晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

古代の生活を想像する(3) 1/30

2010-01-31 | 歴史・民俗

2010.1.30(土)晴、曇

 現代の感覚で金属や鉱業を見ていると、莫大な資本をかけて、特殊な設備を設け、大がかりで、一般の者にとっては縁もゆかりもない産業に思える。ところが古代の金属生産加工といえば、少なくとも農具やその生産財としての金属を作る限り、個々の家で、あるいは集落で何人かが自給自足的な生産をしていたのではないだろうか。もちろん時代の発展とともに技術的にも高度なものとなり、分業化して行き、特に鉱脈のあるところや、良質の砂鉄が取れるところなどは金属産業が発展定着して行ったのだろう。中国山地のたたら製鉄などはその良い例である。
 上林メタルバレイ説なんていうと、「そんなもんあるわけが無い」という声が大きいが、わたしが思うのは、自給自足的に金属を生産している、小規模な金属生産施設である。かつての村には必ず鍛冶屋があったように、あちこちの村で野たたら程度の生産や、手堀の鉱山があったのではないだろうか。
 
 「湯ノワク古跡 今ニ湯坪アリト云 蟻通フヨリワキ止ト云 湯ノ薬師迚(とて)三間四方堂 沸ト云。」
 弓削の薬師堂に関する古文書がある。温泉が湧いて、湯気がでているので弓削の語源になったという説もあると聞くが、鉱山や金属の歴史を調べている人なら誰でも気付くと思うが、湯とは温泉ではなくて鉱物だろう。蟻とは有路の語源となっているように今でいうところの鉱山技術者、鉱山労働者と解すると解りやすい。これらのことは後日「弓削のこと」として文章にしようと思うが、今言いたいのは、上林における鉱脈(銅、鉄、水銀かよく解らない)が実はあまり豊富でなかったのでは無いだろうかということである。「鉱物を掘り出す坑道が有るが、鉱山労働者が寄ってきたら、あっという間に涸れてしまったよ」という意味ではないだろうか。Img_3412


弓削の里

 そういうわけで、上林の奥、三国岳に発し養老山、弥仙山、烏ヶ岳、鬼ヶ城、姫髪山から烏帽子山に至る鉱脈の内、大江町周辺、夜久野町周辺、それ以西のように鉱山として発展することは無かったのではないだろうか。しかしながら当時の技術では鉱物の埋蔵量など知るよしもないだろうから、弓削氏や日下部氏、日置氏などの金属関連の氏族やその関係者が入植し、採掘採鉱がなされたのではないだろうか。それが、鉱物の枯渇、あるいは何らかの理由で後世にまで続くほどの産業とはならず、地名や祭神などにのみ痕跡を残すこととなった。しかしながら鉱物の豊富であったところには違いないので、細々と採鉱や冶金、製鉄や鋳造など行われていたのではないだろうか。

今日のじょん:最近じょんのうんPより、放浪犬のうんPが多くて頭に来る。うんPのバイオトイレもオイル缶2缶目になって、低温のため発酵せずに残っている。どこかに穴掘って埋めるしかないようだが、これでは有効活用とは言えない。発酵分解してくれなくては、そこら中うんPだらけとなるわけだ。バイオトイレはうんP、おがくずと糠をサンドイッチにする。
Img_3569

コメント
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