一口かじったものだ。これはよく聞く猿の手口だ。Img_3830
 もし猿なら椎茸が危ない。実は昨日大きくなった椎茸を収穫し、小指の先ぐらいの小さな椎茸がいっぱい出ているのを確認しているのだ。椎茸は昨秋から出始めているのだが、林の中に放ってあったので、猿の被害を恐れ、木小屋横に移し見えないように寒冷紗をかけていた。恐る恐る寒冷紗をめくってみる。寒冷紗そのものは破られているわけでなく、めくられているわけでもなくいつもどおりのスタイルで居た。ドキドキしながら寒冷紗をめくって、ガックリくる。しっかりやられていた。見事に小さなものまで盗られていた。やっぱり猿めが来やがった。残り少ない大根はよしとして、楽しみの椎茸は許せない。いい知れない虚脱感に襲われる。Img_3831
 猿は昨年の夏以来姿を見せていなかった。林の中で越前クラゲ状の椎茸が出来たときも全然襲われなかった。椎茸が出始めてから3ヶ月、一度も被害はなかった。半年ぶりに姿を現したときが定休で留守にしていたとは、なんという偶然か。それとも以前から狙っていて、留守になるのを待っていたのだろうか、そうするとなんと知能犯なんだろうか。
 ここに椎茸があるのが解った以上、またやってくる、それまでに完全に柵をこしらえなければならない。今、ドッグラン作りが佳境になって調子が出てきたところである。ここで柵つくりに手を取られるのはなんとも手痛い。「何かをしようとしたら、その前にやらなければならないことができてくる」なーんてマーフィーの法則があったっけ。

【作業日誌 2/5】
 ドッグラン柱塗装(6日目)

今日のじょん:もし猿が来ていたとしたら、留守の間もの凄く吠えていたと思う。それでも奴らは、犬が出てこられないのを知って好き放題していたのだろう。じょんはきっと悔しい思いをしたのでは無かろうか。大根や椎茸の現場を臭がせたら、凄く興奮して山の中まで嗅いでいた。

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浅原のこと(1) 2/4

2010-02-06 | 歴史・民俗

2010.2.4(木) 晴

 以前に浅原(あずら)についてアサ、アシ、アソは朝鮮語で鉄を表す旨書いていた。(09.11.12参照)アソなどが崩壊地形を指すと言う意味もあり、浅原がどちらを意味するか不明ということにしていたが、私自身は鉄の産地あるいは加工地であると見ている。Img_3225

葛禮本神社から谷を望む、山の向こうは和知である。


 これはもちろん古代のことであって、文書や言い伝えが残っているものではない。根拠となるものは葛禮本神社の祭神が金山彦命であること、その神社があるのが中風呂という地名であること。その他小字に夕船、浅大谷など金属、金属加工を思わせる地名があること。岩の元、分水という地名も気になっているのだが、目下調査中である。地名については地図サイトで探しているが、総ての小字が載っているわけでなく、ましてや山間部の小字などは地元の人でも解らなくなるような地名もあるようだ。今のうちに住居表示や登記上の地名を調べておきたいと思うのだが、いったいどのようにしたらいいのか困っているところである。Img_3223

浅原の葛禮本神社社殿横にぶら下がっている奇妙な筒、一体何をするものだろう。


 また、近世においても重要な木炭の産地であることも大切である。最終的な証拠となると、鉄滓が発見されることだが、フィールドワークにでられるのは何時になるだろう。
 そんな時、倉敷雑学講座という倉敷市浅原の地名考証をするサイトの記事を見つけた。倉敷市浅原は倉敷ICの北に拡がる地域で、吉備の古代の鉄産地である。どんなところかなとネットの地図を開いてみるとまさしく金属地名のオンパレードである。まず安養寺から浅原峠を向かうと総社市となり軽部山、軽部がある。その西に高梁川があり、自転車旅行で通過したところで、なつかしい。浅原の南、山陽自動車道を越えたあたりに菅生があり、その南東には別府がある。菅生は菅坂同様、菅が鉄を表す言葉と思われる。菅生から国道429号線を北上すると水別と言うところがあり、西に由加山という山がある、これなんかなんとなく金属の臭いがするのだ、、、。いずれにしても古代鉄の主産地であるだけに、研究者には涙の出るような金属地名が並んでいる。つづく

今日のじょん:朝の散歩時にえづいて、吐いてしまった。こういう日は家から出たとき一番に、イネ科の草をかじりにゆく。吐くときも人間と同じようにしゃくり上げるようにして吐くので痛々しい。必ず二度吐くのが何とも律儀な感がするのだが、どうも前夜の食べ過ぎ、あるいは慣れないものを食した時などにあるようだ。Img_3821 そういえば夕べは節分で、豆を数え年分食べさせたっけ。じょんはうち!

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ドッグランど計画 2/3

2010-02-03 | 日記・エッセイ・コラム

2010.2.3(水)雪、曇

 節分には雪降るで、と聞いてはいたが果たして朝は白くなっていた。しかし、陽の光は明るく春がそこまで来ているという感じだ。今年は暖冬予想がくずれたとニュースで言っていたが、上林に関しては暖冬と言っていいのではないか。雪かきもすることなく、このまま春になったら、やっぱり暖冬だろう。
 少雪に気をよくしてドッグランの作製に取りかかっている。なんとか4月頃にはオープン出来ないかと頑張っているのだが、材料の調達に困っている。柵を1,5m、谷側は2mの高さにし、板で作りたいのだが、予算が無い。まとまった古材でも出ないものかと思うが、なかなか揃ったものは出そうにない。とりあえず柱部分は間伐材の杉丸太にして、1×4の12fで上下、たすきに板を渡し、防獣ネットを張るかと考えている。それでもワンスパンの経費が2,000円ほどかかりそうだ。20スパンあるとして、40,000円、塗装代やパーツ代金含めると約6万円の予算か。とりあえず先日からメインゲートの扉とオープンクローズ看板を作っている。
 扉は先日写真でお見せしたが、工夫はなんと言っても取っ手である。三ツ井造園さんに薪として貰った椿の枝を使ったもの、切断面の保護はニスで仕上げるかと思っていたら、森井さんの助言で木工ボンドをすり込むこととした、大きな写真でご覧あれ。Img_3815
 ゲートの柱は奥上林の杉丸太だが、皮をむいてディスクグラインダで磨き上げる。扉の取り付け部分は丸太の平たい部分を選んで、鉋で仕上げる。天井部分は屋根か看板か何が付くか解らないけど、とりあえず防水のためペンキで仕上げよう。丸ノコで背割りを入れようとするが、丸太に直線を刻むのは難しく、あまり深い背割りが出来ない。自作の丸ノコガイドで線を入れていくが、冷や汗ものである。なんとか線を入れて、デッキブラシで清掃して、クレオトップを塗る。とりあえず柱も仕上がったが、問題が出てきた。扉の丁番は最も大きいものを買ったが、それでも扉が重すぎる。引き戸にすれば問題ないが、部品に経費がかかりそうだ。開きの扉とし、キャスターを付けるのが安上がりしそうだ。というわけで、扉の完成は来週以降となった。Img_3812_2 Img_3813 Img_3814
 【作業日誌 2/3】
オープンクローズ看板作製



今日のじょん:今日は節分、2011カレンダーの2月の写真は豆まきと決めていたので、お面を付けて何枚か写す。何とも情けない顔なので、明日もう一度チャレンジしてみよう。Img_3828

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アクセス解析 2/2

2010-02-02 | 日記・エッセイ・コラム

2010.2.2(火)曇、雨

 2006年6月本ブログを開設して以来、今日で92,614回のアクセスを戴いている。今年中に10万回アクセスの大挙となりそうだ。日本一周自転車旅行中は毎日景色も変わって読みごたえがあるかも知れないが、田舎暮らしとなるとたいした変化もなく、退屈な記事になろうかと思うのだが、これだけの方々に読んでいただいて、大変ありがたいことだと感謝している。
 うちのかみさんをはじめ、本文は読まないで、今日のじょんだけ読んでいると言う方も沢山あるそうだが、まあそれはそれで良いかと諦めているところである。嬉しいことは、上林を離れている方が、故郷の様子を知りたくて見ているよと言われることである。頑張って上林の様子や写真を載せようと思うが、変化の少ない田舎のこととて記事にするのが難しい。
 ブログのソフトの中に検索エンジンからのアクセス数という項目があって、フレーズ毎にアクセス数が表示される。読者がどういう記事に興味を持っておられるかというのが垣間見られて楽しいものである。圧倒的に多いのは「じょんのび 上林」や「綾部 じょんのび」などで、これは当ブログを開くために検索されているもので、常時見られる方はお気に入りなんかに登録しておいていただきたい。
 これ以外で、アクセス数の多いのは「柚子絞り器」27、「薪ストーブ」11、「白樫 剪定」9、「ガーデニング diy」6、「久高島」6、「大地の母」6、「薪割り」6、「鉈 研ぎ」6、「マキタチエンソー」5、「四十腰」5、「粉のさしみ」5などと続いている。
 検索されたとおりのアクセス数なので、チエンソー関連となると13件で2位になり、一概にこのままにはとれないのだが、柚子絞り器がトップなのは意外な感じがする。よく考えると、柚子絞り器を検索する人の絶対数は極少ないと思うが、そういう商品も一般的でないし、記事としてそれを書いているホームページやブログも少ないだろうから、晴徨雨読がヒットしているのだろう。柚子絞り器そのものは失敗作で、柚子が絞れなくて、梅の種をとるのに大活躍している状態だ。同様に「粉のさしみ」なども、他に書いてあるものが少ないので、本ブログにヒットしているのだろう。Img_1739
 薪ストーブ、ガーデニング、DIYなどは一般的に関心の高い項目だろうし、久高島の風俗に対し関心が多いのもうなずけるところである。


【作業日誌 2/2】
ドッグランど建設(メインゲートの柱作製)

今日のじょん:今日はシャンプー日、体重は17.8Kgで前回より200gアップ。冬毛も最高潮でふっかふか。Img_3808


気持えーわー。 

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ドッグランど建築始まる 2/1

2010-02-02 | 日記・エッセイ・コラム

2010.2.1(月)曇、雨

 2008年末には完成予定だったドッグランが、ようやく着工の運びとなった。今日は月曜日で店も暇だろうから先日から取りかかっている扉を完成させる。アルミのフェンスを戴きに福知山に行ったのがたしか2008年秋の気がするので、それからでも1年以上たっている。このアルミのフェンスを使って扉を作る。ツーバイフォーやワンバイフォーにペンキを塗ってコーススレッドで留めるだけ、簡単といえば簡単だが、取っ手にはちょっと凝ってみた。これも2008年に薪用として貰った椿の枝を縦に切って、取っ手にする。出来上がってみるとなかなかの見栄えだ。Img_3809

オープンクローズの看板は未完成。

 問題は扉を支える柱で、昨冬に雪で倒れた奥上林の杉の丸太を使うことにする。直径が30cm以上あるもので、先日から皮をむいて用意していたものだ。扉取り付け部分をチエンソーで削り、更にかんながけする。扉の丁番や鍵は購入済みだが、柱を立てるのに一苦労しそうだ。Img_3810
 
この木を立てるのが大変そう。

なお、ドッグランの名称は「ドッグランど」として、なんとか春にはオープンしたい。

【作業日誌 2/1】
ドッグラン作製(扉)

今日のじょん:

本文じょん関連のためお休み

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雨読 「黄金と百足」 1/31

2010-02-01 | 雨読

2010.1.31(日)曇

 「黄金と百足 鉱山民俗学への道」若尾五雄著 人文書院発行2060円、古書で1,400円で購入。
 自転車旅行で佐渡を旅したのが2006年8月28日から31日、佐和田に逗留して金山に通った。博物館や資料館など通い詰めていろんなことを見知ったが、佐渡を離れてひとつ聞き忘れたことがあったことを思い出した。それは佐渡金山の守り神が毘沙門天でその使いである百足を尊び、鉱山では絶対に百足を殺さないと言うことだった。なんで百足なのか、聞き忘れてずっと気になっていたのである。その後ネットで調べたりすると、百足は坑道を表しているという結果だったが、実はどうも納得がいかない理由であった。Img_0392 Img_0402 本書では百足について総てが書かれているのではなくて、第一章 百足と鉱山技術、第二章 佐渡の百足の二章が百足についての記述である。

左:多門院の土蔵の扉 右:道遊の割戸

 百足は鉱山における道具や設備にその名が使われ、鉱石なども白百足とか赤百足とか呼ばれ、鉱山に関連する地名などにも使われていて、鉱山と因縁があるのは確かなようである。検証の結果、百足=鉱脈という結論に至っているのだが、わたしとしては少し?が残る感じだ。
 著者の若尾氏は産婦人科のお医者さんだが、その論説は他の学者や研究者とは全然違う。自らも我田引水を名乗り、強引な論法が多い。例えば百足や鉱山に関する伝説に登場する炭焼藤太、田原藤太、芋掘藤太の藤太は、採鉱=選鉱=淘汰であり、藤太=淘汰とされている。これってにわかに納得でき無い論理だと思うのだけれど。わたしは言語学者ではないので解らないのだが、淘汰という言葉が果たして伝説を生み出す時代に、庶民の間に使用されていたとは思えないのである。こんなふうで、えっと言うような引用があり、信憑性に欠ける。本文は「泉州情報」というミニコミ紙に連載されたものを編集、製本されたものだが、その編集者の森栗茂一氏が解説で、「その内容は、重複し、ときに意味不明であり、誤植も多く、引用も不明確なものが少なくない」と述べておられる。そのとおり、本人は解っているんだろうが、読者には理解のしようがない文章がいくつかある。そんなこんなで、当初はこの本に不満を持って読んでいたが、読み進めるにつれて、若尾氏のフィールドワークの精力的なこと、年代的に見て金属文化としての民俗学の開拓者であることなど受容する部分が多々あることに気付いてきた。
 学説の総てが真実ではないけれども、多くの説の中から真実を見つけ出す楽しみが見いだせるような本である。Img_3811

今日のじょん:2011じょんカレンダー、一月候補決定
本当は初詣の写真にしたいのだけど、ろくな写真が無くて、同じ元旦の躍動的でアンバランスなこの写真がお気に入り。        

Img_3685

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