晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

浅原のこと(3) 2/9

2010-02-09 | 歴史・民俗

2010.2.9(火)曇

 アソ、アズのもう一つの意味は崩壊地形と言うことがある。特に火山地帯に多く、阿蘇山は著名である。アイヌ語で「熱い岩」という意味もあるそうだ。黒部下廊下にある阿曽原(あぞはら)などはそのまま熱い岩である。上林の浅原をあずらと呼ぶことと、葛禮本(くずれもと)という名の神社も気になっていたので、崩壊地形という意味も調べてみなければならないと思っていた。浅原を航空写真で見ても顕著な崩壊地形は見あたらない。植生のために確認できないのかも知れないし、過去において崩壊があったかも知れない。これらは現地に通って目視、あるいは聞き取りが必要だ。
 葛禮本神社の川向かいに分水というところがある。わけみず、ぶんすい、どうよむのか今のところ解らないのだが、「古代の朱」(松田壽男著)の中に分水嶺に配置されていた水分(みなわけ)神社が、一転して農民に水を配る水分(みくまり)の神様として性格を変えたという内容の記述があった。いわゆる古代の神様が、住民の生活様式の変遷に伴い性格を変えるということである。同様に阿蘇山に祀られた阿蘇明神は火の山の神であるが、やがては雨師となって流行したと言うことである。それは農耕文化が最終的に定着したということであり、ほとんどの神が農耕の神様となっていると言うことである。そういう意味で奈良県宇陀市榛原町にある、丹生雨師神社について調べてみる。というのはこの神社、小字は朝原なのである。分水に始まり雨師神社にたどり着いた。日本書紀の神武紀の伝称の地であり(注)、この神社は元々祭神が丹生都姫(ニュウズヒメ)であり丹生神社として発足しているが、主役をミズノハメ、タカオカミに奪われているというのが松田氏の論である。つまり元々朱砂、辰砂の神が水、農耕の神に変わったわけである。水銀鉱山の形跡は無いようだが、「黄金と百足」若尾五雄氏によると竜王池がある朝原と言うところは赤土である、と言われている。また、神武紀にある飴は水銀ではないかとも言っている。そして水銀鉱脈は風化速度が速く、崩壊しやすい、と言う記述もあるのだ。朝原=丹生=水銀=崩壊地形という関連性がなきにしもあらずということである。水銀にこだわるのは、上林の浅原に大入(おおにゅう)姓の家があることだ。念道にも数軒あるがそれは大丹生であり、又違った株の家だろう。いづれ訪ねて見たいと思うのだが、古代のことについては期待出来ないだろう。それと現地を観察すること、できれば鉱物の濃度を簡便に測れる方法を模索しているところである。
 机上では鉄と水銀の両方の可能性が出てきた、時代を異にして扱われていたのかも知れない。 
 たたら製鉄には一回の操業(一代)に12,3tもの炭を使うそうだ。炭はかさばるため原料の砂鉄よりも近くから調達する必要があり、「砂鉄七里に炭三里」と言われていた。炭焼職人は良質の炭を焼くよう工夫を重ねていたそうである。
 浅原の里は炭焼の技術が群を抜いていたと聞く、その技術の源がたたら製鉄であったとしたら、これはロマンである。

注 日本書紀 神武紀
 九月五日、(中略)丹生の川上に登って、天神地祇を祀られた。宇陀川の朝原で、ちょうど水沫のようにかたまり着くところがあった。天皇はまた神意を占って言われ、「私は今、沢山の平瓦で水なしに飴を造ろう。もし飴ができればきっと武器を使わないで、天下を居ながらに平らげるだろう」と。飴造りをされると、たやすく飴はできた。また神意を占っていわれる。「私は、今御神酒瓮を、丹生の川に沈めよう。もし魚が大小となく全部酔って流れるのが、ちょうどまきの葉の流れるようであれば、自分はきっとこの国を平定するだろう、もしそうでなければ、ことを成し遂げられぬだろう」と。そして瓮を川に沈めた。するとその口が下を向いた。しばらくすると魚は皆浮き上がって口をパクパク開いた。
(宇治谷孟「全現代語訳 日本書紀 上」講談社学術文庫)

【作業日誌 2/9】
ドッグランどコニファー植え付け

今日のじょん:2月には必ず4月、5月並の日があるもんだ。今日はその日で18℃にもなっていた。じょんは表に出て、おとー、おかーの作業をボーと見ていた。Img_3868

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