風月庵だより

猫関連の記事、老老介護の記事、仏教の学び等の記事

捨てがたい物は何か

2006-07-31 23:31:56 | Weblog
7月31日(月)曇り涼しい【捨てがたい物は何か】

先日来仕事の合間に片づけをしている。以前は寺の住職であったので、小さなお寺ではあってもかなりの荷物が溜まってしまっていた。またいつかお寺に入るときもあるかもしれないと思って、最近まで倉庫を借りて荷物を保管していた。しかし思い切って倉庫の荷物を片づけることにした。

仕事と片づけで疲れてしまっていて、ブログ管理人のお仕事のほうは少しさぼらせていただいていた。まだ片づけきってはいないが、95%終わりである。もう一息。それにしてもよくもこんなに荷物が溜まったものだと呆れてしまった。

出家したとき全ての持ち物を処分したはずである。それまでに溜めた本も一冊残らず処分したというのに、いつの間にかダンボールの山ができていた。一切の家具も処分したにも拘わらず、いつの間にか再び小さな風月庵には入りきれないほどに増えていた。驚いたのは写真の詰まったダンボールである。母は私に輪をかけた写真好きなので、二人の写真を合わせるとこれまたダンボールの山である。

倉庫に預けてあった荷物を極力処分した。本も家具も。数人の友人に使用可能な品物をもらって貰い、業者の人に手伝って貰って、ほとんど処分した。

最後の最後に残った捨てがたい物は何か。それは写真である。写真は単に物ではなく、思い出と共にあるからなのだろう。思い切って処分しようと思ってアルバムをめくり出すと写真を撮った日のことが蘇ってきて処分しがたい思いになる。ましてもうこの世にいない方が写っていたりするとなおさらである。自分が生きている間は手元に置いておきたいと思うが、いかにしても場所がない。

もう写真を撮るのは止めようね、と母と顔を見合わせながら頷きあう。この頃はデジタルカメラというのもあるが、その使用法を学ぶのも億劫な気がするし、写真の山に囲まれている今はもう写真に食傷気味になっている。写真を撮ることに気を取られて、肝腎のその場を味わいきっていないようにも思う。

旅立つ事が分かっている方の写真は、特に撮るものではないとよく分かった。一瞥することさえ辛いものだと分かった。日頃の元気なお姿だけ目にとどめておいたのでよいのだ。

とにかくヤドカリのように、生きている間は荷物を背負ってこの世をウロウロとするのだが、極力身は軽くしておきたい。特に私のように後に続く者がいないケースは、身軽であることを心掛けねばと、愛蔵品?を処分しながら、自戒している今日この頃である。

*沢木興道老師と丘宗潭老師のエピソード:お二人がある寺を出ようと話し合った翌日、沢木老師はさっさと出て行かれたが、丘老師は山ほどの蔵書があって容易には移動できなかった、という話し。

*麿我さんへ:ようやくCDを手に入れました。ステレオも壊れていたので、聴かせていただくまで時間がかかってしまいました。もう少しお待ち下さい。(やはりまた持ち物が増えました。こんな風に持ち物は、さりげなく増えていってしまうものです。)

初七日のご供養

2006-07-28 12:25:26 | Weblog
7月29日(金)曇り蒸し暑い【初七日のご供養】

今日は先日ご葬儀を勤めさせて頂いた方の初七日である。遺児たちに初七日なので、そのつもりでご供養をするように連絡をした。私の方でもご供養をした。

初七日のご供養をご葬儀の後に済ませるようなことが行われているが、果たしてこのようなやりかたはいかがなものだろうか。四十九日までの中陰の間、故人の後生を願って供養をするわけだが、ご葬儀の慌ただしい見送りとは異なり、遺族も故人もその死を刻々と受け入れていくためにも、心をこめてご供養に勤めたい大事な時の流れである。

形式だけの初七日のご供養を、ご葬儀の後に執り行うことはやめにした方がよいと思う。ご葬儀を受け入れるだけで、故人本人も遺族も手一杯であるはずだ。ご葬儀はご葬儀で完結すべき、全力で執り行うべきご供養であろう。

初七日に多くの方にご参列いただけなくとも、家族だけでも心をこめてご供養するほうが、形だけの初七日を終えてしまうよりもよいのではなかろうか。僧侶が供養にうかがえれば、それに越したことはないが、家族のご供養に勝るものはないと思う。

この度、葬儀屋さんのやり方にあらためて思ったことがあるので、書かせて頂きたい。

僧侶が使える時間が初七日のご供養も入れてあまりに短いので、どうしてかと訝った。余程火葬場まで遠いのか、なんらかの理由があるのであろうか、と思ったが、火葬場は近いという。予約の時間も確認した。それならば焦るようなことはしたくないと考えた。やるべきこと、言うべき事はさせてもらった。そしてその後を見ていると葬儀屋さんのマニュアルにでもあるのであろうか、遺族をさらに泣かせるような芝居がかったことをさせ、葬儀屋さんがいろいろとマイクでお言葉を述べている。これに要した時間がかなり長かったのである。

いつも感じることだが、ご葬儀は葬儀屋さんペースで行われている。またご葬儀にはお金がかかるというが、葬儀屋さんに払うお金が高いのではなかろうか。必要以上に祭壇を飾り立てているようにも感じる。最期ぐらいは少しでも豪華に飾ってやりたいという遺族の思いを利用してお金儲けをし過ぎているのではなかろうか。

ご葬儀のあたふたとした時間が終わった後で、冷静になってから、なんでこんなにお金がかかってしまったのだろうか、と人々は思うのではなかろうか。そしてご葬儀はお金がかかる、僧侶が高すぎるというような印象を持つのではなかろうか。実は葬儀屋さんに払うお金がかなり多いのである。

この流れをもはや変えることはできないであろう。そこで僧侶抜きのご葬儀などということにさえなり、研究されたマニュアルに則って葬儀屋さんだけのご葬儀というご葬儀もこの頃は行われているようである。葬儀の歴史を考えたときに、果たしてどのようなご葬儀がよいのかは言い切れないが、商売としてのご葬儀に堕すようなことにしてはならないだろう。そうさせないためにも、またご葬儀の導師を勤める役を担っている以上、僧侶は責任を持って精進修行しなくてはならないだろう。他人事ではなく自らのこととしてその思いを新たにした。

私が導師を勤めさせて頂くことを潔しとしないのは、自身の修行が未熟なことにもよるが、私が死んだ後のことに責任が持てないことにもよる。ご葬儀をさせて頂いた家の後々の法事を勤められないからである。この度の遺児たちが一人前になるまではなんとか生きたいと願っているが、こちらの都合どうりにはこればかりはいかないことである。何時、無常の時が訪れるかわからない。

つくづく安易に生きている身を反省するばかりである。葬儀のためではなく、一人の人間として修行しなくては、而今、此処で。




戒名について考える

2006-07-26 00:38:52 | Weblog
7月25日(火)雨後曇り【戒名について考える】

(このところブログの管理を怠っていて、せっかくご訪問下さる方に失礼をしています。世の中はやはり多くの問題が起こっています。とても世の中の動きにはついていくことはできません。)

もうおそらく半年以上テレビドラマも観ていないので、実は「東京タワー」の放映を楽しみにしていた。リリー・フランキー氏の原作『東京タワー~オカンとボクと、時々オトン』(扶桑社、2005年刊)を友人に勧められて読んでいたので、どんなドラマに仕立てられているか興味もあり、楽しみにもしていた。

今は亡きドラマ作りの名人、久世光彦氏(享年70)がドラマ化を望んでいた作品であり、遺作と言えないまでも最後の息がかかった作品である。原作は始めのうちは私には違和感があったが、段々にリリー氏の世界に入り込まされていき、読んでいるうちに親孝行がしたくなるような作品である。そして「こんなでも何とか生きていけるようになるのだなあ」と勇気を与えてくれるような作品である。ベストセラーであることが頷ける。

それが例の未成年女子に暴行を働いた芸能人がその作品に出ていたために、予定日の放映は中止になったかと思っていたが、それでもいつかは放映の可能性のある延期になったようだ。

しかしそんな呑気なことも言っていられないほど、日本列島は大雨の被害で20人近い人が犧牲になってしまい、多くの家屋が流されたり、土砂に埋まってしまったり、予想外の被害が出ている。自然破壊の威力のすごさの前に人間は手の打ちようがない。人為でなんとかなる問題は大したことではないと痛感させられる。

さて今日のタイトルは戒名についてである。昨日、一昨日とご葬儀の導師を頼まれてやむを得ずに勤めさせてもらった。お金がないのでなんとか私に、と言われるので断るわけにはいかなかった。遺族は中学生と高校生の二人の少年である。母親はすでに12年前に亡くなり、今度は父親が突然に亡くなってしまったのである。

以前に亡くなっている母親の戒名には院号大姉がついているという。なぜ、院号をつけたのだろうか。お通夜とお葬式と戒名代で○○円だったという。曹洞宗は高いですね、と言われてしまう。なんという考え違いを人々はしているのであろうか。

戒名は佛弟子としての証であり、お金で売買されるものではない。院号は、特にお寺に功労のあった人に、お寺の方から特別につけるもので、依願によって付けられるものではない。もともとはお寺を建てた人やその一族に与えられていた特別の戒名であって、お金を積んで得られるような筋合いの戒名ではないのである。私が今研究している室町期の禅僧の語録にも多くの戒名が出てくるが、長い戒名はお寺を建てた人及びその一族にだけ付けられているのである。例えば龍文寺殿大造欽公居士などというように龍文寺というお寺を建立した人についているのである。

そして一番大切なことは院号が戒名に付いていようが、付いていまいが、彼の世でのランクには全く無関係だということである。釈尊は法の下に人間の平等を説かれた。その釈尊の教えのもとに戒名のランク付けがあること自体おかしいことである。

いつの頃からお金を積んで院号を戒名につけてもらうという悪弊が、社会にはびこってしまったのだろうか。つける僧侶もよくよく考えなくては、今回のように夫婦の男性が亡くなるときに、先に亡くなっている夫人と比べて戒名のバランスがおかしいことになってしまう。頼まれた僧侶はたとえお金を積まれても、先々のことを考えて院号を付けることは意味のないことを諭すべきであったろう。

付けて貰いたいと願う人々にも問題がある。いくらでなくては院号を付けないそうですね、高いですね、という考えは全くの間違いである。院号などつけたいと思うことが先ず第一の間違い、院号を望む限りはお寺への貢献としてお布施が高くなるのは当然なので、院号を望む以上は高いなどと言うことは間違いもいいとこである。まず第一の間違いがあるので、この間違いを無くせば第二の間違いは生じてこないことになる。

しかし現実問題として、世間的に少し活躍した人は院号のついた戒名を望むし、立派な戒名でしたね、などという傾向がある。一方戒名についてのお布施がお寺の経営にとって大事な収入源になっている面もあるだろう。しかし、これを止めないと仏教は本当に衰退していくであろうし、僧侶は彼の世で釈尊の前に佛弟子として立つことはできないだろう。また人々も戒名に拘わらず、特に小さいお寺は、お寺の管理はなかなか大変なので、できるのであれば、徳積みとして多くのお布施をお寺に包まれても一向にかまわないことである。また徳積みとして社会に還元してもよいのではなかろうか。

本当に生きたお金の使い方をしたいものである。とにかく戒名の差は後生の救いに全く関係が無いのである。その人がどう生きたか、どう徳を積んだかだけが問題なのである。お互いに本当のところを見失わないで生きあいたいものと思うのである。

院号:院号はもともとは天皇が譲位や隱居によって移り住んだところを院と呼ぶようになったのが初めである。(はじめての院号は嵯峨天皇〈786~842)の嵯峨院の称号。)その後公家や武家が江戸時代に戒名につけるようになったそうであるが、江戸幕府は禁止令を出している。また明治以降、大富豪や政治家などの戒名につけられるようになり、降って社会に大きく貢献した人や寺院への貢献が顕著であり、信仰心の篤い人に贈られるようになり、さらに多額の寄附などによる一時的な功労者に贈られるようになったようである。ご参考にして頂きたい。

彼岸花と咳払い

2006-07-20 14:33:38 | Weblog
7月20日(木)曇り【彼岸花と咳払い】

(当ブログの管理人は暑さバテにて、久しぶりに皆さんへの通信を書いています。)

七月の東京の盆経は暑さに負けそうであった。炎天下に車を停めておくので、車はサウナ状態になり、車に乗った途端に頭から湯気が出そうになる。濡らしておいたタオルを頭に載せて次のお経先に車を走らせるということになる。来年はもう回れないだろう、と去年もたしかにそう思った。今年も来年はもう無理だろうと思っている。とにかく暑さが普通でないようにこの頃特に感じている。(しかし今日は涼しいので、お盆は暑い巡り合わせだったのは残念。)

いつもお手伝いしているお寺の檀家さんの家を回ったのだが、一家の大黒柱で五十代の人が多かったのが今年は印象的であった。働き盛りであり、まだお子さんたちも一人前ではないので、送られた方も送った方も心残りが多いお別れであっただろう。何歳で死ねば心残りがない、というものではないが、何歳でも人生の終わりには心残りがあって当然であるが、それでも高校生になったばかりの娘を後に残していくことや、年老いた親を跡に残して息子が先に逝ってしまうことに、もう少し生かして貰いたかった、と願ったことだろうと思いを馳せた。

今年は息子さんの二回目のお盆を迎えるというお宅で、お母さんから彼岸花のお話を伺った。秋のお彼岸の頃になると、彼岸花が咲き乱れるところが埼玉にあるそうで、亡くなった息子さんは毎年お母さんを彼岸花見物に連れて行ってくれたのだという。亡くなるその年はもう入院していて連れて行ってくれる体力がなかったそうだが、庭に一輪の真っ赤な彼岸花が突然に咲いたのだという。彼岸花は今まで咲いたこともなく、また翌年はもう咲かなかったという。その年だけ一輪の彼岸花の訪れ、「息子が私に見せてくれたんですね」と母は言う。

そんな話を聞きながら、私は一緒に涙を流してしまう。「これからもきっと息子さんが守ってくれますよ」と言うのが私の言えるせめてもの慰めである。でも気休めでなく私は本当にそう信じている。なにか理屈を越えたことがある、とたびたびに体験することがある。
多くの宗教者が体験していることだと思う。宗教者でなくとも体験していることだろうと思うが、修行している者が確信を持って言うところに救われるものがあるだろう。理論的な方には勿論反論はあろうが、論議することでもないだろう。

またご主人が亡くなって七七日忌の間、ご主人の咳払いを何度か聞いた、という方もいた。そういうこともあるだろうと思う。理屈では割り切れないことが多い。書物の中だけにいては人々からこういう話を聞かせて貰う機会がないので、学者の人は理論にあうことだけを第一と見なしてしまうことがあるだろうと思う。

私の方でも人々とのふれあいで多くの体験をさせていただく。ある家で列席の小学生にとっては、お祖父ちゃんにあたる人のお経の後、「勉強ばかりでなくファーブルの昆虫記などを読むのも楽しいでしょう」と何気なく私が言ったら、その少年はびっくりして「僕、ファーブル塾の検定を受けているんです」と言った。昆虫好きの少年にはそのような検定があるのだという。言った私も内心驚いた。どうしてファーブルが口をついたのか、そのように何の気無く言う言葉にも、なにか理屈を越えたものがあるかもしれない。この家のお祖父ちゃんが孫に頑張れというエールを伝えたくて、私の口を借りたのかもしれない。

またある家での話。その家のご主人は山形の出身だそうで、「家の本家の住職は○○っていうんだけど」と言われたので驚いた。このブログをお読み下さっている方には七月七日の【爽やかな青年僧】の記事は記録に新しいかもしれないが、この青年僧の苗字は珍しいのだが、この家の本家の檀那寺の住職の苗字と同じなのである。「そのお寺の息子さんは總持寺で修行していませんか」と私が言ったら、「ああ、今行っているそうだね」と答えた。

「世間は狭い」というが全くその通りであると思う。私が前に住職をしていたお寺に出入りしていた石材店の娘さんが嫁いでいる家にも、今年は伺った。これもたまたま後から分かったことである。この家からは青ジソの苗を沢山頂いてきた。

皆さんに教えられたり、頂き物をしたり、こうしてお盆のお参りをさせていただくと、やはり体力の続く限りお参りに伺わせて貰いたいと願うのである。さて八月のお盆はどんな陽気になるでしょう。老尼泣かせの暑さでないと有り難いのであるが。

月光

2006-07-14 01:07:34 | Weblog
7月13日(木)曇り真夏の暑さ【月光】

今日は東京のお盆の棚経だったが、暑い暑い一日であった。今夜は月がとてもきれいなので、外に椅子を出して月を眺めていた。

こんなに静かな月の光に打たれていると、世の中で起きているいくつかの悲惨な出来事が信じられない気がする。インドのムンバイでは列車の爆弾テロが、11日の現地時間午後6時頃(日本時間9時半頃)起きてしまった。ムンバイには私もボンベイといわれていた頃(1995年改称される)、しばらく滞在したことがあるので、身近な恐怖を覚えた。

200人以上の死者の犠牲者が出たようだが、負傷者も700人を越えるようである。丁度夕方のラッシュアワーを狙った悪質なテロである。どうして罪もない市民が殺されなくてはならないのか。近隣同志なぜ助け合えないのであろうか。今回のテロの理由はなんであろうとも、家路に急ぐ人々の幸せを踏みにじる権利は誰にもない。家で父や母や兄や息子や娘や、家族の帰りを今か今かと待ちわびていた人々に届けられた7カ所での列車テロであった。

私が一人でインドを旅行した頃は、世界がこれほど物騒ではない良い時代であった。面白いところにお連れしましょう、などという言葉に乗りさえしなければ、それほどの危険な目には遭わないで旅行ができた。ボンベイもかつてイギリス領であったので、インドの他の都市と比べて、近代的な都市である。

私がボンベイを訪れた頃は、ボンベイにはイランやアフリカの富裕な家の子女が多く留学していて、私はイラン人の留学生のお陰で学生寮にしばらく滞在させてもらえた。しかしホメイニ師がイランの指導者にこの頃なったので、イラン人の友人は少し神経質になっていたのを思い出す。

段々に世界が物騒になり始めの頃かもしれない。今は一人旅をすることなど恐くてとてもその勇気はない。

身の回りで、社会で、世界で、いろいろな事件が起きすぎている。もうこれ以上は起きないということはない。「世の中は段々に悪くなるな」と今は亡き本師が言われたとき、新聞もラジオもあまり見聞きしていなかったので、その言葉を印象的に覚えている。いつの時代も人間の世は、悲惨なことで溢れていたのだろうが、この頃は酷すぎるのではないかとも思う。

こんな時、林語堂の『蘇東坡』を読んでいたら、次のような詩があった。蘇東坡の頃は王安石が政治の中枢にいて、人民を苦しめる政策をとっていた。蘇東坡は王安石の政策に反対して地方に追われたり、流刑に等しい目にあったり、苦難な人生を送ったのである。そんななかで、晩年に至って書いた詩である。

縦横憂慮満人間        縦横に憂慮、人間に満つるに
頗怪先生日日間        頗る先生を怪しむ日々の間
昨夜清風眠北(片+庸)    昨夜の清風、北(片+庸)に眠り
朝来爽気在西山        朝来の爽気、西山に在り

〈林語堂の訳(合山究日本語訳)〉
人生は多くの不幸に満ちているのに、
どうすればそんなに静穏な月日を送ることができるのですか。
昨夜私は微風涼しき北風のもとに眠り、
今朝は爽やかな空気が、西の山々を包んでいる。
    *「先生」とは蘇東坡が尊敬した陶淵明を指すのだろうか。

多くの苦難の中にあっても、蘇東坡の心は「自然との完全な調和の域に到達していて」書けた詩であろう。世の中のことに目を瞑るというのではないが、花鳥風月や雲海や山河の大自然に助けられて心の調和を保って生きていくしかないだろう。願わくは宗教的安心を得て調和を保てれば、これにまさることはない。

皎々と照る月を、この地球上で何人の人々が今夜見ていることだろうか。ムンバイの空にももう月は上がっているだろう。そして悲しみの人々を月の光が包んでいることだろう。

道すがら

2006-07-11 23:53:07 | Weblog
7月11日(火)晴れ暑し【道すがら】

今朝自宅から最寄りの駅に向かう途中、ママに連れられた男の子に出逢った。これから保育園に行く樣子である。ママは携帯電話のメールでも打ちながら歩いているのだろうか。危ないな、と思いながらすれ違いそうになった。しかし、男の子はママの方を見ないで勝手に右に道に入っていくし、ママは気づかず真っ直ぐ歩いていってしまう。

「ぼうや、そっちじゃないでしょう」と思わず声をかけた。通り過ぎていってしまっているママは、その声に驚いたように振り返って「そっちじゃないでしょ」と男の子を手招きした。男の子はママに駆け寄っていった。「ぼうや、お母さんから離れちゃ駄目よ」と私は言った。本当は「お母さん、携帯に夢中じゃいけませんよ」と言うべきだったかもしれないが、なかなかそうは言えないものだ。

しかしママとはぐれて慌てたりしたら、自転車にぶつかるかもしれないし、道路上は危険が一杯だから、ママもぼうやも気をつけて欲しい。

さて、今度は帰りのこと。明日の午後には原稿を提出しなくてはならないので、今夜も家の最寄り駅に着いたのは10時近くなってしまっていた。朝とは別のママとぼうやに出会った。この駅の近くに託児所があるので、何組もの親子によく出会う。この親子とも朝よく会うのだが、ほんの数ヶ月前まではいつもママに抱っこされていたぼうやが、この頃はいつの間にか自分で歩けるようになっている。すれ違うだけの縁であるが、ぼうやの成長ぶりを、陰ながら楽しみにしている私である。

その親子と帰りに出会ったので驚いたのである。こんな遅くまで託児所に預けているのだろうか。これから電車に乗って帰って行くところであった。まだやっと一人で歩けるようになったばかりだというのに、ママと半日以上も会えなかったとは、ぼうやはきっと寂しかっただろう。

朝出会うときも、いつもママはぼうやに何も話しかけていないが 、今夜もママは真っ直ぐ向いて歩いていて、ぼうやに話しかけていない。私が見る時たまたまそうなのだろうが、背の高いママとまだママの膝までくらいしかないぼうやと距離が離れているので、心配である。ママも手を繋ぐには距離がありすぎるのだろう。「ぼうや、ママの足の傍から離れないように歩いてね」と思わず言ってしまいたいようなほどである。

働きながら子育てをするのは、さぞや大変なことだと思う。ママたちも頑張ってね。ぼうやたちも気をつけてね。無事に育ってくれますように。

バスから降りて空を見上げたら、お月様が今夜はきれいだ。近くの家の月見草も今夜は特に数十輪も咲き誇っている。「こんばんは、月見草さん」花にも声をかける。近くの竹林にも「ただいま」と声をかける。今夜は少し疲れました。たわいない一文で今夜はお休みなさい。

朝顔

2006-07-09 23:12:39 | Weblog
7月9日(日)曇り【朝顔】

6日から昨日まで東京の入谷鬼子母神で朝顔市が開かれていたようです。私が今、研究している室町時代の禅僧の語録の中に、朝顔に因む七言絶句が丁度あったので、簡単な語注を付けてご紹介しておきます。禅僧が詠んだ漢詩としては意外と艶やかです。
室町時代にも朝顔が今頃の時期には咲き乱れていたのでしょう。

 牽牛花      *牽牛花(けんぎゅうか)
開落朝昏花両般。 *朝昏に開落す花の両般。
夤縁朶蔓蔓籬端。 *朶蔓、夤縁(いんえん)す蔓籬(まんり)の端。
莫将名字疑顔色。 *名字を将(も)って顔色を疑うなかれ。
不是劉家黒牡丹。 *是れ劉家(りゅうけ)の黒牡丹(こくぼたん)ならず。

【語注】
○牽牛花=朝顔のこと。旋花科の一年草。花は大形で漏斗状。『事物紀原』の「草木花果部」にその名のいわれが出ている。「牽牛、本草補注曰、始出田野人牽牛易薬、故に以名之。」
○朝昏に開落す花両般=朝に開き夕方に萎むというのは朝顔の二つの顔である。
○朶蔓、夤縁す蔓籬の端=蔓のかきねの端に、朝顔の花や蔓が絡みついていること。
○名字を将って顔色を疑うなかれ=牽牛花という名前からその樣子を想像してはなりません。
○是れ劉家の黒牡丹ならず=牽牛花は牛という字を含むが朝顔のことであり、逆に黒牡丹は牡丹という花の名を含むが牛の異名である。文字面に左右されまいという意を含んでの七言絶句。黒牡丹は『事類全書』に劉訓という人に因んでこの名の謂われがでている。「以観牡丹為勝賞、訓邀客賞花。乃繋水牛数百在前、指曰、此劉氏黒牡丹也。」


 牽牛花    牽牛花
顔色挼藍映露光。 *顔色藍(あい)を挼(も)んで露光を映す。
渾無暮艶有朝粧。 *渾(すべ)て暮艶(ぼえん)なくして朝粧(ちょうしょう)有り。
漢家薄命三千女。 *漢家(かんけ)薄命なる三千女。
蛾緑眉愁待未央。 *蛾緑(がりょく)の眉(まゆ)愁いて待つこといまだ央(や)まず。

【語注】
○顔色藍を挼んで露光を映す=朝顔の花の色は藍を揉み込んでいるようであり、その花についた朝露に朝の日の光が映り美しい様子。
○渾て暮艶(ぼえん)なくして朝粧(ちょうしょう)有り=朝顔は朝咲き夕には萎むことから、次の三句目、四句目を引き出している。暮艶と朝粧という熟語はこの作者の造語であろう。
○漢家薄命なる三千女=漢の武帝は多くの美人を寵愛したが、薄命なる朝顔をそれらの美人三千女として形容している。
○蛾緑の眉愁いて待つこといまだ央まず=蛾緑はペルシャから産出する黛の名。宮中の美人は眉に蛾緑を引いて(朝の化粧をして)天子の寵愛を待っていたのであろうが、朝顔が咲き乱れている樣子はまるでそのような樣子である、の意。

*皆さんのお家には朝顔がありますか。私は朝顔の苗を求める余裕がまだありません。でも毎年咲いてくれる白と紫の桔梗が無聊を慰めてくれています。

爽やかな青年僧

2006-07-08 11:04:23 | Weblog
7月8日(土)曇り【爽やかな青年僧】

このところ少し忙しくしていて、なかなか記事を書けない。ブログの管理人としては怠慢である。しかしほぼ二年かけている訳注研究という仕事が、いよいよ出版社に渡せる段階に入ったので、夜遅くまで老眼を酷使しながら頑張っているところなので、お許しを。
早くこのきりをつけて、宿題から解放されるあの感覚を味わいたいと思っている。

そんなでこのところは、せっかく当ブログにご訪問下さる方に、申し訳ないので、少しでもなにかしら書こうと思っていたところ、昨日素敵な青年に出逢ったので、その紹介を一言。

昨日はある法要があり、鶴見の總持寺に出かけてきた。そこで参拝者を誘導してくれている一人の青年僧に目が止まった。木蘭のお袈裟をつけ誘導してくれている物腰にも落ち着きが見られる。実に凛々しい感じである。私はこの青年僧にたしかにどこかで出逢っているはずだ。

「どこかで出逢ったことがあるような気がするのですけど」と私は話しかけた。おそらく駒澤大学であろう。「駒澤の卒業は平成12年ですけど、僕は大学時代金髪でしたから、イメージが違うと思うのですが」と青年僧は、私と出逢ったことは無いと思うが、という感じで答えた。金髪だった青年が剃髮をすると、かくも変身するのかと言うほどにおそらく別人の観があるだろう。それでも私はこの澄んだ瞳にどこかで出逢ったことがあると思った。

二度目に總持寺の廊下で出逢ったとき、彼の名を尋ねた。その名には確かに覚えがあった。私も名を名乗った。とたんに「あっ、ノートを貸して貰ったことがあります」と私の名前から思い出したように言ってくれた。私はそのことはすっかり忘れていたが、彼の名前とともに、いたずらっぽそうな学生時代の彼の顔が浮かんできた。目の前にいる青年僧は紛れもなく駒澤のキャンパスでいきいきと青春を送っていた青年である。

四年間總持寺で修行しているそうだが、生活はたしかに人を変えうる力がある。ある程度の規律ある生活は、野放図に生きるのとは違う影響を箇箇に与えうるものだと思う。しかしあまのじゃくの私は学生時代の金髪青年も、總持寺の凛々しい青年僧もどちらも輝いていると思う。

總持寺をおいとまするとき、また出逢った。知り合いに出逢った時の人なつこい、爽やかな瞳で送ってくれた。この瞳の輝きが世慣れて失われませんように。坊さんの社会ですれていきませんように、と心から彼の姿に願った。ちょっと嬉しい出逢いだった。

木蘭の袈裟:得度のときは黒のお袈裟であるが、嗣法といって師匠から法を嗣ぐことを許されてその儀式を終えると、木蘭や色のついた袈裟をつけることができる。木蘭色は赤黒色を帯びた黄色。

總持寺:横浜鶴見にある、曹洞宗の本山。曹洞宗では永平寺と總持寺の二大本山がある。

すれるということ:どの社会にも「すれるということ」はあるだろう。僧侶の世界だからといってそれは免れない。人間の社会だから。要領を覚えると、すれるように思う。要領には良い意味もあるが。「すれる」よりも更に悪いのは「毒される」ということだろう。

あいりちゃんを悼む

2006-07-05 23:34:12 | Weblog
7月5日(水)一時雨激し【あいりちゃんを悼む】

今日は朝から北朝鮮のミサイルが発射されたニュースで持ちきりであった。全部で6発ぐらい撃ってきたという。物騒な話である。威嚇してきたのであろうが、世界を敵に回すような結果になったのではなかろうか。金正日総書記が知らないうちに発射されたというニュースもあるが、信じがたいことだ。

昨日は、昨年の11月に広島で起きてしまった木下あいりちゃん(当時7歳)の事件の判決公判が開かれた。ペルー国籍のホセマヌエル・トレス・ヤギ被告(34)に無期懲役の判決が下された。罪状は殺人のみならず強制わいせつ致死という卑劣なる犯罪である。このような事件についてまた書くことに苦しみを覚えるが、素通りすることはできない。

私のブログは、何のお役にも立たずに生きている私の、僧侶としてのせめてもの鎮魂の書でもありたいと思っているのである。お読み下さる方にはお付き合いお許しを。しかしどうしてヤギ被告のような人間ができてしまったのであろう。人間はやはり神が造りたもうたものではないようだ、と確信するのである。

本当に自らの罪の深さに気づいたなら、死刑でなく無期懲役であったことを喜べるはずがない。良心の呵責を感じたなら、申し訳なくて、自分が生きていることさえできないはずだからである。釈尊は多くの人を殺したアングリマーラーさえその罪を許して自分の弟子となさった。しかし釈尊は彼を導くことが可能であったからそれができたのである。ただむやみに罪を許したわけではない。

私自身にしても偉そうなことを言える人間ではないが、いたいけない子供たちが魔の手に掛かっていくのを黙って見過ごすことはできない。ヤギ被告が極刑にふされたからといってあいりちゃんが還ってくるわけではないが、あいりちゃんに対するような極悪非道なことをしても、いつか社会に復帰できるというのであれば、愚かな者は真似をする可能性がある。なんの為にあいりちゃんのお父さんが苦しみを乗り越えて事実を公表してくれたか考えなくてはならないだろう。

罪を悪(にく)んで人を悪まず 、という言葉があるが、その言葉を作った人にとって、ヤギ被告のような幼児に対する強制わいせつ致死などという犯罪は想定さえできない罪であろう。なんでも一つのことで片付けては過つことになる。箇箇の事件の本質を見定めなくてはならないだろう。

あいりちゃんの死を悼み泣き、そして同じ人間としてヤギ被告のような人間ができてしまったことに泣きながら、社会は極刑を言い渡すべきではなかろうか。

ヤギ被告がペルー人であることが問題であるのなら、ペルーの世論に尋ねてはどうだろう。彼を野に放てば強制的に返したペルーで第二のあいりちゃんが出てしまう可能性があるだろう。そのままで治る性癖とは思えない。ヤギ被告にとっても、これ以上の罪を犯さないために一生を監視の中に置かれた方がよいのではないか。

あいりちゃんにとって鎭魂の一文とは言い難いが、第二のあいりちゃんの悲劇を作らないことを社会が約束することをおいて他には、真の鎭魂とはならないと思うので、社会の片隅で吼えているのである。

仏菩薩様、あいりちゃんが苦しんでいるのなら、どうぞお救い下さい。あの世のことは何も分かりません。お任せするしかありません。人間の力の及ばない世界のこと。でも祈りたい、安らかでありますよう。


*最後に種元駿ちゃんのお父さんの手記を記載します。

◇父毅さんの手記
 大好きな駿へ
 あなたが天国に旅立ってから早いもので3年が経(た)ちました。
 3年という月日が流れたにもかかわらず、私たちの中には4歳の恥ずかしそうにはにかんだ君と、生きていればだいぶお兄ちゃんらしくなっている7歳の君が同居しています。このよく理解できない、時に強い空(むな)しさを伴う感覚は一生続くのだと思います。
 大好きなあなたの命を奪った加害者は今15歳になっています。この加害者とその両親に対する怒り・憎しみの感情はずっと変わっていません。でも、今のところ、加害者やその両親のことを考える時間はそう多くありません。加害者やその両親のことを考えることは、大好きなあなたの命を突然奪われて消えることの無い痛みや傷を負うことになった私たち家族にとって、今の時点ではプラスにはならない、耐え難いことなのです。先日、加害者が犯した殺人という行為の責任を認めさせ一生償うという約束をさせることはできました。でも、この約束が果たされたかどうかの確認は長い時間が経たなければできないし、約束が果たされたからといって、あなたの笑顔を見ることはもうできないのです。
 あなたの尊い未来を奪った加害者がどのような生活をしてどのような状態にあるのか、みんなに知ってもらいたいと思いませんか。私たち家族だけでなく多くの人は何も知らないのです。残された私たちは、加害者が誰かを特定できる情報を除いた多くの情報はみんなに知ってもらうべきだと思います。そうすることで、同じような事件を未然に防いだり、不幸にして事件が起こったときに加害者側にしょく罪意識を持たせることにつながったり、被害者側の精神的苦痛を和らげることにつながると思います。加害者がどうして人を殺したり傷つけたりするような状況に至ったのか、その事実についてどのように向き合っているのか、向き合うためにどのような処遇を受けているのか、また再び人を殺したり傷つけたりするような恐れがないのか、このようなことを、加害者が特定できる情報を削除した形で多くの人がどうして知ることができないのか、いまだに理解できません。社会にとって有益な情報は還元され共有されるべきだと思いませんか。
 駿、お地蔵さまのところには今でも多くの方がおもちゃやお花をお供えしてくださって、いつもきれいにしていただいています。このことを私たち残された家族は今でも心強く思い、心より感謝しております。
 平成18年6月30日
 種元毅

故郷の風に吹かれて

2006-07-04 19:16:15 | Weblog
7月4日(火)晴れ【故郷の風に吹かれて】

故郷に帰ってきたが、寒いので夜は暖房が必要なほどであった。この度の故郷行きは墓地の名義を換えるためであった。とりあえず名義書換について一通りの手続きだけは押さえてきた。まずは現在登記されている人のひ孫さんに会った。前もって事情は話してあったが、会うのははじめてである。五人ほどの印鑑証明や書類に印が必要なので、挨拶だけではなく、諸手続きをして頂くために多少なりともお礼も渡さなくてはならない。

翌日は司法書士の先生に会って、懸念の費用を尋ねる。私にとってはかなりの額であった。それでもそれをしなくてはならない立場に出会った者が、勤めを果たさなくてはならないだろう。

このぐらいのことはなんでもありません、と強がりを言ってみる。でも私が小さい頃から私の家に間借りしていた姉のような人を訪ねて本当にそう更に思った。この人を仮にS子姉さんと名付けると、S子姉さんは十代から七十才位まで、病身の父親や兄弟や妹たちの為に働き続けてきた人だ。

私の故郷は花街なので、S子姉さんも花街で働いた。他人が「あんたの親はあんたを食い物にしている」などと言うと、「嫌なことを言うよね。私はそんなことを思ったことは一度もないよ」と憤慨していた。しかし端から見ればそのように思ってもしようがないほど親に尽くしていた。父親に生活費を届けに行くというこの人に付いて行ったことがたびたびあるので、私も子供心にも親に尽くすところを見ていた。

「家の商売でもあれば、私だってそれをもとにどんだけ頑張ったかしれないけど、うちにはカラスにぶつける土くれさえ無いんだからしょうがないやね。」と言って、ひたすらに花街で働いていた。子どもの頃の私には分からないことも多かったが、今にして思えばいろいろなご苦労があったことと察せられる。それでも「私は愚癡も言わなかったけれど、兄弟に恩を着せたこともないんさ。それぞれの兄弟にやってやれることをしただけだよ。」と言う。

プライバシーのこともあるし、あまり書けないが、家族のためにこの人ほど働いた人も少ないだろう。また病弱なお父さんが、九十歳以上も長生きをしたので、この人は働き続けなくてはならなかった。今は家族への役目を終えて、悠々とした日々を送っている。

私は小学校に通う六年間、この人の姿に教えられたことが多いと思う。家族のために働くことや家族のために働いても恩を着せないということ。そんな人生哲学を、この人から実は小さい頃に植えつけられたのかもしれない。私も五年ほど家族の借金を返すために、小さな会社を経営して夢中で働いた時期があった。しかしそのことで借金を作った次兄に何か言ったことは思えば一度もない。

その経験のお蔭で多くのことを学んだし、出家してからかえって多くの嫌な目に遭ったが、少しのことではふらふらしない根性も養えたようにも思う。(勿論出家してから嫌なことばかりではなく多くのことに恵まれているが。)とにかくマイナスは一つもない。しかし私の経験はS子姉さんのご苦労の足元にも及ばない苦労に過ぎない。

S子姉さんのような人はこれからの世の中にはもう出ないだろうとさえ思う。このような人を人生の早い時期から知っていたということは、私の財産だと今回もお会いしてつくづく思った。墓地の名義変更の苦労などなんでもないこと。世の中は巡り回るでしょう。頑張りましょう。

でも自分たちにはほとんどあまり益の無い、印鑑集めやらのご面倒をかけてしまうひ孫さんたちには感謝。このご夫婦の部屋に不屈の矢沢永吉の大きなポスターが二枚も貼ってあった。奥さんが大ファンとのこと。またこの奥さんは小学校の同級生の姪御さんでした。世の中はそんな意味でも巡り回っている。あまりに切ないことの多いこの頃、触れあう人とは暖かい付き合いをしていきたいものだと、故郷の風に吹かれてそんなことを胸に納めてきた。

帰りのドライブインで、「風知草」という名の鉢植えを買ってきた。風を知るのでなく、風が知るのである。地球上を駆けめぐる風は人間のいとなみの一切を知っているのだろう。

今日、悲酸な事件の判決がおりたことも。許し得ない犯罪の数々を、風はどんなふうに知るというのだろう。身の回りのことの対処に追われている姿などは、横目に見ながら通り過ぎていくのだろう。