風月庵だより

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衆生病むが故に

2008-03-28 16:48:04 | Weblog
3月31日(月)雨【衆生病むが故に】(祖師谷公園・ワシントン桜:ポトマック河畔より日本に里帰りした桜)

三月も今日で幕引き、今月もいろいろなことのあった月でした。なかなか書けませんでしたが、ご訪問くださる皆様には申し訳ありません。

幼少期少し苦労がありましたので、若い頃は、世の中はだんだんに良くなっているのだと思っていました。また修行時代はテレビも新聞も読む時間はありませんでしたし、世の中の動きは、あまり分かりませんでした。しかし、世の中のニュースを目にするようになって、世の中は悪いままか、もしくは益々悪くなっていることが多いと実感をしています。だんだんに世の中は良くなる、という幻想を抱いていた認識不足を恥じるばかりです。

チベット問題にしても、ビルマのことにしても益々状況は悲惨になっています。今も自由を願う一市民がこの地球の上で殺戮されていることでしょう。イラクでもイスラエルでもアフリカでもアフガニスタンでも。

また家族が家族を殺すような悲劇は、ほんの少し前の日本ではほとんどなかったのではないでしょうか。また誰でもよいから殺すなどということは、考えられないことでした。ホームから突き落とされて突然殺されてしまうことなど、誰が自分の身に起きると想像することができたでしょうか。

「世の中はだんだんに悪くなるな」「人間はだんだんに悪くなるな」と師匠が言われた言葉が妙に脳裡に残っています。癡や有愛は一番人間の欲望として根源的であり、お金や権力に執着したりすることは、釈尊の時代も、その後も、今も、少しも変わってはいないことをあらためて認識している日々です。『維摩経』の「衆生病むが故に我病む」という言葉を、以前は維摩居士という方はさすがに深く悟った方だから、人々の病いさえ引き受けていらっしゃる、と他人事と思っていましたが、自分への言葉でもあると痛感しているこの頃です。

僧侶には自分の幸せとか、不幸せとか問題外であること。自分が楽しく生きるということも問題外であること。楽しめることなどは本当はできないのだとあらためて思う日々です。

維摩詰言く、「癡と有愛うあいとより則ち我が病生ず。一切衆生病めるを以て,是の故に我病む。若し一切衆生の病滅すれば則ち我が病滅せん。(中略)衆生病むときは則ち菩薩も病み,衆生病愈ゆれば,菩薩も亦愈ゆ。又「是の疾,何所に因りてか起れるや」と言わば「菩薩の病は,大悲を以て起れるなり。」と。(『維摩詰経』巻中「文殊師利問疾品第五」)

維摩詰言「従癡有愛,則我病生。以一切衆生病,是故我病。若一切衆生病滅,則我病滅。(中略)衆生病則菩薩病,衆生病愈,菩薩亦愈。又言是疾,何所因起。菩薩病者,以大悲起。」

*癡:ものの道理のわからぬこと。迷いのはたらき。愚かさ。無知。(中村元著『仏教語大辞典」) 
*有愛:生存に対する執着。もろもろの渇愛。物に対する執着の心。(同上)

法事の席で、わずか2歳の童子にでも、その子に向けて法話をしていますが、それぞれがなにかできることを勤めて、世界を支えていこうではありませんか。希望を捨てず。

*この頃は一ヶ月に一回ぐらいしかログをUPしませんが、まだ継続しようと思いますので、たまにご訪問頂ければ幸甚です

ラサの決起

2008-03-15 19:48:44 | Weblog
3月15日(土)晴れ【ラサの決起】(ポダラ宮:撮影平子泰弘師)

昨日14日チベットのラサで、大規模な抗議行動が起こされたという。中国がチベットを侵略してより49年(1959年ダライ・ラマ14世がインドに亡命)、チベット民族が、この侵略によって、その生活がどれほど脅かされているのかは想像もできない。そして、装甲車が群衆に突入するという行きすぎた弾圧に対して、チベット族の僧侶や人々がさらに決起して大きくなった抗議行動であるという。

チベット人に対しての弾圧はかなりひどく、チベット人の生活はやはり困窮しているようである。かつてチベットの人々が平和に暮らしていた地に、多くの漢民族が移住してきていて、チベットの中華化が進み、かつてチベットの主人であった、チベットの人々の生活は脅かされている。ポタラ宮殿やチベットの人々は、観光による収益を得るために、利用されているにすぎないのだろう。

中国はインドとの国境紛争に優位に立つために、是が非でもチベットをその傘下におさめたい事情があろう。また鉱物資源のこともあるだろう。決して、チベット民族を救うためでないことは明白なことである。

この度もこの抗議行動を起こした中心に、ビルマと同じようにやはり僧侶の姿があった。これまでにも何回も抗議行動は起こされているが、この度はテレビ映像も流されて、世界に報道されたので、私たちも知ることになったのである。わずかに報道される映像に、濃い臙脂色の僧服がめだっていた。「ラサで暴動」と表現しているが、「暴動」ではなく「抗議行動」であろう。チベット民族が平和に暮らしていた土地に、侵攻してきて勝手に占領侵略し、暴挙を働いているのは中国のほうである。

中国を訪れた時、テレビで「西蔵自治区」で活躍し、勇敢に戦って死んだ英雄物語が放映されていたが、中国の一般の人々はこのような教育を受けて洗脳されてしまっているのだろう。自分たちの民族がチベット民族に対して行っている非人道的な政策などについては、おそらく多くの中国の人は知らないのではなかろうか。

ダライ・ラマ14世はチベットは独自には国として大変なので、中国の自治区でよいのだから、チベット人によってチベットを統治させてほしいと望まれているようである。そのような方法でこの問題の解決の道はあるのかもしれない。平和的な解決の道を中国政府も考えてはどうなのだろうか。チベットの人々を虐殺するよりも。

この抗議行動によって、おそらく80人以上が殺害されたという。中国政府の発表は10人であるが。その中には、ビルマの時と同じに、僧侶もおそらく含まれているのであろう。

ビルマの軍事政権を後押ししているのも中国政府である。日本の侵略を弾劾する一方で、自らも他国を侵略したり、人民への圧政を応援していることは全く矛盾している。地球上からこのような過ちの正される日が、必ずや来ることを願って願ってやまない。地球人類が滅亡してしまう前に。

かつて孔子や孟子等々、また多くの優れた仏教僧、特に禅僧、馬祖や趙州や南泉や雲巖や洞山や雪峰や臨済や黄檗や、等々を生み出した智慧の宝庫中国、賢者の故郷中国、世界を平和な国に導く導師としての役割を十分に担えるはずの中国であるはずだ。真の賢者が政治の中心で活躍してくれる日の来ることを願ってやまない。

諸仏、諸菩薩、諸天善神、龍神、全て、チベット僧の方々をはじめ、チベットの人々をお守りください。

*チベットと中国の攻防の歴史については、Wikipediaのチベットの項をご参照ください。

*この度の中国政府のチベットに関する報道を観て、中国政府の欺瞞が明白となった。一国の指導者たちが、デタラメを厚顔に報道している姿を見て、中国政府は信用できないことが明白となった。毒入り餃子の問題についても然りであるが、堂々と不正義が横行していることを嘆くしか方法はないのだろうか。

余暇と趣味

2008-03-10 23:20:48 | Weblog
3月10日(月)久々の雨【余暇と趣味】(数年前母と訪れた仏オルレアン)

私の師匠は「余生」という言葉はおかしいとよくおっしゃっていました。「余った人生などあるものか。最期まで全分の人生じゃろう」とおっしゃるのが口癖でした。「全分」という表現は、禅的には全部を意味します(一般的には「全てに分ける」というような意味)。刻一刻、全て命の働き、人生ですから、定年退職した人や、それを送る人が「余生を」などと言うたびに、「余った人生などあるのかなあ」とおっしゃっていたのです。

このログの題は「余暇」ですが、それと同じ事で、「余った時間などあるのかなあ」と言われてしまいそうですが、ここでは『広辞苑』には「自分の自由に使える、あまった時間。ひま。いとま。」。ユニークな『新明解』には「仕事と仕事の間の、ひまな時間。レジャー」と書いてあるように「仕事やなすべきことをして、自分が自由に使える時間」というような意味で使わせて頂きましょう。ということで、一日のうち、自由に使える時間は人それぞれでしょうが、私は、夜の9時か10時くらいになりますと、ようやくなにか自由に使える時間になります。これを一日のうちの余暇と呼びましょう。忙しくなさっている方からみれば、かなり余暇のあるほうかもしれません。

この3ヶ月ほどはこの余暇を使いまして、書道に打ち込んでいました。書道は私の唯一の趣味です。この4月に東京都美術館で所属している書道会の書作展があり、それに出品する作品に取り組んでいました。6尺という長さの大きい作品で、40文字を書き入れます。

呉襄という人の五言律詩で、そのなかには「趙州」という字も入っています。禅宗の歴史のなかで、馬祖道一ばそどういつ(709~788)の弟子南泉普願なんせんふがん(748~834)の弟子趙州從諗じょうしゅうじゅうしん(778~897)は大変にユニークな方です。年齢からして驚きですが、世寿120歳です。

「趙州喫茶去」の話は特に茶道をなさっている方で知らない人はいないでしょう。この話については以前当ログに書いたことがあります。まあ、なんとかこの趙州 という字だけでも思うように味のある字を書きたいものと思い、毎日毎日書き続けました。欲を言えば、40文字全て、パーフェクトに書きたいところですが、残念ながら未熟ですから、この字が良ければあの字が悪し、あの字が良ければこの字が悪し、で思うようには一枚の作品として書けません。

時には筆を持ちながら、眠ってしまっていることもありました。そんなにして頑張りましたが、ついに時間切れになり提出の期限が来ましたので、「これまで」と諦めて提出しました。無心に書き続けた数ヶ月が終わりました。

さあ、これからは「余暇」を何に使いましょう、と思うまもなく次の予定が入っています。皆さんはどのような趣味をお持ちですか。「余った時間などなかろう」と師匠の声が聞こえてきそうです。

しかし、人生は短いのですから、のんびりと空を眺める時間を失わないようにしたいものです。空を眺められるのは、この世に命のある間かもしれません。空のなかに入ってしまっては、眺めることはそのときはできないかもしれません。自分が自分の顔を絶対に見られないように。