blog 福祉農園通信・龍神伝心

アジアモンスーンに吹かれて
共生の農業
見沼田んぼ福祉農園 

子供に導かれ、福祉農園という出会いと学びの場ができた

2014-01-10 | 風の備忘録 

新・農業経営者ルポ第25回 2006年06月01日

子供に導かれ、福祉農園という出会いと学びの場ができた

見沼田んぼ福祉農園 代表 猪瀬良一

猪瀬良一は、自閉症児の親となったことを契機に、
農業を通した障害者の自立と都市近郊に広がる農地の保存と活用を目指す、
見沼田んぼ福祉農園を設立した。そこは単なる障害者福祉の場ではない。
子供から高齢者までが、農に触れ、
互いの関係性の中で現代社会に失われた人の繋がりを取戻し、
未来を生み出す学びの場にもなっている。
そこには、過剰の時代であればこその、農業の事業的可能性を予感させる何かがある。

 「子供に導かれて生きてきたようなものですよ」 
猪瀬良一(56歳)が代表を務める
見沼田んぼ福祉農園の設立を呼びかける運動を始めて20年。
開園して7年になる農園の活動を伝えながら、猪瀬はそう言った。

 猪瀬の長男・良太は自閉症児として生まれた。現在、33歳。
良太は毎日、見沼田んぼ福祉農園に出勤している。

 見沼田んぼ福祉農園は、
さいたま市内の障害者団体に所属する
障害者(知的障害、身体障害、精神障害)に農作業の場を作り、
職業的自立の足がかりを与えるという目的で設置された。
猪瀬は、それを単なる障害者のための福祉農園にとどめず、
「見沼田んぼの農的な環境を生かしながら、
『誰もが共に』自然とふれあい、農を楽しみ、
人と出会い、関係を広げていける場」にしていきたいと考えた。
「見沼田んぼ」とは、川口市や東京の下町地域を洪水から守る調整地として、
旧浦和市という東京近郊にもかかわらず1200ha以上の広大な農地が
開発規制を受けて残された地域の呼称である。
そして、見沼田んぼ福祉農園は
埼玉県の「見沼田圃公有地化事業」の一貫として実現したものだ。
 見沼田んぼ福祉農園が発足したのは1999年4月。
猪瀬がそれを構想し、
設立の呼びかけを始めた86年から数えて14年目の開園だった。
さらに、開園から7年、耕作放棄されていた約1haの農地は、
ボランティアの手によって整備され、約80aの畑に様々な作物が育つ農場になった。
ここに至るまでには、
多くの篤志家の支援や本田技研工業(株)からのでの農作業農業機械の提供もあった。
行政から農園管理運営費として一定の予算はつけられているが、
猪瀬やボランティアたちは無給だ。

ボランティアの満足が支える福祉農園】

 農園にボランティアとして参加した人々も多彩だ。
 最初に集まったのは企業をリタイアした人々だった。
彼らはシニアボランティアと呼ばれ、
長く職業人として重責を果してきた人々ならではの見識と、
子供時代の農作業経験が農園の大きな助けとなった。
地域の農家もプロならではの技を伝え、
古老は見沼田んぼの風土と歴史の語り部となってくれた。
 学生たちも集まってきた。
彼らが参加するようになり、一気にスタッフは100人規模に増え、
農園は週末にも人が賑わう状態になった。
学生たちはサークルやゼミのグループに参加者を増やしていった。
大学のインターシップで参加して、そのままスタッフとなった者、
農園のインターネットやメディアを見て集まって来る者もいた。
 2002年から学生たちが中心になって始まった「風の学校」は、
現在では毎週の行事となり、
校長に小松光一(法政大学・農業者大学校講師)を迎え、
夏には一週間のサバイバルキャンプ、
地方の農家やタイの農村へのスタディーツアーに出かけるようにもなった。
学生たちは、さらに「のうぎょう少年団」を組織して子供たちを巻き込んだ。
彼らが編集する福祉農園あるいは
見沼田んぼの歴史を語るレポート「見沼学(みぬまなび)」も発行するようになった。
 開墾からの畑作り、竹と篠を使って暗渠も埋めた。
堆肥を積み、溝掘り、草刈り、井戸掘り、種蒔き、草取り、間引き、収穫。
そんな仕事で障害者が健常者と共に働き、薪を割り、かまどに火を焚き、
料理をし、食べ、遊ぶ。その全てを通して、
本来、人々が日々の暮らしや仕事のなかにあった、あたりまえな心の触れ合いや絆を取戻す。
 ある時、シニアボランティアの実家から野菜の苗を大量に送ってもらったことがある。
それに猪瀬がお金を払おうとすると、その人は笑ってお金を受け取らない。
「その代金をもらったら、仕事か商売になってしまうじゃないか。それじゃ面白くないよ」
 この言葉がボランティアたちの心を語っている。
農園ボランティアたちが見沼田んぼ福祉農園や障害者を手助けする理由は、
単に彼らが善意の人々であるからだけではない。
むしろ、農園に関わることそれ自体がそこに来る目的なのだ。
 障害者とともに季節のめぐりの中で働く。
生産を目的とした職業的農業が捨てざるを得なかった、
「農的暮らし」の豊かさとでもいうべきものがここにはある。
それが、人を惹きつけ、集う者の心を癒す。 

 障害者だけがいる、障害者だけに必要な福祉農園ではないのだ。
 老人がいて、子供がいて、若者がいる。
年配者が知恵を持ち、
好奇心に満ち溢れた子供たちが駆け回り、
若者が若者らしく活躍する。
そこに障害者もいる。
そんな空間というより関係性にこそ、
人は居心地の良さを感じ、
彼らが求めている何かがあるのだと思う。

遺伝子に書き込まれた人としてのあたりまえ

 話は脱線するが、人間の赤ん坊はもとより、
どんな動物の子供を見ても我々はそれを可愛いと思う。
その可愛らしい顔や体格には、それを目にすることで、
大人や成獣に条件反射として
子供を守る行動を取らせる動機付けの記号が仕組まれているのだそうだ。
さらに、家族の夕食、子供を連れた若夫婦。
その人が属する文化の違いにもよるのかもしれないが、
多くの日本人ならそれを見て心が和むであろう。
 そもそも、人の遺伝子の中には、誰かに必要とされ、喜ばれたい、
弱き者を助けたいという欲求を持つように、書き込みがされているのだと思う。
そして、あたりまえにいるべき人がそこにいる。
しかも、その関係性が明確に示される場。それは人々に安心を与える。
 そして、農的環境。仮にそれが擬似的なものであれ、
多くの現代人は「農的」なものに憧れる。
すでに我々は、
農的暮らしがあたりまえであった時代
に人々が夢見たことが実現された社会に生きている。
にもかかわらず、人々は、
量で測られる消費の豊かさの中で生きることに違和感を感じ始めている。
それは、現代の日本人が、
「欠乏」よりも解決が困難な「過剰の病理」の中にいるからだ。
 現代人であればこそ不便を面白いと感じる。
欠乏の歴史の中で人々が考え、獲得し、
やがて失っていった技や知恵に出会うことで感激する。
その中に示される透徹した自然理解に驚かされ、
風土の意味に想いをめぐらせる。
やがて、人々にとってはむしろ不便な、
風土に根ざした暮らしや労働それ自体を求めるようになる。
雪下ろしツアーに参加する者がいたり、
田植えや稲刈り体験が観光業者の企画足りえるのは、
お金を払って作男になりたがる人々の「贅沢な要求」があるからなのである。
家庭菜園で採れた作物は、
経済的にみれば高価な野菜を買ったことと同じになったとしても、
人々はそれに満足する。
 使役ではなく、飢えに怯えて働くわけでもない。
強要されてする労働は苦役であっても、
本来、人は労働を喜びと感じる生き物なのではないだろうか。
苦労しても子供を育て、他者の面倒を見たいと思う。
豊かさの中で少子化といわれる現象があるのは、
実は、
過剰の社会病理が人々の自然な欲求を抑圧しているからなのではないか。
 過剰の病理の社会であればこそ、
貧しくとも人や社会が本来持っていた関係性や
風土の中にいる人間であることを気付かせ、
そこにいることで癒される「場」が求められているだ。

ここだからこそ学べることがある

 見沼田んぼ福祉農園は、学びの場でもある。
障害者を含む高齢者から子供まで、
多様な知識や経験あるいは人生を背負った人々が、
見沼田んぼという風土の中で、ともに作業し、遊ぶ関係の中で自ら学ぶ。
学校はもとより教育力を失った家庭や地域に代わる貴重な学びの場になっている。
「のうぎょう少年団」は学生ボランティアたちが組織した活動であるが、
単なるイベントとしての農作業体験の場ではない。
作物の栽培やその前の土作りや畑作りも含めて、
農園での仕事や遊びが、子供たちの日常生活の一部に組み込まれるような活動だ。
かつて、子供たちが村の日常や大人の仕事の手伝い、
あるいは大人たちの間に混じって暮らすことで獲得していった知恵。
それを農園経営という連続性を持った「生きた場所」で、
あるいは大人たちとの「関係性」から、
子供たちに体験的に学ばせる機会がそこにはあるのだ。
それは学生や親たちにも何かを与える。
 農園は学生たちにとっては現代の「若衆宿」である

 猪瀬の次男・浩平(27歳)は
東京大学大学院総合文化研究所に所属する文化人類学の研究者であるが、
同時に、良太の弟として福祉農園に最初からかかわり、
「風の学校」の世話役あるいは事務局長的役割を果たしている。
 浩平によれば、
多くの学生スタッフは「農園での障害者福祉」に関心を持って集まってきている。
初めから農業に関心を持っていた者はむしろ少ない。
にもかかわらず、
農園での体験や出会いを通して農業に関心を持つようになり、
作物のことが気になりだす。
その個人の変化が組織としての風の学校の変化を導いている、と話す。
風の学校は学生たちが農園に関わることを通して発生し成長しているのだ。
猪瀬は、それが育つ土作りをしたのだ。
 学生スタッフとして参加する者の多くは農業とは関係のない職場に就職していく。
でも、
次世代を担う人々として持つべき教養としてそこでの体験は大きな財産になるはずだ。

 福祉農園の学生スタッフの一人に河合研(19歳)という青年がいる。
多摩市にある農業者大学校の学生であるが、ここではむしろ異色の存在だ。
岐阜県の花農家の後継者で、
同大学校の講師を勤める小松光一のゼミ学生として、他の学生たちとともにここに来た。

 その多くは単位を取るために先生に付いてきたののだろう。
また、向学心の高い河合の友人は、農園での作物栽培の技術レベルを見て、
「ここには学ぶべきものはない」
と、それ以来、農園に顔を出すことはなかった
。しかし、河合は毎週、多摩にある学校の寮から時間を掛けてここに来る。
学生スタッフの中心的メンバーの一人である。
 栽培の不具合を調べるために学校に土壌サンプルを持ち帰り、
簡易土壌分析をしてみるなど、農業専攻学生ならではの役割も果す。
しかし、河合は、友人が求めた「実利」ではなく、
他の学生スタッフやシニアボランティアたちとの出会い、
あるいは福祉農園という活動そのものの中から、
これからの農業経営者として持つべき本物の財産を得るだろう。

必要とされてれば得る利益は出るのだ

この障害者と健常者がともに学びあう福祉農園は、
猪瀬良一が、良太という自閉症児を育てる葛藤と喜びを通して思い立ち、
ボランティアたちとともに創り上げてきたものだ。
まさに、自閉症児である「子供に導かれて……。」である。
すでに、猪瀬の理想は半ば実現したかに見える。

 でも、
障害者が農業を通して自立していくという福祉農園の最終テーマは実現できていない。
ましてや、猪瀬やボランティアたちはそこから収入を得ているわけでもない。
それで良いのだろうか? それではこの事業の永続性はないではないか。
 繰り返しになるが、見沼田んぼ福祉農園は、
現代という過剰の病理の社会であればこそ、
現代に必要な生きるための癒し、学びの場を提供する。
それは、障害者だけでなく誰にとっても必要とされる場なのである。
であればこその風の学校でもあるのだ。
 猪瀬を含めて、そこでボランティアとして働く人々は、
労働に対する金銭的対価が得られなかったとしても「損だ」とは感じないだろう。
猪瀬を除けば、
彼らにとってここに来ることは余暇であり、それ以上の満足を得ているからだ。
 しかし、障害者たちはどうだ。そもそも彼らがいればこそこの事業は始まっている。
彼らの職業的自立を実現するためにも、
この時代が必要とされる場を有償のサービスとして事業化すべきと考えても良いのではないか。
その費用は必ずしも来園者に負担させなくても良い。
儲けるためにというより、
農園の自立した永続性のために利益を出さねばならないし、出すべきなのだ。
 たとえば、フリーペーパーという広告だけで成立するメディアもあるではないか。
福祉農園のウェブサイトやイベントは、
それは学生ボランティアの次の仕事、
次の学びのテーマになるではないか。
それで稼いだお金を前にして、
猪瀬に、「馬鹿でも俺が大将だ、ガハハハ」と彼に
乾杯をさせてやる日を作ってやれよ、若者たち!(昆吉則)

 見沼田んぼ福祉農園代表  猪瀬良一プロフィール

1949年東京生まれ。見沼田んぼ福祉農園代表。
さいたま市・見沼田んぼ市民ネット会長。
1973年、結婚を機に旧浦和市に転居し、
1984年に「見沼田んぼを愛する会」に参加。
86年、見沼田んぼ福祉農園を埼玉県に要請。
1988年7月、全国農協中央会主催「いのちの祭シンポジュム」事務局長。
99年に開園後、埼玉県より要請を受け同園代表に就任。
米専門情報誌『らいすぴあ』(日本米穀小売振興会)編集委員。
2004年より立教大学専任講師。
07年より明治学院大学非常勤講師。
共著『いのちの風 農のこころ』(學陽書房)のほか、『見沼学』を監修など。