風月庵だより

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『未知よりの薔薇』を読んで

2021-11-29 21:43:55 | Weblog

11月29日(月)晴れ【『未知よりの薔薇』を読んで】

全八巻を購入しようと思ったが、ちょっとしたミスで結局「第一巻 由来篇」だけを注文してよかった。というのは、年末のこの忙しい時期に、全八巻が届いたら、何も手につかなくなるところだったから。

今日、郵便受けにこの本を見つけてから、開くとあぶない、と思ったのだが、やはり最後まで読むのを抑えられなかったのです。

大変に素晴らしい内容です。今まで読んだ本の中で、この本程、興味深く読ませてもらった本はなかったと言ってもよい程です。

人間の「霊性」と、そして「聖性」について、説き明かされています。

アンドレ・マルローについて大学で論文を書き、後にマルローその人と、深く交流することになる。この著を通して、マルローという一大文学者の霊性を垣間見させてもらい、さらにマルクス主義に侵されてはならないことを、日仏交流の場で演説したことなど目の覚める思いがしました。
しかし、その言葉が発せられるや、マイクのスイッチを、日仏会館に出入りしている怪しい人間が、切ってしまったなどという話は、全く知らないことで、考えさせられました。また、マルローが米露に牛耳られてはならない(別の表現でしたが、今探している時間が無いので、恐縮ながら)と、警告していたことを慧眼であり炯眼であると思う。日本民族は、アメリカの占領政策によって、失ってしまったことがあまりに多すぎました。アメリカばかりではなく、日教組もその片棒を担いだのではないでしょうか。

私は日本至上主義ではなく、どの民族も固有の魅力ある民族性があると思うのですが、日本人固有の魅力ある民族性が、占領政策によってズタズタにされてしまったと、痛感しています。この地球上の人類は、それぞれ、固有の魅力を持ち、それが一つの地球人類であると考えています。

この本を読んで、もっと他のことを書かなくてならないのですが。鈴木大拙博士との交流や、出光佐三翁(『海賊と呼ばれた男』という映画が私の印象には深い。日本の戦後を救った真の骨のある日本人)、その出光翁の蔭を支えた、不思議とさえいえる松見守道という人物との交流とその人のことなど、興味深い、こんな簡単な言葉で表現していたのでは申し訳ないのですが。それこそ日本的霊性を垣間見る思いがしました。

著者である竹本忠雄氏は、幼年期より異界との不思議な霊的体験が多く、霊的体験が竹本氏には、後に現実となって展開する、そのような霊性の持ち主のようです。

明日があるので、私の拙い読後感の紹介は、このへんでやめましょう。第2巻以降は、お正月の準備などが終わるまでは注文しないことにします。おそらく全て読み終わるまで、何も手につかなくなるでしょうから。

(拙著も第3版を出してもらえるということで、明日中に推敲しなおしをしなくてはなりません。それは地味な本ですが。)

(私は詩人として生きたかったのですが、お寺の住職という役割は、現実的な仕事も多いです。またあの世との懸け橋の役割もあると思っています。)

とにかく、今日はこれにて「おやすみなさい」


老いの沢庵漬け

2021-11-28 11:12:36 | Weblog

11月28日(日)晴れ【老いの沢庵漬け】

今日もよく晴れた日です。久しぶりに法事の無い日曜日。

一昨日沢庵を漬けました。干してから5日程でくの字に曲がるようになりました。去年より本数は多いのですが、重さは同じくらいです。4.2キロありますから、重りは3倍の12キロくらいにしないといけません。だんだん重いものが持ちづらくなりましたので、わずか20本の大根ですが、二つの桶に分散しました。そうしましたら、それほど重い重石を持ち上げなくてもすみます。

老いたなら老いたなりの工夫がありますね。
自分ではそれほど老いた、とは思っていないのですが、重いものを持つときに無理は禁物、と自分自身に言い聞かせます。

24日の水曜日には、タローが、朝の境内散歩から右の後ろ脚を引きずってやっと歩いて帰ってきました。すぐに動物病院に予約をいれましたが、6キロあるタローちゃんを担いでいくのがきついので、友人に応援を頼みました。ついでにハッピーも捕まえてワクチン注射に連れていくことができました。猫や犬の家族を持つには、自分の年齢のことも考えに入れないといけませんね。

さて、聖徳太子様について『三経義疏』について書きたいのですが、なかなか本を読み切れません。御最期まで書けたなら一応きりにしたいと思っているのですが、やらねばならないことが多すぎまして、なかなか学びきれません。

今日はこのへんにて失礼いたします。今日という一日を生ききりましょう。


聖徳太子考(7)十七条の憲法その4

2021-11-17 21:27:45 | Weblog

11月17日(水)晴れ【聖徳太子考(7)十七条の憲法その4】

本日は17日です。あらかじめ記事の下書きをしておきましたので、なんとしても「十七条の憲法」を一通り終わりにしたいと思います。あまりに切ないことのあった日なのですが。人間にとって、人の死よりも一大事はありません。他のことはなんであっても乗り越えられますが、死を乗り越えることはできません。受け入れるしかありませんが、あまりに幼い子の死は、あんな幼い子が一人で旅立つのかと思うと。私がご葬儀をつとめなくてはならないことは辛いことです。

十六に曰く、民を使うに時を以てするは、古の良典(よきのり)なり。故に、冬の月には間(いとま)あり、以て民を使うべし。春より秋に至るまでは、農桑(のうそう)の節(とき)なり。民を使うべからず。それ農(たづく)らざれば何をか食(くら)い、桑(こがい)せずば何をか服(き)ん。

★民を労役に使うときは、冬の間が農耕の仕事がないのでよいでしょう。農耕に適した時期に民を遣えば、食べるものにことかいて困るし、蚕の時期ならば着ることに困るであろう、と、実に細やかな配慮の有る太子であることがうかがえます。*桑(蚕飼い)

十七に曰く それ事(こと)は独り断ずべからず。必ず衆とともに宜(よろし)く論ずべし。少事は是れ軽(かろ)し。必ずしも衆とすべからず。ただ大事を論ずるに逮(およ)びては、もしは失(あやまち)あらんことを疑ふ。故に、衆とともに相弁ずれば、辞(ことば)すなわち理(ことわり)を得ん。

★ことを行うにあたり、皆さんと議論したほうがよい。独断専行は往々にして問題がありますね。しかし、小さな事は、自分で決めてもよいでしょう、と細かいことまで、太子は述べられています。実際、細かいことまで相談していては、為すべきことまで、時期を逸してしまうこともありますね。責任者がある程度のことは、責任をもってことをすすめたほうがよいこともあります。ケースバイケースですが、太子はそのようなことまで、やはり見通されていたことがうかがえます。太子が飾り物ではなく、実務をこなされていたことがよく分かる条文です。

明治天皇が諸侯や公家などに示した新政府の基本方針である「五箇条の御誓文」の第一条に「広ク会議ヲ興(おこ)シ万機公論(ばんきこうろん)ニ決スヘシ、と、一番に述べていますが、これは十七条の憲法の影響が当然ありますね。

原文

十六曰、使民以時、古之良典。故冬月有間、以可使民。從春至秋、農桑之節。不可使民。其不農何食。不桑何服。

十七曰、夫事不可獨斷。必與衆宜論。少事是輕。不可必衆。唯逮論大事、若疑有失。故與衆相辮、辭則得理。


聖徳太子考(6)十七条の憲法その3

2021-11-14 21:54:04 | Weblog

11月14日(日)晴れ【聖徳太子考(6)十七条の憲法その3】

今日は、かなり暑かったですね。11月の半ばなのですが、毎年こんなだったでしょうか。さて、この辺りのお寺に泥棒が入ったので気を付けるようにという情報がメールに入ってきました。今朝、庭に入る木戸が開いていました。たしかによる閉めたはずです。ちょっと気を付けた方が良いと思いカギを買いに行って取り付けてもらいました。あちこちに防犯カメラも取り付けています。当寺には価値あるものはありませんが、そのようなことは相手にはわかりませんでしょう。「防犯カメラあり」と看板を出すよりも「金目の物はありません」と看板を出した方がよいかもしれませんね。

さて、前の続きを書かせていただきます。

十一に曰く、明らかに功(いさお)と過(あやまち)を察して、賞罰を必ず当てよ。このごろ、賞は功においてせず、罰は罪においてせず。事を執る群卿、よろしく賞罰を明らかにすべし。

★聖徳太子の時代に、賞罰が相応に行われていなかったことがわかる。

十二に曰く、国司(くにのつかさ)、国造(くにのみやつこ)、百姓より斂(おさめ)とることなかれ。国に二君非(な)く、民に両主無し。率土(くにのうち)の兆民(ちょうみんーひとびと)は、王をもって主と為す。任ずる所の官司(つかさ)は皆是れ王の臣なり。何ぞ敢あえて公(おおやけ)とともに百姓に賦斂(おさめ)とらむ。

★国司や国造が、国のためだけではなく、自分の分も百姓から税をとっていたこともわかる。それを諫めているのです。

十三に曰く、諸(もろもろ)の官に任ずる者は同じく職掌(しょくしょう)を知れ。或いは病み、或は使いして、事を闕(か)くこと有らん。然れども、知ることを得るの日には、和すること曽て識(し)れるが如くせよ。それ與(あずか)り聞くこと非(な)しと云ふを以て、公務を妨(さまた)ぐること勿(なか)れ。

★病気などで或る者が休んで、役目をつとめることができないときは、他の者が代わってその役を務めるように。またその場合、引継ぎもきちんとするようにと、随分細かいことにまで、太子の目が行き渡っていることを知ることができます。

十四に曰く、群臣百寮、嫉妬あること無かれ。我すでに人を嫉めば、人もまた我を嫉む。嫉妬の患(わずらい)その極(きわ)みを知らず。所以(ゆえ)に、智己れに勝るときは則ち悦(よろこ)ばず、才おのれに優るるときは則ち嫉み妬(そね)む。是を以て、五百歳の後、乃今(いまし)、賢に遇うとも、千載(せんざい)にして、一聖を待つこと難(かた)し。其れ賢聖を得ずんば、何を以てか国を治めん。

★この条を読むと思わず「よくぞ言ったり」と言いたくなります。嫉妬ほど人間の性としてすさまじいものはないと言えましょう。私もその害を蒙ったことがあります。また、私自身、他人を嫉妬したこともあります。心のうちだけで済んでいればよいですが、実害があるようではいけません。これはまことに現在でも人間社会で心しなくてはならない条目と思います。

十五に曰く、私に背きて公に向ふは、是れ臣の道なり。凡そ人、私あれば必ず恨みあり、憾(うら)みあれば必ず同(ととのは)ず。同ぜざれば則ち私をもって公を妨ぐ。憾(うらみ)起こるときは則ち制に違い法を害(そこな)ふ。故に、初章に云はく、上下和諧せよ。それまた是の情(こころ)なるか。

★役人は、私心は入れずに公務を第一としなくてはならない。これが役人たる者の道である、と太子は説かれています。

今日はちょっと疲れましたので、あと残り2条だけですが、これまでにしておきます。やはり買い出しは疲れます。猫ちゃんたちの餌は大事ですし、少しづつお正月のご祈祷に使う物を買いに行ってきました。

原文

十一曰、明察功過、賞罰必當。日者賞不在功。罰不在罪。執事群卿、宜明賞罰。

十二曰、國司國造、勿収斂百姓。國非二君。民無兩主。率土兆民、以王爲主。所任官司、皆是王臣。何敢與公、賦斂百姓。

十三曰、諸任官者、同知職掌。或病或使、有闕於事。然得知之日、和如曾識。其以非與聞。勿防公務。

十四曰、群臣百寮、無有嫉妬。我既嫉人、々亦嫉我。嫉妬之患、不知其極。所以、智勝於己則不悦。才優於己則嫉妬。是以、五百之乃今遇賢。千載以難待一聖。其不得賢聖。何以治國。

十五曰、背私向公、是臣之道矣。凡人有私必有恨。有憾必非同、非同則以私妨公。憾起則違制害法。故初章云、上下和諧、其亦是情歟。


聖徳太子考(5)十七条の憲法その2

2021-11-13 18:39:29 | Weblog

11月13日(土)晴れ【聖徳太子考(5)十七条の憲法その2】

十七条の憲法を読みますと、世の中について考えることなど、自分自身も教えられることが多々あります。他人のことよりもまず自らを正したいですが、是非、現代の政治家の皆さんにもお読みいただけば有難いと思いました。

しかし、仮名は平安時代以降ですし、女文字などと言われていたのですから、公的な文書は漢文です。まことに浅学ですが、当時の方々はどのように読んで解釈していたのでしょうか。当時の役人になった豪族や貴族たちは漢文が読めたのでしょうか。また中国語の発音で読んでいたのでしょうか。どなたかにお教えいただけたら幸甚ですね。

さて、前の続です。

六に曰いわく、悪を懲(こら)し善を勧(すす)むるは、古(いにしえ)の良典なり。是(ここ)をもって、人の善を匿(かく)すことなく、悪を見ては必ず匡(ただ)せ。それ諂(へつら)ひ詐(いつは)る者は、則(すなわ)ち国家を覆(くつがへ)す利器(りき)たり、人民を絶つ鋒剣たり。亦(また)佞(おもね)り媚(こぶ)る者は、上に対しては則ち好(この)むで下の過ちを説き、下に逢ひては則ち上の失(あやまち)を誹謗る。それ此の如きの人は、皆、君に忠なく、民に仁なし。これ大乱の本なり。

●「諂(へつら)ひ詐(いつは)る者、佞(おもね)り媚(こぶ)る者」は役人として、あるべからざる姿と太子は強調しています。たしか「忖度(そんたく」という言葉が、つい最近、政治の世界で随分使われ批判されていたと思いますが、まさにこのことを太子は見抜かれていたのです。どうぞして現在の政治家も官僚の皆様も心していただきたい箇条です。『仏遺教経』の中にも「諂曲(てんごく)」するなかれ、という個所があります。自分自身も諂わずに生きていきたいと、いつも心しています。

七に曰いわく、人には各任あり。掌(つかさど)ること宜(よろ)しく濫(みだ)れざるべし。其れ賢哲官を任ずれば、頌音(ほむるこえ)則ち起り、奸者官(かんじゃかん)を有つときは、禍乱則ち繁し。世に生れながら知るもの少なし、剋(よ)く念(おも)ひて聖と作る。事大少となく、人を得れば必ず治まり、時急緩となく、賢に遇へば、自から寛(ゆたか)なり。此れに因て国家永久にして、社稷(しゃしょく)危きこと勿(な)し。故に古の聖王は、官のために人を求め、人のために官を求めず。

賢哲官は、賢く道理に明るい人を役人と、奸者官はずるい者のこととで、そのようなものを役人に任ずると、禍や乱れが世の中に生じてしまうから気を付けるように。この当時もとんでもない者でも、世襲として官職についていたようで、そのような愚かな政治をしないように、十七条の憲法発布の前年推古天皇11年(603)に「冠位十二階」を制定したのだという。ちょっと待ってください、現在も親の地盤を受け継いで、代議士になっている政治家も多いのではないでしょうか。

八に曰く、群卿百寮(ぐんけいひゃくりょう)、早く朝(まい)り晏(おそ)く退(さが)れよ。公事は盬(いとま)靡(な)し、終日にても尽しがたし。是を以て、遅く朝(まい)れば急なることに逮(およ)ばず。早く退(さが)れば必ず事尽さず。

「群卿」とは朝廷に仕える大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)などの高位の公達で、「百寮」はその他一般の官吏のことです。このことは政治家の皆さんに声を大にして言うべきことでしょう、が、一般会社員に対しては、いかがなものでしょうか。それぞれには家に帰れば家族もいます。また睡眠時間は7時間はとってほしいです。勤めている間、睡眠時間が十分でないと、定年になってから病気になるケースが多い、と何かで読んだ記憶があります。太子の時代は役所の勤務時間は、何時から何時くらいまでだったのでしょうか。電気がないのですから、いずれにしても明るい時間だったのではないでしょうか。それほど長い勤務時間ではなかったのでは、と推測します、が、このようなことを研究なさっている方もいらっしゃるのではないでしょうか。

九に曰く、信(まこと)はこれ義(ぎ)の本なり。事毎(ことごと)に信あれ。それ善悪成(なる)も敗(やぶる)も、要(かなら)ず信にあり。群臣共に信あるときは、何事か成らざらん。群臣信なくんば、万事悉(ことごと)く敗れむ。

誠実こそは、人間として生きていくうえで大切なことだと、この頃よく思います。この信は誠実に通じる「まこと」でしょう。私が今この十七条の憲法をブログに載せるにあたって参考にしている書物には、「まこと」とルビが振ってあります。あらためて辞書を引いてみますと、同義語として、誠実、真実があります。私自身、自分の役目に誠実でありたいと、いつも心しています。また、人の役目の領分に立ち入ることは気を付けたいと思います。これも大事なことと思います。お互いに。他を尊重することであろうと思います。

十に曰く、忿(いかり)を絶ち、瞋(いかり)を棄て、人の違ふを怒らざれ。人皆心あり、心各執(と)るところあり。彼是とすれば則ち我は非とし、我是とすれば則ち彼は非とす。我必ずしも聖に非ず、彼必ずしも愚に非ず、共に是れ凡夫のみ。是非の理、詎(なん)ぞ能(よ)く定むべき。相共に賢愚なること、鐶(みみがね)の端なきが如し。是を以て、彼の人瞋(いか)ると雖(いへど)も、還(かえ)って我が失(あやまち)を恐れよ。我独(ひと)り得たりと雖も、衆に従ひて同じく挙(おこな)へ。

本師が常々言葉にされていましたが、「なにが良いか悪いかわからんぞ」是非を論ずるな、ということを耳にたこができるほど聞かされました。坐禅中、眠っていたようでも、口宣をしっかりと覚えています。太子も人々の争いの根本に是非を論じ、自分を正しいと主張するところに争いが生じることをご覧になっているのです。「共にこれ凡夫」、然り、ごもっとも、ですね。忿(いかり)は心の中のいかり、瞋(いかり)は外に表れるいかり   と区別するようです。鐶は金の輪のこと。

原文

五曰、絶饗棄欲、明辨訴訟。其百姓之訟、一百千事。一日尚爾、況乎累歳。頃治訟者、得利爲常、見賄廳讞。便有財之訟、如右投水。乏者之訴、似水投石。是以貧民、則不知所由。臣道亦於焉闕。

六曰、懲惡勸善、古之良典。是以无匿人善、見-悪必匡。其諂詐者、則爲覆二國家之利器、爲絶人民之鋒劔。亦佞媚者、對上則好説下過、逢下則誹謗上失。其如此人、皆无忠於君、无仁於民。是大亂之本也。

七曰、人各有任。掌宜-不濫。其賢哲任官、頌音則起。姧者有官、禍亂則繁。世少生知。剋念作聖。事無大少、得人必治。時無急緩。遇賢自寛。因此國家永久、社禝勿危。故古聖王、爲官以求人、爲人不求官。

八曰、群卿百寮、早朝晏退。公事靡監。終日難盡。是以、遲朝不逮于急。早退必事不盡。

九曰、信是義本。毎事有信。其善悪成敗、要在于信。群臣共信、何事不成。群臣无信、萬事悉敗。

十曰、絶忿棄瞋、不怒人違。人皆有心。々各有執。彼是則我非。我是則彼非。我必非聖。彼必非愚。共是凡夫耳。是非之理、詎能可定。相共賢愚、如鐶无端。是以、彼人雖瞋、還恐我失。、我獨雖得、從衆同擧。

 

本日はこれまでにて失礼いたします。


聖徳太子考(4)十七条の憲法

2021-11-12 22:23:44 | Weblog

11月12日(金)晴れ【聖徳太子考(4)十七条の憲法】

聖徳太子と聞けば、「十七条の憲法」を思い浮かべる人が多いと思います。十七条の憲法については、『日本書紀』、『先代旧事本紀』には、推古天皇12年4月3日(ユリウス暦604年5月6日)の条に「十二年…夏四月丙寅朔 戊辰 皇太子親肇作憲法十七條」と書かれているそうですから、太子様は34才になっている頃です。この頃は、文章は漢文です。仮名が使われるようになりましたのは、平安時代以降ですから、原文は漢文ですが、末尾に原文をまとめて掲載します。私自身の勉強の為にもなりますので、書き下し分を次に書きます。

この憲法は、一般民衆に対するものではなく、政治をつかさどる役人たちに対しての憲法です。しかし、現在の私たちにとっても、大変な学びがあります。私にとっては、そう思いました。あらためて感心しています。ただ長いですから、2回か3回に分けて紹介したいと思います。

一に曰く、和を以て貴しと為し、忤(さから)ふこと無きを宗(むね)とせよ。人皆党有り、亦達(さと)れる者少し。是を以て、或いは君父に順はず、また隣里に違ふ。然れども、上(かみ)和(やわら)ぎ、下(しも)睦びて、事を論ずるに諧(かな)へば、則ち事理自(おのづ)から通ず。何事か成らざらん。

*太子様は、血なまぐさい戦いや崇峻天皇の殺害などを見てきて、「和」ほど大切なことは無いとつくづくお思いだったでしょう。「達(さと)れる者少し」という個所も自らを省みてもその通りと思います。現在の政治家の皆さんにも良く味わっていただきたい「憲法」ですね。

二に曰く、篤く三宝(さんぼう)を敬え。三宝とは仏・法・僧なり、則ち四生(ししょう)の終帰(しゅうき)、万国の極宗(ごくしゅうーおおむね)なり。何れの世、何れの人かこの法を貴ばざる。人、尤(はなは)だ悪あしきもの鮮(すく)なし、能(よ)く教ふれば従ふ。それ三宝に帰せずんば、何を以てか枉(まが)れるを直(ただ)せん。

*仏教をこれほどに敬ってくださっていた太子様を、日本仏教にとって有難い存在であったと、あらためて思います。「人、尤(はなは)だ悪あしきもの鮮(すく)なし、能(よ)く教ふれば従ふ。」という個所も噛んで含めるように説いてくださっていると思います。

三に曰わく、詔(みことのり)を承(うけたまは)りては必ず謹(つつし)め。君は則ち天たり、臣は則ち地たり。天覆(おほ)い地載せて、四時順行し、万機通ずることを得。地、天を覆わんと欲(せ)ば、則ち壊るることを致さんのみ。是を以て、君言(のたま)へば臣承(うけたまわ)り、上行へば下靡(なび)く。故に詔を承りては必ず慎め。謹まざれば自から敗(やぶ)れん。

四に曰く、群卿百寮(ぐんけいひゃくりょう)、礼を以て本と為せ。其れ民を治むるの本は、要(かなら)ず礼に在り。上、礼あらざれば、下、斉(ととの)はず、下、礼無ければ、必ず罪あり。是を以て、群臣、礼有れば位次(いじ)乱れず、百姓(ひゃくせい)礼あれば、国家自から治まる。

*礼節の、人間社会に大事なことは、現代でも同じですね。

五に曰く、餮(むさぼり)を絶ち、欲を棄てて、明らかに訴訟(うったへ)を弁(さだ)めよ。それ百姓の訟(うったへ)、一日に千事あり。一日すら尚爾(しか)り、況(いわん)や歳を累(かさ)ぬるをや。頃(このごろ)、訟を治むる者、利を得るを常となし、賄(まかなひ)を見て讞(うったへ)を聴く。便(すなは)ち財あるものの訟は、石を水に投ぐるが如(ごと)く、乏しき者の訴へは、水を石に投ぐるに似たり。是を以て、貧しき民は則ち由る所を知らず。臣の道またここに闕(か)く。

*飛鳥の時代も、「袖の下」の力は横行していたことが分かる一文です。いつの世もそうですかね。人間に欲(物欲でも金銭欲でもなんでも)はつきもの。太子様が「憲法」に明文化して、しっかりと戒めなくておかなくてはならないことなのですね。

原文

一曰、以和爲貴、無忤爲宗。人皆有黨。亦少達者。以是、或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦、諧於論事、則事理自通。何事不成。

二曰、篤敬三寶。々々者佛法僧也。則四生之終歸、萬國之禁宗。何世何人、非貴是法。人鮮尤惡。能敎従之。其不歸三寶、何以直枉。

三曰、承詔必謹。君則天之。臣則地之。天覆臣載。四時順行、萬気得通。地欲天覆、則至懐耳。是以、君言臣承。上行下靡。故承詔必愼。不謹自敗。

四曰、群卿百寮、以禮爲本。其治民之本、要在禮乎、上不禮、而下非齊。下無禮、以必有罪。是以、群臣禮有、位次不亂。百姓有禮、國家自治。

五曰、絶饗棄欲、明辨訴訟。其百姓之訟、一百千事。一日尚爾、況乎累歳。頃治訟者、得利爲常、見賄廳讞。便有財之訟、如右投水。乏者之訴、似水投石。是以貧民、則不知所由。臣道亦於焉闕。


聖徳太子考(3)四天王寺と金剛組

2021-11-09 10:09:28 | Weblog

11月9日(火)雨【聖徳太子考(3)四天王寺と金剛組】

今日は雨です。昨日までの好天気とは打って変わって寒いです。昨日は思い切って部屋を冬バージョンに切り替えました。

さて、聖徳太子様は、「仏教興隆の詔」を推古天皇2年(594)に出してくださった、日本仏教にとっての大恩人です。その方の1400年恩忌ですから、私も僧侶として生かされている報恩の思いもあり、多少学ばせていただいています。

今日は、四天王寺の建立について、先日来お世話になっている金剛組さんとのご縁も書いておきたいと思いました。話は変わりますが私が教えを受けました東城百合子先生が時々おっしゃっていましたが、「あんたたち、知っているの、世界で長い歴史を持つ会社があるのは日本だけよ」と。まさしく金剛組は世界で一番長い歴史を持っている会社です。東城先生は戦後の日本人が、敗戦による占領政策によって、大和魂を忘れていることを本当に勿体ないこととお思いでした。和を尊ばれた聖徳太子様からも、さらにそのお考えも学びたいと思います。

さて、聖徳太子様は、蘇我氏側が物部氏との戦いの折に、この戦いに勝利したならば護世四天王を祀ってお寺を建てます、と祈願なさいました。『書記』には、「四天王寺を造る、守屋の奴と宅の半を寺に付す」と記載されているそうで、先ずは物部守屋の別宅に四天王寺を造っただろうという説があります。これが崇峻天皇元年(587)になりますー崇峻天皇は用明天皇2年の8月に即位していますので、この年はダブっています。

さて、敏達天皇の皇后炊屋姫(かしきやひめ)が推古天皇として即位なさる前、用明天皇の後には泊瀬部皇子が第32代の天皇、崇峻天皇となりましたが、在位5年余でなんと蘇我馬子に暗殺されてしまいます。それはなぜか、おそらく馬子の勢力が強く出すぎるのを邪魔に思われ馬子を排除しようとしたか、意見の違いがあったのかもしれませんが、この頃はなかなか血なまぐさいですね。そのような人々の争いを聖徳太子様は、じっとご覧になっていたのではないでしょうか。

推古天皇元年(593)に、聖徳太子様は摂政になられます。

日本最初の女帝推古天皇は、甥である聖徳太子様を摂政となさり、自らは政(まつりごと)からは一線をしかれたようです。そのように馬子が仕組んだのかもしれません。

さて、摂政につかれてから、あらためて聖徳太子様は四天王寺を現在地に移され、敬田院、悲田院、療病院、施薬院の四院を構えられた、と聖徳太子『本願縁起』にあるそうです。

さて、さて、今回は金剛組との縁についてちょっと書いてみたいという目的です。金剛組の沿革によりますと、「578年に四天王寺建立の為に百済より招かれた宮大工金剛重光が創業」とあります。578年は敏達天皇7年になりますので、587年には守屋の別宅を最初の四天王寺としていますので、ひょっとしましたら、この年号は7と8の入れ間違いかもしれません。西暦はこの時代、当然使われていませんし、年号は大化の改新からですから、金剛組さんに伝承の書物があれば、敏達天皇7年(578)か崇峻天皇元年(587)と書かれているのではないでしょうか。もしくはすでに578年に百済から招かれていたのかもしれません。*「日本史年表」を眺めていましたら、「577 百済より経論・律師・禅師・仏工・寺工渡来」とありますので、おそらくこのあたりで金剛重光も渡来していたのかもしれません。私は残念ながら日本歴史の研究をしませんでしたので、適当な文献資料がありませんので、裏付けができませんがお許しを。

578年は、聖徳太子様は5歳の御年です。

摂政になられた推古天皇元年(593)、その年に現在地に四天王寺を建立されています。この四天王寺の建立を担ったのは、金剛組になります。飛鳥の時代より金剛組は、四天王寺が焼失したり台風の被害に遭ったり伽藍が壊れるたびにその再建を担ってきています。つまり飛鳥の時代よりの伝統的な工法や、伝統的な職人魂を綿々と受け継いで今に至っている日本の誇るべき建築会社になります。

これからも今までも、世の中の変化とともに、会社自体も変化せざるを得ないでしょうが、日本が世界に誇るこのような会社が存続していただきたいと思う次第です。

*このブログは論文ではありませんので、記載的にたぶんに十分ではなく私的な意見も書いていますが、ご了承ください。

さて、下の写真は何かと言いますと、この度の屋根の工事が施工された当寺の天井裏です。その天井の真上あたりに白い紙でまかれたなにやら怪しげな木片がありました。吊るしていた紐がほどけて今にも落ちそうになっていましたので、私が気にしまして、なんとかきちんと縛り付け直してもらえないものかと、現場監督さんに頼みましたところ、このようにしっかりと麻紐でくくり直してくれました。かなり高い位置にありましたのでなかなか大変だったと思いますが、有難いことでした。こういうちょっとした気概も、受け継がれた職人魂かもしれませんね。

 


聖徳太子考(2)四天王寺建立 

2021-11-04 21:05:47 | Weblog

11月4日(木)晴れ【聖徳太子考(2)四天王寺建立】

仏教の伝来は、宣化天皇3年(538)または欽明天皇13年(552)または欽明天皇7年(546)説がありますが、538説が有力でしょうか。私も試験の為に(ごみや)と覚えました。百済の聖明王が、お釈迦様の仏像と経論若干巻を使臣を遣わせて献じてきたのが、日本の仏教伝来の最初とされています。天皇は、仏像を礼すべきかどうかを重臣たちに諮ったところ蘇我稲目大臣(そがのいなめおおおみ)は礼すべしと、物部尾輿大連(もののべのおこしおおむらじ)は礼すべからず、と答えられたそうで、蘇我氏は崇仏派、物部氏は拝仏派に二派にわかれることになりました。もともと権勢きそっていたのですが、稲目の子馬子、尾輿の子守屋に至って、闘争が頂点に達します。この時の天皇は敏達天皇です。

聖徳太子がお生まれになったのは、まさに蘇我氏と物部氏の争いが顕著な敏達天皇3年(574)1月1日になります。父は橘豊日皇子(たちばなのとよひのみこ)、母は穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)です。皇子の母は蘇我稲目の娘、皇女の母も稲目の娘で、欽明天皇が父になります。つまり聖徳太子は欽明天皇を父とする異母兄妹の子になります。かなり濃い血族結婚になります。当然崇仏派の蘇我氏側のほうと縁が深いわけです。

敏達天皇の時代に、物部守屋は仏像を壊したり、堂塔を破壊したり、僧尼に乱暴を働きました。日本で最初の出家者は尼僧ですが、敏達天皇13年(584)に、司馬達等(しばたっと)の娘、善信尼が高麗の僧のもとで出家受戒しています。他に禅蔵尼と恵善尼の二人がいまして、この三人は、物部守屋等によって三衣(さんえ)を剥奪され、鞭の刑を受けたり、市中を引き回されたり等の迫害にあってます。(しかし善信尼等の仏教信仰の念は固く、復権の後に百済に渡航、具足戒を受けて正式の大僧(だいそう)になっています。よって歴史的には尼僧が日本における最初の出家僧になります。)

一方、崇仏派の蘇我氏はその逆で、仏像を尊崇し、堂塔を造営し、僧尼を優遇しています。

第30代の敏達天皇が崩御しますと、弟の橘豊日皇子が31代天皇用明天皇になります。つまり聖徳太子の父親が天皇になりました。しかし用明天皇はわずか在位2年で崩御してしまいます。それが4月です。その後の皇位争いが起こり、蘇我氏と物部氏の熾烈な争いとなります。次に崇峻天皇が皇位につくのは8月ですから、この間に皇位を巡って死闘の戦いが行われたことになります。(と、私は推測しているのですが、歴史についての学びが十分でないので、この断定的な表現は間違っていましたらお許しを。)

蘇我馬子側は諸皇子と群臣、つまり朝議は物部討伐となりますが、物部守屋側は大伴氏等諸豪族を随えて、こちらのほうが強かったようです。蘇我側はひ弱な皇子たちのようです。この中に聖徳太子も加わっていました。しかし、用明天皇2年(587)は、太子は数え年14才の少年です。幼少時から聡明で仏教も学んでいましたし、太子は争いは好みませんでした。

軍の後ろに随っていて、四天王の像を作って、願と誓いをたてていたと『日本書記』に書かれています。

今若し我をして敵に勝たしめたまはば、必ず護世四天王の奉為に寺塔を起立せん」とのたもうた、と記載されています。(これが四天王寺縁起になります。)

ですから軍神と後世祀られたこともあるようですが、太子は決して実際に戦ってはいませんし、軍神とするには不適ですし、軍神とされることを太子は好まないでしょう。

『書記』「崇峻紀」には蘇我馬子軍(皇子等の軍と群臣の衆)は「怯弱(よわく)くして恐怖れて、三廻却還(しりぞ)く」とありますから、あやうく負けそうになりますが、迹見首赤檮(とみのおびといちい)という者が守屋を射殺し、さらにその子等も誅殺されてしまいましたので、形勢は逆転、蘇我側の大勝利となり、皇位は太子の叔父泊瀬部(はつせべ)皇子がつき第32代崇峻天皇となったのです。

乱が落ち着いてから、摂津の国、かつて物部の別宅があった場所に四天王寺が造られ、守屋や一族郎党の霊を弔ったであろうと、言われている。しかし、この説には異説もあります。それから、変遷を経て、現在の地(大阪市天王寺区)に四天王寺は建立されています。現在のお寺の造りを想像してしまうかもしれませんが、太子の時代は、茅葺の木造であり、決して、いまのような伽藍ではありません。

推古天皇元年(593)、太子20才で推古天皇の摂政になった年に、四天王寺は現在の地に移されたのです。

以上、「聖徳太子考(2)」は四天王寺の建立までの記事とします。

*なお聖徳太子のお名前については、また後に書くかもしれませんが、はじめから聖徳太子と呼ばれたわけではありません。

 

 

 

 

 


聖徳太子考(1)聖徳太子は実在したか

2021-11-03 16:13:42 | Weblog

11月3日(水)晴れ【聖徳太子考(1)聖徳太子は実在したか】

今年は、聖徳太子様の薨御後千四百年ということで、ご縁のある各寺で千四百年御聖忌慶讃の式典が営まれたようです。和宗総本山の四天王寺はもとより、聖徳宗の各寺院、法隆寺や中宮寺など、また曹洞宗でも大阪の萩の寺東光院では、聖徳太子様が観音様の化身であるというということで、東光院は観音霊場でもあり、鎌倉時代の作とされる太子孝養像があるそうですので、「千四百年御聖忌慶讃の萩まつり道了祭」(大雄山最乗寺の道了様)を営まれたそうです。

大阪市立美術館では、10月24日まで千四百年御聖忌記念特別展「聖徳太子 日出づる処の天子」も営まれていました。コロナ禍でなければ行きたいところでした。たしか、東京でも開催されたかもしれません。

さて、聖徳太子様については、歴史学者である津田左右吉(1873~1961)が、近代実証主義を日本古代史の研究にとりいれ、『古事記』や『日本書紀』の記述を歴史の史料としては事実とはことなるという記紀批判で分析し、聖徳太子は実在しなかったという説を主張しました。その流れを坂本太郎(1901~1987)、その弟子井上光貞(1917~1983)、さらに大山誠一(1944~)という東大閥のいわゆる歴史学の大学者が受け継いだので、一時、聖徳太子様の実在は否定され、『古事記』や『日本書紀』で、創作されたかのような学説が、歴史学会を席巻していたとさえいえるのではないでしょうか。

今年、駒澤大学の名誉教授石井公成先生のオンライン講義で「聖徳太子は「海東の菩薩天子」たらんとしたか」ー「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』の共通部分を手がかりとしてーという題で講義をしてくださいましたが、先生が席を置いていらっしゃた研究所でしょうか、もしくは研究会でしょうが、聞きそびれましたが、津田説が強かったそうで、反論しずらい雰囲気さえあったようです。

しかし、いまや、聖徳太子様の実在を否定する学者さんは、いらっしゃらないのではないでしょうか。しかし、わかりませんね。津田左右吉や大山説が正しいとする先生がいないとは断定できません。大山先生はご存命なのでしょうか。

しかし、私は学説とは全く無関係であり、なんの根拠もありませんが、聖徳太子様は実在なさった、と確信しています。それはある時、天の声を聴いたことに拠ります。「聖徳太子はこの日本を今でも守ってくださっています。聖徳太子様のテリトリーは日本です」というような言葉でした。「というような」とは、今手元にその時の文言を書き留めた手帳が見当たりませんので、細かい表現は違うかもしれません(後で探しましたら、確認します)。これだけではなく、後日奈良にある「大倭紫陽花邑」を訪問した時、矢追日聖法主様の奥様にこんな言葉が聴こえたのですが、と半信半疑で言いましたら、「うちの法主様と、聖徳太子様はいい友達でっせ、上に行った時、よく会うそうでっせ」と言われたのです。その時、法主様はご存命で、時々天界に行っておられたようです。法主様の家系は3代続く大霊能者です。お金儲けはなさいませんでしたが、奈良の市長さん(故鍵田忠三郎氏)も信頼され、福祉事業をなさった方です。この法主様の奥様の言葉が無ければ、私が聴いたのは、空耳か私の妄想でおわりでしょうし、その後の私と霊界との交流も、精神的な分裂と自分で判断しなければならなかったかもしれません。

私には適任の審判者(さにわ)をする役の人がいませんでしたのと、私に霊能を生かすだけの十分な慈悲の心がないことと、とにかくコツコツと仕事をすることが好きなことと、なにより明日何があるか分からなくても勇気をもって生きるのが、人間のロマンと思っているので、霊界とのお付き合いはお許しいただいたような次第です。

このような全く学説的にも、論証不能なことを根拠に私は、聖徳太子様実在説を信じているわけです。


お寺を支える仲間たち

2021-11-01 21:57:18 | Weblog

11月1日(月)晴れのち曇り【お寺を支える仲間たち】

昨日、薩摩芋とリンゴをストーブで焼いて食べましたが、二人の「仲間」と一緒に楽しみました。お二人は墓所の周りにいろいろなお花を植えたり、草取りなどを、ボランティアでしてくださっているご夫婦です。昨日はヤマブキの苗を50本ほど植えてくださいました。来年が楽しみです。

今年の初めから、花の手入れや種まきや植え付けをしてくださる数人のボランティアの方に恵まれています。元警察官だった方もいます。私の働きだけでは、なかなか手が回りませんので、とても有難いです。

また、私が「こんなことをしたいのだが」と、言いますと、いつでも「俺がやるよ」といってやっていてくれた岩田さんがあの世に帰ってしまったのですが、金剛組の方々と縁ができまして、なんでも相談しますと、すぐに対応をしてくださいます。金剛組といいますと当寺のような小さい規模のお寺には、相手にして頂くのに恐れ多いのではと、思っていましたが、本当にご親切に細かい仕事も引き受けてくださいます。これはあの世で岩田さんが心配して結んでくださったご縁ではないかと、なんでもよいように受け取っています。

また、保護猫や保護犬の譲渡会を、お寺の駐車場で一年に一度開いているメンバーの紹介で、手伝いに来てくれている人がいます。特に猫の餌を買ってくるのが重くて大変なのですが、そのお手伝いをしてくださったり、竹林の整理や、山林の片付けなど、7年以上も時々手伝ってくださっている人もいます。

他にも海外で建設機械を営業していて定年退職した方など、竹林の管理や草の管理に来てくださっている方もいます。

とても一人ではお寺の管理はしきれませんが、いつの間にか多くの方々の応援に囲まれています。

他にも二人の女性がいつも何かというと助けてくださっています。母の最期も一緒に看取ってくださいました。

人間は一人では生きられませんね。皆さんも多くの方の助けを頂いて、人間としての日々を送られているのではないでしょうか。

生きていくうえで「仲間」は、大切な宝物ですね。

付記:ところで、この私も、お寺を支える仲間の一人です。私自身この認識が大事であると思っています。

付記:忘れてならない仲間がいました。石材店の社長です。とても良い石材店があるというので、住所だけを聞いて、やっと車で辿り着けたのがその石材店のお店でした。今から7年前のことです。それ以来、合同供養塔も建てることができ、全く見捨てられていたような歴代住職のお墓も改葬しなおすことができました。

(来年が楽しみなヤマブキの植え付けです。)