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風月庵だより

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仏成道の日

2005-12-09 13:43:05 | Weblog
12月8日(木)【仏成道の日】
師匠がご存命の頃、12月1日から8日の朝までは師匠の行者(身の回りの用をつとめる修行僧)として臘八接心(お釈迦様が12月8日にお悟りを開かれたことに因んで、禅寺では12月はじめの一週間、坐禅をし続ける。これを臘八接心という。)をつとめた。7日から8日の未明にかけては不眠で坐った。
 道元禅師は「この心、あまつみそらに花供う、三世の仏にたてまつらなむ」と和歌に詠まれている。「この心」は坐禅の心である。
 ひたすらなる坐禅は、あまつみそらの三世の仏に供える花である、と解してよいだろう。坐禅をして神通力を得られるような考えは過ちであるが、全世界と一続きになるということは過ちではない。世界いっぱいの坐禅である。
 だが事実はこの私が、ひたすらに坐っているのであり、自分以上にも自分以下にもなっているわけではない。
 
 しかし、一週間坐るだけであるが、私の坐禅はなかなか三世の仏様に供えられるような花とはいえない坐禅である。眠気と妄想との戦いとさえいえる。眠気がきたら背筋を伸ばし、今日のおかずはなんだろうか、などと頭に浮かんだら背筋を伸ばし、姿勢を正すことにつとめたつもりではある。
 
 しかし師匠は時々言われた。「おまえさんはよく眠っていたな」と。私の単(坐禅の席)はあいにくと師匠の目の前であった。自分ではしっかり坐っていたつもりであったが、居眠りをしていたこともあったようだ。

 今に思えば、懐かしくも有り難い師匠のお言葉である。

 また師匠とともに見上げた朝四時頃の星の美しさも忘れがたい。臘八接心頃の冬の星座は殊に美しいものである。空がどこまでも澄み切っているのであろう。漆黒の夜空に星々が空いっぱいに煌めいているのである。
  暁天坐禅(夜明けの坐禅)で坐禅堂に向かう途中、本堂のかどの濡れ縁で師匠は必ず空を見上げられた。その位置からちょうど明けの明星が光り輝いているのが見えた。

 かつて2400年ほど前のインドでも、光り輝く明けの明星を、お釈迦様はご覧になられたのだ。その星と今頭上で輝く星と、同じ星なのである。時を越えたロマンである。

 さて、多くの問題を抱えた今の地球上で、いかに仏弟子として生きていくか、一隅で呻吟している現状である。

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