「松風庵日記」 心はいつもお茶日和  

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表現一つで、変わる所作

2010年11月22日 | お茶三昧
        
利休百首から  
  
   口広き茶入れのお茶おば汲むといい 狭き口おばすくふとぞ言ふ
    
 物事を表現する時によく『何となくこの言葉では違うかな・・もっと他の言い方はないものかしら』と悩むことがあります。語彙の乏しさの故でしょうが、なかなかぴったりとした表現が見つからない時が。そしてあげくの果てに仕方なく、何通りもの言い方で説明したり、似たようないくつもの単語を並べたりして、何とかその周りを固めたりするのですが。
 でもそれは周りであっても中心でないもどかしさが残ったりします。表現とはある程度自己満足でしかないと思います。どのように表現しても、受け取る側がその人なりの感性で受け取るのですから、自分の思うところが伝わったかどうかは定かではないのです。表現するというのはそういうことで、上手く伝わったかどうかという不安は、話すときにせよ、文章で表すにせよいつもつきまとうものです。      
 
 回り道をしましたが、適切な表現を語るとき、利休道歌ではこの歌が思い出されます。一つの所作を「汲む」と「すくう」の二通りの言い方で言い表しているこの歌は、同じような動作でも心の在り方で違ってくるという事を言っているように思います。
 茶入れというのは、お抹茶をいれておく器で形は様々です。お点前では茶杓でその器からお茶を取り出しては、茶碗に入れてお茶を点てます。この歌は茶杓で茶を取り出すその動作を、口の広い器からは大きな気持ちで「汲む」様に、狭い口の器からは細心の注意を払って「すくう」様にしなさいと教えているのではないでしょうか。
 そのような心構えでするお点前は、形にもきっとその心が表れるのでしょう。
「何々のような気持ちで」ということはお茶の稽古ではよく言われます。その表現一つで心の在り方がが変わり、その事でお点前の姿が変わってくるのですから、どのような言葉で表現するかはとても大切になってきます。
「汲む」と「すくう」はそれを見事に言っています。これは同じ動きを違う言葉で表現することで、違う動きを生み出しているという事でしょう。

 『立ち居振る舞い』を美しくと言う言い方と『動作を美しく』ではそれこそ立ち居振る舞いが違ってきます。『飲む』を『いただく』に言い換えるだけでも心の在りようは違うのでは。
 何だかかける言葉の響き一つで、相手の動きや心すら操れるようにも思えてきます。
そして時には自分自身に暗示をかけることが出来るのも、表現一つかもしれませんね。