風月庵だより

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平常心について

2007-03-31 22:31:51 | Weblog
3月31日(土)曇り【平常心について】

この頃は高校野球春の選抜大会が行われているが、ある時アナウンサーが「平常心で投げれば大丈夫でしょう」というようなことを言っていた。この場合の平常心は落ち着いたいつもの心の状態というような意味であろう。一般的にはそのように使われているが、禅の世界の平常心の意味は異なる。馬祖道一ばそどういつ(709~788)の「平常心是道」について『天聖広燈録』巻八に収録されている馬祖章の示衆から学んでみたい。
〈原文〉
師示衆云。道不用修。但莫汚染。何爲汚染。但有生死心。造作趣向。皆是染汚。
〈訓読〉 
師、衆に示して云く、道は修を用いず。但だ汚染おせんすること莫なかれ。何をか汚染と爲す。但だ生死しょうじの心有りて、造作ぞうさし、趣向しゅこうす。皆な是れ染汚なり。
〈試訳〉
馬祖は大衆に話された。「道(さとり)は修行をする必要はない。ただ汚染(はからい)をしてはならない。何を汚染かと言えば、生死に迷う心が有って、何かをなそうとしたり、意図を持って何かを為そうとする、これが汚染である。」

〈原文〉
若欲直會其道。平常心是道。何謂平常心。無造作・無是非・無取捨。無斷常・無凡聖。
〈訓読〉
し直じきに其の道を會せんと欲せば、平常心是道なり。何をか平常心と謂わん。造作無く、是非無く、取捨無く、斷常無く、凡聖ぼんしょう無し。
〈試訳〉
もし本当にその道(さとり)を会得したいのならば、平常心が道である。何を平常心というかと言えば、何かを為そうというのでも無く、是非も無く、取捨も無く、断見も常見も無く、凡も聖も無いことだ。断見:人は一度死ねば断滅して再度生まれかわることがないとする断無にとらわれた考え。常見:世界は常住不滅であり、人は死んでも我(アートマン)が永久不滅であると執着する誤った考え。
平常心は一切のはからいを越えた、全てをそなえた心なので、修行をする必要さえない、と馬祖は言われるのだが、ここをとらえ間違って後世の、というか、現代の僧侶がとらえ間違いをしてしまうと、「いいんだよ、そのままで」というような自分に都合のよい解釈をしてしまうおそれがあると思う。
〈原文〉
故經云。非凡夫行・非聖賢行。是菩薩行。只如今行住坐臥。應機接物盡是道。今(他本は道)即是法界。乃至河沙妙用。不出法界。若不然者。云何言心地法門。云何言無盡燈。一切法皆是心法。一切名皆是心名。萬法皆從心生。心爲萬法之根本。
〈訓読〉
故に經に云く、凡夫行ぼんぷぎょうに非ず、聖賢行しょうけんぎょうに非ざる、是れ菩薩行ぼさつぎょうなり。只だ如今にょこんの行住坐臥ぎょうじゅうざが、應機接物おうきせつぶつ、盡ことごとく是れ道なり。今(他本は道)は即ち是れ法界ほっかい。乃至ないし河沙がしゃの妙用みょうゆうにして法界を出でず。若し然しからざれば、云何いかんが心地法門しんちほうもんと言わん。云何が無盡燈むじんとうと言わん。一切法は皆是れ心法なり。一切名は皆是れ心名なり。萬法ばんぽうは皆心從り生ず。心は萬法の根本なり。
〈試訳〉
経(『維摩経』)にいうように「凡夫の行いでも無く、聖者賢者の行いでも無い、これが菩薩の生き方である」と。まさに只今の行住坐臥、応機接物(修行者の機根に応じて教え導くこと)が、全て道なのである。今(他本の「道」のほうがここはよいのでは))というのは法界である。またはかりしれない不思議なるはたらきである。どこまでも法界のはたらきである。もしそうでなければ、どうして心地法門といえようか、どうして無尽灯といえようか。一切法(一切の存在)は心によるのである。一切名は皆心の別名である。万法は皆心より生じている。心こそ万法の根本である。    
ここの「経」の引用箇所:『維摩経』巻中「文殊師利問疾品第五」にある。菩薩行とは何かを説いた箇所。「離此二法是菩薩行。在於生死 不爲汚行。住於涅槃不永滅度。是菩薩行。 非凡夫行非賢聖行。是菩薩行。非垢行非 淨行。是菩薩行」*無尽灯:心地の霊光の常に明かであること。又は真実の仏法の精神が尽きることなく伝承されていくこと。*心地法門:心こそ一切の根源とする仏法の教え。

〈原文〉
故經云。識心達本源。故號爲沙門。名等・義等。一切法皆等。純一無雜。若於教門中得隨時自在。建立法界。盡是法界。若立眞如。盡是眞如。若立理。一切法盡是理。若立事。一切法盡是變。
〈訓読〉
故に經に云く、識心は本源に達す。故に號して沙門と爲す。名等・義等、一切諸法、皆な等にして純一無雜じゅんいつむざつなり。若し教門中に於いて時に隨い自在にして、法界を建立するを得ば、盡く是れ法界。若し眞如を立つれば、盡く是れ眞如。若し理を立つれば、一切法盡く是れ理。若し事を立つれば、一切法盡く是れ變(他本は事)。
〈試訳〉
経(『四十二章経』)にあるように「識心(識として働く心)の本源に達す。故に号して沙門と為す」と。名(万有の心の領域、精神的はたらき、能詮)も義(言い表されるもの。所詮)も等であり、一切諸法(一切の存在)は等であり、純粋でありまざりけがないのである。もし仏の教えに於いて、思うままに、ある時は、法界(事物の根元)としてとらえるならば、一切が法界となる。もしある時は真如(万有の根元)としてとらえるならば、一切が真如となる。もしある時は理(現象を現象たらしめているもの)としてとらえるならば、一切が理となる。もしある時は事(現象)としてとらえるならば、一切が変(変化して現れたもの。他本の「事」のほうがよいのでは)となるのである。
*等:一切諸法の自性空寂であること。自性も空寂も全ての存在の本質。その通りに了知することが平等に住するということ。*『四十二章経』「佛言。辭親出家。識心達本。解無爲法。名曰沙門。常行二百五十戒。」
訳のおかしいと思われる箇所についてはご指導願います。
(続く)

長老者ホームに学ぶ

2007-03-25 23:09:24 | Weblog
3月25日(日)朝のうち強い雨、午後より雨上がる【長老者ホームに学ぶ】

一昨日は、お年寄りの方々のホームにお話を頼まれたので伺ってきました。職員の方々だけでも百人はいるそうで、かなり大きなホームです。この度話を聞きにホールに集まってくれた人の中では百歳の方が最長老です。そのお隣には97歳の方もいらっしゃいました。一番若い方で65歳だそうです。

終末医療もこのホームでは受け入れているそうで、今日か明日かという方もベッドで横になりながら、お聞き下さいました。

このような機会を頂けることは、僧侶としてまことに有り難いことだと思いました。今までに5回ほど伺わせていただいていますが、いつものことながら、長く人生を歩まれた方々の静かなエネルギーを感じました。

また一人で寂しく暮らすよりも、話し相手がいたり、書道クラブや折り紙クラブ、写経などいろいろと楽しめる企画がホームには揃っているので、生き甲斐があるとこのホームから出ているお便りで読んだこともあります。年老いるまで趣味もなく生きてきたけれども、このホームに入所してから趣味を持てたという方もいます。

私の師匠は「余命」という表現にいつも異論を唱えていました。余った命とはおかしな表現だ、というのです。刻々に生きているのだから、余り物の命、残りの命など無い、というわけです。

皆さんは私のような若輩の話でも真剣にお聞き下さるので、私も仏教の話しを伝えさせて頂けた。私は不器用なのでいつもストレートな話ししかできませんが、お聞き下さる皆さんの心の中に、法話を聞かなくても已にお分かり下さる気持ちが溢れているのでお伝えすることが楽なのだと思う。こちらのほうが学ばせて頂ける時間でした。

福祉に関しての政治はどうも改悪されているようで、支払いが多くなり、入所できなくなった方や大変になった方がいるそうです。本当に政治はよくなっているのだろうか、弱者のための政治がなされているのだろうか。永六輔さんの放送を聞いていたら、「社会的弱者に対して、十分な配慮がなされている国こそ豊かな国と言える」(この言葉はちょっと記憶違いがあると思いますがご容赦)というような話をされていましたが、本当にその通りだと思います。税金を福祉のために有効に使える政治家こそ、真の政治家と言えるでしょう。もうすぐ選挙がいろいろとありますが、真の人を選びたいものです。

*ログが簡単ですみませんが、今週こそ風邪に負けずに頑張りたいと思います。皆さんも体調にはくれぐれもお気をつけ下さい。

能登半島地震が発生してしまいました。被害に遭われた方に、お年寄りが多いそうで、どんなにか大変なことかと思います。余震も続いているそうです。お気をつけ頂きたいです。一日も早い復興を祈ります。また少しでも協力したいと思います。

花粉症はチャイで克服?

2007-03-24 23:30:12 | Weblog
【花粉症はチャイで克服?】

風邪の後なので、花粉症症状もひどくなってしまい、お経が誦えられるか心配したのですが、御陰様でお線香の煙にもむせぶこともなく無事に務めることができました。

いつもこの花粉症の季節はお焼香の煙には勿論、お線香の煙にもむせてしまいますので、むせないお香とお線香を選んで使っています。 白檀か沈香であれば大丈夫なのですが、松と杉が主な原料であるお線香やお香は全く駄目です。お経を誦えている途中喉に煙が付いてしまうような状態になるのです。

ご葬儀の場合は、お焼香用のお香を全て白檀か沈香にできませんので、むせんだときのためにコップのお水を用意してもらいます。

しかしこの度チャイを飲んだらよいのではないかと験したところ、結果は良好で全くむせぶこともなく、声がでました。果たして他の方に効果があるか分かりませんが、一応チャイの作り方を書いておきます。

① 香辛料(シナモン、カルダモン、クローブ、コリアンダーなど全て原形、月桂樹の葉、等等お好きに)適当に300CC位の水で煮出す。
② ①に牛乳を適当に入れて暖める。
③ 紅茶は熱湯を小量さして蒸らしておく。
④ ②に③を入れて火を止める。
⑤ 2分位たったら茶こしで漉して、お好みで甘みを入れて飲む。

甘みは私はメープルシロップを使っています。

もうすぐ花粉症の季節も終わりますが、興味のある方はお試し下さい。毎年この季節はお線香の煙に泣いている哀れな花粉症僧ですが、今週はチャイのお陰か大変楽に過ごせました。

何れにしましても免疫力が衰えているのですから、体力をつけるためにも運動を心掛けようと思っているところです。皆さんもお大事に。

繰り上げ初七日反対

2007-03-24 23:27:58 | Weblog

3月24日(土)曇り【繰り上げ初七日反対】

お彼岸までにはなんとか風邪を治すことができました。しかしこの一週間はあまりに忙しく、再び倒れそうな脆弱な自分の体にちょっと辛いところです。日頃からの鍛えが大事なことと反省しています。

さて今日のご法事先は一方通行の多い街で、あやうく交通事故を起こしてしまいそうになってしまいました。今こうして無事にブログを書くことができ、よかったと思っています。

さて今週はご葬儀がありました。子どもたちやご主人や、お孫さんたちのために人生を捧げた婦人のお見送りです。東京や埼玉や千葉方面では、ご葬儀の時に初七日も一緒に勤めることが多いのですが、他の県ではいかがなのでしょうか。

しかしご葬儀だけでも時間が足りないというのに、初七日を引き続いて挙行するということはあまりにおかしいと思うのです。時間的にも無理があるし、繰り上げて初七日を勤めること自体がおかしいと思います。それは此方の人間の都合であり、去りゆく人にとっては、ご葬儀と初七日を混みで済まされてしまうことは、乱暴なお見送りであると、私は思います。

初七日を行わなくてはいけないと考えて、無理矢理ご葬儀に引き続いて初七日をしてしまうよりも、家族だけでもよいから、その日に初七日を勤めた方が誠実だと私は考えます。そしてご葬儀はご葬儀で完結すべきではないでしょうか。

ご葬儀と初七日について、他の地域の状況がわかりませんが、施主の方々にも、葬儀屋さんにもお考え頂きたいことだと、この度あらためて考えましたので、一文を書きました。この度のご葬儀は施主が友人なので、理解をしてもらえましたのでよかったと思っています。有り難いことでした。


千について

2007-03-18 13:57:52 | Weblog
3月18日(日)晴れ【千について】

先月のログで『ダンマパダ(法句経)』の中の「千の章」からの一句を紹介しました。この「千の章」は千に関する語が含まれた句を集めた章であると、フクロウ博士(ひさびさの博士の登場です。実はいつもお教えを頂いているのですが)に教えて頂きました。千だけではなく百に関する句もこの章には多く出てきます。

さて新井満さんの「千の風になって」のCDはかなり売れているようですが、この「千」について『リグ・ヴェーダ』の中の宇宙創造に関する賛歌のなかに「プルシャ(原人)の歌」というのがあるそうで、千に関する記述を見つけました。見つけたといっても立川武蔵氏の『はじめてのインド哲学』(講談社現代新書 1992年11月)を読んでいて出会ったのですが。

「プルシャ(原人)は千の頭、千の眼、千の足をもつ。彼はあらゆる方角から大地をおおって、それよりもなお十指の高さにそびえる。」と。この箇所を読むと、すぐに「千の風」を連想しました。「千の風になって」を書いた人はイギリス人のようですが、イギリスの人の方が日本人よりも『リグ・ヴェーダ』などを眼にする機会が多いと聞きました。もしかすると「千の風になって」の発想のもとに「プルシャの歌」があったかもしれないと、ふと思いましたので、ちょっと紹介してみました。

仏教において揺るがせない教理として、絶対神を認めないということや、不滅のアートマン(我)を認めないということがあります。とすると死んだ後に千の風になるということはありえないのですが、此の世にある者の願いとして、このように歌われることは否定されるべきことではないだろう、と思います。

私自身はインド哲学的なことを理解したり、インド仏教を理解することが実に苦手です。頭の中にそのような回路が無いのではなかろうかとさえ思うのです。それでも僧侶としてなんとか少しでも理解したいものと努力しているのです。中国禅にしても同じことであり、理解するまでに多大な時間を要するのですが、なんとか少しでも理解する努力をしていることを、このログで披瀝しているような次第で恐縮しています。

同年の鈴木ヒロミツさんも、はや先に逝かれました。自分もいつこの生の時間が終わるかもしれません。「生は生きり」です。風邪を引いて寝ている場合ではないのですが、やはり一週間寝込んでしまいました。まだ完治していないのですが、お彼岸なので寝ているわけにもいきません。皆様もくれぐれもお体にはお気をつけ下さい。今週も頑張りましょう。

国家を騙した科学者と国民を騙した起業家

2007-03-17 23:02:21 | Weblog
3月17日(土)曇り【国家を騙した科学者と国民を騙した起業家】

『国家を騙した科学者』李成柱イ・ソンジュ著、淵弘ベ・ヨンホン 牧野出版 2006年10月)という本を訳者からたまたま頂いたので読ませてもらった。副題は「ES細胞論文捏造事件の真相」とある。これを聞くとあの事件かと思い当たる人もいると思う。帯には次のように書かれている。「大統領より権力を持ったソウル大学・元教授黄禹錫ファン・ウソク。その巨大詐欺事件の全貌!」と。

黄元教授の事件については日本でも報道されたが、私は詳細についてはほとんど知らなかった。この書をたまたま読んで知ったのだが、この元教授を国民的英雄に仕立て上げたのはマスコミであった。

昨日日本では堀江貴文元ライブドア社長が懲役2年6カ月の実刑判決を受けたが、彼もマスコミが創り出した時代の寵児ではなかっただろうか。この本の黄元ソウル大学教授と堀江貴文元ライブドア社長といくつか似通った点があることに気づいた。

黄禹錫博士は元ソウル大学獣医学部教授であった。彼は難病患者の再生医療への応用が期待されているES細胞の作成に成功したとして、韓国では神様扱いをされたほどであったようである。「訳者まえがき」に次のようにある。「貧困からはいあがって名声を得たその経歴(略)民族心を刺激する卓越した話術が人々の共感を呼び、伝記の出版やテレビ出演が相次いだ。(略)黄教授の顔は(略)全面広告にも利用され韓国人の自尊心や愛国心と直結する存在になった。マスメディアは先を争って黄博士の神話作りに貢献し、彼が偉人であることを疑う者は韓国という国から消えた。」

著者が問題とするところは、新聞やテレビ番組などのマスコミがこの教授が次々に打ち出す裏付けのないアイデアや論文に対して、科学としての検証をせずに鵜呑みにしたことであろう。教授は「科学的には理解不能な話を適宜に使い分け、政府、マスコミ、国民、そして患者を騙してきたのである。」それをマスコミが誇大に美辞麗句で飾って、黄教授の業績として国民に宣伝したのである。その結果、政府からは百五十億ウオン以上が彼の研究費として支援されたり、多くの支援者からの寄付金が彼の元に集められたのである。

そのお金は研究にはそれほど使われなかったようで、政治家のパーティなどに出席した折りには多額の寄付を教授は出していることが、著者により調べ上げられている。また記者たちの高額な飲食代も教授が払っていたことが書かれている。

BSEにかからない牛をつくるという教授の言葉にもまんまと騙されて、政府は「第一回最高科学者」として教授を選定している。しかし教授の言は全くの嘘で、ES細胞に関しても共同研究者から一つもなかったことが暴露されて、ようやく失脚することになったのである。

それでも教授の熱狂的な支援者たちは、教授を陥れる為の陰謀と信じる者もいて、抗議の自殺を計った者さえでたほどであり、未だ教授を信じている人もいるようである。

口のうまい詐欺師と、それに乗って詐欺師を英雄に見せるマスコミと、それに乗ってしまう民衆の三者がそろえば、詐欺は見事に成立してしまうだろう。国も騙され、国民も騙されてしまったわけである。このような現象は韓国特有なことではないかと、著者も言い、私もそう思った。しかしこの本を読み終わった二,三日後に堀江貴文元ライブドア社長の裁判があったので、この事件との類似点にあらためて考えさせられた。

その最たることは、やはりマスコミの責任についてであろう。ライブドアの粉飾決算が問題にされる前は、ホリエモン、ホリエモンと騒ぎ立てて、時代の寵児と祭り上げたのはマスコミである。そのマスコミにあおられて人々はライブドア株を買い、ホリエモンは自社株をどんどんつりあげて持ち株を売っては大儲けをしていたわけである。これは詐欺であろう。(フジテレビとの乗っ取り騒動では、400億円儲けたそうだが、これらのマネーゲームを詐欺といえるかどうかは別として)詐欺の片棒をマスコミが担いでいたとさえ言える事件である。

黄教授やホリエモンのせいで、科学に対しての人々の情熱やベンチャー精神が消えることのないようにと思うが、マスコミもやたらに詐欺師を持ち上げないように気を付けて貰いたいと思う。また現代を生き抜いていくのに、マスコミを簡単に信じることは危険であることを知っていた方がよいと思った次第である。

*この書の著者、李氏は元新聞記者であったが、記者としてはこの事件に関して自由に物を言えないとして新聞社を退職までして、この書を書き上げたのである。科学方面の豊富な知識と、おそらく膨大な資料を調べ上げてこの書を書き上げたのであろうと推察される。科学的なことにおいても、マスメディアの動きについても、この問題に限らず示唆を受けることの多大な一書といえよう。是非ご一読を。

週の始めは何曜日

2007-03-11 18:15:13 | Weblog
3月11日(日)午前中雨、昼過ぎより雨上がる【週の始めは何曜日】

日曜日ははたして週末であろうか、それとも週の始めであろうか。あらためて調べてみました。すると日曜日を安息日と思っていましたが、安息日の原語からできた語は土曜日であり、ユダヤ教では安息日は土曜日となっているそうです。

キリスト教では週の始めは日曜日とされているそうです。これは「キリストの復活」にその理由があり、イエス様がゴルゴダの丘で処刑されたのが金曜日、それから数えて3日後つまり日曜日にに復活されたので、週の始めは日曜日ということになるのだそうです。これは『ルカ伝』に「一週の初の日」として復活の日曜日のことが書かれていることによっているそうです。

今各国で使われているグレゴリウス暦はキリスト教(カトリック)の暦であり、日本も明治6年(1873年)1月1日から導入されています。ですから日曜日を週の始めとしていることになります。

今日は少し風邪気味ですので、ログに書きたいことがあったのですが、大事をとってもう寝ることに致します。皆さんも気温の変化がこの頃はありますのでくれぐれも体調にお気をつけ下さい。今週も頑張りましょう

*因みにイスラム教国では安息日は金曜日だそうです。銀行もお休みですからイスラム圏へのご旅行にはお気をつけ下さい。

純真を学ぶ

2007-03-10 22:44:43 | Weblog
3月10日(土)晴れ【純真を学ぶ】

今日、13回忌の法事でお伺いしたお家に到着した途端に、「庵主さんに言われたとおり、孫が生まれました」「以前いらしたときに、心配しないでも生まれますよ、と言って貰ったのですが、御陰様で二人も生まれました」とその家のご主人に言われた。

以前というのは6年前の7回忌のことである。どのような状況で言ったのかも覚えはないのだがお褒めにあずかったようで嬉しかった。法事の席に4歳になるという坊やと2歳の女の子が並んで座っていた。坊やは自分のお名前もきちんと教えてくれた。

そしてお経の間にお焼香を回すと、「ありがとう」という声が聞こえた。「曾お祖母ちゃんありがとう、っていう気持ちでお焼香をしてね」と、いつものように説明したのだが、やはりこの坊やも自然に声に出して「ありがとう」と言ってくれている。

また観音様の名号を一緒にお唱えしたら、坊やの声が聞こえてきた。別に強制もしていないし、坊やも一緒にと言ったわけでもないのだが、自然にお唱えしてくれているのである。

祖父母の家を訪ねてくるたびに、お孫さんたちはいつも仏壇に手を合わせているのだという。「この子たちのママが小さいうちから、そうさせてくれているんですよ」とお祖母ちゃんは嬉しそうに言った。やはり日頃の積み重ねが、自然に子どもを育てているのだと思う。法事は坊やが生まれてから初めてのことなのだが、4歳でも一緒に法事を勤められることに、私は感心してしまった。

素直な真っ直ぐな心を、幼い子どもから教えて貰うことが多い。少しでも見習いたいと思った。ところで2歳の妹さんは、と見るといつの間にかお経を子守歌に気持ちよさそうに眠っていました。

平常心是道について、補足

2007-03-08 16:38:28 | Weblog
3月8日(木)晴れ【平常心是道について、補足】

3日のログで平常心是道について少し書いたが、その考えはまったく不十分であった。馬祖の平常心是道について学んでみて、南泉の平常心是道についても参究の角度が一面的であったと思うので、補足しておきたい。また「不知は是れ無記」の訳も考えてみたので、書き添えておきたい。(自身がなかなか納得がいかなかった言葉です)

〈訓読〉
異日南泉に問う。如何なるか是道。南泉曰く、平常心是道。師曰く、還はた趣向すべきや否や。南泉曰く。向かわんと擬すれば即ち乖そむく。師曰く。擬せざる時、如何いかんが是れ道なるを知るや。南泉曰く。道は知と不知とに属さず。知は是れ妄覚、不知は是れ無記。若し真に不疑の道に達せば、猶お太虚は廓然として虚豁なるがごとし。豈に是非を強しいるべきや。師、言下に理を悟る。
〈試訳〉
(趙州は)後日南泉に尋ねた。「道とはなんでしょうか」。南泉は答えた。「平常心が道である」。師(趙州)は尋ねた。「目的を定めたほうがよいでしょうか」。南泉は答えた。「目的を定めるならば途端にはずれてしまう」。師は尋ねた。「目的を定めないで、どうして道であることを知ることができるでしょうか」。南泉は答えた。「道は知とか不知とかに属さない。知とは誤った分別であり、知らないということは意識を働かせないことでボンヤリとしていることだ。もし、本当に目的を定めない道に到達したならば、ちょうど大空のように、からりとし、ひろびろとしているようだ。どうして是とか非とか敢えていうことができようか。師はその言葉でただちに悟った。

平常心は道であり、道は、分別しない、価値判断に属しないことを、「知は是れ妄覚」と謂われている。「不知は是れ無記」とは無記はどうも訳すのに手こずったのだが、ここでは妄覚と対しているので、やはりうけがわれないことを意味しているのであるから、意識を働かせないこと、ボーッとしている状態と訳しておきたい。(因みに石井修道先生は「意識の無いこと」と訳されていらっしゃる)

道元禅師は「不染汚といふは平常心是道なり、吾常於此切(吾常に此に於いて切)なり」と「神通」巻で謂われている。これはよい、あれは悪いなどと価値判断をしない、是非を論じないこと、これを平常心是道というのだといわれていると解釈してよいだろうか。当然であるが、「坐禅をして悟る」などということは誤った考えということである。そうであるから、ひたすらなる修行ということになるのであろう。

また馬祖は示衆として平常心是道について南泉よりも詳しく語られている。南泉との違いをこの言葉から読み解くことは、私には現段階で難しいので、むしろ馬祖の丁寧な示衆からもう少し平常心の理解を付け加えたいが、それは後日をお待ち頂きたい。

「平常」とは「自性寂靜」をいい、「心」は「一心」を意味している。単に修行する日々の心としたのでは、全く意味が充分ではなかったので、これだけ現段階では補足しておきたい。

*後日、馬祖の「平常心是道」を参究しますので、気長にお待ち下さい。しかし禅語は一筋縄では解釈ができません。もう少し易しく、分かりやすいとよいのですが、私にはかなり難しいです。

趙州洗鉢の教え

2007-03-04 20:06:32 | Weblog
3月4日(日)晴れ暖か【趙州洗鉢の教え】

昨日に引き続き趙州禅師の洗鉢の話を、宏智正覚わんししょうがく禅師(1091~1157)の『宏智頌古百則』第39則「趙州洗鉢」から考えてみたい。

〈原文〉
挙僧問趙州。学人乍入叢林。乞師指示。州云。喫粥了也未。僧云。喫了。州云。洗鉢盂去。
 頌曰
粥罷令教洗鉢盂。豁然心地自相符。而今参飽叢林客。且道其間有悟無。
〈訓読〉
す。僧、趙州に問う。学人がくにん乍入叢林さにゅうそうりん、乞う師、指示せよ。州云く、喫粥きっしゅくし了おわれるや。僧云く、喫し了る。州云く、鉢盂はつうを洗い去け。
 頌に曰く、
しゅくおわれば鉢盂を洗わしむ。豁然かつねんとして心地自おのずから相い符す。而今にこんに参飽さんぽうす叢林そうりんの客。且しばらく道え、其の間に悟有りや無しや。

〈試訳〉
話を取り上げる。一人の僧が趙州に尋ねた。「私は叢林に最近入ったばかりのものです。どうぞ、私にお教えを願います」。趙州は言った。「朝のお粥は食べたかね」。僧は答えた。「はい、食べました」。趙州は言った。「それでは鉢盂を洗って来なさい」。
 頌
粥を食べ終われば鉢盂を洗わせる。それで僧の迷いはにわかに晴れて、心境は自然と悟りと一つになった。今叢林には充分に学び得た僧たちが訪れてくる。さあ、言ってごらん、そこに悟りがあるかないか。

南泉から「平常心是道」を学んだ趙州は、趙州の元に参じてくる雲水たちに親切心を尽くして導いている。趙州の禅は口唇皮禅こうしんぴぜんといわれる。臨済の喝、徳山の棒などとそれぞれの禅師の接化の特徴が表現されるが、趙州は口唇を使っての接化が特徴である。八十を越えてから、参じ来る雲水たちを教え導く姿を思い浮かべれば、まさに 口唇皮禅が合っているだろう。しかしその言葉はそれぞれの力量を見抜いて、常にピタリとそれぞれに合った言葉であったろう。

この僧も叢林に入ったばかりの者ですが、と言っても、あちこちで修行し、道を求めてきた僧であるから、「平常心是道」と「鉢を洗っておいで」が同義であることを分かることができたのである。漫然としていてはそれはないだろう。日々の修行を怠りなく平常心、是道として歩んでいればこそ、このハタと会得するところがあるのであろう。

それを宏智さんは、その頌の2句目に詠んでいる。この僧は趙州の言葉に覚るところがあったのである。3句、4句は宏智さんの元に参じている僧や、あちこちの叢林の僧たちに対して、お前さんたちはさあどうかね、と問いであり、激励を投げかけていると、私は受けとっているのだが、果たしていかがであろうか。

今夜は満月、先刻までまんまるの姿が見えたのに、雲に隠されてしまった。しかし雲の上にはお月様は変わらずに輝いている。ただ今は見えないだけのこと。来週も頑張りましょう。(一週間は日曜日からスタートしますか、それとも月曜日から。日曜日は安息日でありたいので当庵では月曜日からとします)。

*参飽:飽参に同じ。充分に会得した、という訳が『大漢和辞典』などにあるが、私はここではあちこちと参じて充分に学んだ、という意味にしました。