郡上八幡より百姓先生
【作業】
キタの畑:
ハーブ園整理(除草と花の植栽)
白菜跡地の除草、荒起こし。
天地返し跡の耕耘(施肥はしていません)。
ミナミの畑:
起こし跡の埋め戻し。
その他:フキノトウ、ピーカンナッツ採りなど。
見沼田んぼ福祉農園のみなさんと事業所めぐり (2月22日)
セミナー翌日、
「地域活動支援センター 農(あぐり)」の7人を、やまぼうし平山台、
鈴木牧場、ふれあいの森カフェの三カ所を案内させていただいた。
見沼たんぼ福祉農園の豊かな経験を生かし
新たな事業構築を目指そうとする志の高さと気迫に圧倒される。
これからの事業連携も大いに楽しみです。bY伊藤勲
共同連主催・東京ワーカーズ・コレクティブ協同組合/
法政大学エッグドームカフェ運営協議会後援
第2回「農と食 若者 障がい者の社会的事業所」を創るセミナーに行ってきた。
NPO法人障害者の職場参加をすすめる会として、10名のデイツアー。
他に見沼田んぼ福祉農園推進協議会の猪瀬代表や
あぐりのメンバー他、さらに10名ほど埼玉から参加した。
「職場参加をすすめる会」では、
会場となった「やまぼうしスローワールドカフェ」を見て食事することが第一の目的で、第二がセミナー。
NPO法人やまぼうしへのデイツアーは、これで三回目になる。
前回は廃校になった小学校につくったカフェ等を訪ねた。
やまぼうしの前史である府中療育センター闘争から引き継がれた「施設から地域へ」の具体化として
「おちかわ屋」が街に出来たのが1985年。
わらじの会が障害者雇用事業所「トムテ」を開店したのが1987年。
既に名古屋や滋賀、大阪、熊本などで先行していた共に働く事業所の運動が全国的に連携し、
差別と闘う共同体連合(共同連の前身)が1984年に結成され、活発に動き始めていた。
自立に向ってはばたく家準備会が1983年にパタパタという店を谷中耳鼻科の前に開店して間もなく、
「そよ風のように街に出よう」の三井さんとたぶん八幡さんがリュックサックに本をつめてやってきたのを皮切りに、
大阪から次々といろんな人がわらじの会に来た。
そして、1985年、大阪で開く全障連大会では、
初めて「生きる場・作業所分科会」を設けるからぜひ参加してくれと、
大阪の中部解放センターやら東京の故・村田実さんやらが来てくれて、
全国的な動きに関わってゆくきっかけとなった。
自分たちにとっては、介助や労働が等価値であり、
障害者自立をすすめる介助者の制度をどう保障させるかということも、
金をどうもうけるかということも、
いまひとつピンと来ないままあちこちの会と熱く交流したことを思い出す。
全障連はそれまでの専門家・親主導の運動に対し、
障害者本人とその支援者による全国の活動をつなげることが目的であり、
とりわけ八木下浩一が実践した「共に学ぶ」の実践をベースに、
青い芝と故楠さんらの関西障害者解放研究会、
それに八木下浩一が組んで1976年に立ち上げた。
1985年の大阪大会はまさにその運動の転換期であり、
共に生きる健全者とどのような関係を結ぶのかがテーマとなった記念すべき年だった。
今日のセミナーでは、いろいろな収穫があったが、
あらためて共に生きる健全者が重要な課題として浮上したように思う。
八ヶ岳名水会からは、「職員の意識改革」として課題が提起された。
見沼田んぼ福祉農園の猪瀬事務局長からは、
「ぼくがいちばん若いほうでは」という言葉としてふれられた。
会場からは、若い職員をどう確保するかといった意味合いの問いが出されたように思う。
こうした課題について、
私が思うのは、東京都多摩市の「たこの木クラブ」発行の「たこの木通信」2月号で
三井さよさんが書いている「『がっつり系で働ける人たちをモデルにするのではなくて、
もっとダメな人がいっぱいいられる像を描けないだろうか』という話をしました。
そしてそういうことを考えることは、
当事者のことを考えることともつながっているのだろうということと。」という思いとつながっているなということ。
八ヶ岳名水会の話では、
「豆腐をもっと出せないのか」というスーパーなどからの要求があった時に、
障害者本人と一緒に説明に行くという。
そこで初めて「ああそうなんだね」と理解を売るという。そういうことって、よくある。
私たちが請け負っている県立公園の花壇整備作業では、
さまざまな施設から障害者3人と職員等1人とのユニットを組んで出て来る。
その中には、仕事がつかめず立ち歩いている人もいる。
しかし、そういう人がいることで、
放っておくと人の1.5倍も働いて疲れ追い込まれてしまううつ病の人がリラックスする。
調子が悪い人が、我慢せずトイレに行き、働き続けられる。
県立公園の管理を請け負っている公益財団法人の担当職員は折にふれ作業現場に立ち会っているので、
そうした関係の大事さをわかっている。
障害者がいると職場が癒されるといったワンパターンの論理ではなく、
なんだかんだごちゃごちゃとあって、
その結果として仕事が遂行されるんだよね、予定調和じゃなくて、みんながぶつかりあって、
その結果仕事が遂行される過程が大事なんだよねという、
ハラハラ ドキドキしたであろう外部の発注者等の反応こそ大きな意味を持つ。
筆者の経験では、入所施設の利用者が職場体験した時、
支援者に職場の主任の名を教えられ、始めと終わりに挨拶するよう教えられた。
その時初めて「人には名前があるんだ」と知ったらしい。
施設へ帰ってから、職員らの名をつぎつぎと呼ぶようになったので、
職員としては喜ばしい反面たいへんでもあるというケースがある。
他者の関りの中で人は変わってゆく。
福祉制度が乏しい生活困窮者等の「働く」とどうつながるかといった質問もあった。
そのことも、上記とつながるのではないか。
「がっつり系」の支援者、共働者、職員を期待する、
そうした発想自体問い直してゆくことが必要と思う。
「青い鳥」を求める発想からあらためて仕切り直すときではないか。 by山下浩司