風月庵だより

猫関連の記事、老老介護の記事、仏教の学び等の記事

愛猫キヨの死

2021-04-12 16:26:26 | Weblog

4月12日(月)晴れ【愛猫キヨの死】

ルナの姉妹猫のキヨちゃんが天に帰りました。先週の月曜日です。
キヨちゃんを東京から預かってきたのは7月2日です。それから3月28日まで、一緒に住みました。本当は、きよちゃんは元の飼い主さんたちのところに帰りました、という報告を書きたかったのですが、それを書く間もなくわずか9日間、12年間可愛がって頂いた元の飼い主さんのところで過ごして、亡くなってしまいました。

連れて行ったときに、キヨちゃんは、あ、家に帰って来た、と安心し、喜んでいる感じでした。前から一緒に住んでいた太郎君とも再会の挨拶を嬉しそうにしていましたので、私は、安心してキヨちゃんを置いて帰ってこられたのです。もし、太郎君に唸ったり、居心地が悪そうだったら、また連れて帰ろうかとも考えていましたが、全くそのようではありませんでしたので、私も、よかった、と思って置いて帰って来たのです。

キヨちゃんと別れることは寂しかったですが、東京でも飼えそうだから、ということと、もしかしたら癌かもしれませんので、手術をするか考えましたが、自然がよいと、元の飼い主さんも言いますし、私も手術の後、とても痛がるけれども猫には鎮痛剤を使えないと経験者から聞きましたので、痛い目に合わせるよりも、自然の方がよいと選択しました。

元の飼い主さんの下で、もう少し長く生きて、楽しんでもらいたいと思っていましたが、きっと安心して旅立ったと思いたいです。

ルナと、友人の元に貰われていったお兄ちゃんのモルちゃんと、キヨちゃんの三匹は、林の中に段ボールに入れて捨てられていたのを、近所に住んでいた猫ボランティアのふみちゃんに助けられたのは、今から13年前の6月頃でした。

ルナとはほぼ4年間、同じマンションで、一階と三階を行き来して、それこそ毎日一緒に遊んでいましたが、8年間の不在ですっかりお互いに忘れていまして、最後まで思い出すということはありませんでした。でも私には慣れていまして、年中膝の上に乗ってきたり、キヨちゃん、散歩に行こう、と言いますと、境内や竹林の散歩についてきて、お寺の生活も楽しんでいてくれたと思います。

でも、なんとなくこの頃とくに寂しそうな感じがあり、キヨちゃんをお返しした方がよい、と強く感じましたし、元の飼い主さんたちも飼えそうだからというので、思い切って先月の28日に連れて行ったのです。

お寺での最後の晩は、キヨちゃん、一緒に寝ましょうね、隣で寝まして、東京に帰ることをよく言い聞かせました。

キヨちゃんは、子猫の時、モルちゃんと一緒に貰われていったのですが、子猫の夜の運動会はかなりひどいので返されてきて、今度は私が飼おうと思いましたが、やはり夜の運動会が賑やかすぎて眠れませんので、それで最後に、一階に住んでいたご夫婦が飼ってくれたのです。そして、去年の7月からお寺に引き取っていましたが、やっと、元の飼い主さんたちの下に帰って、これから元の生活がキヨちゃんには始まるところでした。でも、大事に育ててくださったご夫婦の下で、きっと安心して旅立ったのだと思います。お二人に看取られて、キヨちゃんの一生は終わりました。

キヨちゃん、有難う。楽しい思い出を有難う。本当に可愛い、良い子でした。
安らかでありますように。

(2008年8月の写真です。左からキヨ、モル、ルナ)

 

 

 

 

 

コメント (1)

死は待った無し

2021-04-01 15:10:57 | Weblog

4月1日(木)晴れ暖か【死は待った無し】

このところ、あまりに忙しくブログを更新する余裕がありませんでした。それほど多くの檀家さんがあるわけではないのですが、一週間に立て続けのご葬儀がありました。また昨日と一昨日は、当寺の晋山式の折、永平寺御専使をお勤めくださいましたご老師の御逮夜と本葬がありました。配役は両班でしたので、式の間ずっと本堂に出続けていました。

今朝起きましたら、体があっちにフラフラ、こっちにフラフラで我が体ながら驚いた次第です。疲れていますね。そして間違いなく年をとった、と実感いたしました。

檀家さんのご葬儀でお送りしたお一人は、まだ若く、お子さんもまだ幼く、まことに辛いご葬儀でした。つい一か月ほど前にお母様の四十九日忌をつとめさせていただいたばかりでした。いつもと同じような感じでしたが、土曜日に喀血をしたのだそうです。すぐに病院に行くべきだったと奥さんが悔やんでいましたが、翌日は日曜日でしたし、本人が月曜日に子どもさんを幼稚園に送って行ってから病院に行くから、と言って、床について、その晩にはお亡くなりになってしまいました。

まことに死は待った無しです。お互いに他人ごとではありません。気を付けて生きていきましょう。私も気を付けます。なんとかフラフラはおさまりましたが、今日は少し早めに休ませていただきます。仕事は山積みですが、忘れましょう。皆様もどうぞご自愛くださいませ。

コメント

仲間の死

2021-03-16 22:07:01 | Weblog

3月16日(火)晴れ【仲間の死】

今のお寺の住職になって以来、お寺を守っている私とともに、いつも一緒にお寺を守ってきてくれた仲間に、亡くなられてしまいました。

ここのコンクリを打ち直したいが、と言えば、、すぐに「俺がやるよ」と答えてくれて、間もなくコンクリを打ってくれたり、4メートル幅の参道を7メートル幅の参道に直し、ブロックもフェンスも60メートルに渡って直す時も「俺がやるよ」とさっさとやってくれ、寺に入ったときから白い塀を作りたいと構想を練っていたのですが、機が熟して塀をこしらえる時も、「俺がやるよ」と、左官屋さんや、瓦職人さんの仲間を集めてくれて、ご自分は鉄筋を入れて土台をさっさと作ってくれて、役所の許可がでたので撤去したいブロック塀を壊したいときも、「俺がやるよ」と言って、さっさと撤去して、アスファルトを打つ業者を探してきてくれて、山林の草がぼうぼうに伸びてしまった時も、「俺がやるよ」と草刈りの車をトラックに積んで持ってきて、さっさと草を刈ってくださいました。

境内を見渡せば、あちこちに岩田さんの「お働き」が生きています。
車庫の前に雨がたまって困ったと言ったら、さっさとコンクリを打ってくれて、大雨が降っても車の出し入れも楽々です。

山林にもっと木を植えるように、市役所から指導を受けた時も、植木屋さんの知人を紹介してくださり、それを植えるのは手間賃がもったいないから「俺がやるよ」と言って、木の植え付けまでやってくれました。

私が枝垂桜があるといいが、と言えば、「俺が寄付してやるよ」と言って苗木を買ってきて、それも植えてくれました。間もなくその桜も咲くころです。

晋山式の時の角塔婆を立てるための土台も、自分で工夫してうまく安全に立てられるようにしてくれましたし、庫裏から本堂に行くのに雨に濡れないでいけるように屋根を工夫して作ってくれて、衣を濡らさないで本堂に行けるようにしてくれました。

水場が一カ所しか無いので、奥の墓所の人たちに不便だからと言えば、一緒に大きな資材売り場に連れて行ってくれて材料を買って、さっさと水場を拵えてくれました。

数え上げれば数々のお蔭さまが、お寺一杯にあります。
つい12月までは元気にゴルフにも行けたというのに、1月にははや手遅れということで、私に会いたいからと、連絡があり、信じられない気持ちでご自宅に会いに行ったのです。

いつも元気いっぱいの岩田さんが、ちょっと弱ったという感じで、ベッドに横たわっていました、しかし、2時間も話し込んでも全然疲れた様子がありません。食べ物が全く嚥下することができなくなり、点滴だけでしたが、まだまだ声にも元気がありました。

もはや手遅れのお体とは、信じられないほどでした。その後も時々、元気な声のお電話がありました。お亡くなりになる二日前になりますが、もうそろそろではなかろうか、と思い、お電話をしたときは、微かなお声を聞かせてくださいました。

昨日はお通夜でした。岩田さんは真言宗のお寺の檀家さんです。お通夜の前にご自宅に伺い曹洞宗のお経で、お礼のお別れをしました。お棺の中には、私の手紙を奥さんが入れておいてくださいました。

このコロナのご時世ですが、お通夜に会葬の方は、200人以上であったと思います。

すでに最後の日は近いことは分かっていましたから、信頼できる葬儀屋さんを息子さんに紹介して、当寺でご葬儀の打ち合わせをするようにお勧めしておきました。今までさんざんお世話になった岩田さんを、焦らないで立派にあの世にお送りできるように、私のできるせめてもの手助けでした。

今日は、もうあのお元気で力持ちの岩田さんのお体は荼毘にふされ、お骨だけがこの世に残りました。

本当に有難い「仲間」でした。このお寺を守るために、共にいろいろとお働きくださった大事な「仲間」でした。

有り難い人でした。岩田成吉(昭和15年12月19日~令和3年年3月10日、享年81歳)

(晋山式の角塔婆を立てるための土台を)

(草刈り作務を自前の草刈り機で)

 

コメント (2)

夜中でも工事監督の仕事

2021-03-13 14:13:43 | Weblog

3月13日(土)雨、夜中から激しい雨【夜中でも工事監督の仕事】

夜中の雨は音を立てて降っていました。午前中一時小やみになりましたが、今も雷を伴い降っています。

こんな天候の中、金剛組の工事の監督さんは、夜中から駆けつけて小屋裏に入って、工事中の雨漏りの点検に来てくださっています。昨日から、もし雨がひどかったら、夜中でも伺いますので、と言われていましたので、夜中でも入れるように秘密の入り口を開けておきました。

朝、起きましてから、お茶を持って行きました。1時頃から降り始め3時頃はかなり強い降りだったようです。

まことにたいしたものだと思いました。知り合いの住職から、工事を通しての監督さんがいてくれる業者がよいですよ、と言われていましたが、本当にこの度の工事において、お一人の監督さんが、責任者として担当してくださっていますが、このようなことでも感心したり有難いと思ったりいたしました。通常でも、雨降りの時は、夜遅くまで様子を点検してくれています。

当寺の見積もり額を抑えてもらっていまして、仮屋根を作っていませんから、まだルーフィングを張り終わっていないので、雨の折は大変なのだと思います。

しかし、お仕事とはいえ、なかなか大変です。どんな仕事も、それなりに大変ですが、このように個人的な生活を犠牲にして、それぞれがプロの仕事をつとめあっていくところに世の中が、しっかりと動いていくのではないでしょうか。建築業界は古い体質があるとは言いますが、総て割り切っていくだけではない「お働き」の重要な役割を、古い人間の私は凄いことだと思っています。たしか「古い人間だとお思いでしょうが云々」、そんなセリフが懐かしく、耳に手をあてて歌っていた特攻帰りの俳優さんの顔を思い出しました。

コメント

花粉症と新型コロナウイルス

2021-03-08 10:58:11 | Weblog

3月8日(月)雨【花粉症と新型コロナウイルス】

今年の花粉症は、皆さんいかがですか。私はかなりひどいです。今日は、雨なので鼻水や涙の症状は軽いのですが、めまいがかなりあります。

とにかく粘膜が弱くなりますと、ウイルスに侵入されてしまうのではないかと、恐れています。花粉症の皆さんは、どうぞ、さらなるご注意を、と、素人考えの注意です。

しかし、このめまいには困ります。それでもパソコンの前で、仕事は出来ていますので、その程度のめまいですんでいます。

(昨日、フキノトウの天ぷらを揚げてみました。春のお知らせ=花粉の季節到来のお知らせ)

コメント (1)

白菜漬けと沢庵

2021-03-05 10:39:42 | Weblog

3月5日(金)曇り【白菜漬けと沢庵】

今年は白菜がとても美味しく漬かりました。昆布をいつもより多く入れてみました。小さな桶があれば、一株位は簡単に漬けられますね。しかし、子供の頃食べた母のつけた白菜の味には全く及びません。大きな木の樽に沢山つけて、雪の多い寒い故郷の気候と、母の漬物上手の腕の味です。白菜の葉っぱの部分で、ご飯をお寿司のように巻いて食べた味は忘れられません。

沢庵も美味しく漬かりました。やはり子供の頃、ポリポリと音をたてて食べたあの沢庵には及びません。また、本師とともに、毎年、大きな樽に二樽位漬けましたが、ある年の沢庵は最高に美味しかったです。腕もさることながら、その年の大根は、とても味の良い大根でした。

2月一杯くらいで、味が酸っぱくなるから、味噌漬けにすると美味しいというので、試してみたのが写真の沢庵です。これはなかなかの味です。

それぞれ母にも本師の味にも及びませんが、こんなことを檀務の合間にしています。この頃は、ウイルスも関係なく、どこにも出かけようという気が起きません。坐禅も足が痛いので、長時間は出来ませんが、坐禅即仏の実感を得ましたので、たとえ短い時間でも坐禅をさせて頂き、猫の世話をし、玄米と少しの野菜を食べて、満たされて生きています。

こんな時が来るとは、何時も動き回り、何かを求めていた、若いころは想像がつきませんでした。今日はお塔婆を書いたり、掲示板の文言を書いたりして、一日を過ごしたいと思っています。皆様も御機嫌よう。

 

コメント

寺の番人

2021-02-28 18:12:31 | Weblog

2月28日(日)晴れ【寺の番人】

今日は2月の晦日です。速いですね。
朝の行持をもう少し書き足します。まず鉄瓶のお湯を沸かして、仏さまにお茶入れ。7匹の猫のエサやり、それから暁天坐禅(すでに朝天ですが)朝課、ご祈祷、韋駄尊天諷経、お墓のお参り(祥月命日の家の墓所にはお線香を手向けます)。戻ってからウイルス対策のお茶(梅肉エキスと梅干しの黒焼き等)それから朝ご飯は御餅を一枚(朝は空腹を味わいます)これはいつも同じです。(この頃寒いので、朝の体操は休みです)

本日午前中は、猫と境内散歩、終ってから内猫の足ふきと体拭き、それから大変、法事の方がすでに見えました。四十九日忌と納骨.

午後は総代会(議題は、本堂の天井板が雨漏りでシミがひどいのでその貼替えについて。寺の所有地についての疑問ー昭和46年に2万坪近くあったことが、前総代さんの細かい記録から読み取ることができ、さらに美濃紙に書かれた所有地の全地図も出てきましたので、不動産屋さんに閉鎖謄本というものを取ってもらいしらべました。まことに寺の番人の仕事です。しかし、ほとんど寺の周り檀家さんの所有になってしまっていたことが分かりました。昭和46年以降も戦後の農地解放は行われていたということなのでしょう。戦後まもなく行われたと思っていました。)。終って来客、お帰りになってから鐘撞き、猫7匹のエサやり、そして今パソコンの前。

いつもいろいろと用事があり、毎日はスピードに乗って過ぎてゆきます。それこそ、どこにも出かけることはありません。ほとんど寺の中です。住職とは、寺の管理人と思っていましたが、いや、寺の番人に等しいと思います。

今まで、屋根の上でお寺を見守っていてくれていた鬼さんを作り直しの為に降ろしました。約50年間、ご苦労様でした。私は番人としては、まだまだ鬼さんには敵いません。

近くで見ると大きいですね。子鬼が北側にありましたが、ぼろぼろになって
いました。クレーン車で鬼さんを釣り降ろすところです。

コメント (2)

申年の梅干し

2021-02-23 12:59:30 | Weblog

2月23日(火)晴れ風強し【申年の梅干し】

本日は、天皇誕生日ですね。天皇陛下も、聖武天皇や正親天皇などが、天災に遭遇なさったことを話されていました。

今年は、丑年ですが、申年の梅干しについて、ちょっと一言。母親が「申年の梅は、大事だからつけておきなさい」と言った言葉を思い出しましたが、母親が漬けた「申年の梅干し」を見つけました。

そこでなぜ申年の梅がよいのだろうか、調べましたら、平安時代に疫病が流行ったとき、村上天皇が梅干しと福茶で疫病を治した、と、伝えられているのだそうですね。

このことから、特に「申年にとれた梅は縁起が良く薬になる」という風習が、今も伝えられていて、母もそれを知っていたのでしょう。ただどうしてよいのか、説明を受けたことはありませんので、ただ「よい」ということを当然のように知っていたのかもしれません。特に60年に一度の甲申年に収穫した梅は縁起物と呼ばれる、申年の梅の中でも、特に珍重されているそうです。

さて、下の写真には「16年 サル年の梅」と母が書いた紙が貼ってあります。2016年も確かに申年ですが、その時母は101歳くらいですから、この紙を書く気力も梅を漬ける気力もなかったでしょう。

とすると、平成16年2004年になり、母は90歳くらいですから、私とフランスにも行きましたし、十分気力のある年です。そこで、平成16年の干支を調べましたら「甲申」の年でした。

僅かしか残っていませんが、少しづつ頂いて新型コロナウイルスの感染から逃れることのできますように、祈りつつ食べさせていただきましょう。

母のようになんでもマメに書いておくと後の者が助かります。学びたいと思っていますが。

皆様も、このコロナ禍にあって、なにか有効な対抗策を実行なさってくださいませ。私はどうしても不特定多数の人たちと会わなくてはなりませんので、本当に注意したいと思っています。

 

コメント

宇宙寺院 劫蘊寺

2021-02-20 20:46:43 | Weblog

2月20日(土)晴れ【宇宙寺院 劫蘊寺】

今日はあたたかかったですね。一日朝から忙しく電話と来客と猫のエサの買い物等で、アッという間、過ぎゆきました。

さて、『中外日報』の記事を読んでいましたら、真言宗醍醐寺が「浄天院劫蘊寺」という宇宙寺院を、2023年の建立をめざしているとありました。
この発想の面白さもありますが、私個人にとりましては、なんといってもこの名前の字、劫蘊院この「劫こう」の字です。多くの人がこの「劫」という字を「却」と間違えます。

この宇宙寺院が有名になりましたら、皆さんが「劫」という文字を認識してくださるだろうと期待しています。

あまりに眠くなりましたので、本日はこの辺で失礼いたします。
今日は疲れました。

劫は、簡単に言えば、無限に近い時間といえばよいでしょうか。

(劫ほどは生きられません。ルナも少し老けました。)

コメント

明恵上人の法界定印

2021-02-16 19:12:06 | Weblog

2月16日(火)晴れ 暖か【明恵上人の法界定印】

昨日は涅槃会でした。お釈迦様が涅槃に入られた日、ということになっています。

さて、明恵上人の縄床樹座禅像(髙山寺蔵)という座像は有名ですが、それが印刷されたページを見ていまして、あらっと気が付いたことがあります。法界定印は、今、私たちは右手が下ですが、明恵上人は左手を下にしています。明恵上人は承安3年(1173年)のお生まれで、寛喜4年(1232)にご遷化していますから、道元禅師よりは年上です。

前にも書きましたが、法然上人批判の書として、『摧邪輪』という書を著しています。駒澤大学時代に学びましたが、どうもその時は不消化でした。不勉強を今では残念に思っています。明恵上人の晩年の頃は、道元禅師は宋から帰国なさっていて(1227年)、建仁寺から深草の安養院に閑居なさったのが、1231年です。お会いしていたのではないでしょうか、と、戒を守り、仏道一筋のこのお二人が京都でお会いなさった、と思いたいですが、そのような証拠はありません。

次にコメントをくださいましたtenjin和尚さまからのコメントを貼り付けさせていただきました。

失礼いたします。 (tenjin95)2021-02-17 09:13:22> 管理人様

御指摘の通りで、我々の法界定印とは逆なんですね。明恵上人は、南北朝期くらいまでに成立した伝記だと、栄西禅師との関わりが指摘されていますが、実際の禅学は、著作によるものだったと思います。

インド由来の経典では、「右手で左手を押さえる」という語句が見えますので、それに従った可能性もあります。或いは、仏像・仏画は基本、右手が上なので、絵像の作家がそれに準じた可能性など、いくつか考えられます。

中国で左手上位の作法になり、そのことをインドから来た仏陀波利と中国僧が議論(『修禅要訣』)しましたが、仏陀波利は中国で勝手に変えた、というようなことを指摘していますね。

話は全く違いますが、明恵上人のお名前は、どこかの首相の奥さんの文字と同じですね。

さて、左手下の法界定印の座像を、紹介しておきます。

コメント (2)