風月庵だより

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宗教の風光(六)法は水が流れる意

2011-09-30 07:06:24 | Weblog

9月30日(金)晴【宗教の風光(六)法は水が流れる意】

山口県の上関では、遂に原発推進派の町長が当選してしまいました。原発マネーがないと、過疎化の町は、生活をしていけない、と人々は思ったのでしょう。しかし、一度事故が起きたらどんなことになってしまうか、生活よりも命がなくなるのです。日本の原発技術も能力も世界に劣っているという事実を知っているのでしょうか。まさか日本人は優秀だと勘違いしてはいないでしょうか。

日本がやがて、日本を滅亡させるだけではなく、地球を放射能汚染で滅亡させてしまう時がくるかもしれません。大袈裟なことではないでしょう。

ところで、9月の初め頃の「セシウム汚染の帯、首都圏に 千葉・埼玉の汚染地図」が公表されました。福島の原発近辺は勿論チェルノブイリよりもひどいのではないでしょうか。群馬もかなり汚染されてしまっています。

爆発直後は、勿論この汚染地図よりも高い汚染数値だったのではないでしょうか。地図が載っているURLです。

http://www.asahi.com/national/gallery_e/view_photo.html?national-pg/0929/TKY201109290449.jpg

天地の風光、天地の道理を書いていることができるのも、いつまでのことでしょう。百年後の日本でも、宗教の風光を書いていることができますように。

「法という字はさんずいと去という成り立ちである。されば水が去っていく、水が流れていくという意味合いの字である。水が流れるということは、人間の定めたことではない。人間の約束事、相談事の出来事ではない。憲法や、法律や道徳(社会の掟)は人間の相談事である。

地球上では、一応、水は、高きより低きに流れることに定まっている。これは天地の道理ともいうべき定めである。人間の間だけで通用する道理ではない。天地本然の道理、それに人間の評価を押し当てているようなところがあるのではないか。

「三世諸仏」というのは高いもの優れたものというような思いがあり、「狸奴白牯ーけものたち」というのは、つまらぬもの、劣った物、という思いがある。

そういう思い、それこそ、人間の寸法そのものではないかというわけである。「三世諸仏有ることを知らず、狸奴白牯却って有ることを知る」という建仁寺での答話を得て、道元禅師は禅家に衣更えをされる。人間の寸法を包む天地の寸法があることをかいま見るところである。

天地の道理、それが宗教の風光である。宗教の風光への転入の一転語である。」

(『宗教の風光』50頁)

 


宗教の風光(五)趙州狗子

2011-09-23 11:23:49 | Weblog

9月23日(金)曇り【宗教の風光(五)趙州狗子】 (なんとなく面白い雲)

台風12号の被害もひどかったですが、またも15号の被害をさらに被った場所もあります。友人のお寺には、まだ電話連絡がつきません。

日本列島は、今年は常にもまして、天災に遭ってしまいました。日本列島のみならず、地球上のあちこちで自然災害の多い年かもしれません。

9月1日に気になる記事がありました。「太陽北極域で異例の磁場反転」という記事です。宇宙航空研究開発機構の太陽観測衛星「ひので」が、太陽の北極域で磁場が反転し始めた様子を観測することができたそうです。

「太陽の北極、南極の磁場は約11年周期で反転することが知られているが、今回は予想時期より2年も早いうえ、南極域では反転が見られないなど異例の様相を呈している。地球の環境変動につながる恐れもあるという。」と、書かれていました。

このような太陽の状態も、地球になんらかの影響があるのでは、心配性の私は気にしていた記事でした。

さて、「宗教の風光」について、また本師の著作から書き抜いてみます。

「趙州和尚に狗に仏性が有るかと問う問僧に、趙州は答える。「有るよ」と。問僧は、仏性はきれいな、尊く、美しいものとの先入観があるために、そういうものが、きたない、狗のようなものの中に有るのかと合点がゆかぬゆえに、さらに問う。「どうして仏性というような尊いものが、きたない狗の中に入ったのですか」と。

趙州それに親切に答える。「為他知而故犯」ー他の知って、故(ことさら)に犯すがためなりと。仏性がよく承知してわざと入っておるのだと。仏性が狗というかたちになっているのである。

哲人西田幾多郎氏の表現を借りると、「無の自覚的限定」ということである。ここで一つの傍註を試みると、大乗戒の十重禁戒をどのように受けとるか。道元様の『教授戒文』に訊くこととする。

たとえば第四不妄語戒に、「法輪本より転じて剰(あま)ることなく欠くることなし、甘露一潤して真を得、実を得るなり」とある。法輪というのは端的にいえば仏性のことであり、天地本源のいのちをいう。

その法輪が自ら展開して森羅万象ができていることを思えば、一木一草それぞれが仏性の、天地法界のいのちであり、それぞれのすがたにおいて過不足はないわけである。

(中略)

命を生きるという提題は、かくして天地のいのち、天地法界の道理をここに生きてあるのである。人間の寸法で手垢をつけない清浄の世界である。

意義有る人生、意義のない人生など分ける尺度のないことに気がつきたいものである。すべて等価値というのが『信心銘』の「唯(ただ)揀択(けんじゃく)を嫌う」ということの意味であった。これは至極の道理である。宗教的風光の世界であり、大肯定の世界である。天地法界の命を生きるというのは大肯定の世界である。絶対開の世界であり、開かれた世界のリズムということができる。」

(『宗教の風光』26頁~28頁)

★今日はお彼岸のお中日です。


宗教の風光(四)三祖ーよりごのみをしない

2011-09-16 10:30:09 | Weblog

9月16日(金)晴 【宗教の風光(四)三祖僧璨ーよりごのみをしない】

 東の空

本師の著述より

「禅門において三祖僧璨の『信心銘』の冒頭にいう。「至道無難 唯嫌揀択」と。至極の道理、それはそんなに難しいことではない。「よりごのみ」さえしなければそれでよいのだという。揀択とはよりごのみをし、比べあうことである。それは人間の価値判断の世界である。値段表をつける世界である。

善悪、美醜、好悪などの相対的判断の世界であってみれば、よりごのみをしないというわけにはいかない。好ましい方をとり、好ましくない方を捨てるということになり、どれが大事で、どれが大事でないかということも人間の尺度の中では大切なこととなってくる。

よりごのみをしている限り、至極の道理は、杳(はる)かに手のとどかぬことになる。至極の道理などという面倒なもののかかわりを避けようと思うても、それはできない相談である。かの聖アウグスチヌスの『懺悔録』の冒頭にある「汝吾等を汝にむけて造り給えり」という神様への呼びかけの言葉のように、そううふうにつくられてある存在であると思わざるをえない

難しくいえばわれわれの存在は(人間は)真善美を求める志向性を内在しているが故に真を求めて学問的真実を求め、善を求めて道徳的正しさを求め、美を求めて芸術的世界が現成する。

そして聖なるものを求めて宗教の風光の中に遊ぶということになる。そして猫に小判というときに、猫に小判の価値がわからぬということをいうのであり、そういう文化価値は人間だけの問題となる。いやが王でも至極の同ウリというような価値の世界にかかわりをもたねばならぬことになるわけである。

至極の道理というのは、宗教の風光の世界をいうわけである。そういう世界からの提言が、『信心銘』の「よりごのみをするな」ということになる。「よりごのみをするな」という提言の裏打ちになるのは、対象が等価値であるということになる。

(『宗教の風光』21~22頁)

★本師は学生時代、聖アウグスチヌスの研究をなさったそうです。よく聞かされました。特にここに出てくる言葉は。

★また台風15号が西日本で暴れるようです。台風12号でかなりの被害がでましたのに、追い打ちをかけられてしまいます。地盤が緩んでいますので心配です。知り合いのお寺も流木が本堂の前にも駐車場にも一杯になってしまったそうです。写真を見ますと、車に流木がささっていました。

地震も紀伊半島にありました。なんとかこれ以上の被害がでませんように。西の空、早朝。真ん中にぽつんと見えるのはお月様。

 

 


宗教の風光(三)天地の尺度

2011-09-08 17:57:32 | Weblog

9月8日(木)晴 【宗教の風光(三)天地の尺度】

本師の著書から、また「宗教の風光」と表現されている箇所を抜粋してみます。本師は、たとえ宗教の風光という表現をお使いにならなくとも、全て宗教の風光についてお説きになり続けたのではありますが。

「 六祖様は「無常は仏性なり」と示される、この無常のままが永遠のすがたである。無常の一足一足が永遠の歩みであるというのである。百草頭上無辺の春の意味あいもこのような意味あいである。人間の分別、はからいの世界外の出来事ということができる。この事が会得されると、人間の尺度外の存在として「もの」の意味の法が教法となりうることが分明になる。人間の尺度ではない、天地の尺度の世界であってはじめて宗教の風光となることができるわけである。人間の寸法で考えた教えは教えにはならぬ。

 (中略)

されば宗教の風光における教えは、天地の道理でなければならぬ。百草頭上無辺の春ということは、私ども一人一人が天地法界のいのちそのものであるということをいうのである。お互いに自分の顔を注文して生まれてきたものはないはずである。生まれてみたらこのような顔になっているのであるから、ごてごていうわけにはいかない。こういう顔をして、こういうすがたをして天地のいのちを生きているのである。こういうすがたをした仏のいのちである。」

 (『宗教の風光』ー中山書房仏書林発行 16頁~17頁)

★老人を大事にしないで、自分だけが正しいと思って、若い頃は生きてきたと思います。自分が老境と少しまだ手前の中間に立ってみると、そんなことが見えてきたこの頃です。今日は、やっと歩いている、九十五歳になった母を連れて、新宿まで出かけてきました。靴を買うためです。靴だけは、本人の足が必要ですから。

★「百草頭上無辺の春」:宏智正覚(わんししょうがく)『宏智頌古百則』第四則「世尊指地」の頌の起句


生きていたスイッチョ

2011-09-02 22:52:27 | Weblog

9月2日(金)台風による時折の雨と風【生きていたスイッチョ】

故郷にお墓参りに行ってきました。そこでモロヘイヤを買ってきました。今朝モロヘイヤを茹でようと冷蔵庫から出して葉をもいでいましたら、スイッチョ(名前は違っているかも)が出てきました。5日間も冷蔵庫の中で生きていたのです。写真を取らせて貰ってから、外の土のあるところに置いてきました。数時間経ってから見にいきましたら、置いた場所にはいませんでした。生き返ってどこかに行ったのでしょうか。長い旅をしたスイッチョでした。

また一昨日、お寺の境内で、蝶々の羽根が一枚動いているのに気がつきました。

よく見ると蟻が数匹で運んでいます。蟻の穴まで運んで行きました。せっせと冬の支度でしょうか。

(もう少し鮮明に写せると、私の感動をお伝えできるのですが)