風月庵だより

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チベットのジャンヌ・ダルクその3

2008-09-29 23:22:57 | Weblog
9月29日(月)雨寒し【チベットのジャンヌ・ダルクその3】

今日は寒い一日でした。あやうく風邪を引いてしまいそうなほどでした。今日は姉の個展が有楽町の交通会館で開かれていますので観に行ってきました。80点ほどの作品が並べられていました。私は絵については全く審美眼がありませんが、楽しく鑑賞してきました。このようなことを楽しめる自由をつくづくすごいことだと改めて感じた次第です。

それからのガワン・サンドルはどうなってしまったでしょうか。牢獄でのそれまでの労働は気絶しそうなほど暑い温室の仕事でしたが、この仕事は他の受刑者との接触があるので、梳き毛の労働に回されることになりました。一日に7キロの規定量を梳けるまでは、夕食も食べさせてもらえないし、羊毛を肺一杯に吸い込んで喉が渇いても、水一杯もらえないという、これも過酷な労働のようです。

規定量を生産できないときはまた拷問を受けるのだと言います。電気棍棒を口に押し込むという拷問もあるそうです。しかし、何年もの延刑の原因となった尼僧たちの歌は中国の監視の目をくぐってヴォイス・オブ・アメリカで放送されたのだそうです。そしてこのとき14歳であったガワン・サンドルのことも知られることになりました。

外の世界のこととは無縁に、ガワン・サンドルは無情な看守たちとの間で、非人道的な扱いの繰り返しの日々をおくっていました。ある日、些細なことに言いがかりをつけられて監督官が襲いかかってきました。それに対してついにガワン・サンドルは反撃をしたのです。監督官の襟につかみかかって叫びました。

「友よ、私たちはみんな連帯しています。同じ理由で同じ目的のためにここにいるのです。一緒に叫びましょう。独立!独立!独立!」と。彼女の叫びに同じ房にいる尼僧たちは呼応しました。「ポ・ランツェン(チベット独立)!」「ポ・ランツェン」

このあとの結果は火を見るより明らかなのに、どうして叫んでしまったのでしょう。押さえきれない抑圧の日々の鬱屈が堰を切ってしまったのでしょうか。

ガワン・サンドルは6ヶ月の独房入りになってしまいました。このとき一緒に独房入りをさせられた尼僧が、後にインドに逃れてこの独房の状態について語っています。独房は2メートル×3メートルくらいの広さで、そのなかに用をたすための一角もあり、それは汲み取られないので、腐った尿と糞の臭いが部屋には充満しているそうです。

とても寒い時期にもかかわらす二重の毛布だけ、食事もごくわずかで飢えと寒さに凍える独房の隔離刑の後、裁判が開かれました。17歳のガワン・サンドルにくだされた刑は果たしてどのような刑だったでしょうか。

8年の延刑!でした。

8年の刑に満足でしょう、という監督官に彼女は答えます。「そう、満足です。私は決して考え方を変えませんから。チベットの独立闘争は絶対にやめません。ここダプチで、必要なら死ぬまで闘い続けます」と。

この飽くなき信念の強さに驚かされます。このような話はインドに逃れてきた人々の話などをもとに書かれているそうですが、名前は後の問題がありますので伏せられています。

今夜はこの辺で失礼いたします。こうしている時間にもこの同じ地球上で苦しんでいるガワン・サンドルや多くのチベットの人々がいることを感じながら。


チベットのジャンヌ・ダルクその2

2008-09-28 11:22:31 | Weblog
9月28日(日)曇り【チベットのジャンヌ・ダルクその2】

なぜガワン・サンドルはインドに逃げなかったのでしょう。なぜわざわざ再び監獄に入られるようなことを敢えてしたのでしょうか。たとえ「チベット独立!自由チベット」と、武器を持たずに叫ぶだけでも、刑をきせられることを承知していた筈なのに、何故?

それを『囚われのチベットの少女』の著者は「自己施与の精神」と表現しています。また次のようにも書いています。「生き物はすべて死に、別の形でどこかに生まれ変わる。今生においては今までの生の果報を受ける。男性であれ、女性であれ、動物であれ、今の生で起きることはすべて、前世の善悪の行い、欲望の結果である。言い換えれば、各人は自分の幸福、不幸に責任を負わねばならない。智慧と慈悲によって、いつかこの果てしない輪廻から逃れ、涅槃に達することを望むことができる。」と。

このような解釈はチベット仏教の教えといえましょう。日本の仏教ではこのように説きますと、問題になる点があります。チベット仏教ではその人自身が輪廻転生すると説いています。ダライ・ラマ様の生まれ変わりを探すことでもこのような輪廻転生のとらえ方はよく知られています。ガワン・サンドルにも、たとえ死してもまた生まれ変わってチベット独立を叫ぼうという強い信念があるのではないでしょうか。

そして死を恐れないことを教えられているでしょう。死を恐れるよりも勇気を持たずに生きることのほうを恐れているのではないでしょうか。「死は避けられないものと分かっているので不安に思う必要はない。私にとって死ぬこととは、古着を新しいのととり替えるようなものだ。」と『囚われのチベットの少女』の中にも『自由は遠くに』という本の中の言葉が紹介されています。

ガワン・サンドルは命が終わるまで、「フリー・チベット」を叫び続けるつもりなのではないでしょうか。

さて、ダプチの監獄に懲役3年の刑で入れられた少女はそれからどうなったのでしょうか。監獄の朝は早く、4時半起床。5時ランニングーこれは拷問で痛んでいる体の人にとっては、かなり辛く、遅くなるとまた竹棒で殴られるのだといいます。6時半朝食ーティンモ(チャパティのようなものか)一つと塩の入ったお茶だけ。7時から労働ー暑すぎる温室の中で野菜の収穫作業、この間水も飲ませてもらえない。

13時昼食ーご飯とおかず一品(一週間同じおかず)。14時まで編み物の仕事。14時ー再び労働ー気絶する者がでるほどの暑さの温室での作業、殺虫剤のために喉をやられてしまうが治療など決して受けられないそうです。18時夕食ーティンモ一つだけ。お茶なし。18時半編み物の仕事。18時45分トイレ休憩ー早くすませないと氷の張った上で裸足で立たされるとは便秘の人は辛いでしょう。19時就寝ー点呼に遅れるとまた殴られるとは。

このような日々のなかで政治犯の尼僧たちは歌を作ることを思いついたのです。ダライ・ラマを讃え、豚の餌のような食事と殴られ乱暴されても、チベットの独立を願う決心は変わらない、と歌いました。それらのいくつかの歌詞の歌を外の世界にアピールするためになんとか届けようとテープに録音しました。テープレコーダーは一般刑の囚人からの借りたのです。夜、監視の目を逃れて必死で録音したのです。

しかし、これが発覚してしまい、それぞれ刑期が延長されてしまいました。ある尼僧は7年、ある尼僧は9年、そしてガワン・サンドルは6年の延刑になってしまいました。16歳で刑期を終えて出獄できる予定でしたのに、さらに6年、22歳になるまで監獄から出られなくなってしまったのです。

今日はこれまでに致します。平和な国の老尼は自由に本を読むことが許されています。猫と遊ぶことも、猫の行く末を心配することも許されています。戦争に加担しそうな新総理には注意を要するでしょう。

チベットのジャンヌ・ダルク

2008-09-27 07:55:30 | Weblog
9月27日(土)曇り【チベットのジャンヌダルク】

チベットが中国に侵略されて引き起こされている、チベット民族の悲劇については周知のことと思います。しかし、具体的にはどのような残虐な行為が起こされているのか、あまり知られていないでしょう。

私は最近『囚われのチベットの少女』(フイリップ・ブルサール、ダニエル・ラン著、今枝由郎訳。トランスビュー刊)という本によって、ある尼僧のことを知りましたのでご紹介させていただきます。

ガワン・サンドルという名の尼僧がチベットにいます。チベットのそれもダプチの監獄にいるのです。11歳のときから29歳になる今も監獄につながれたままです。一体何をしたのでしょうか。

「自由チベット万歳」「チベットは自由の国だ」「中国はチベットから出ていけ」「ダライラマ万歳」と叫んだだけで捕まったのです。先ずグツァの拘置所に連れて行かれました。そこで兵士たちに殴られ蹴られ、石を投げられ、わずか11歳の少女は傷だらけの拷問を受け、そのまま収監されたのです。「自由チベット」と叫んだだけで。

一緒に「自由チベット」と叫んだ尼僧たちは、「過ちを後悔しているか」という裁判官の問いに「何も後悔はしていません」と答えて、三年から七年の懲役を言い渡されてダプチの監獄に収監されました。

ガワン・サンドルは、さすがにまだ子どもだったからでしょう、ラサにあるグツァの監獄に一年置かれました。決して大切にされた一年では勿論ありません。一度釈放されて戻った家族の状態は、父親はチベット独立運動の活動家として獄中につながれ、母は亡くなり、二人の兄弟はインドに逃れて行ってしまい、残っていたのは、離婚した姉とその子どもたち、そして尼僧の姉だけでした。

そのときガワン・サンドルには、インドのダラムサラに逃げるという手段があったのにもかかわらず、少女はそれを望まなかったのです。幼い頃から、父にチベット民族としての誇り、国を愛する心を教え込まれていた少女は、逃げないでこのチベットで戦おうと決心していたのでしょうか。

釈放された翌年1992年6月18日のラサの決起集会で、再び少女は叫んだのです。「チベット独立」「中国はチベットから出ていけ」と。

そして再びグツァの拘置所に入れられました。ここでの拷問の味はすでに知っているはずの少女でしたのに、なぜ自ら過酷な状況に身を置くことを選んだのでしょう。そしてくだされた判決は懲役3年の刑でした。このときガワン・サンドルは13歳でした。「覆滅および分離活動への煽動」というのが罪状です。

ガワン・サンドルはダプチの監獄に移されました。そこで少女は2年前にともに「自由チベット」と叫んで監獄に入れられている尼僧院の尼僧たちと再会しました。大人の尼僧たちは少女との再会に驚きました。まさか再び少女が捕まるようなことをするとは想像だにできなかったのでしょう。少女はあえてその道を望んだのです。

何故なのでしょう。このことを理解するには、幼い頃から教えられた仏教の心を解き明かす必要があるでしょう。この続きはまたに致します。これから本師が揮毫なさった書を表装されたというので娘さんのお寺にお邪魔に伺います。なんと平和な日本国にいる老尼でありましょうか。

姉妹猫3

2008-09-26 17:16:43 | Weblog
【姉妹猫3】

この猫たちの幸せは一緒に住めることなのでしょう。家の中を駆けめぐって楽しく遊んだ後の眠りです。この2匹を一緒に飼ってあげられないことは残念です。

やはり責任がありますし、一匹でも家庭内騒動ですから、人間の都合でこの2匹の幸せを叶えてあげられないのは残念です。

舍利礼文考ーなぜ舍利礼文を読誦するのか

2008-09-15 06:47:39 | Weblog
9月15日(月)曇り【舍利礼文考ーなぜ舍利礼文を読誦するのか】

昨日、名古屋の覚王山日泰寺をご紹介したので、仏舍利に関連して、拙稿をご紹介させていただきたい。これは昨年発表した論文です。『舎利礼文』というお経をなぜ読誦するのか、自分自身もしっかりと知りたかったので研究してみました。


舍利礼文考
            ーなぜ舍利礼文を読誦するのか


はじめに

「舍利礼文」は、日本の各宗派の読誦経典として用いられている(日蓮宗、浄土真宗では用いられない)。厳密にいえば密教系の経文であるが、曹洞宗においても「舎利礼文」はよく誦されている。(『曹洞宗宗制』の「曹洞宗儀礼規定」には含まれていない。)しかし、流布している経文ではあるが、「舎利礼文」に関しての論考は少ない。管見によれば、石川良氏の「舎利礼文について」①を僅かに探し得た。
 しかるに「舎利礼文」について、この頃気になることを見聞した。一つには、「舎利礼文」は釈尊の舎利を礼讃する経文であるから、在家の人の仏事に用いるのは不適である、という意見を耳にしたことである。また一つには、曹洞宗の経典解説の中に「舎利とは釈尊のお骨のこと、転じて、仏弟子つまり檀信徒の遺骨を指す」という文章を目にしたことである。日々に読誦している経文について、このような異なる二見解が宗門内にあることについて、あらためて一考の要を感じたので参究した次第である。
 
一、「舎利礼文」の撰者について
 
 「舎利礼文」の撰者については、石川良氏の「舎利礼文について」の論考に詳しいが、不空三蔵(七〇五~七七四)説には問題があるようだ。不空撰述の「表製集」に掲載がないので、不空撰述には問題があるとされる。不空は多くの密教経典を訳出したので、後代の者が作成して不空の名を冠したことは考えられる。具体的な例であるが、韓国曹溪宗の僧侶は「舎利礼文」という経文は知らないということであるし、台湾では舎利を祀っている密教系のお寺では知られているかもしれないが、流布はしていない、さらに漢文では「礼舎利文」となるのではないか、ということ。中国系のインターネット配信の「百科大全」には「舎利礼文主要、為三日本真言宗及禅宗所二伝承一」と記載されている。このような具体的事例であるが、日本撰述説の可能性を示唆できるのではなかろうか。  
 空海撰述についても、問題はある。空海撰とされる「舎利講秘式」に「舎利礼文」の語句が全て配されているが、これ自体が偽撰といわれるし、『弘法大師全集』にある「舎利法」の中には「礼仏」はあるが、「舎利礼文」読誦の記載はない②。「舎利礼文」が作られたのは、おそらく空海以降ではなかろうか。弘安六年(一二八三)成立の「沙石集」には「舎利礼の文を唱えて」という一文が出てくるので、この時代には確実にあったことが分かる③。また先にあげた石川氏の研究によれば、道元禅師を荼毘に付した後、懐奘禅師等が「舎利礼文」を誦したということが高台寺旧記には書かれているとある④。
 撰者については、おそらく日本の密教僧によって作られたのではなかろうかと推察される、という程度に本論ではおさめておきたい。

二、日本における仏舍利信仰及び舎利会
 
 日本に初めて舎利がもたらされたのは、敏達天皇一三年(五八四)蘇我馬子に司馬達止が献じたときのようである。その後、崇峻天皇元年(五八八)には、百済王によって舎利が贈られたという。次は、鑑真和上(六八八~七六三)が天平勝宝六年(七五四)入朝の折に将来したとされる。空海も仏舍利八〇粒を、延暦二五年(八〇六)の帰朝の折、将来したという。天台宗の慈覚大師円仁(七九四~八六四)も、唐から帰朝した承和一四年(八四七)に仏舍利を将来している。このように多数の舎利が将来されている。舎利といっても、お骨そのものではなく、水晶や瑪瑙などの宝石も舎利とされているようである⑤。
 そして、日本における舎利供養と舎利讃歎の舎利会(舎利講)は、真言宗では仁和寺に於いて永治三年(八四三)に、天台宗では貞観二年(八六〇)、円仁によって初めて開かれたとされている。なんといっても中世において舎利信仰を盛んにしたのは、東大寺復興の勧進をした重源(一一二一~一二〇六)と、真言律宗の叡尊(一二〇一~一二九〇)であろう。重源は仏舍利を奉安して盛んに勧進活動を展開したようである⑥。叡尊は「仏舎利湧出」という神秘的な霊験を度々に起こしたという記載がある⑦。このような舎利信仰のなかから「舎利礼文」はうまれたのではなかろうか。(また達磨宗では祖師方の舎利信仰はあったようである⑧。)
 
三、「舎利礼文」の訳について

 舎利礼文の訳文は、各宗派の経典を解説している一般書にも散見される⑨。宗派によって多少の違いがあり、訳として問題になる箇所が数箇所ある。新義真言宗豊山派長谷寺一一世の亮汰(一六二二~一六八〇)⑩の『舎利礼文鈔』⑪があるので、その解説及び伝慧(生卒年不詳)の註を中心に問題となる箇所を検討したい。(以下『鈔』と『註』と略称。)
 なお仏舎利を賛嘆する功徳は『大般若経』や『法華経』や『大乗悲分陀利経』等に舎利供養の功徳が説かれている⑫。
【舎利礼文】『註』には、「大智度論に、舎利は砕骨生身の舎利、経巻法身の舎利」と説かれていることがあげられ、舎利は骨舎利と法舎利をさす。 また舎利を念ずることは「即身成佛の妙術」であることが明かされている。
【一心頂礼 万徳円満 釈迦如来 真身舎利】この四句についてはあまり大きな問題はないだろう。真身舎利は真実生身の舎利の意。身心は誤り。一心頂礼は法界塔婆までかかる。
【本地法身】は『鈔』に「式に云く、本地法身は大日如来なり。大日経疏に云く、薄伽梵。即ち毘盧遮那本地法身なり」とある。式とは覚鑁(一〇九五~一一四三)の「舎利供養式」のこと。この訳について、現代における真言宗と天台宗以外の宗派の解説書では、本地法身を大日如来と明記していないが、「舎利礼文」は本来密教系の経文であるのだから、本地法身は大日如来と訳すのが本来であろう。また『鈔』には「理智不二の本地法身」であり『密厳諸秘釈』(覚鑁の著作集)では「仰ぎ願わくは本地法身大日如来、伏して乞う金剛堅固如来舎利」と唱えるとあり、大日如来と釈迦如来が不二であり、かつ釈迦如来は現身の仏であることを舎利と表現しているという意味であろう。
【法界塔婆】とは『鈔』に「大日経疏に云く、法界とは広大金剛の智体なり。この智体は所謂如来の実相智身なり。塔婆とは窣都婆なり」と。法界(Dharma-dhatu)の解釈は密教では法の体性(阿字体性六大体大)を表す。界の原義は、「構成要素」「基盤」。顕教では法界を真如と解釈している。しかし「法の世界」という解釈もみられるが、その訳は界の原義からはずれるだろう。
 また「式に云く、塔婆とは功徳聚と飜す」と。それについては、塔婆を造立供養する者は「無量の功徳、無辺の善根、自然に円満す」と。故に塔婆は功徳聚という意味になる。(塔婆供養は、塔婆は大日如来ー法身仏ーを礼拜供養するもので、その功徳を死者に回向するために建立される。)ここまでで釈迦如来の舎利と大日如来の法界を具現した塔婆を一心頂礼するという意味になろう。
【我等礼敬 為我現身 入我我入】初二句の問題は現身してくださる仏はどなたか、ということだが、密教では大日如来ということになろう。入我我入は『鈔』に「諸仏を我が身の中に引入すること」「我が身を諸仏の身中に引入すること」と云う。(この我はアートマンを意味する我ではない。)
 入我我入観は密教において三種秘観の一つとされる。三種秘観とは身密の入我我入観、口密の正念誦、意密の字輪観である。『秘蔵記』⑬に三密観として「本尊の三密(身・口・意)と吾が三業(身・口・意)とが入我我入すると観じること」とある。『お経ー真言宗』では「一体の境地になること」と訳されている。『弘法大師全集』所収の「舎利法」には「本尊與自身無二無別也」とも記されている。入我我入観は即身成仏を説く密教において重要な秘観である。少し禅的であるが、高田道見師は『舎利礼文講話』⑭に「衆生と仏陀とが一身同体となる。この入我我入が即ち生仏一如迷悟不二といふので、感応道交とはこの義を申したものである」と説かれている。
【仏加持故 我証菩提】とは、『註』に「三世常恒に舎利の全身、法界に遍くして、仏、大悲を加被したもう故に、所化の衆生、常恒に持つ義、之有るが故なり」と。如来の大悲大智が、所化の衆生の機に応じることを加といい、この加被力を受けて衆生は大悲大智を任持することができているのである。そうであるから「我証菩提」と次の語句が続くのであるが、すべての解説書は「我は菩提を証す」と能動的に訳しているが、仏の加持力の故なのだから、「我は菩提を証させていただくのである」と私は訳したい。
【以仏神力 利益衆生】『註』には「釈迦如来の化用は、即ち大日法身仏の神力加持なり」とあり、「今按ずるに仏は神変加持力を以て、一切衆生を利益する義を曰うなり(今按曰仏以神変加持力利益一切衆生義也)」とあり、仏が主語となっている。『鈔』には「仏加持故 我証菩提」は「自証を顕す」、「以仏神力 利益衆生」は「化他を示す」とある。現代の解説書もこの二句は我が利他する、と訳している。検討の余地はあるが、一応、主語は我とし、仏の神力のお陰で我は衆生を利益させていただくと訳しておく。
【発菩提心 修菩薩行 同入円寂】この語句の主語は何になるか、我か、衆生か。現代の解説書、真言・天台ではこの三句の主語は衆生としている。曹洞・臨済の僧侶の訳では、主語を我としている。『註』に見てみると、「衆生、法爾の仏位に安住すと雖も、煩悩の為に永く流転の凡夫となる。今日帰還の心を発して修行昇進するなり」とこの初二句の註にある。また『註』には「利益一切衆生故、顕衆生発菩提心修菩薩行成満因果同入四徳涅槃也」とある。この裏付けとして『大乗悲分陀利経』に、次の一文を見つけた。「又我般涅槃後。衆生以我舍利神変発阿耨多羅三藐三菩提心者。(中略)成阿耨多羅三藐三菩提已」(「立願舍利神変品」第一七T3-270c)とあるので、この三句の主語は衆生とするのがよいのではなかろうか
【平等大智 今将頂礼】平等大智は『華厳経』には仏智としてこの表現はあるが、密教でいう五智のなかには平等大智はないので、平等大智の語には一考を要する。『註』には「自他平等にして、四智円明の覚を成じたもう法界体性智、則ち究竟円満の果徳なり」と五智の中の大日如来の智ととるのが宜しいかと云っている。この経文は釈迦如来と大日如来を礼讃しているので、密教では不二の仏ではあるが、二如来の智を顕したいことと、四字熟語におさめたいこととで、平等大智と表現したのではなかろうか、と推測してみた。
 本地法身(大日如来)が我等の為に身を現じ(釈迦如来)たもうが故に「我証菩提」できるのであり、衆生も「同入円寂」させていただけるのであるから、平等大智は大日如来ー釈迦如来ーの大智であり、この平等の大智なる舎利を、今将に最高の尊敬をもって礼拝を捧げます、というのが結句二句の意味になるであろう。

おわりに

 はじめに、で紹介した〈「舎利礼文」は釈尊の舎利を礼讃する経典であるから、在家の人の仏事に用いるのは不適である〉という意見に対しては、「舎利礼文」のみならず一切の経典を読誦することは、読誦の功徳を回向することなのであるが、「舎利礼文」は更に、仏舎利を礼する功徳は、礼拝する我も、一切衆生も仏と一つにならせてくださるという経文なので、仏事に読誦することは理に適っている、と云えよう。
 また同じく、はじめに、で紹介したが「舎利とは釈尊のお骨のこと、転じて、仏弟子つまり檀信徒の遺骨を指す」という解釈は、拡大解釈すぎると云えよう。仏と一つになる、衆生の舎利も趣入するということを『註』でも云ってはいるが、あくまでも仏舎利を礼讃する功徳の結果であるので、舎利が檀信徒の遺骨まで指すという都合のよい解釈は経文が本来持っている真義を曲げてしまうので注意を要するのではなかろうか。
 宗門としては日本達磨宗の祖師方の舎利に対する信仰と「舎利礼文」読誦の関係、さらには道元禅師が『随聞記』で舎利信仰を誡めているという問題もあるが、それは次の課題としておきたい。

①『印度学仏教学研究』第一一ー二、昭和三八年、六五〇~六五四頁
②『弘法大師全集』巻第一三「舎利会」(吉川弘文館、明治四三年刊、第四巻七七〇~七七三頁)舎利会における式次第等が記されている。これも偽撰の記あり。
③無住編、巻二上所収。「仏舍利感得人事」の冒頭に舎利礼文毎日五百返読誦の記載あり。
④筆者未見。石川氏の論文には「題なし、鯨尺にて竪四寸二分横三寸一分、墨付二葉半。今津洪獄先生の御教示に依った」とある。
⑤『如意宝珠金輪呪王経』(不空訳)に「若無舍利、以金銀琉璃水精馬腦玻梨衆寶等、造作舍利。珠如上所用。行者無力者。即至大海辺拾清浄砂石即為舍利。」(T19-332c)とある。近年には明治三三年(一九〇〇)名古屋の日泰寺に、ピプラーヴァーの古墳から発掘された本物の仏骨が祀られている。
⑥このことについては、『中世の勧進聖と舎利信仰』(中尾堯著、吉川弘文館、平成一三年、一一七頁)に詳しい。山口県防府市にある阿弥陀寺には重源が祀った仏舍利五粒と水晶の舎利塔(国宝)が現存する。
⑦⑥に同じ。一二〇頁。
⑧参考「三宝寺の達磨宗門徒と六祖普賢舎利」高橋秀栄(『宗学研究』二六、昭和五九年)
⑨『お経ー真言宗』(勝又俊教、講談社、昭和五八年)、『お経ー天台宗』(塩入良道、講談社昭和五八年)、『曹洞宗大辞典』「舎利礼文」項(桜井秀雄監修、ぱんたか、平成一四年)『お経の意味がわかる本』(服部祖承ー臨済、光明社、平成一九年)黄檗宗は未見。 
⑩字は峻彦。薩摩の生まれ。九才で得度。その後京都に上がる。亮典より法華を学ぶ。鷲尾興法寺に住す。四二部八七巻の著作あり。延宝八年一一月一〇日示寂。寿五九。
⑪A『舎利礼文鈔』(寛文七年〈一六六七〉前川茂右衛門刊行)、B『(頭註)舎利礼文鈔』(天和三年〈一六八七〉前川茂右衛門刊行)延宝四年(一六七六)亮汰著。天和三年伝慧註。Bは『続豊山全書』第六巻に所収。441~459頁。(本論はこれを使用。本文該当の掲載頁は紙面がないので省略する)
⑫「令於如来般涅槃後、有得一粒如芥子量。供養恭敬獲福無辺。於天人中受多富樂」(『大般若経』巻四三〇T7-165c)「仏滅度後供養舎利。(中略)為供舎利厳飾塔廟。国界自然殊特妙好」(『法華経』序品T9-3b)「我般涅槃後。其有衆生以衆宝物供養舍利。乃至一称南無仏。一礼一旋一合掌業一花供養者。令彼一切随於三乗得不退転」(『大乗悲分陀利経』立願舍利神変品第十七T3-270a)
⑬弘法大師編。密教特有の法相約百条を解説した雜録。
⑭明治三四年、国会図書館マイクロフィル特46-197
「舎利礼文」(拙訳)
 あらゆる徳を完全に具えられた釈迦如来の骨舎利と法舎利、そして本地の法身仏である大日如来の法の智体を顕している舎利塔に、一心に五体投地をして礼拝を捧げます。我等がこのように礼拜恭敬しましたなら、我が為に仏は、この世に身を現してくださり、我に入ってくださり、我をして仏に引き入れてくださるのです。仏の加持力によって、我は無上の正覚を証得させていただき、仏の神通力によって、衆生を利益させてもらえるのです(仏の神力のお蔭で)衆生もまた菩提心を発し、菩薩行を修し、同じく円寂(衆徳円満、諸悪寂滅)に入らせていただけるのです。平等なる大智慧の仏舎利を、今将に我等は五体投地をして礼拝を捧げるのです。
(『教教化研修』第52号掲載)

覚王山日泰寺

2008-09-14 08:57:11 | Weblog
9月14日(日)曇り【覚王山日泰寺】

東京に地震があると予告があった9月13日も無事に過ぎました。やはりこの手の予告は問題があるということです。昔、富士山が何月何日に噴火すると予告した新興宗教の教祖さんがその予告がはずれたので姿を消してしまった、という話もあります。いずれにしても無事でよかったです。

さて、この3,4,5日に名古屋に行きましたので、その折りに韓国の友人たちと日泰寺にお参りに行って来ました。日泰寺にはお釈迦様の本物の舎利が祀られています。今までもこれが舎利です、と言われて拝んだ舎利はほとんど水晶でした。本物の人骨である釈尊の舎利がまつられているところは、日本ではこの日泰寺のみです。

この仏舍利は1898年に、インド北部の古墳で、英国人によって発見されました。その骨壺に刻まれている古代文字は紀元前3世紀ころの文字だそうです。それが解読されまして、これこそ釈尊のお骨であることが立証さたのです。そして、釈尊というお方が実在していらっしゃったことが実証されたのです。

このお骨は仏教国であるタイ王国にイギリスから譲渡されました。そして、その一部が日本にも、ラーマ5世によって贈られました。そこでいずれの宗派にも属さない超党派のお寺として日泰寺が建てられたのです。現在は19の宗派が輪番で住職を勤めています。

戦災でほとんどの伽藍は焼失してしまいましたので、現在の伽藍は再建されたものです。

今回のお参りでは、仏舍利を祀ってある奉安塔は修復中でしたのでお参りは叶いませんでしたが、遙拝をしてまいりました。本堂の中には入れていただけましたので、タイ国王から寄贈されたという本尊の金銅釈迦如来像にご挨拶をしてきました。タイの国宝の仏像です。

なおこの一隅に曹洞宗の僧堂があり、参拝した折りも、雲水さんが作務をしている姿をみることができました。「今仏」を拝めます。

お寺も清々としていますし、参道もいろいろなお店があって面白いです。名古屋にお参りの方は是非日泰寺にお参りなさることをお勧めします。




我が家の猫です

2008-09-09 21:39:32 | Weblog
9月9日(火)晴れ【我が家の猫です】

ついにこの猫は私が飼うことになりました。飼い主が見つかるまで、預かっていたのですが、手放せなくなりました。名前はルナです。友人のところに貰われていったお兄ちゃん猫はモルですし、ルナ(月)と命名しました。


印仏学会

2008-09-07 07:35:40 | Weblog
9月7日(日)曇り【印仏学会】(愛知学院大学の坐禅堂)

9月4日と5日の二日間、名古屋の愛知学院大学で、日本印度学仏教学会が開催された。今回で59回になる。

発表者は250名ほどであった。それぞれ日頃の研究の成果を、20分に凝縮しての発表なので、研究のエッセンスの発露がこの学会にあると言える。

仏教の学問的な研究と、仏教の信仰の同時進行ができると、仏教は盤石な感じがする。しかし、多くの学者の方々は、信仰の面は少ないのではなかろうか。学問的な方面からの仏教へのアプローチをすると、どうしても信仰は別物となる感じがある。

また信仰だけでも、自らの信仰を深めるには充分ではないようなこともあると思う。釈尊が説かれたことは、本当に何であったのか、学問的な面から探っている人々の話を聞かせて貰うことによって深まるものがあると、いつも法友F博士の話を聞いていて実感している。

今回も韓国の法友陳本覺法尼は、『華厳経』に関する発表をされた。「『華厳経』の光明の解釈における李通玄の特徴」という題の発表である。本覺法尼は『華厳教』で学位を取得しているので、さらに細かく『華厳経』についての研究を深めている。韓国の禅宗(曹渓宗)が基本としている経典は『華厳経』なので、それは日本の禅宗とは違う点である。

所依の経典が明確であることは、信仰を深める助けとしても、重要なことであろう。天台宗なら『法華経』、真言宗は『大日経』、浄土宗なら『浄土三部経』、日蓮宗は『法華経』、曹洞宗は坐禅が全てなので、所依の経典は持たない。しかし、『法華経』も『般若経』も大事にはしている。

さて、今回の会場である愛知学院大学は、名古屋の郊外の広大な敷地に、建物の点在するという立派な佇まいであった。勿論樹木に囲まれている。これらの樹木も植樹したものだという。その中に瓦屋根の風情ある建物が見えたので、お聞きしたところ坐禅堂だという。曹洞宗の僧である私としては、お昼休みに坐禅堂で坐禅をさせていただいた。坐禅なくして曹洞宗の僧侶ではありえないので。

箇箇の発表について、ご紹介したいところであるが、このくらいにて。