風月庵だより

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地球の滅亡

2005-12-30 18:44:38 | Weblog
12月29日(木)青空【地球の滅亡】
 この頃あまりに痛ましい事件が多すぎる。広島のあいりちゃんの事件、まだ犯人の見つからない栃木の吉田有希ちゃんの事件、京都の学習塾の講師に刺された堀本紗也乃ちゃんの事件、そして耐震強度偽装事件等々、人間の歪んだ感覚と考えによって引き起こされたそれぞれの事件である。あまりに痛ましく、この頃はテレビを観ることが自然に遠のいている。それは単なる現実逃避にすぎないであろうが、三人の霊に祈りを捧げる方が忙しいと言わせてもらおうか。
 
 私は出家してから七年近く、テレビもラジオも新聞も読まない時期があった。そうした方が修行生活にふさわしいと思っていたのである。小さな寺に一人で住んでいるときである。寺の信者さんの家に、毎月それぞれの新しい仏さんの命日にあわせて供養にうかがい(これを月参りまたは月経ーつきぎょうーという)、寺子屋を開いて近所の子供たちに勉強を教えるという静かな生活をしていた。
 
 世の中でなにが起きていても、あまり耳にはニュースは入ってこなかった。それにも関わらず私の耳に届いたのは「地球滅亡」のニュースであった。
 
 そのニュースは、正確に言えば、私の心に聞こえたのである。「地球は必ず滅亡する」というその声は、耳ではなく心臓の少し上あたりから聞こえたのである。
 当然私は驚いた。私は霊能者タイプの人間ではないと思っているが、その声は凛とした声であり、確かにそのように聞こえた。「本当ですか」私は声を出して尋ねてみた。
 「残念だが、滅亡する」と、答えが返ってきた。
 「それはいつですか」
 「遅くない。まもなくだ」と、答えが返ってきた。
 
 その声はいつも聞こえるわけではない。私は狂った様子もなく月参りもつとめ、信者さんのお家の人たちとも普通に言葉を交わしていた。寺子屋の子供たちに、算数や英語や国語の勉強も相 変わらずに教えることができた。それでも時折に地球の滅亡をささやく声の訪れがあった。
 
 たびたびに耳元ならぬ胸の中で言われると、それは全くあり得ないことでもないように思えてきた。今思うとマインド・コントロールの一種であろう。自分の心の中から聞こえる声なので、自分が自分でマインド・コントロールにかけているようなものである。地球が滅亡するとなると、この子供たちが大きくなる頃には地球はないのか、と思うと、寺子屋の子供たちがそれぞれの家路につくとき、たまらない気がしたものである。そうして子供たちを、夕焼けがきれいに見える、広々とした空き地によく連れて行った。みんなでお日様に「さよなら」と、感謝をこめて見送ることをした。子供たちは知らないけれど、地球が滅亡すれば、こんなこともできなくなるだろう。少しでも勉強以外のことを伝えたかったのだ。夜空を見に行ったこともある。その空き地から空いっぱいの星が見えた。時々流れ星も見えた。流れ星に興じる子供たちの傍らで、私は、地球もあの流れ星のように滅亡していくのだろうか、と思っていた。
 
 いつ滅亡するか判らないが、気も違っていないような私が、このようなメッセージを受け取っているのだから、どうもあり得ないことではないような気がする。私は本当に地球の滅亡を思って、日々を送っていた。その件が一段落をするまでにはいろいろとあったが、「成住壊空」の四劫 を学んで一番落ち着いたように思う。いつか地球も滅亡するときが来るであろう。それは宇宙の生成を考えたとき、自然の変化なのだ。それを受け入れたとき落ち着いたように覚えている。
四劫 は 成劫 住劫 壊劫 空劫のことで、宇宙の成立・存続・破壊・空無のこと。)

 スピルバーグの『A.I』という映画があったが、その中で地面が海の底に沈んで、自由の女神も海の底に横たわっていたシーンが印象的であった。いつかそういうときも来るかもしれない。また地球の滅亡の前に、人類が滅亡するということもあるかもしれない、と私は思ってもいるが、動揺はしていない。ただできうればなるべく人類が地球で遊べる日の長いことを祈っている。
 
 母なる大地と父なる大空から人類を含めて一切の生物は生み出されている。
 それにしては人類は不遜にも大地も大空も汚しすぎてはいないか。 

 今日の空は青かった。出家する前、ギリシャのロドス島にスイス人の友人たちと一ヶ月過ごしたことを思い出した。ロドスの空の青さは抜けるような青さだが、東京の空にしては今日の空は青かった。一昨日、『ロードス島攻防記』を書いた塩野七生氏の本を買ったこともロドスにつながったように思うが、地球滅亡のメッセージはロドスから発していたように今は分析している。これを書くと長くなりすぎるので、またいつか書いてみたい。 
 来年こそイラクが平和になりますように。
 佳いお年をお迎えください。

読書 水木しげる、橋田信介

2005-12-28 18:34:53 | Weblog
12月28日(水)風寒し【読書 水木しげる、橋田信介】
 昨日、紀伊国屋で求めた本をご紹介したい。
橋田信介氏の『戦場の黄色いタンポポ』、島田洋七氏の『佐賀のがばいばあちゃん』これは若き友人たちへのプレゼント用である。私のためには水木しげる氏の『ほんまにオレはアホやろか』を買いたかったのだが、残念ながらなかったので、なんとなくギリシャを思い出して塩野七生氏の『サロメの乳母の話』を買った。
  水木しげる氏の『ほんまにオレはアホやろか』は私の愛読書である。何回読んだか判らないほど読んだ。そして勇気づけられてきた。今で言えば落ちこぼれのガキ大将が、好きな絵だけは描き続け、戦争に行って片腕を失っても、南の島を楽園のように現地の人々と交流をし、戦後、赤貧洗うがごとき貸本マンガ描き時代を経て『ゲゲゲの鬼太郎』(この歌も実に楽しい)を生み出していくまでの水木氏が書かれている。この本を読み終わると私は人間を本当に賞賛したくなるし、楽しくなるのである。それで、ついにこの大事な本を将来ある若者に譲ったのだ。 しかしまた手元に置きたいと思って、紀伊国屋で探したのであるが、なかった。お正月でも終わったら、新潮社に問い合わせたいと思っている。ありますように。一月九日まで川崎市民ミュージアムで「水木しげる展」をやっているはずなので、観にゆきたいと思っている。

 橋田信介氏の『戦場の黄色いタンポポ』は『走る馬から花を見る』の再刊である。橋田さんがイラクで亡くなられた後に、奥さんの幸子さんによって再刊された。ベトナム戦争時代そしてその後のベトナム、ポルポトに痛めつけられたあとのカンボジア、今でも軍事政権下のミャンマーなど東南アジアの国々をフリーカメラマンとして活躍した橋田さんのお元気な頃の話が詰まっている。なんと言っても現地の人々との交流の話題が、橋田さんの人柄が偲べて心温まる本である。
 今の若者たちにとっては橋田さんの『イラクの中心で、バカとさけぶ』よりも、『世界の中心で愛を叫ぶ』のほうが、人気があるようだ。私は橋田さんの「イラク」を読んでから、試しに「世界」を読んでみた。「世界」は、私に全く何の心の揺さぶりを感じさせてくれなかった。恋愛小説には感覚が鈍くなったとは私は思わない。試しにサガンの『ブラームスはお好き』を読んでみたら、なかなか感じるものがあった。それぞれの好みというものだろう。古いとは言いたくない。とにかく「イラク」は何回も読んだ。戦場カメラマン橋田さんに敬意を表して。イラクの今も続く戦乱状態を誰が引き起こしたか、我々は誤魔化されてはならない。騙されない目を持つことが橋田さんに対する供養であろう。

 「9.11」の映像がテレビに流れたとき、夜遅い時間であったと記憶しているが、アナウンサーの説明が流れない前に、私は「テロだ!」と叫んだ。そのぐらいの危機感は常に持っている。人は尼僧というと、静かに尼寺で花鳥風月を相手に暮らしているような先入観をお持ちのようだが、私はそのイメージには全く当てはまらないであろう。
 若い僧侶の友人たちに、橋田さんのような人のいる(現在形としたい)ことを紹介したいと思って、『戦場の黄色いタンポポ』を買ったのである。どう受け取るかはそれぞれの自由ではある。
 
 島田洋七氏の『佐賀のがばいばあちゃん』は、どんなに貧しくても楽しく生きることを教えられる、人間の宝物のような話である。島田氏は私とほぼ同じぐらいの年代で、同じような時代を生きてきたようだ。私が子供であった頃、やはりどこの家もお金はなかった。隣近所でお醤油を借りたり、お米を貸し合って暮らしていた。がばいばあちゃんのような明るさはなかったが、それほどの暗さもなかったように思う。貧乏が当たり前だったからであろう。 しかしがばいばあちゃんのような明るさと智恵があったら、なにも恐いことはないと更に思う。これからどんな時代がくるかも判らない。これからの人々に明るく生きていってもらいたいと願う。私自身も明るく生きていきたいと願う。時折にこの本を開いたら勇気と、そして真の智恵があれば、明るく生きられるということを学べることだろう。
 仏教書ばかりを読んでいた時期もあるが、この頃はまた別のジャンルの宝物を時々に読んでいる。
 
 文字盤をたたいている傍らで、母が私の本棚を勝手に空けたようである。食料をしまうのに便利だから本は移動したという。ポッカリとあけられたところは、私が好きで集めた白洲正子氏のコーナーである。まだ読んでいない本もあるが、生きているうちに全て読みたいものと一番目に入るところに置いておいたのだが、母にはどの本も同じである。目に入らない奥にしまい込まれていた。これではツン読のまま終わるかもしれない。皆さんも蔵書の全てを読みきってはいないことでしょう。人生は短い。今年も終わろうとしている。


未来都市新宿と奥山貴宏氏の本

2005-12-27 18:25:01 | Weblog
12月27日 (火)【未来都市新宿と奥山貴宏氏の本】
*前に書いた文章を訂正したいが、その方法がわからないので、一筆訂正。
 「先見の眼」を「先見の明」に訂正したい。

 奥山貴宏氏の『ヴァニシングポイント』を近所の本屋さんに注文しておいたが、版元にももうないという。また増刷の予定はないという。奥山氏が死力を絞って書き上げた最後の小説を読ませてもらいたいと思っていたので、何とか手に入れようと考えた。新宿の紀伊国屋にあるかもしれない。その足で新宿に出た。久しぶりの新宿である。高校も大学も新宿の近くだったので、南口の甲州街道から伊勢丹あたりは15歳から熟知の場であり、歌舞伎町は大学時代の懐かしき遊び場である。新宿の隅々まで知っているような気がしていた。まず伊勢丹の並びにある紀伊国屋に行った。そこで検索機があったので検索すると南口店においてあることがすぐにわかったので、とっておいてもらうようにカウンターで頼んだ。とにかく大事な一冊である。南口店の道を教えてもらい、本があったのでほっとした気持ちで道を急いだ。
 かつて甲州街道を挟んで南口の 向かい側はどうなっていたかまるで思い出せなかったが、そこには全く新しい街が出現していた。きれいなビルが建ち並び人が溢れていた。高校時代三年間通った道であるが、全くの変容ぶりで、本当にかつての姿が浮かばないのである。百円の牛丼屋も甲州街道のガードの傍らにあったような気がする。そのあたりにはバラックのような店もあったような気がするが片鱗もない。四十年も前のことだから街の景色が変わって当たり前のことであるが、とにかく驚いた。浦島太郎の感である。
  
 私が高校生であった頃は、考えてみれば戦後僅か十六年のことだ。高校の近くには赤線もあった。特にこの南口から新宿御苑に向かう道の両側は開発が遅れていたので、それだけ開発の余地がおおいに残っていた所でもあり、開発されて当たり前である。私が南口の方には足を運ぶことが長い間なかっただけのことで、たいして驚くにはあたらないことだろう。街の変貌を楽しむためにも、いつか歌舞伎町にも行ってみようかと思う。歌舞伎町は大学時代一週間に二回は遊びに行った青春時代の思い出が詰まったところであるが、さあどんなになっているか楽しみである。
 
 東急ハンズの斜め前に紀伊国屋があるようだ。この東急ハンズは奥山氏が生前ときたま通った店であることを思い出した。颯爽とバイクに乗った奥山氏の姿を、行き交う車の中に追ってみた。かつて癌と向き合いながら、格好良く生きた若者が一人、この道を走っていたのだ。そして老人というにはちょっと早いが(本人はそう思っている。団塊の世代といわれる世代の一年前に生まれたのではあるが。判定やいかに。)、尼僧が一人、彼の小説を求めて、師走の新宿の街を足早に歩いている。奥山氏自身、自分が投げかけた石がこんな風に展開していくのを天から笑って見ているだろうか。そして一人の尼僧が、ブログというインターネットの世界を教えてもらって文字盤を叩いていることも、思わぬ展開の一つと笑っているだろうか。
 私にしても、いつ、この世から消えていくか判らない。一人でも二人でも読んでくださる人がいれば、その方と共に時間の共有ができることはなかなか面白いことではないかと思っている。 
 奥山氏の『ヴァニシングポイント』をついに手に入れた。
 他に数冊の本を選んで、未来都市新宿を後にした。


供養記 ご葬儀の導師

2005-12-25 00:11:30 | Weblog
12月24日(金)【供養記 ご葬儀の導師】

知人のおばあちゃまが亡くなられて、ご葬儀の導師を頼まれた。おばあちゃまは九十五歳。その人生をあらためてお伺いしてみても大往生という表現がふさわしいご生涯であった。ご自分に縁のある人々の面倒をよくみられたそうである。お通夜もご葬儀にも、若いときからお世話になったという親戚以外の方も多く参列された。

私は駒澤大学に通うようになって、それまで住職をつとめていた寺の住職をやめた。事情は敢えて書かないが、尼僧は哀れであるということを体験した。しかし常にマイナスをプラスとして受け入れていけば、道は開ける。私は人生経験を通して充分にそれを知っている年齢になっていた。少しもめげることはない。

こういうこともあろうかと、師匠のご存命中に「風月庵」という看板を揮毫していただいておいた。それは実に先見の明があったと、我がことながらそう思う。どこに行っても「風月庵」、そこが寺として生きていけばよいのである。風月は私の道号である。(僧侶は安名と道号の二つの名を持つ。)
 
本題に入るが、私は現在は住職ではないし、引導を渡せるほどに修行が深まっていないので(一応資格はある)、自分のほうからはご葬儀をつとめることを宣伝することはない。しかし頼まれればつとめさせてもらうことにしている。
 
通夜とご葬儀の前に引導法語を作ったり、お通夜の法語を作ったり、前準備がかなりかかる。特に私はご葬儀慣れをしていないので、儀式について前もってよく学ばねばならない。あの世にまさに帰りゆく人に、そのことを受け入れていただくようによく導かせて頂かなくてはなるまい。この点については、故人は既に死期を悟られていらっしゃったとのことにて、導師として一つ気が楽である。

大事なことは生前の故人について、その誕生から死に至るまでの足跡を辿り、そして讃えることであろう。それを引導法語に読み込むことが、導師としてのお役であると私は思っている。そしてお通夜やご葬儀に参列してくださったご縁ある人々と共に、お通夜をつとめ、ご葬儀をつとめる導師であることが、大事なお役でああろう。僧侶の独壇場ではいけないと私は考えている。導師は故人を導く役でもあり、故人と縁ある人々の心を一つに導くお役でもある。

入院なさる一ヶ月前まで、婦人のたしなみとしてお化粧をほどこされた故人にふさわしい素敵な、そして感謝に満ちたお通夜とご葬儀 となるように私なりに努力した。
 
仏教は本来生きている人々に対しての教えであるが、ご葬儀は精進と修行をつづける僧侶にまかされるにふさわしいお役であると思う。キリスト教でも神道でもやはりそれぞれの聖職者がつとめるのがふさわしいであろう。この頃は無宗教のご葬儀もあるが、なるべくなら宗教者に導かれることをお勧めしたい。
 
今年最後の私の供養記は、九十五歳の人生の大先輩を送らせていただいた記録で閉じさせていただいた。感謝あるのみ。

供養記 本師遷化の日

2005-12-21 23:02:42 | Weblog
12月21日(水)【供養記 本師遷化の日】
九年前のこの日、私の本師は示寂なされた。世寿八十五歳であった。
 悠々とした生き様を弟子たちに示してくださった、まことの禅僧と言わせていただいてよいであろう。本師に対しての賞賛の言葉は限りなくある。限りがないので、いちいちあげるのは敢えてやめておきたい。
 曹洞宗では得度(とくど)の師、立職(りっしょく)の師、そして嗣法(しほう)の師と一応一人前になるまでに三人の師に弟子として認められなくてはならない。この三段階の師が一人の師のケースもあれば、得度と立職が同じ、または得度と嗣法、立職と嗣法が同じというケースもある。私の場合はそれぞれの師が異なる。得度の師にも立職の師にも、そして嗣法の師にも私は恵まれた。有り難いことだと思っている。
 しかし嗣法までの道のりはたやすいものではなかった。苦節十年という言葉があるが、十年にしてようやく嗣法を許していただいた。
 本師示寂のあと、私がどのように生きるかということが、師に対する供養であろう。香華を手向けることだけが供養ではあるまい。
 私は五十歳にして駒澤大学に入学した。実は仏教とはいったいどのような教えなのか、どうもぼんやりとしていたのである。たしかに坐禅もよくつとめた。まことのお師家(しけ)様のご提唱(『正法眼蔵』など禅録を説いていただくこと)も出家の前から、よくお聞かせいただいた。そして得度の師にも嗣法の師にも厳しく育てていただいた。特に得度の師の厳しさは今では心から有り難いと思っている。また示寂の日までお仕えした嗣法の師には、禅の眼を教えていただいたと今は思っている。
 ただ仏教の概論のようなことが、私にはどうもぼんやりとしていたのである。師匠に仕えていた間はいつも師匠の手伝いや作務(さむー雲水の仕事のこと)にあけくれて落ち着いて本を読む時間はほとんどなかった。
 師匠が示寂なさって私には本を読む時間ができた。おそらく今度はそのような修行の時であろうと、私は判断した。それから大学院も博士課程まで学んで、今研究所でさらに研究の日々をおくっているのである。少し仏教が見えてきた。出家してよりほぼ半世紀、やっと少し霞みが晴れてきたようなところである。
 仏教にもいろいろな教えがあって、禅は一つの道である、こんな当たり前のことが実はよくわからなかったということを告白いたしましょう。
 まだまだ師匠の供養として充分な学びとはなっていないが、精進することをあらためて師に誓ったことである。
 

街の風景 階段と少子化

2005-12-20 23:58:09 | Weblog
12月19日【街の風景 階段と少子化】
 時々表参道に用事で訪れることがある。交差点にあがる地下鉄の階段は最近改装された。しばらく工事中であったので、エスカレーターでもつけてくれるのであろうか、と期待していた。しかし結果は前より少しきれいになっただけで、これなら直す必要はまったくなかったのではないかと思った。地下鉄の改札を出てから、上の道に出るまでに約八十五段もある。何のための改装であったのだろうか。
 私は少々痛い足を励まして階段を上っていた。ちょうどそこに乳母車を両手にかかえて、この階段を降りてくる 婦人があった。私は思わず「荷物だけ私に持たせてください」と言って、重そうなバッグをその婦人から受け取った。やはり重かった。可愛い赤ちゃんの乗った乳母車は更に重いであろう。
 私は日本の少子化をくい止める役には立たなかったことを、実に残念な申し訳のないことをしたと今では思っている。私が僧侶になったところで、たいして世の中のお役には立っていない。それよりも一人でも二人でも次に続く命を産ませていただいて、育てさせてもらったほうが、どれほどよかったかと思うことがある。今更全く時すでに遅しである。
 そんなであるから、子育てで大変な人のお役に少しでも立ちたいといつも思っている。
 重いバッグを改札のところまで持たせてもらったが、エスカレーターがあったらどんなに子育ての母たちに嬉しいことだろうか。このような細かい気配りも少子化を助長させない一つの支援になるのではなかろうか。少子でなくとも子育ては大変な労働である。社会が少しでも手助けして当然のことである。乳母車を抱えて階段を下りるのも、そして上るのも本当に大変なことである。
 無駄金を使った表参道交差点の地下鉄からの交番側の階段の改装だと痛感する。何のための改装であったのか。さてもう一方のみずほ銀行側の階段はまだ工事中である。おそらくそちらの方にはエスカレーターがきっとついているだろうと思っている。願っている。お願いします。
 

供養記 円満なる遺産分配

2005-12-19 16:52:45 | Weblog
12月18日(日)風寒し【供養記 円満なる遺産分配】
今日はE家のご両親の法事である。お父さんは七回忌、お母さんは三回忌である。このご家族は、体の弱いご長男を次男夫婦が助け、三男夫婦も次男の兄に従い円満に遺産を分けあったことを前のご法事でも聞かされているので、私も心が樂である。親はなによりもそれが嬉しい事だと思う。
 遺産相続でもめている家庭はそれとなくわかるものである。そのような家庭についてはプライバシーにも関わるのでこのような場では書くことはできない。
 
 遺産相続について何回か経験したことであるが、人間はお金を手に入れるとき欲望の塊りになるということである。端から見ていればそれで充分ではないかと思うが、手に入れられるお金は一円でも多く、もっと、もっと、と欲が欲を呼ぶようである。
 皆で仲良く分けあえば更なる天の助けがあるように思うのだが、このチャンスを逃したらお金が手に入らないとばかりに欲の顔になりきるのである。自分が働いて得たものではないにも関わらず、権利を主張するようである。それぞれの事情があって取り分の多いのはやむを得ないだろうというケースもあることはあるが。
 
 僧侶は特にそのような争いに巻き込まれてはならないと自戒している。それぞれの事情はあろうけれども、私はか細いので、そのような問題からは遠く離れるのに越したことはないと経験を通してつくづくと身にしみて思ったことである。。
 円満な場合のみ耳を傾けてもよかろうというものであろう。
 そんなであるから、このご家族は、このようにご両親のご供養を和やかに営めることの有り難さを思い、自作のご詠歌を本日はご披露させていただいた。私の持っているご詠歌集には、親への報恩のご詠歌が見あたらなかったので、詩作してみたのである。
 私自身はあまりご詠歌は得意ではないし、ほとんどお唱えしたことはない。しかし私の二人のよき友人はご詠歌の師範である。たまにテープなど聴かせて頂いているので、今日は私の独壇場であるので、頑張ってお唱えさせていただいたのである。できる限りのまことをこのご両親とそのご家族に表したいものだという、私の衷心の表れとお許しいただきたい。

 歌詞のご披露は、もう少し推敲致しまして、またいつか書かせていただきましょう。
 また皆さんが喜んで下さったかどうかは、ご想像にお任せ致しましょう。私は恩知(オンチ)人間故。
 

電車風景 少年よ電車で体を鍛えよ

2005-12-16 18:45:13 | Weblog
12月13日(火)【電車風景 少年よ電車で体を鍛えよ】
 研究所からの帰りの電車での出来事。
 電車のドアが開いた途端に少年が駆け込んできて、私の隣に坐った。年令は七歳ぐらいであろうか。少年は後を追って入ってきた婦人の連れのようである。祖母だろうとは思うが、確信はもてなかった。
 「少年、少年」と私は声をかけた。
 「あのね、お母さんを座らせてあげてね」と、私は言った。
  少年と一緒の婦人はとても疲れていそうにさえ見えた。もしかしたら、おばあちゃんかもしれないが、間違えたら大変な失礼になるので、私は敢えて「お母さん」と表現したのである。 
 少年は私の言うことを理解してくれて、恥ずかしそうにその婦人に席を譲った。
(お節介でごめんね)と心で思った。
 「あのね、子どものうちから、電車で立っていると足がとても強くなるのよ。自分より疲れているような人がいたら、譲ってね。僕は強いのだから、ね。」と私は言った。
 少年はコクリとした。
 婦人はなにも言わなかった。
 この場合には当たらないことかも知れないが、日本の大人は子どもを甘やかしすぎると思う。大人になってから何を言っても手遅れ。
 
 【子は宝、しつけは子の宝】
 私が寺に住んでいるとき、門前に書いた標語である。

 七歳ぐらいになれば立っていても危なくない年令である。十歳までにしつけをしてあげないと子どもにとって、本当に可哀想である。十歳までに仕込まれたことは、大人になっても忘れることはない。親にとっても周りの大人にとっても十歳までが勝負ではないだろうか。赤ちゃんの時から、そして瑞々しい少年期に、愛情をもって真剣に取り組まなくては、子どもが成長してから嘆くことになりかねない。

 少年よ、電車に乗っても真っ先に席に座ろうとすることはやめよう。そうして疲れていそうな人に席を見つけてさえあげる人になろう。私のお節介を忘れないでいてくれると嬉しいな。

供養記 霊の訪れ

2005-12-11 17:27:23 | Weblog
12月11日(日)曇り【供養記 霊の訪れ】
今日は不慮の事故で亡くなった青年の七回忌の法事である。この青年は心の優しい、聡明な人物であった。どなたの死も惜しまれない死はないけれど、本当に惜しまれる死であった。
 ご家族の皆さんとともに経を誦した。故人を偲ぶ思いの強いご家族の誦経ほど、亡き人にとって有り難いものはないと思う。 私はできるだけご家族とともに誦経することを旨としている。そのような僧侶は多いと思う。ただ何年たっても家族の涙は新たである。特に母の涙は生涯乾くことはないであろう。やはり涙で経本の文字が読めないことを背中に感じた。
 
 それは、ともに『修証義』を唱えているときであった。
 仏壇の前に供えていた花の一輪がふんわりと揺れた。白い霞草だった。経典に目を落としていたが、その気配は私の目を花に釘付けにするほどの力があった。青年からのサインのように思えた。
 しかし、私の気のせいか、と思い、どこかから風でも入ってきたか、また揺れるだろう、と思い直して、お経を唱えながら、花を見ていた。
 だが二度とは揺れなかったし、どこからも風の入ってくる部屋の造りではない。
 やはり、青年の気が訪ねてきたように思えてならなかった。

 ご供養が終わった後で、花が揺れましてね、とさりげなく言ったら、青年の弟が僕も見ました。兄さんが来たように感じました、と言った。
 彼も経典に目をやっていたはずであったが、経典から目を離させるほどの強い気配であったのだろう。

 「前の法事の時は、真っ赤な火の玉のようなものが見えました」と、弟さんは言った。彼は小さいときから繊細で、霊感が強いたちである。私には火の玉は見えなかったが、今日のお花の揺れにはハットするものを感じた。

 やはり立証できることでもなく、気のせいと言えばそれまでのことであるが、それぞれへのメッセージと受けとめてもよいだろう。
 不慮の事故ではあったけれど、もう落ち着きました、大丈夫だから安心してください、青年はそう言いたかったのかもしれない。私に直接のメッセージの言葉は聞こえなかったが、家族それぞれへの言葉を感じることができる揺れであった。

 「お母さん、僕大丈夫だから、もう安心してね。」
 それは青年が一番伝えたい言葉であろう。

 帰路のハンドルを握りながら、私は不意に涙におそわれた。生前の青年を思いだしていた。そしてその死を止められなかったことの無力さを詫びた。

 「庵主さん、僕もう大丈夫だから、安心してね。」
 青年は私にも、そんな優しいメッセージを、ふんわりと届けてくれたのかもしれない。

仏成道の日

2005-12-09 13:43:05 | Weblog
12月8日(木)【仏成道の日】
師匠がご存命の頃、12月1日から8日の朝までは師匠の行者(身の回りの用をつとめる修行僧)として臘八接心(お釈迦様が12月8日にお悟りを開かれたことに因んで、禅寺では12月はじめの一週間、坐禅をし続ける。これを臘八接心という。)をつとめた。7日から8日の未明にかけては不眠で坐った。
 道元禅師は「この心、あまつみそらに花供う、三世の仏にたてまつらなむ」と和歌に詠まれている。「この心」は坐禅の心である。
 ひたすらなる坐禅は、あまつみそらの三世の仏に供える花である、と解してよいだろう。坐禅をして神通力を得られるような考えは過ちであるが、全世界と一続きになるということは過ちではない。世界いっぱいの坐禅である。
 だが事実はこの私が、ひたすらに坐っているのであり、自分以上にも自分以下にもなっているわけではない。
 
 しかし、一週間坐るだけであるが、私の坐禅はなかなか三世の仏様に供えられるような花とはいえない坐禅である。眠気と妄想との戦いとさえいえる。眠気がきたら背筋を伸ばし、今日のおかずはなんだろうか、などと頭に浮かんだら背筋を伸ばし、姿勢を正すことにつとめたつもりではある。
 
 しかし師匠は時々言われた。「おまえさんはよく眠っていたな」と。私の単(坐禅の席)はあいにくと師匠の目の前であった。自分ではしっかり坐っていたつもりであったが、居眠りをしていたこともあったようだ。

 今に思えば、懐かしくも有り難い師匠のお言葉である。

 また師匠とともに見上げた朝四時頃の星の美しさも忘れがたい。臘八接心頃の冬の星座は殊に美しいものである。空がどこまでも澄み切っているのであろう。漆黒の夜空に星々が空いっぱいに煌めいているのである。
  暁天坐禅(夜明けの坐禅)で坐禅堂に向かう途中、本堂のかどの濡れ縁で師匠は必ず空を見上げられた。その位置からちょうど明けの明星が光り輝いているのが見えた。

 かつて2400年ほど前のインドでも、光り輝く明けの明星を、お釈迦様はご覧になられたのだ。その星と今頭上で輝く星と、同じ星なのである。時を越えたロマンである。

 さて、多くの問題を抱えた今の地球上で、いかに仏弟子として生きていくか、一隅で呻吟している現状である。