晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

古代の生活を想像する(3) 1/23

2010-01-23 | 歴史・民俗

2010.1.23(土)曇

 歴史を研究する人びとは、大学や公立の研究所を中心とした専門家の流れと作家や郷土史家といったアマチュアの流れがあるようだ。特に古代史の分野ではその傾向が強いのではないか。私たちが目にするのはアマチュアの歴史家が本に書かれているものがほとんどで、大学の学術論文や博物館の報告書などを見る機会は少ない。多く目にするアマチュアの書籍類、あるいはネットの論文などを見ていると、日本の古代の文化を扱うとき、農耕文化を基調にしたものと、金属文化を基調にしたものの二つの流れがあるように思える。同じ地域や同じ現象を扱っても、両者で全然見方が違うのだ。
 これは両派の違いとは少し方向が違うのだが、今月の初めにご案内した「大陽の道」と「鉄の道」のようなものである。同じ地域、同じ氏族を扱っても、まるきり見解が相違し、しかも相手を完全に無視をするのである。こういう状況は特にネット上での論文に多く、両派で罵倒合戦となっているケースもよく見かける。
 私は農耕文化と金属文化は車の両輪のようなものと考える。狩猟採種文化から農耕文化に移行する過程には、石器木器から鉄器に変わる農具の発展無しでは考えられない。各地の博物館、資料館を巡って、弥生時代の鍬や鋤を見て思うことは、今とちっとも変わっていないなあということだ。それだけに往時の農具というのは大発明であったろうし、それが木や石から鉄に変わったときには、産業革命どころじゃない程の生産性の爆発的な向上があったと思われる。稲の伝搬が農業の第一次産業革命なら、鉄器の使用は第二次産業革命だろう。鉄器の出現がなかったら、日本は遊牧民族の国になっていたかも知れない。だからコインの表が農耕文化なら、裏が金属文化と言ってもいいだろう。Img_3751

木鍬、里田原民俗資料館

 ただし両文化は歴史的にはまったく違った方向に進むことになる。元来農耕と金属は互いに必要な存在として、同一の村で共存していたが、農耕がその土地に付随するものだから、永遠にその村に残り続けるのに対し、金属文化は分業が可能なため、その地を離れて存在することとなる。農耕は再生産が可能であるが、例えば採鉱はその鉱物を掘り尽くしてしまえばその地を離れることになる。例え掘り尽くされないでも、より生産性の高い鉱山に移ることとなるだろうし、金属加工についても、流通の発展に伴って、その地で自給自足しなくても、より生産性の高い地に移転することが可能となる。つまり金属文化には土地に対する呪縛制が少ないということだ。そのことと、金属特に鉄が腐食に弱く、遺跡として残らないことが、多くの歴史家の錯覚を招いているのではないだろうか。つづく

【作業日誌 1/23】
 コニファー5本植え付け

 今日のじょん:じょん君のファンのAさん親子が来じょんされた。遠くから来ていただいて恐縮する、じょんになりかわって御礼申し上げる次第である。今日のじょんを常時見ていただいているそうで、これまた恐縮し、重い責任を感じるところである。思い起こせばじょんが来たのは2008年の6月19日で、今日のじょんが始まったのは6月26日である。以来欠かさず書いてきたが、たまには「いつもと一緒」なーんて手抜きもあった。今日もいつもと一緒なので、こんなこと書いている。Img_0749
初めて家に来たじょん君(2008.6.19)

 

コメント (1)
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