2014.6.22(日)雨
殺風景なバイパスを下っていくとオアシスのようなデイリーヤマザキのコンビニがある。その店の前の歩道に道しるべのお地蔵が立っている。周囲はアスファルトとコンクリートで何とも興ざめではあるが、逆にほっとする感もある。「右大坂道 左さかい道」とあるようだ。この位置にあったものとすると、田尻峠方面が大坂道ということになりやや疑問も感じるが、穴虫峠~畑~磯壁~狐井~瓦口~伊勢街道というルートが堺道と呼ばれていたこともあるそうで、間違いは無さそうだが時代はかなり下がる道しるべだろう。
昔と今の道しるべ(穴虫交差点)
コンビニで昼食をとって、県道703号線を穴虫峠方面に行く。土砂石材運搬のダンプが走るほこりっぽい道を登っていく。やがて右手の山裾に安山岩の磨崖仏が見える。聖徳太子葬送の道であり、太子信仰の現れである。1548年のものというので、戦国の世である。
更に進むと左手に新しく出来た駐車場とトイレが見えてくる。トイレはすこぶる清潔で有り難い施設である。そして右手に屯鶴峯の看板があり、整備された階段が山中へ続いている。やっと木陰になって気持ちがいい、すぐにぱっと景色が開け、真っ白い凝灰岩の層が目に入る。
緑の山腹に拡がる真っ白の岩層を見ていると、屯鶴峯(どんづるぼう)という奇妙な呼び名も納得がいく。観光地にありがちな無理な命名でなく、そのままの姿だ。
二上山が古墳の石室や石棺材料としての石材の産地であることはよく知られているところである。
この墓は、日(ひる)は人作り、夜は神作る。故(かれ)、大坂山の石を運びて造る。則ち山より墓に至るまでに、人民(おおみたから)、相踵(あいつ)ぎて、手ごしにして運ぶ。云々
と日本書紀に箸墓の古墳が二上山の石材を使った旨書かれている。
ところが箸墓古墳の石室材は柏原市芝山産のものであるらしい。そうだとすると運搬は大和川を利用したものと考えられ、日本書紀の話は怪しくなってくる。想像をたくましくすれば、書紀が書かれたとき、古墳の石材といえば二上山産と考えられていたのではないだろうか。
それほどまで二上山の石材がシェアを占めていたのだろう。つづく
【作業日誌 6/22】
青梅のかりかり漬け、砂糖が溶けたので付け汁を取り出して煮る。浮き出た泡の部分を捨てて、熱いうちに梅にかけ、冷まして保存する。これを繰り返すらしい。
【今日のじょん】朝から雨だが今日は上林川鮎の解禁日。往年の盛況ぶりは無くさびしい限りだがそれでもぽつりぽつりと釣り人が見えた。