1月31日(月)腫れ【聖徳太子考(その10)実践を重んじる『維摩経』】
『三経義疏』のうち『維摩経義疏』の『維摩経』について、少し学び直してみたいと思います。此の経典を読んでいるとき、戯曲の台本を読んでいるような気がいたしました。初期大乗経典に分類され、2世紀半ばごろまでに成立した経典とされていますが、このお経の経典作者は実に名脚本家ではないかとさえ思いました。
維摩居士が病気になったというので、お釈迦様が弟子たちにお見舞いに行くように言いつけるのですが、仏弟子たちは、維摩に次々と教えの捉え違いを指摘されてしまいます。最後についに文殊菩薩が病気見舞いにやってきます。そこで文殊菩薩の後についてきた仏弟子たちが、不二について述べた後に、文殊菩薩が「全てのことについて、言葉もなく、説明もなく、相互の問答を離れ超えている」といい、それでは維摩居士のお考えをお聞かせください、と言いましたところ、黙然として答えませんでした。これを「維摩の一黙、雷の如し」と言って文殊菩薩は称賛なさった、として有名なところです。
私たちは得てして多くのことを二元相対するように考えますし、そのほうが理解しやすいこともあります。相反する相対的な物の考え、有と無、生と滅、煩悩と菩提、等々全く対立するような概念ですが、二つにわかれたものではないという、如何にして不二の法門に入れるかという質問に対して、黙然とした維摩の姿に、勿論禅を説く宗門はこれを素晴らしいとして肯っています。
維摩居士はなにゆえに病になったのでしょうか。それは「衆生病むがゆえに我病む」なのです。ですから菩薩として維摩は永遠に病める人なのです。衆生を救いたいと願う聖徳太子の思いと、維摩の思いは、重なっています。私は『維摩経義疏』に直接あたっていないので、恐縮ですが、なぜ『維摩経』を太子が特に選んで講義なさったかというところに着目しますと、菩薩でありたいと願う太子は、このお経は、在家の菩薩である維摩が、見事に空観に裏づけされた慈悲行を説かれているからだとわかります。
今の天皇家からは全く想像もできませんが、当寺の貴族社会は、権力争いの絶えない血なまぐさい修羅場であったといえましょう。
独坐大雄峰とばかりに一人孤高に坐禅ばかりしていては、維摩居士には認められないのです。
金治勇先生のお書きになった「維摩経義疏のこころ」の一文より義疏について少し学ばせていただきましたが、その中から義疏の箇所を抜き書きさせていただき、このブログ記事は不十分も不十分ではありますが、自分の学びのためのブログなので、ご容赦願います。
「菩薩の観は有に在れども空を失わず、空に在りて万化を成ず。空即ち有、有即ち空なり。有と無とに偏せず、等しく会して不二なり。故に名つけて真の空観となす。」
慈悲は真実の空観から現れることを、太子は『維摩経』から読み取られているのです。
(太子にしても、当時の貴族階級の多くの人々は、漢文を自由に読みこなせたということなのでしょうか。鳩摩羅什訳の『維摩詰所説経』を元として隋の時代の慧遠や吉蔵、天台智顗は注釈をほどこして『維摩経疏』を著したそうですが、太子は鳩摩羅什の弟子僧肇等が注疏した『注維摩経』も使われたようで、多くの引用がなされていることが研究されています。)