風月庵だより

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コロナ禍スエーデン事情 弟危うし

2020-11-30 15:31:56 | Weblog

11月30日(月)晴れ【コロナ禍スエーデン事情 弟危うし】

今日で、11月も過ぎゆきます。令和2年はコロナウイルスに振り回されました。昨日スエーデン在住の弟から電話がありまして、弟の息子と孫も陽性になってしまったそうです。また、旧知の日本人は、感染してお亡くなりになってしまったそうです。

この国は恐ろしい、と弟は言います。担当大臣がマスクは全く効果がない、と公言しているそうで、マスクをしている人は少ないどころではなく、インフルエンザの予防接種に行きましたら、看護婦さんもマスクをしていない、というのです。東京都と同じくらいの人口の国で、毎日5000人位感染者が出ているというのです。

それでも政府は手を打たないで、老人は死ぬにお任せ、年金を払わなくて済むので、老人は病院にも入れてもらえないのだそうです。とにかくこの国の人間はひどい、他人にウイルスをうつすことなどなんでもない、罪悪感無し、なのだと、嘆いています。

自己中の国民性であり、ノーベルが発明したダイナマイトや、兵器にしても中立という立場で、敵味方なくどちらにも売って儲けているのだ、そういう国民性なのだ、と怒っています。

こういう国内事情も分からずに、「スエーデン方式」などと、日本のマスコミの中にも、いかにもそれがよいように、喧伝していた放送などがあったのではないでしょうか。

今日、弟にマスクとマスクの中に入れるマスクフレームを送ってみました。私も試してみましたが、3時間くらいマスクをかけていても全く気になりません。

インターネットで購入しました。一個200円位です。洗えます。皆様もよろしければお試し下さい。とにかくこのウイルスは、地球上から消滅することは無いでしょうから、今までのような考えを切り替えて生きていかなくてはならないでしょう。

弟の無事を祈るばかりです。

(今夜はビーバ―ムーンーというのだそうです。)

 


一炊の夢

2020-11-27 20:24:51 | Weblog

11月27日(金)曇り【一炊の夢】

今日は母の命日です。あの日から一年と5カ月がたったのですが、まだつい先日のような気がしています。
一昨日は、たまたま大学時代のことを思い出しましたが、いろんなことがあった、と思い返しました。
20代の頃が、一番大人のような顔をして生きていたような気がします。とにかく何も先のことはわからなかったけれども、生きているという感覚が漲っていたように思う。

私にとっては、新宿の街は、それほど恐い街ではなかった。高校時代から新宿でもあり、街の地理がよく分かっていたし、50年以上前の話なので、新宿の街にも、もっと人情があったように思う。それで女子大生が夜の街を歩いても全く問題はなかったように思います。とにかく面白かった。

いろんなドラマが展開されて、自分が歩いてきた20代は面白かったです。

30代も面白かったです。海外で暮らしたり、会社を経営したり、40代は已に出家していました。出家してからも面白かったです。尼僧堂修行時代には、泥棒の濡れぎぬを着せられるということがあり、あまりの悔しさで、名古屋から埼玉県まで行脚して帰ってきたり、ドラマですね。それも面白かったとしましょう。過去形を使いますが、過ぎたことを振り返ってみれば、確かに自分が歩いてきた道ではありますが、自分の掌に載せて見ているような感じがあります。

これからどのくらいこの世にいるか分かりませんが、僧侶という生き方の今を楽しんでいます。
たいした記事でなくて恐縮です。なんとなく自分でふと思い返して、ただ書いてみました。

皆様の人生はいかがでしたか。いかがですか。面白いと思えれば何よりですね。
寒くなりましたから、皆様、風邪にはご用心ください。

 


岡田裕介氏を悼む

2020-11-25 11:38:42 | Weblog

11月25日(水)雨【岡田裕介氏を悼む】

先週の18日に岡田裕介氏がお亡くなりになりました。昨日ははや初七日です。この方とは、大学時代入っていたサークル、映画研究会の関係で、20代から名前は知っていました。この方は慶応ですが、歌舞伎町やゴールデン街で、数回はすれ違っていたかもしれません。お父さんが有名な岡田茂さんですから、そういう意味でも有名でしたし、ハンサムでした。

今年は吉永小百合さんの「いのちの停車場」という映画の製作指揮もとられていますので、来年の公開を控えて本当に残念なことでした。サユリストを自認なさっているご本人は、何よりもこの映画のことが気がかりなことだと思います。

吉永さんの映画は、いつもチケットを友人たちで購入しますが、ウイルス感染の心配のある現在の状況ですので、知人の方々に映画館に足を運んでもらう事に心配があり、どうしたものかと今から考えているところでした。

そんな中で、岡田さんの突然の訃報を知り、驚きました。
岡田さん御本人がどんなにか驚かれているかと、拝察しますが、一週間たちまして、ご自分の死をはたして受け入れられているかどうか、わかりません。急性大動脈瘤解離という死因だそうですが、死に至るまでの時間があまりに短いですし、まだ病院のベッドで寝ているような感じなのではないでしょうか。この世の死を受け入れられた時から、次の世が始まるので、まだまだ迷いの中にいらっしゃるかもしれません。(このブログは、私個人の勝手なブログですから、証明不能のことを書かせていただいて恐縮ですが。)

吉永さんがいかにお辛いことか、想像をはるかに超えていると思いますので、推察は控えます。

(突然の芸能界の話題で恐縮ですが、吉永さんは馬術部の一年先輩なので、一年に一度は会食会があり、お会いしています。)

岡田裕介さんのご冥福を心より祈っています。

 

 


『息身佛』を読んで その2

2020-11-23 19:35:59 | Weblog

11月23日(月)晴れ少し寒い【『息身佛』を読んで その2】

昨日は、あまりの眠気で、ブログを書きながら寝てしまいました。檀務やら猫の世話やら、来客の応対やら、その合間に読書をしたりして、学ばせてもらっています。朝は坐禅と朝課で早いですから、とにかく毎日同じような時間の繰り返しで、他のことをしたいという欲は全くありません。若いころに十分動き回ったですから、そういうものでしょうね。

それで再び板橋禅師様の『息身佛』(角川マガジンズ、2011年)を読ませていただいて、前よりも今の私の状態のほうが、より禅師様の言葉を、すんなりと得心させていただいたといってよいでしょうか。

この本のサブタイトルは「ただ、息をする。ただ、生きる」です。「ごくあたりまえに生きる」ことを易しく優しい言葉で綴られた書です。生きる極意を得た人の言葉から学びたいと思う方は、実際にお手にとってお読みくださいませ。私が、禅師様の言葉をかいつまんでご紹介しても、その味わいを紹介しきれませんから。

私事ですが、或る時、總持寺の禅師様を拝問させて頂いたとき、ご自分は終生この役についてはいません、「あなたの御本師は禅師になるべき方だったのに、前の禅師さんたちが終生だったので、なれなかったですからね」というようなことをおっしゃってくださいました。その言を違えず、板橋禅師様はまもなく退董なさいました。

この著書の中に、「大本山の貫首をしているより、やっぱり修行をしているほうが楽しいね。」とおっしゃっています。

どうぞ、皆様もこの本は190頁くらいの薄い本ですし、難しい言葉は一つもない、しかし、極意書です、お楽しみくださいませ。

私のメイン読書は目下『華厳経』です。死ぬ前になんとか、と思い取り組んでいます。難しい言葉だらけです。時々本線から途中下車して読みやすい本に救われています。それでは、眠気との戦いになるかもしれませんが、これから本線に戻ります。

皆様、くれぐれもお体お大切に。マスクさえしていればコロナの感染は防げるから、お経の時もマスクをしてください、と友人からのアドバイスを頂きました。皆様、それぞれ流の防衛策をしっかりとなさってくださいませ。

(朝の竹林の中の散歩です。キヨとカズも後をついてきましたので、一枚。)


『息身佛』を読んで

2020-11-22 20:05:19 | Weblog

11月22日(日)晴れ【『息身佛』を読んで】

必要な書類を探していたら、板橋興宗禅師の『息身佛』が目に入ったので、読み始めましたら、やはり止まらなくなりました。付箋が数枚貼ってありますので、すでに一度読んであるはずですが、改めてお教え頂くことが多々有りました。禅師様は今年、7月5日にご遷化されました。93歳でした。

しかし、いろいろと書かせていただきたいのですが、あまりに眠くなりまして、本のタイトルのご紹介でまた明日にでも書き足したいと思います。

危うく椅子から落ちそうになりました。

(数日前の朝焼けです。朝のラジオ体操の前の空でした。美しかったです。)

 


火事にご用心

2020-11-13 11:37:49 | Weblog

11月13日(金)晴れ【火事にご用心】

寒くなりました。時々消防車のサイレンの音も聞こえます。
昔から怖いものの代名詞として、「地震雷火事オヤジ」と言われました。オヤジはなんとも存在がそれほどでもなくなったように思いますが、火事は全てを失ってしまいますから怖いです。

僧侶は作務衣を身につけていますので、その袖のふくらみに火が付きやすいですから、うっかりすると危ないことになります。自分だけではなく、弟子の人にもこれはうるさく言っています。必ず押さえのゴムバンドを使うか、捲し上げるようにと言っています。

下の写真の金網は子猫が火のそばにもやってきてアブナイので、考えた防御柵ですが、自分自身にも丁度良いと思っていますので、ちょっとご紹介しておきます。

お互いに、気を付けてこの冬も越しましょう。インフルエンザも新型コロナウイルスも目に見えない脅威ですが、火事にも気をつけましょう。

 


本覚思想を学ぶ その2

2020-11-09 17:59:59 | Weblog

11月7日(土)晴れ【本覚思想を学ぶ その2】

まず本覚という言葉ですが、この語は、『大乗起信論』の中で多く用いられています。かなり随所にありますが、一カ所をあげてみますと

法界一相即是如来平等法身,依此法身說名本覚。何以故本覚義者,対始覚義說,以始覚者即同本覚。始覚義者,依本覚而有不覚,依不覚故說有始覚。
(法界の一相は即ち如来平等法身なり,此法身に依るを本覚と名づくと說く。いかなるが故に本覚の義は、始覚の義に対して說くや,始覚とは以て即ち本覚に同じ。始覚の義は,本覚に依れば不覚有りて,不覚に依るが故に始覚有りと説く。)

訓読は少し独自な読み方かもしれません。辞書を借りて少し説明してみますと、本覚は本来的に一切衆生が具有している悟りの智慧、本覚ということを言えば、その反対に、本来悟っているのに現実的には迷いの状態である不覚があります。この不覚があるので、修行して悟りの智慧を段階的に得ていく始覚が不覚に関して出てくる、という意味になるでしょう。始覚の最終目標は本覚である、ということが『大乗起信論』では説かれているのです。

しかし、本覚思想ということになりますと、修行とは無縁の絶対的に本覚が強調されてしまうところに、問題が生じてしまったのです。本覚思想は天台本覚思想と言われますので、私は、全く不勉強であったときに天台智顗(538~598)や最澄(767~822)が説いた教えかと思い込んでいました。知らないということはそんなものか、と、お笑いください。しかし、50才から駒澤大学に入りまして、仏教学について学び、少しわかったような次第です。もし、大学に入らずに自分流に本を読んでいただけでは、私の場合はですが、少しどころではなく、全く分からないことだらけであったと思います。

天台本覚思想と言いますが、問題とされるのは、日本天台本覚思想であり、いつごろから説かれたか、不明だそうですが、慈恵大師良源(912~985)に師事した恵心僧都源信(942~1017)や檀那院覚運(953~1007)が、「あるがままの現象世界を仏の世界とみたとらえ方」をしているそうです。お二人の著書の相当箇所にあたることができませんので、どのような使い方をしているのか、ここに書き出すことができず恐縮です。これが本覚思想であると思想として特定したのは、後世のことでしょうか。

本覚のこのようなとらえ方は、凡夫は凡夫のままでそのままでよい、という拡大解釈をされることによって、危険な落とし穴に陥ってしまったのです。修行不要というとらえ方にまでに発展してしまい、愛欲や財欲までも肯定してしまうという退廃を招き、一部に堕落してしまった僧侶もでてきてしまったということです。

そこで、鎌倉時代になりますと、法然上人(1133~1212)は、これを批判し、その弟子親鸞上人(1173~1262)は、お念仏を唱える浄土教を打ち立て、道元禅師(1200~1253)は、只管打坐の修行を大事とした修証一等の禅の教えを実践なさり、日蓮上人(1222~82)は、『法華経』を第一としてお題目を唱える教えを、それぞれ比叡山を後にして、それぞれの道を開いていったことになります。

しかし、本来の意味の本覚思想から各宗祖たちは、絶対的一元論としての哲理の深さは学んでいるのであり、本覚思想自体は全く誤ったというわけではないでしょう。後世のとらえ方に問題があるのであり、本覚思想も、堕落した現実をそのまま肯定しているというとらえ方が問題なのであって、全否定される思想ではない、と、学んでみて、私は現段階ではとらえています。しかし、如来蔵思想も仏教ではないという否定もあるわけでして、本覚思想自体仏教ではないというとらえ方をなさる学者の方や、僧侶の方もいらっしゃるので、あまり学問的になりすぎますと、仏教がますますわからなくなり、人々から遊離してしまうのではないでしょうか。

だれにでも仏性がありますよ、とよく聞く言葉ですが、これは本覚思想も如来蔵思想も、お釈迦様はそのようなことは説いていない、と言われてしまいますと、困惑する僧侶の人もいると思います。

たしかに誰にでも仏性があるのならば、なぜ鬼のような親がいて子殺しをしたり、想像を絶するような事件を起こす人間もいます。これをどのように説明することができましょうか。これも客塵煩悩のせいにすることはできかねる問題です。

お釈迦様の時代、書き記すということがなく(文字はあったという説もありますが)、後々の者はまことにああだこうだと言う余地がありすぎですね。キリスト教にしても、イエス様が書き記した書物があるわけではありません。

経典にも『華厳経』もあれば、『法華経』もあれば『涅槃経』もあれば、八万大蔵経と言いますが、実に多くの経典があり、どのお経が、一番お釈迦様が説かれた教えに近いのか、難しいところでしょう。

「本覚」という言葉は、インド撰述の書物には現段階では見出すことはできないので、中国で使われだした語ではないかと言われています。『大乗起信論』を著したのは、一説にインドの仏教詩人馬鳴と言われていましたが、今ではその説は否定されていて、中国撰述説が有力です。先日駒澤大学のオンライン講演で、「本覚」の起源についてのご発表がありましたが、『大乗起信論』以外に遡れないような発表でした。

*しかし、『大乗起信論』の訳者は、西インド出身のパラマールタ(真諦 499~569)ですし、後にシクシャーナンダ(実叉難陀 652~710)によって訳されているので、中国で書かれた論書ということは、どういうことなのでしょうか。将来学者の方の探求によって、明らかにされることの一つかもしれません。何れにしましても中国の大乗仏教に与えた影響の大きい論書です。華厳宗の大成者、法蔵(643~712)は『大乗起信論義記』を著しています。

読んだ本からの引用をもっと書き出したかったのですが、書き留めたノートにページ数も書きませんでしたのと、なかなか簡単には書ききれないことと、私の咀嚼が不十分であり、ブログに書く事さえ憚れるのですが、恐縮ながら、私自身の勉強として、ちょっと書かせていただいた次第です。

ちょっとでも書きませんと、次に進めませんので、ご容赦ください。

老いたる私は、このままの不勉強ではどうも死に切れませんが、来世までも学び続けていくという姿勢を表明することによって、ご容赦ください。どうもこの題名で書かなければよかったと思いましたが、「その1」を書いてしまいましたので、自分自身が後に引けなくなりましたが、ご来訪者の皆様、不十分な内容かつ間違いもあろうかという内容で、素通りをお願いいたします。

《大梵天王問佛決疑經》卷2:「如今世尊即過未之諸佛如來。亦復如是。此謂是諸佛名義也。梵王何以故然也耶。自性本覺。不可思知識。本無一切具名故。」(この書も中国撰述のようです。)

 


『僕とぼく 妹の命が奪われた「あの日」から』を読んで

2020-11-05 21:41:25 | Weblog

11月5日(木)晴れ【『僕とぼく 妹の命が奪われた「あの日」から』を読んで】

今日は、本覚思想について学んだことを書くつもりでした。午前中は沖縄でご苦労をなさったご家族の法事をさせて頂いて、それから新しく檀家さんになった人の戒名をつけさせていただいて、これから本覚思想について学んだことを書かせてもらおうと思っていました。今日は来客も少なかったので、多少時間がありました。

ところが、或る本を購入しようとしましたら、今日のブログのタイトルにした本の宣伝がありまして、思わず購入しましたところ、今日もう届きました。読み始めましたら、川名壮志という作者の筆力に負けてしまいまして、一気に読んでしまいました。

「佐世保小6同級生殺害事件」この事件のことを覚えている方はいますか。私にとっては忘れられない事件です。小学6年生の少女が、同級生の御手洗怜美ちゃんをカッターナイフで、殺害してしまったという事件です。あまりに衝撃的でしたので、よく覚えています。また拙書『尼僧の供養記 雲と風と月と』の中にも書かせていただきましたので、少なからず関心がある事件です。

私は、この事件の前日、カッターナイフによる殺人事件というテレビ番組をたまたま見まして、「こんな番組を観て真似をする人がいないとよいが」と思ったことも忘れられません。

なんで怜美ちゃんが殺されなければならなかったのか、それも同じ小学生に。理解しがたい事件に、やりきれない思いを抱きました。
この加害者の少女が『バトルロワイヤル』が好きで何回も観ていた、という記事も目にしましたが、あまりに刺激的な殺し合いの映画ですよね、これは。私は他の映画を観に行った時予告編を観まして、呆れました。最近、また若いグループがこの映画に「はまっている」という記事もチラッとインターネットで目にしまして、私は心配しています。これが高校生同士の争いとして描かれているところに問題があると思います。学園物の延長のように、若い人たちに受け取られてしまい、人間の中にある暴力性、残虐性を挑発してしまうところが危ないと思います。

『僕とぼく』は、なんの罪もない御手洗家のたった一人の可愛いくて明るい妹を、小学生の同級生の少女によって、殺害されてしまった二人の兄の、その前とそれからが書かれているノンフィクションです。どのような事件でも被害者の方々の「それから」があります。

しかし、順番はつけがたいですが、本当に辛かったのは、お父さんであると思います。この本のタイトルは『僕とぼく』ですが、お父さんの苦悩がずっと文字の裏に書かれていることを感じました。僕である御長男が結婚されて、可愛いお孫さんが産まれたそうです。女の子だそうです。その子を抱き上げるお父さん。
「はじめて俺、幸せだ、幸せになっていいんだな」と思えたそうです。よかった。

「僕」の言葉として《幸せってきっと、名もない一日に詰まっている。家庭や家族が人生のすべてではないけれど、心休まる場所があるってのは、幸せの条件のような気がする。》(本書252頁より)

 


本覚思想を学ぶ

2020-11-04 16:39:34 | Weblog

11月4日(水)晴れ【本覚思想を学ぶ その1】

本師がご存命の頃の事、お寺の単頭和尚さんが、山主老師である本師のお部屋に急いで上がってこられた。
「山主様のことを、本覚思想でけしからんと、騒いでいるグループがあるようです」というようなことを言われた。当時行者(あんじゃ)をしていたので、お茶をお持ちして耳にしたことでした。

その当時、全く学問的な勉強はしていませんでしたので、「本覚思想ほんがくしそう」とは一体何なのであろうか、本師を「けしからん」とは聞き捨てならない表現だと思いました。後で聞いてみましたら、当時「本覚思想批判」という旋風が学者先生の間で起こり、それが宗門内でもかなり問題視されていたようです。

分かりやすく言いますと、「そのままでよい」というようなとらえ方に対する批判と言えばよいでしょうか。
道元禅師が、「本来本法性、天然自性身」なのに「諸仏は何が故にさらに発心修行なさるのでしょうか」という疑問を持たれて、三井寺の公胤僧正にお尋ねになりましたが、答えを得ることはできませんでした。その答えを求めて、道元禅師は、比叡山を下りて、修行行脚の旅に出られ、中国の天童如淨禅師様の下で「只管打坐」の修行をなさり、「修証一等」(修行と証(さとり)が一体である)と、お悟りになった、といってよいでしょうか。(この「お悟り」という表現には、クレームがつくかもしれませんが)

ですから曹洞宗の僧侶としては、「そのままでよい」という表現は、気を付けて使わなくてはならない表現と言えましょう。(しかし、本師も相談を受ける相手によって、在家の方で厳しい人生を歩まれている方を相手に、もっと修行せい、とはおっしゃらなかったのだと思います。)修行者に対しては、「そのままでよい」とは言わなくてよいでしょう。「もっと修行せい」とおっしゃらなくても、ご自身も弟子とともに坐禅の日々をお過ごしになりました。弟子の一人である私自身も、本師の教えを守って、老いても坐禅を欠かしたことはありません。在家の方々への講演録をまとめた本に書かれた一面を見て、「本覚思想」と批判されることは不要でしょう。

さて、前置きが長くなりましたが(ここまで前置きです)、あらためてまた「本覚思想」について復習してみました。田村芳朗先生の『絶対の真理〈天台〉』(角川文庫ソフィア)を学ばせていただきました。

これから梵鐘を撞きに行ってきます。今日はこの辺で失礼いたします。日没に撞きたいところで、6時はもう真っ暗ですが、そのくらいの時間の方が、少し周りが静かになりますので、梵鐘の音が、この世としては、少し遠方まで届くと願っています。

 

 


地球人類が平和でありますように

2020-11-02 16:44:01 | Weblog

11月2日(月)晴れ【地球人類が平和でありますように】

五井昌久先生が、日本中、世界中に、「地球人類が平和でありますように」というポールを建てましたが、私は毎夕梵鐘を撞く最後の願いは、最近まで「地球上の一切の生物(木も石も含め)が平和に暮らせますように」と祈っていました。

しかし、気が付きました。「地球人類が平和であること」これでよいのだと、いうことです。
人類が平和でさえあれば、一切の他の生物、それこそ猫も、カラスも虫も、木々も環境一切が平和裏の中にいられるのであるということです。

この地球は、人類に責任を任されてある、人類の責任は重いということです。

今晩も、これから梵鐘を撞きますが、最後の一撞きの願いは、「地球人類が平和でありますように」です。
勿論、新型コロナウイルスの感染と混乱の、一日も早い終息も願っています。(今、改めて五井先生の言葉を確認しましたら、地球人類ではなく、世界人類でした。しかし、私の出家の一番の動機は、地球人類の滅亡でしたので、私の梵鐘の祈りの言葉は、地球人類としたいとおもいます。)

皆さん、寒くなりましたし、くれぐれも感染しないように慎重になさってください。日本人には梅干しやお味噌など、時間をかけて作る食品がいろいろとあります。このような食品も、免疫力をつける助けになると思います。また、どのお国にも、その国特有の昔からの健康食品があるでしょう。改めて、梅干しや自然醸造のお味噌やお醤油や漬物を大事にいたしましょう。

(毎朝のラジオ体操の後、猫たちと私の影)