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或る「享楽的日記」伝

ごく普通の中年サラリーマンが、起業に向けた資格受験や、音楽、絵画などの趣味の日々を淡々と綴ります。

ゴールデンスランバー

2008-04-23 06:26:48 | 010 書籍
久しぶりに読んだ伊坂幸太郎は、書き下ろし長編小説「ゴールデンスランバー(Golden Slumbers)」(2007年)。前回はいつだったかなと調べると「終末のフール」(2006年)で約1年半前。すっかり彼のことを忘れていた。気づいたのは今年初めに見た広告。早速図書館で予約したけど、いつもの如く3ヶ月待たされて。これも気にならなくなった、というか今回は早かったかな。

待っている間に2008年の本屋大賞受賞を知ったりして、かなり期待していたのは確か。世評も彼の最高傑作とかと絶賛しているものが多かったし。それで結果はどうだったかと言うと、自分的にはイマイチで、なんか違うだろって感じ。彼らしいギャグとかネタは満載なのだけど、物語全体を通して流れる空気にいつもの彼らしさ、つまり軽妙な斜め目線と余裕が感じられない。

内容は首相暗殺の濡れ衣を着せられた男の逃亡劇。全体は5部構成で、第1部はいつもの彼の雰囲気。それが第2部、第3部の固い語り口に少々違和感が出てきて。第4部の本編は、どうもテンポがせっかちだし逆に細かい部分がくどくて長い。主人公の青柳に絡むキルオこと通り魔の三浦や、他の登場人部のキャラも薄いし、あげくの果てに結末がよく分からない。

なんというか伊坂の真摯な姿勢はヒシヒシと伝わってくるのだけど、マジになればなる程逆に彼のキャラが遠のいていくって感じ。整形手術をした影武者なんかも出てくるけど、これって推理小説の禁じ手だったような。どうもね、全体の骨格が弱い。「ラッシュライフ」とか「死神の精度」と比べると差は歴然。まあ好みの問題だけど、こんな感想私だけ?古いか、この表現。

引用されている音楽はビートルズの「アビー・ロード(Abbey Road)」(1969年)のみ。ついでだから小声で言っておくと、ビートルズって特定の数曲を除いて基本的にそんなに好きじゃないんですよ。ブリティッシュ系がどうも・・・。それであんなこんなで思いついたギャグが、横山やすし口調で”怒るで、スランプ野郎”、”お!こーるでん、スランパー”。分かります?スランバー(Slumber)じゃなくてスランパー(Slumper)。なんて茶化しつつも、ホントのスランプでなきゃいいけど。

ゴールデンスランバーゴールデンスランバー

蓼喰う虫

2008-02-08 06:28:24 | 010 書籍
ことわざに”蓼喰う虫も好きずき”というのがあります。”好みは人それぞれ”という意味は知っていたけど、”蓼”が何かは知らなかった。調べるとヤナギタデという草花の名前で、葉や茎に苦味があるけどこれを一日中食べている虫がいるところに由来しているらしい。タデの仲間で身近なものと言えば何気に食べている刺身のツマ。赤紫色の小さい葉がかたまっているやつ。

どうしてこんな話をしているのかと言うと、最近読んだのが谷崎潤一郎の小説「蓼食う虫」(1951年)。きっかけは画家の小出楢重がこの小説の挿絵を担当していたから。ただし何故か新潮にはなく岩波だけだけど。二人は芦屋時代に近所に住んでいて仲が良かったらしい。小出が亡くなった後の谷崎の言葉が残っている。”人と人とが長い人生の行路に於いて偶然に行き遭い、相接触し、互いに感化を及ぼし、やがて再び別れ別れになって行く因縁を思うと、奇妙な感じがしないでもない。・・・”

一昨年芦屋に遊びに行った時、小出の作品を多数保有していて彼のアトリエも保存されている芦屋市立美術博物館のすぐ隣りにあったのが谷崎潤一郎記念館、時間がなくて中には入らなかったけど。今でもご近所同志とはね。ずーっと仲良しなんだなと。

それで小説の話だけど、愛を失い離婚に向けて秒読み状態にある中年夫婦の物語。互いに人間としては認めているが、セックスレスが続いていて既に男と女の関係ではなく、しかも互いが公認で愛人を持っている。円満離婚前夜のこのストーりーは谷崎自身の有名な「小田原事件」を投影していて、いわばセミドキュメンタリー。当時のいきさつや心情を垣間見ることができる。

面白かったのが、主人公と仲が良く若い妾と自由奔放に暮らしている妻の父親の言葉。「若い時分に女遊びをした人間ほど老人になるときまって骨董好きになる。書画だの茶器だのをいじくるのはつまり性慾の変形だ」、なんてね。ギクっときたなあ。音楽や絵画に時計等のアンティーク。これって自分もそうだよなと妙に納得。時代は変わっても男の性は変わらないなあ。

谷崎と言えば”エロティシズム”。このつながりをきっかけに読み直してみようと思っています。

蓼喰う虫 (岩波文庫)蓼喰う虫 (岩波文庫)

街場のアメリカ論

2008-01-21 06:16:27 | 010 書籍
年が新しくなってもまだまだ続く内田樹のエッセイ紹介第4弾。街場シリーズ初めての海外もの「街場のアメリカ論」(2005年)。仏文学者の彼の目線による米国と、それと比較する形での日本の歴史・文化論。今回は国そのものがテーマのためでもないだろうけど、だいぶ総花的な中味になっており断片的な論理展開になっているのが否めない。まあいいか、“街場”だから。

まずはよくある日米関係論。“米国が日本に期待しているのは他の東アジアの国々と信頼関係が築けず、外交的・軍事的につねに不安を抱えているせいで、米国にすがりつくしかない国であり続けることである”とのこと。これはごくフツーの見方。

面白かったのが第4章の“上が変でも大丈夫-アメリカの統治システム”の話。彼が影響を受けているのが政治思想家であるアレクシス・トクヴィルの「アメリカにおけるデモクラシー」。これによれば、「国家の統治において、建国された当時から “どうこれ以上悪くならないようにするか”が重要であり、その前提になるのは”人間はしばしば選択を誤る“という人間観であり、その上に築かれたのが”誤った選択がもたらす災禍を最小化する政治システム“である」、というのが論点の要約。

つまり米国は建国当初から性悪説を念頭においた統治システムを導入していたということ。内田はこれをクレバーだと評価しているけど、まあそうだろうなあ。米国に比べれば日本の統治システムは性善説を念頭においているだろうから。ただし性悪説、性善説というと誤解を招きやすいけど、どちらか一方だけという訳ではなく、どこまで目配りをしているかという話。

それとシステムの話との関連でリスクヘッジの話が出てくるけど、根っこは同じ。最近流行りのコーポレートガバナンスや内部統制とかもそう。米国が世界のリーダーに君臨しているのは、こういった文化によるところも多いのかなあとは思った。

おっと、今日は珍しく真面目な話に終始したかな。

街場のアメリカ論街場のアメリカ論

マダム・エドワルダ

2008-01-07 06:54:22 | 010 書籍
この数ヶ月、読み始めては中座し、中座しては読み始めるという動作を繰り返してきたのが、フランスの思想家であるジョルジュ・バタイユの短編小説集「マダム・エドワルダ」。きっかけは広島出身の画家、靉光(あいみつ)の記事で少し触れた「眼のある風景」(1938年)という作品。観た時にバタイユの処女小説「眼球譚」(1928年)を思い出したから。

バタイユの妻のシルヴィアが彼と離婚した後に再婚したのがジャック・ラカンということもあり、彼の名前は頭のどこかにいつも引っ掛かっている。それと最近では、前に記事にした内田樹のエッセイ「子どもは判ってくれない」で村上龍の「タナトス」が引用されていて、ついでに鎌倉の浄智寺で澁澤龍彦の墓の前を通っていて。フロイト、エロス、タナトス、ラカン、バタイユ、澁澤・・・。

ありますよね、いろんな因果が少しずつ絡んできて、そこにたどりつくみたいな因縁。今回はそのケース。それで内容はというと、酔いどれ変態男?と娼婦宿にいた変態女?の変態話。この小説は1941年に匿名で非合法出版されたらしいけど、簡単に言えば極めて猥雑なポルノ小説。とにかく全編その手の話だけ。おまけに難解。ただしその中に哲学を感じさせるのが特徴。

この娼婦は“あたしは<神様>よ”と語る。彼女と一緒に乗り込んだタクシーの中で、彼女は運転手と関係を持ち、やがて絶頂に達する。それを変態男は横目で見ながら、“ヘーゲルは一人の狂女の<神格化>とはなんのかかわりもない”と考える。この作品は三島由紀夫が賛嘆したことでも知られていて、現代では20世紀を代表する古典的名作の地位を得ているらしい。

余談だけど、自分が読んだのは図書館にあった生田耕作訳の角川文庫版。別に中条省平訳の光文社版もあるみたいで、両者を読み比べるのも面白そう。例えば冒頭の記述が、前者が“或る街角で、苦悩が、不潔な酔い痴れるような苦悩が、おれの顔をゆがませた”に対し、後者では“ある街角で、不安が私に襲いかかった。汚らしく、うっとりするような不安だ”、という感じ。

今年はどうも、エロティシズムを哲学的に追及したいようです。

角川文庫版角川文庫版    光文社古典新訳文庫版光文社古典新訳文庫版

子どもは判ってくれない

2007-12-14 06:27:40 | 010 書籍
最近ちょっとハマっている内田樹のエッセイ紹介第3弾。彼のサイトのウェブ日記を取りまとめたシリーズの4作目で「子どもは判ってくれない」(2003年)。まだ作品を読み始めたばかりだけど、このエッセイには彼自身について人生を振り返る部分が割とあるので、彼の人となりが少しずつ見えてきたという感じ。結論から先に言うと、少し自分と似たところがある。

”大学院生のころは「現代思想」と「メンズクラブ」を読んでいた”、”関西弁でいう「イラチ」、東京でいう「せっかち」である”、”「正しい理説」を語る人間に、どうしても心を許すことができない。なぜ「正しい人」が信じられないのであろうか。ときどきわが狭量にうんざりする”。まあ早い話が、哲学をやっているヘソ曲がりで、そのくせファッションとかに興味を持つミーハー、そんなところかな。

素晴らしいと思ったのは、彼が“コピーフリー”を宣言していたこと。つまり書籍やネット上の彼のテクストについては、“誰でも自由にコピー&ペーストしてもらって構わない”だって。理由としては、”その人と私の「ものの考え方」が違う以上、テクストの文言が同一でも、そのテクストの発信する意味はもう別のものになる“、からとか。太っ腹だなあ。遠慮なく使わせてもらおう。

面白かったのは「知性」について話。彼の友人の平川克美の言葉で、“私にとっての「知性」とは「自分が何を知らないのかということを知っていること」だと考えています”、さらに村上龍の「タナトス」の中での言葉で、“「才能がない」人間とは「自分には才能がない」という事実を直視できない人間のことである。内田はこれらの考えに全面的に賛成しているとのこと。

これには驚いた。なんと自分の座右の銘そのもの。その銘とは、論語にある“これ知るを知ると為し、知らざるを知らずと為せ、これ知れるなり“。ただし、知ったかぶりをせずに知らなければ素直に学べという意味で、知性や才能の話とは違うと思うけど。

そうそう、図書館で彼の著書を探していた時に、たまたまスナップ写真を発見。ハッキリ言って見なきゃ良かった。西岡徳馬風?二枚目でチョイ悪系のファッショナブルなおじさんかと想像していたら、いやそうあって欲しいと願っていたけど、まんま真面目そうな大学教授。うーん、これでメンズクラブ?なんか違うような。まあルックスなんて関係ないけど、ちょっとガッカリしたかも。

子どもは判ってくれない子どもは判ってくれない

中国行きのスロウ・ボート

2007-11-23 07:34:54 | 010 書籍
最近の話だけど、村上春樹の短編をごっそり買い込みました。というのも前に読んだ「神のこどもたちはみな踊る」(2000年)と「東京奇譚集」(2005年)がしっくりきたから。それでどうしてこれまで彼の短編集を読んでいなかったのか考えてみた。思い当たったのが買ったものの読まずに埃をかぶっていた最初の短編集、「中国行きのスロウ・ボート」(1983年)。何故かって?

理由はいくつかあって、表題がジャズのスタンダード曲"On a slow boat to China"からのパクリで、しかも"slow"の日本語訳が”スロウ”になっていてダサイ。それと曲がそんなに好きじゃない。ベタな歌謡曲調ツーファイブでアドリブがやりにくいから。

そんなたわいもない理由で機会損失をしていた訳だけど。これからは一応年代順に読んでいき記事にするつもり。いざ最初に読んだこの本の中では、やはり表題作はダメ。でもとても気に入ったのがあった。「土の中の彼女の小さな犬」と「午後の最後の芝生」。アプローチは違うけど、どちらもその淡く切なくもある独特のまったり感と無常感が、そこはかとなく哀愁を誘う。

読み終わって面白いと思ったのが歳月の経過による村上の作風の変化。やはり20年前は彼も若いし、良い意味で片意地を張っている。1980年代前半というのは高度成長時代が終わってオイルショックで冷や水をかけられた後で、その後バブル景気に突入するまでの過度的な時代。虚無感が漂い、ディスコに行って踊っているのがおバカで一番楽しかった、そんな時代。

題名つながりで、演歌系サックスによる"On a slow boat to China"の代表盤でも紹介しておきますね。最初がテナーの巨人ソニー・ロリンズの初リーダーアルバム「Sonny Rollins with the Modern jazz quartet」(1951年)。次がアルトの大御所、フィル・ウッズの「Woodlore」(1957年)。古き良きバップの時代には、こういう楽しい曲が似合います。

中国行きのスロウ・ボート中国行きのスロウ・ボート

Sonny Rollins with the MJQSonny Rollins with the MJQ      WoodloreWoodlore

カクレカラクリ

2007-11-19 06:22:45 | 010 書籍
久しぶりに短編じゃない小説を読んだけど。森博嗣の「カクレカラクリ」(2006年)。彼の小説は「すべてがFになる」に続いて2作目。後で知ったけど、この小説はコカ・コーラの120周年記念の書き下ろしで昨年TVドラマ化もされていた。いや見たかった、娘がお気に入りのイケメン平岡祐太も出ていたみたいだし。原作との比較という意味でも面白そう。

それじゃ小説が面白かったかって?うーん、ビミョウ。青春小説として考えれば、テンポもいいし読み易くてなかなか良かったけど、ミステリーとして考えると、なんか期待した割にトリックが浅くて。上の「暗号なんて見ただけで判ってしまうレベルだし。

でも全体を流れる雰囲気は良かったかも。隠されたカラクリにからむ120年前の謎。美人姉妹とそれに絡む男子大学生2人。由緒ある旧家同士の確執。地下に隠された秘密の通路。解き明かされる両家の秘密。なんてね、よくあるシチュエーション。

だけど完全に森流になっていたのは、やはり登場人物の爽やかさと彼の理系思考パターンのせいかも。読んでいると、この人って理系だなとつくづく感じるから。自分が”文系に行くべきだった理系”だけによけいにね。昔は”男は理系”みたいなヘンな風潮があって、数学が不得意じゃなかったら理系に行かされていたような気がする。まだまだ高度成長期だったからなあ。

将来できれば音楽関係の仕事をしたいと思っていて、音楽と理系の接点は?と考えて思いついたのがエレクトロニクス。オーディオや電子楽器に興味があったし、それと就職の時につぶしが利くだろうというセコイ考えも働いて。まあその意味では判断は間違っていなかった。ただし読み間違えたのは自分の適性。大学や会社で同期の仲間を見ていてよく分かったから。

その点森は紛れもなく理系の人間。それが小説には長所として出ていますね。羨ましい。

カクレカラクリカクレカラクリ

街場の現代思想

2007-11-05 06:05:55 | 010 書籍
神戸女学院大学教授である内田樹のエッセイ紹介の第2弾、「街場の現代思想」(2005年)。いわゆる"街場”シリーズものだけど、この人のエッセイは、その斜め視線とか”自己中”極まりない断定とかが妙に楽しい。それと”街場”と断りを入れることでリラックスできているのか、適度にお遊び感覚で書いている感じがあって、重そうなテーマに反して表面的に軽いのがいい。

面白かったのが”文化資本主義”の話。文化はどう創られるのかという問いへの回答。引用すると、文化資本には、家庭において獲得された趣味や教養やマナーと、学校において学習して獲得された知識、技能、感性の2種類がある。・・・「文化資本を獲得するために努力する」というみぶりそのものが、文化資本の偏在によって階層化された社会では、「文化的貴族」へのドアを閉じてしまう。・・・「努力しないで、はじめから勝っている人が『総取り』する」というのが文化資本主義社会の原理である。

なんとなく分からないでもない。やはり幼少の頃に自然に身につけたものは染み込んでいる分強いだろうから。自分で言えば親は音楽そのものには全く興味がなかったなあ。つまり音楽のある「家庭」じゃなかった。だけど世間体で?子供に楽器を習わせた。子供はいやいや練習をした。ふと気づいたらジャズにのめり込んでいた。これは文化資本とは言わないだろうなあ。

それは置いといて、受けたのが”結婚”の話。引用すると、「結婚は快楽を保証しない。むしろ、結婚が約束するのはエンドレスの「不快」である。だが、それをクリアーした人間に「快楽」をではなく、ある「達成」を約束している。「不快な隣人」、すなわち「他者」と共生する能力である。おそらくこれこそが根源的な意味において人間を人間たらしめている条件なのである」。

うーん、大きい声では、ましてやカミさんの前じゃ絶対に言えないけど、その通りかも。

街場の現代思想街場の現代思想

世界の日本人ジョーク集

2007-10-05 06:35:59 | 010 書籍
今日は前に記事にした”Japan Cool”からのつながり。確かメルマガだったか、この本の紹介をみつけて。図書館に予約したのが数ヶ月前。かなりの人数待ちだった。著者は早坂隆というルポライター。「世界の紛争地ジョーク集」「世界反米ジョーク集」を出版したら、その後の読者からの反応として多かったのが、日本人を扱ったジョーク集はないの?というものだったそうで、それに応じたのが今回読んだ「世界の日本人ジョーク集」(2006年)。

読んでいると彼が世界中を飛び回っていたのがよく分かる。米国、英国、フランス等のメジャーな国だけでなくルーマニアとか、割とマイナーな国の話が多いのが面白い。まあ日本人がどう思われているかなんて海外に出て初めて実感できるものだし。中で様々なジョークが次々と出てきたけど、けっこう出来不出来がある。その中で面白かったのが「浮気現場」の話。

会社からいつもより少し早めに帰宅すると、裸の妻が見知らぬ男とベッドの上で抱き合っていた。こんな場合、各国の人はいったいどうするのだろうか? アメリカ人は男を射殺した。ドイツ人は男にしかるべき法的措置をとらせてもらうと言った。フランス人は自分も服を脱ぎ始めた。日本人?・・・彼は正式に紹介されるまで名刺を手にして待っていた。

受けたなあ、なんか国民性が露骨に出ている気がして。フランス人と日本人は特にね。でもフランス人の行為は意味深。つまり自分も一緒に楽しみたいと思ったのか、それとも俺の方がスゴいんだというのを誇示したかったのか。うーん、難しい。

なんて下ネタは置いといて、なるほどと思ったのが大リーグの日本人選手の話。 トルネード投法の野茂、振り子打法のイチロー、超アンダースローの高津等、言われてみれば確かに個性的。日本人は没個性的という観念が少しは崩れたかも。

世界の日本人ジョーク集世界の日本人ジョーク集

縁切り神社

2007-09-19 06:03:44 | 010 書籍
ようやく読書をする時間が出きたけど、まだまだ長編を読もうなんて気が起こらないのが今日この頃。それで図書館に行った時にふと見つけたのが、田口ランディの「縁切り神社」(2001年)。この作家は「被爆のマリア」が強烈に印象に残っていた。なんかね、タイプじゃないけど、どうも気になる感じ。本人じゃないですよ、あくまで小説のこと。

何処が気になるかというと、女性の動物的本能が露骨に感じられるところ。それも美しい部分じゃなくて、ある意味で醜い部分。ひとことで言えば女はコワイよなあっていう部分。それが文章の端々からこれでもかというぐらいに出てくるからスゴイ。

中身は全12編の文庫オリジナルの短編集。特に気に入ったのが「エイプリルフールの女」。妻子あるサラリーマンと不倫をしている女の話。ある日相手から妻が死んだとの連絡が。それが事実と信じられなくて、彼女は男の実家で行われている葬儀に出向く。フツー行かないと思うけど、でも行っちゃう。その過程における自己中心の極みとも言える心理描写が際立っている。

「円満すぎて家庭ではセックスをしないんだ」、「昼休みに男の会社に電話してみた」、「男の家は世田谷区の私鉄沿線の閑静な住宅街のあった」、「男の奥さんは、年よりも若く見える愛らしい人だった」、「(奥さん)あなたは死んだけど、私はまだ生きている」、「私は一生呪われるかもしれない」、「今度、男に会ったら、私は一晩でも二晩でも背中をさすってあげようと思う」

もうなんというか、たまりません。自分もこの手にはいろいろ痛い目にあったからなあ。この小説はそんな部分がリアリティを伴いひしひしと伝わってくる。話は変わるけど、「縁切り神社」というのは京都の祇園にある安井金比羅宮のことらしい。実際に一番多いのは自分の好きな男と相手の別の女の縁を切ってくれという願いとか。願うのは勝手だけど、わざわざ神社まで行って絵馬まで書いて・・・。写真の神戸の生田神社は「縁結びの神社」で有名だけど、同じ神社でもいろいろあるんだなあ。

縁切り神社縁切り神社