晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

引地のこと(14-2) 2/20

2010-02-21 | 歴史・民俗

2010.2.20(土)晴

 長澤村の金山比古神社については創建が1456年(室町時代中頃)に長澤村の開発者近藤与左衛門宗重らによってなされたとある。これははっきりした棟札があり、棟梁や願主名が記されている。創建時は蔵王権現社と呼んだ。蔵王権現は吉野の金峰山寺の本尊で開祖は役戸角であり、修験道の本山である。近藤与左衛門は釜口村からヒヤリ峠を越えて長澤の地に至ったとある。与左衛門は吉野の蔵王権現の信仰が厚く、長澤の地を吉野に見立てて蔵王権現を祀ったそうだ。明治3年にその蔵王権現から金山比古命に祭神を代えている。これは文書には説明がないが、明治の廃仏毀釈(1868年4月に発した太政官布告「神仏分離令」、明治3年1月3日(1870年2月3日)に出された詔書「大教宣布」などの政策によって引き起こされた仏教施設の破壊などを指す。)に対応する措置だと思う。金山比古神社の東に中の森、伊勢の森両神社があるが瑣小川(さおがわ)神社、豊受神社といい生穂賀茂神社の末社になったこと、金山比古神社の国有林払い下げの古文書などが記載されており、最後に同神社の的矢神事のことが書いてある。
 さて、親切に送っていただいたこれらの文書を見る限り、金山比古命は明治になって急遽奉られたため、古代の金属文化とは関係のない神社であると言える。
 ところが室町時代以前の長澤村はどのようなところだったのだろう。与左衛門が長澤の地に来て蔵王権現を創建したとき、村の様子は如何ばかりなのか。如何に山深いとはいえ、淡路のこの地が未開の地であったとは思えないのだが。そして与左衛門は何を求めて、何のためにこの地を訪れて開拓をしたのだろう。もちろん戴いた資料ではそれらをうかがい知る術もない。
 淡路の金属産地のひとつは南あわじ市の賀集(かぞ)周辺である。一帯には鍛冶屋、タタラ神、鍛冶ヶ渕、鋳屋敷、などの地名が残っているそうだ。また「吹子の口」「ノロ」などが発見されているそうだ。「黄金と百足」若尾五雄著に詳しい。西に進むと伊加利、湯の川など金属地名らしきところもある。淡路島南部は中央構造線上にあり、金属文化が栄えていても不思議ではない。淡路島の全体が領家変成帯に属し、鉄や銅の鉱物が豊だなあと考えていた矢先、淡路市の垣内遺跡のニュースを見つける。昨年の4月のことだが、淡路市で国内最大の弥生時代後半の鍛冶遺跡が発見されたということである。ややもすると古代金属文化の古典ばかり追いかけていると、最近のニュースに疎くなる。つづく

【作業日誌 2/21】
椎茸柵作り(柱、梁、ドア取り付け等)Img_3918

柱を立てて、ドアを付けて、周りと天井にネットを張る予定。



 今日のじょん:夜にじょんが吠える対象を突きとめたいという願望は日増しにふくらんでいる。向かいの竹藪に獣が来ていることと、下の府道に人が歩いていることぐらいしか解明していないのだ。連日連夜吠える対象は何なのか。
 今夜ストーブの熱を効率的にするため、店側のドアと二階のドアを開けていた。突然じょんが吠えだした。店の方を向いて吠えている。外を見ても何も居ない。数回繰り返すと、二階でガサガサ音がする。かみさんが探し物をしていた。どーもこの音に反応していたようだ。音、臭い、気配、何でも反応しているみたいだ。 

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