風月庵だより

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光風春を動かす

2011-02-23 10:10:31 | Weblog
2月23日(水)晴、暖か【光風春を動かす】

昨日も、今日も、東京は、暖かいです。すっかり春の陽気です。今まで、立春はとっくに過ぎましたのに寒かったですから、余計に暖かく感じます。しかし、立春にしても、全て、旧暦の月日をそのまま使っていますから、本当の季節にピタリあっていないですね。旧暦でいえば、新暦の3月の10日くらいが立春でしょう。

さて、写真の字は、恐縮ですが、久しぶりに筆を持ちました。この言葉が、とても気に入りましたので、ご紹介します。光風は辞書で引きますと、「雨上がりに光を帯びた草木を吹き渡る風」とありますが、「春光うららかな時に吹く風」ともありますので、この頃はなかなか雨は降りませんが、昨日も今日も、いかにも春光うららかな感じの気候です。風も気持ちよいです。いかにも春を呼んでくれるような感じです。

この語句は、そのようなここちよい陽気を表現していますので、さらに「心の高明寛大な事」を形容するそうです。「温日弁」という人の言葉だそうです。ちょっと調べましたが分かりませんでした。台湾の方ではないかと思うのですが、どなたかご存じならばお教え下さい。

またこの語は、よく書で書かれる言葉のようで、「光風動風」で検索して頂けますと、立派な書をご覧になれます。無断でそれを掲載できませんので、このブログでは、私の書でお許しを。

如浄禅師の「梅開早春(梅早春を開く)」と相通じる感じですね。「梅開早春」の方は香りを感じますが、「光風動春」は言葉通り風を感じます。

話は変わりますが、昨日は、ニュージーランドで大きな地震があり、多くの犠牲者や被害が出ているようです。不明になっている方が一人でも多く救出されますように。

捨てがたい物

2011-02-21 20:35:28 | Weblog
2月21日(月)晴、まだ寒し【捨てがたい物】

写真の品は、私が剃髪に使っている電気剃髪器です。PanasonicのES444というヒゲ剃り器です。師匠が長い間お使いになったのを、私が頂いてから16年くらいになります。師匠の使用期間を入れますと、20年以上は、確実に活躍してくれています。それが、去年あたりから、電源が時々入らなくなり、叩いたりしてなんとか動かして使ってきましたが、ついに動かなくなりました。

それで、製造元に送って、修理を依頼しましたが、1995年に生産を終了していて修理に対応できないという返事がきました。

送料はかかりましたが、なんといっても師匠から頂いた愛着のある品ですから、送り返してもらいました。

しまっておこうかと思いましたが、それでもと思い、自分で分解してみました。もしかしたら奥の方まで剃った毛が入ってしまっているのではないかと思い、分解してきれいに掃除をしてみました。

しかる後に、電源を入れてみました。

なんと、一回で電源が入りました。かくてまた、私の剃髪器としてしばらく動いてくれることになりました。

という他愛もない話です。

(一枚刃のシックがこの頃、売っていないので困っています。どこかにシックの本体が売っているところをご存じの方はお教え下さい)

お願いがあります

2011-02-18 15:47:45 | Weblog
2月18日(金)晴、強風、今夜は満月【お願いがあります】

今日、税務署に確定申告に行ってきました。今までは3月の締め切りギリギリに行っていたので、混んでいましたが、今日はすぐに済みました。早い方がいかに空いているか、ということを実感しました。

一年に一度の税金の申告ですが、これが済みますとホッとします。日本国民としての義務を果たしたという感じがあります。たとえ多少なりとも、この国の運営の責任を果たしているような感じです。大袈裟のようではありますが、現代日本が戦争もなく、政治にさえ言いたい放題を言うこともでき、食べるものにも、なんとか困らずに生きていけることは有り難いとつくづく思っています。

もし、戦火の絶えないイラクやアフガニスタンや、軍事政権の圧政のもとのミャンマーや、飢餓に苦しむ北朝鮮のような国に生まれていたなら、本当に大変な一生だったと思います。現代日本の平和は、なんとしても守りたいと思います。

さて、お願いと言いますのは、ミャンマーからの難民のアウン・タン・テイさんと叔父さんの一家に、できましたら支援して頂きたいというお願いです。2月6日の深夜、住んでいたアパート(荒川区西日暮里)が全焼してしまい、難民認定証をとりだすだけがやっとだったそうです。

アウン・タン・テイさんは、この4月から難民高等教育プログラムの奨学制度で大学に入学することが決まっています。そのための日本語の勉強やパソコンの学習にも取り組んでいましたが、日本語試験のためのノートもパソコンも家財道具も一切を失ってしまったそうです。

もしご協力頂けますようなら下記にご支援下さいませ。なお、この寄付は、寄付金控除の対象になりますので、領収書が後から届きますから、確定申告のときに控除になります。(今年から寄付金控除が去年より8000円多く認められるようになりました。)

ゆうちょ銀行:00180-7-25470 加入者名:社会福祉法人さぽうと21

通信欄にアウン・タン・テイさん支援とお書き下さい。タン・テイさんまたはタンさん支援だけでも分かります。社会福祉法人さぽうと21は「難民を助ける会」の学生を中心に支援する団体です。

宜しくお願い致します。

太和と大和

2011-02-16 19:00:54 | Weblog
2月16日(水)晴【太和と大和】

一昨日の夜は東京も銀世界になりました。しかし、今日はほとんどとけてしまいました。それでも、雪に慣れない東京では、70人以上の人が怪我をしたそうです。

さて、校正のお話のついでに、中国の年号である「太和(たいわ)」と「大和(だいわ)」について書いておきたいと思います。

問題は唐代の827年から835年までの年号です。この頃活躍した禅僧は多いので、文宗が皇帝であったこの年号はよく中国禅僧史には出てきます。それで『東方年表』(平楽寺書店)によりますと、「太和」というように「太い」のほうの「太」が書かれています。この年表はかなり使われています。私も指摘を受けるまでずっと「太和」と書いてきました。

しかし、唐代の827年から835年までの年号は「大和」が正しいのだそうです。これは駒澤大学教授の石井修道先生にお教え頂きました。中国中世史ご専門の吉川忠夫先生も指摘なさっているそうです。(吉川先生の著作も多いので、どこにそれが書いてあるか、また出会いましたら書き足したいと思います。)

ウィキペディアでも調べましたら、太和の項に次のようにありました。

太和 (魏):三国時代、魏、明帝曹叡の元号(227年-232年)
太和 (後趙):五胡十六国、後趙、明帝石勒の元号(328年-330年)。
太和 (成漢):五胡十六国、成漢、後主李勢の元号(344年-346年)。
東晋の廃帝司馬奕の元号。366年 - 371年。太和 (東晋)を参照。
太和 (北魏):南北朝時代、北魏、孝文帝元宏の元号(477年-499年)。
太和 (新羅):新羅の真徳女王の年号(647年-650年)。
唐の年号大和の誤記。文献上で多く見られる。

大した違いではなかろうと、言われそうですが、日本の大和時代は太和時代とは書きませんし、日本の「大宝律令」を「太宝律令」とは書かないことと同じですので、やはり唐時代を勉強するには知っておいてもよいかと思います。自分は全く知らない知識でしたので、当ブログの訪問の皆様と共有する知識として書かせて頂きました。点があるか、無いか……丸に点が無ければ九ですから……
やはり点といえども大事と言えましょうか。

昨日今日と、『般若心経』の解説に多少なりとも取り組みましたが「是大神咒、是大明咒」が「是太神咒、是太明咒」ではやはりおかしいですから、一点といえども大した違いということもできます。

一点についてブログを書く暇があったら、一点(約25分)でも坐禅をしなさい、と言われそうですね。寒いですから、暖かくして坐禅に親しみましょう。

右はルナ、左はキヨちゃん、二匹が並んでなんとなく面白い。






貫首と貫主

2011-02-12 12:21:10 | Weblog
2月12日(土)曇り【貫首と貫主】

今日はとても寒いです、東京は。雪も少し積もっています。しかし、大雪の地域に比べましたら、なんの文句もありません。我が家のルナは寒いせいか、炬燵の中で丸くなっています。玄関を開けますと、日頃は一目散に走ってきて、外の廊下にでるのが大好きなようなのですが、今朝はなんの反応もありません。よほど寒いのでしょう。

さて、校正の話のついでに、貫首と貫主について、書いてみます。

曹洞宗では永平寺貫首、總持寺貫首、というように「貫首」と書きます。
清水寺は「貫主」です。また宗派によって、宗派の長になる方の尊称やその漢字も違っています。その宗派に属している僧侶でしたら、知っていることでしょう。

しかし、私は、正直に申し上げますと、自分の著書『雲と風と月と』の中で、この漢字を間違いました。私の本師は總持寺の「副貫首」になった方ですが、その字が「副貫主」となっていまして、本ができ上がりましたときに、気が付きました。他には一箇所記載内容の間違いがありましたが、文字の校正ミスはこの文字だけでした。よりによって、この文字を間違えたのです。

とにかく校正は一人でも多くの目で見て(読まないで)、校正することがよりミスの少ない本を出版するためには、必要な作業です。ただ、その校正も校正したことによってかえって間違うということがありますので、著者に最後に確認することが、丁寧な校正ということになるでしょうか。

細かいことです。こんな事を書いている間に、エジプトでは、300人以上の殉教者を出しましたが、ムバラク大統領がついに退陣することになりました。エジプトの人々にとって、本当に民主主義と人々の生活が、楽になるような政治体制が、築かれますようにと願わずにはおれません。

日本も、多くの人々が職を失っている状況は、エジプトほどではないにしても、かなり深刻な状況です。エジプトでは自死に追い込まれるほど孤立し、孤独な状況に追い込まれていないでしょうが、日本では孤立してしまっている人が多いようです。日本政府は、よほどしっかりとした経済政策を考えなくてはならない筈です。また宗教者も自死に追い込まれる人や孤立している人に手を差し伸べたいものです。

私は何もしていないのが心苦しいです。ただ道で出会う人や、周りの人に声をかけているだけです。そのうちにこちらのほうが、声をかけてほしい立場になることでしょう。

前後際断でも前後裁断でも、そんなことどうでもいいじゃない、といわれそうですね。しかし、貫首だろうが貫主だろうが、そんなこと……と言いますと、こちらの方はちょっと宗門人として顰蹙を買ってしまうことでしょう。こちらはきちんと押さえておきましょうか。

とにかく生きてさえいれば、息をしていさえすれば、それだけでもいいじゃないと言った友人がいます。
皆さん、寒いですから、くれぐれもお体お気を付けてお暮らしください。

炬燵の中のルナ


前後際断と前後裁断

2011-02-10 11:07:15 | Weblog
2月10日(木)晴【前後際断と前後裁断】

最近友人から頂いた小冊子に「前後裁断」という言葉が出てきました。前と後ろを断ち切る、ということになるでしょうか。しかし、過去と未来が断絶していることを意味するとしたら、『倶舎論』にも出てくるようですが、前際は過去のこと、後際は未来世のことで、これを断じる、ということになりますから「前後際断」のほうが、仏教語としてはよいようです。

道元禅師の『正法眼蔵』「現成公案」巻にも出てきます。
「しるべし、薪は薪の法位に住してさきありのちあり、前後ありといへども前後際断せり」

もう少し「前後際断」の意味を考えますと、単に過去世と未来世が断絶しているのではなく、「過去と未来を対立的にみる見解を截断して、絶対の現在に生きることをいう。」と『禅学大辞典』に書かれています。

なんとも仏教語は難しいですね。私も長い間「ぜんごさいだん」と聞きますと「前後裁断」だと思っていましたし、意味も単に過去と未来を裁断して、たった今に生きることくらいに理解していました。

多くの仏教語や特に禅で使われる言葉は、難しくて、言葉に振り回されてしまい、そこで仏教を学ぶことに突き当たってしまうことにもなると思います。それこそ辞書を手にしながら、一々言葉の意味を確認しながら、学んでいかなくては意味を全く取り間違ってしまうこともあります。

この小冊子の文字はもしかしたら、校正ミスかもしれません。そういうこともありますので、あまり多少の文字の違いに目くじら立てることもないですし、その人の言いたいことを理解することのほうが大事だと思います。

ただ、お坊さんは仏教を学ぶプロですから、やはり「前後際断」という言葉や漢字も知らないと困ることもありますね。私も知らない言葉がたくさんあって本当に大変です。

さて、風邪が流行っているようです。くれぐれも皆さん、お気を付けください。



校正作業

2011-02-08 21:08:17 | Weblog
2月8日(火)曇り【校正作業】

このところ校正の仕事で頑張っていました。校正はいくらしてもきりが無いとさえ言えます。もう校正ミスはないだろうと思っても、意外なミスがあったりします。

一冊の本としての統一などの手直し、さらに文章の推敲など、初校校正の折にほぼできたかと思っていました。やれやれこれでやっとこの仕事から解放される、バンザイ、と思っていました。

しかし、再校が手元に届きましたら、初校の校正チェックだけで終わりかと思っていましたのに、やはり、統一しきれていなかったところに気が付いたり、内容のさらなる確認作業をしたくなりますし、やはり文章の推敲がしたくなってしまうのですね。

初校で50%、再校で30%、3校で10%、その他10%という作業でしょうか。

おそらく今年のうちには出版して頂けるのではないかと思いますが、また出版されましたら紹介させて頂きます。何ごとも出来上がったときでないと確実なことは言えません。

この本をまとめるために、だいぶ時間がかかりましたが、本作りは校正こそ命、と思います。校正の方法を研究所でもだいぶ教えてもらいましたが、一昨年自分の本を出版するときに、中央公論事業出版の担当の方に随分お教え頂きました。

今回の本作りでも、それがかなり役に立っていると思います。

まだ統一しきれていないと思うのが、一つの言葉で漢字にするかひらがなにするかの統一、例えば「分かる」か「わかる」か、や、禅師をつけるかつけないか、ルビは初出の文字にふっているかどうか etc.

中国の年号で、太和か大和かという問題もあります。唐時代は大和(827~835)が正しいのだそうですが、『東方年表』でも「太和」になっています。しかし、北魏時代は「太和」でなくてはいけないのに「大和」になっていたのを校正したりします。

また今回は史伝資料では、勿論新暦の年月日ではないのですが、それを『日本暦日原典』を使って、祖師の卒年だけユリウス暦で計算しなおしてみました。そうしますと860年の卒年とされていたのが、861年が新暦としては正しいということになる場合があります。

達磨大師は、幾つかの説がありますし、10月5日が達摩忌として定着していますから、あえて新暦計算はしませんでした。しかし、初校の段階で、お一人の祖師の新暦計算をし忘れていました。勿論、校正の段階でやりなおさなくてはなりませんが、それに集中していたときはよいのですが、頭をそれに戻すのが、面倒でしたし資料も探さなくてはなりません。

再校もやはり時間のかかる作業でした。しかし、3校は、……、おそらく簡単!!!の筈ですが、果たして……

それはまた3校が終わったときに報告します。
とにかく、一段落すみましたので、今日はホッとしています。

やはり出版する以上は、読者の皆さんにとって読みやすい良い本にしたいですから、昨日は、真夜中まで、つい作業をしてしまいました。ふと気が付くと、ルナがパソコンの蔭で寝ていました。どうも私の仕事が終わるのを待っていてくれたように思います。

お疲れ様、ルナちゃん。

また猫のことですが

2011-02-04 15:10:50 | Weblog
2月4日(金)晴【また猫のことですが】(右がルナ、キヨちゃんを可愛がっています。ルナの方がお姉さんなのでしょうか)

今朝、キヨちゃんを病院に連れて行きました。昨日よりもひどくなっていまして、瘡蓋の下が化膿しかかっているように見えます。先生はそれをはさみでさっさと切除しました。この瘡蓋はとらないと、とおっしゃっていました。直径1センチくらいの穴が開きました。

おそらく釘かなにかに引っかかったのではないかということでした。これをふさぐとかえって膿んでしまうので、このまま消毒もしないで、抗生物質の注射だけで様子を見ましょう、ということになりました。

以前もキヨちゃんは尻尾の付け根が、猫との喧嘩で傷つき、他の病院でふさがれてしまったので、ひどく膿んでしまいましたが、行きつけのこの先生はふさがない方がよいという処置をして、ほどなく全快した経験があります。他の病院で6万円かかると言われたので、この病院の先生にお願いしましたら、何日か通いましたが、治るまで五千円ちょっとくらいですんだと思います。

やはり今日、いきつけの先生のところに連れて行ってよかったです。

それにしましても、キヨちゃんの飼い主が帰ってきたら、外に出さないで飼うことを話し合いたいと思います。

動物病院の先生曰く、「ケージのなかでも、ストレスがなく、暮らしている猫もいるのです」とおっしゃっていたことを伝えたり、家の中にもっと階段状のキャットワークを作ったり、いくらでも工夫はできることを話したいと思っています。私もルナのためにいろいろと大工仕事をしたのですから。飼う以上は努力も必要です。

猫は外が幸せかどうか、それは猫に聞いてみなくては分かりませんが、自分のもっている固定観念は捨てなくてはならないでしょう。私もルナを飼うまでは、猫は外にいるのが当たり前と思っていました。(ルナは一日一回は外の廊下と階段の散歩はします)

多くのことに、自分の既成概念や、固定観念や、常識と自分が思いこんでいることやらがあると思います。私の知識や考えの中にも、そのようなことがあると思います。いつも自由な発想ができ、自分の発想以外の考えも受け入れられるようにでありたいと痛感しています。

他人と意見が違うときや、ぶつかりそうになるときには、自分の考えを見直す必要があると思います。キヨちゃんのことについては、考えさせられることが多いです。勿論私も頑固ですが。

皆さんはいかがですか。自分と違う考えの人との協調について、学んでみたいと思います。キヨちゃんの飼い主が帰ってきたら、よく相談してみます。

リオの大洪水の被害を目のあたりにしてきて、猫の怪我どころではないかもしれませんが。

人の考えは変えられないのか

2011-02-03 13:54:16 | Weblog
2月3日(木)晴【人の考えは変えられないのか】(左がルナ、右がキヨちゃん)

今日は節分です、豆まきをもうなさいましたか。私はまだです。

ルナの姉妹猫のキヨちゃんがまた怪我をしました。キヨちゃんのお腹に丸く傷ができて、血が滲んでいるのに昨夜気が付きました。キヨちゃんの飼い主はブラジルの大洪水の支援に出かけてしまいましたので、留守番のケニアからの青年と相談して、今朝病院に連れていくことにしました。行きつけの動物病院はお休みですので、新しい病院に連れて行くことにしていました。

それで今朝、お腹の様子を写真に撮っておいて見せなくてはと思い、お腹を見ましたら、傷口がすでにふさがっています。しかし、周りの毛は抜けていますし、ちょっと盛り上がってはいます。しかし、この様子では、いつもの先生に診て頂いたほうが、かえってよいだろうということで、また明日連れていくことにしました。

キヨちゃんはわずか二年の間に何回も怪我をしています。猫同士の喧嘩による大怪我もあります。ですから、なんとか、キヨちゃんを家の中で飼ってもらえないか、何回頼んだか分かりません。

しかし、飼い主のアメリカ人氏は、猫は自由に外で遊ぶものだという考えを、決して変えようとしてはくれません。夕方からは我が家のルナのところにまた遊びに来ていまして、九時頃に飼い主が帰っているか確認して、私が連れていきます。

ルナが目の感染症にかかってしまってから、猫白血病のワクチン注射をしたり、キヨちゃんに猫エイズのワクチン注射をしてから、また二匹を一緒に遊ばせています。キヨちゃんが年中外に出されていなければ、そんなにワクチンを打つ必要はないのです。

ケニアの青年に、留守番をしている間、キヨちゃんを外に出さないように頼みました。彼はよく理解してくれました。

これを機会に、キヨちゃんが、外に行かないようになってくれると本当によいのですが。つくづく人の信念を変えて頂くことは、こんなことでも難しいと痛感しています。自分は正しいと思う考えを、少し変えてもらえないかと思うのです。キヨちゃんの飼い主からすれば、私の方が、お節介で頑固だと思っているかもしれません。しかし、怪我の度に病院に連れて行くのは私なのですから、少しは意見を聞いてもらいたいと思うのです。

これは猫の話ですが、似たような話は、世の中に、いくらでもあるのではないでしょうか。

こんな時、人は人、と割り切れなくてはならないでしょうが、キヨちゃんの命に関わることでもあるので、お節介おばさんの私としては、なかなか引き下がれないのです。