風月庵だより

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スヌーピー

2023-02-25 15:50:18 | Weblog

2月25日(土)曇り 風寒い【スヌーピー】

昨夜、テレビを観ました。それで知りました、スヌーピーについて。

NHKの「アナザーストーリーズ」という番組でした。スヌーピーは「Peanuts」というマンガの登場犬だそうですね。私はそれは全く知りませんでした。どうして知らなかったのだろうか、ということを今朝思いついたのですが、私は子育てをしなかったから、ということ。もちろん、無知ということもありますが、子育てをしていましたら、子育てにふさわしいマンガとして、知っていたでしょう。

しかし、「Peanuts」は大人でも面白いでしょう。また多くのアメリカ人は、子供のころからこのマンガで育っているそうです。かのバラク・オバマさんもそうだそうです。

この番組の中に紹介される4コママンガの4コマ目には、度々笑ってしまいました。

そしてとても心に残った一コマは、”Whatever that means"(それがどういう意味であれ)のスヌーピーの言葉です。実に哲学的、いや禅的といいましょうか、耳から離れませんでした。たぶん「君はどうして犬なんだい?」とスヌーピーが聞かれての答えだと思いました。

それで、はじめてNHKプラスということを耳にしていましたので、登録して、その番組を見返してみました。ちょっと紹介しておきます。(私って暇人ですね。)

"Sometimes I wonder how you  can stand being just a dog."( どうして犬なんかでいられるのかと、時々思うのよ)とスヌーピーに。質問者はだれだか忘れました。ルーシーだったでしょうか。

"You play with the cards you're dealt……”(配られたカードで遊ぶのさ、勝負するしかないのさ)

”Whatever that means" (それがどういう意味であれ)

ちょっとご紹介しました。実は私は忙しいのです。失礼いたします。

*Peanuts:1950年10月2日~2000年2月13日 50年間連載。この作品によって、多くの読者が育てられたことでしょう。ウクライナの子供たちも。

*主人公:チャーリーブラウン 負けてばかり、失敗してばかり、

*作者:チャーリ・M・シュルツ(1922年11月26日~2000年2月12日)「みんなが子供の頃に体験した失敗やはかなさを伝えたかった。」

 

 


与願印

2023-02-23 14:27:40 | Weblog

2月23日(木)晴れ【与願印】

今日は暖かいです。猫たちもベランダで気持ちよさそうに寝そべっています。

さて、昨日サールナートの初転法輪寺のブッダの印相を降魔印と書きましたが、よくよく見てみますと、手の平が外を向いていることに気が付きました。

『ゴータマ・ブッダ』を読みましたら、初転法輪寺を創建されたダルマパーラの意向によって、降魔印ではなく、与願印になっているのだそうです。私の知っている仏像は、右手は施無畏印、左手与願印という組み合わせが多いように思います。しかし、サールナートの降魔のブッダは、右手が与願印になっています。

掌を人々のほうに向けていれば、右でも左でも与願印というのでしょうか。

そうしますと、お内仏の印相はなんなのでしょうか。もしお分かりの方がいらっしゃいましたら、お教えくださいませ。

私は、かつて三か月もインド一人旅をしたことがあります。その時、ニューデリ側に行ったことが間違いだったかどうか。もしカルカッタ側に降り立ったならば、ひょっとしたら、仏跡に足を延ばしたかもしれません。サールナートの初転法輪寺にも参拝できたかもしれません。しかし、そうしなくても、出家に導かれましたので、それでよかったのでしょう。何事も、過ぎたことは、それでよい、それがあるから今がある。過ぎたことをそうしなければよかった、と嘆くことはナンセンス。すべて受け入れ、受け入れ、どんなひどいことでも、今、生きているのならば。

しかし、もはや仏跡には参拝できないので、やっぱり残念といいましょうか。やっぱり、人生って一度だけだし、キリがありますからね。皆さん、今やりたいと思っていることを、今しておいた方が、「残念」と言わなくてよいですよ。


降魔印

2023-02-22 18:10:25 | Weblog

2月22日(水)晴れ【降魔印】

嬉しいことがありました。お内仏の印相が分かりました。降魔印でした。韓国の有名な仏師の方におつくり頂き、韓国から背負ってきたのは、今から15年ほど前になるでしょうか。時々、このお釈迦様の印相は何なのだろうか、と思いながら、どうも見つけられませんでした。

中村元先生の『ゴータマ・ブッダ』を今読んでいまして、説法印のことが出てきましたので、それを確認した中には、施無畏印や与顔印、説法印はありますが、お内仏のお釈迦様の印相はやはりありませんでした。

そのうち「サールナートの仏教寺院」についての記述がありましたので、インターネットでサールナートの仏教寺院を調べました。その中の壁画の中に、同じ印を見つけました。釈尊が悪魔の誘惑を退けている降魔のシーンです。日本の野生司香雪(のうすこうせつ)画伯が描いた壁画です。

今まで見た降魔印は、人差し指の一本が地についている印相でしたので、写真のような印相ではありませんでした。とにかく嬉しいです。まあ、今まで、真剣に探さずに、疑問をほおっておいたのです。

初的な私の知識不足でした。でも、本日わかりましたので嬉しいです。

*よくよく見ましたら、サールナートの壁画は、右手の掌が外を向いています。お内仏のお釈迦様の右手の掌は内に向いています。残念です。この印相は、やはり分かりません。お釈迦様が、印相をといてリラックスしているみたいな感じが今しました。

*今日は、あなたと健康の東城百合子先生のご命日です。

*後から気が付きましたが、聖徳太子様のご命日です。


このままでは死ねない

2023-02-19 08:57:37 | Weblog

2月19日(日)曇り【このままでは死ねない】

ちょっと物騒なタイトルですが、ご訪問の方々が、アクセスされた過去の記事の中に、遺偈について書いた記事がありましたので、読んでみました。「幻-禅僧の遺偈」という題で書いた記事です。2006年頃の記事ですが、この頃は、よく調べて書いています。我ながらよく勉強していたころかもしれません。

そのころは遺偈を作るような心境ではありませんでしたが、この頃は、書いておいた方がよいかと、いう気がします。しかし、とてもこのままでは死ねない、という思いで、今朝は目覚めました。寺の住職にはそれに伴う責任があります。一番は、後継者の問題です。

「このままでは死ねない」、という反面「いつ死ぬかわからない」ということがあります。

僧侶という生き方は本当に味わい深い生き方です。この生き方を伝承していきたいものです。かつては、多くの出家者がいましたが、現在は出家という生き方の選択肢を知らない人が多いのではないでしょうか。

皆さん、あの世に帰るときに出家するのではなく、生きている間に出家してはいかがでしょうか。


道元禅師の坐禅観 和歌からの考察

2023-02-16 10:16:34 | Weblog

2月16日(木)晴れ【道元禅師の坐禅観 和歌からの考察】

今日も寒いです。寒さに負けてこのところ、体が固まってきているような感じがあります。いろいろと書類的な仕事をすることが実に億劫になっています。やらねばならない仕事を後にして、ブログを書いています。

私にとって、道元門下として、実に初歩的な疑問がまだ解けません。なぜ道元禅師は坐禅を「只管打坐」や、「修証一等」のように「坐禅こそが覚り」であるということを提唱なさったのだろうか、ということです。このような疑問をいまだ持っているということに対して、皆様のご批判は覚悟の上です。

さて、皆さまが「アクセスされたページ」という中に、私がかなり前に書きました「道元禅師の和歌の解説」がありまして、自分自身反芻してみようと思い、ちょっと、ここにそのまま転載させていただきます。かなり前は、随分長い文をしっかりと書いていたようです。我ながら感心しています。お付き合いくださいませ。

この心あまつみそらに花供ふ 三世のほとけにたてまつらなむ

道元禅師の和歌集の伝承本としては、原初本に近い系統の書写本、『建撕記』に所載された系統、面山開板の流布本の系統、単独伝写本の系統をあげることができる。現時点では16種類ほどが数えられる。その中で面山瑞方(1683~1769)が開板下した流布本では、この和歌に「坐禅」と題をつけている。

伝承本によっては、語句に多少の違いがあり、上の句も「空にも」と「みそらに」とあり、下の句を「たてまつらばや」としたものもある。

この心は天に捧げる花、三世の諸仏に奉る花であるという。「この心」とはどのような心をいうのであろうか。 実は「この心」というのは坐禅そのものをいう。そのように解釈できる根拠はどこにあるかというと、道元禅師の『永平広録』の中に、それを見出すことができる。
〈原文〉
上堂。云。記得。先師天童住天童時、上堂示衆曰、衲僧打坐正恁麼時、乃能供養尽十方世界諸仏諸祖。悉以香華・燈明・珍宝・妙衣・種種之具恭敬供養無間断也。(中略)師云、永平忝為天童法子、不同天童挙歩。雖然一等天童打坐来也。如何不通天童堂奥之消息。且
道、作麼生是恁麼道理。良久云、衲僧打坐時節 莫道磨塼打車、供養十方仏祖、妙衣・珍宝・香華。正当恁麼時、更有為雲為水示誨処麼。顧視大衆云、凡類何能聞見及、自家一喫趙州茶。
                         『永平広録』巻七 522上堂
〈訓読〉
上堂。云く。記得す。先師天童、天童に住せし時、上堂し衆に示して曰く、「衲僧打坐の正に恁麼の時、乃ち能く盡十方世界の諸仏諸祖を供養す。悉く香華・灯明・珍宝・妙衣・種々の具をもって恭敬供養すること間断なし。(略)」師云く、永平忝くも天童の法子となって、天童の挙歩に同じからず。然りと雖も一等に天童と打坐し来る。如何が天童堂奥の消息に通ぜざらん。且く道え、作麼生か是れ恁麼の道理。良久して云く、衲僧打坐の時節、磨塼打車は道うまでも莫く、十方の仏祖に妙衣・珍宝・香華を供養す。正当恁麼の時、更に雲の為、水の為示誨の処有りや。大衆を顧視して云く、凡類何ぞ能く聞見に及ばん、自家一たび趙州の茶を喫せん。

傍線部のみ少し注釈してみると、
如浄禅師は言われた。「衲僧がひたすらに坐禅するまさにその時、盡十方の諸仏諸祖を供養するのである。絶え間なく香華・灯明・珍宝・妙衣・種々の具をもって敬い供養しているのである」と。それをうけまして道元禅師も「私がひたすら坐禅する時は、磨塼打車はいうまでもなく、盡十方の仏祖に妙衣・珍宝・香華を供養することです。」と言われている。

道元禅師も言われるように、如浄禅師の法嗣ではあるが、まったく同じというわけではなく、この語についても微妙な違いがある。つまり、如浄禅師は坐禅は仏祖への供養と言われるが、道元禅師は更に進めて、坐禅は仏祖に供養する妙衣・珍宝・香華そのものであると言われているのである。

「この心」を「真の心」とか「清い心」などと受け取るのは間違いとさえ言えよう。心情的な解釈は道元禅師の和歌には通用しないのである。禅師は美しく優しい言葉を使われるが、実は揺るぎない力強い仏道の世界を詠いあげているのだ、と私は読み解く。禅師の和歌は和歌だけから解釈しようとすると、充分でないだろう。

『天聖広燈録』という書物の中には、須菩提という釈尊の弟子が巌の中で坐禅をしていたら、梵天(『碧巌録』のなかでは帝釈天)が花の雨を降らせたという話がある。それに対して道元禅師は、この坐禅の姿そのものが三世の仏に奉る花だという。うっかり間違えると、坐禅をして神通力を得られるのではないか、というような考えをしている人がいるかもしれない。梵天が花の雨を降らせるほどのものだ、それはすごいと感心するかもしれない。

道元禅師が言われるのはそうではなく、私自身の坐禅が三世の諸仏に捧げる花だというのである。龍樹の名は「つらつら日暮らし」和尚のブログに最近紹介された「道元禅師最後の説法」の531上堂にも出てくるように、道元禅師は龍樹(2、3世紀頃の人)を深く学んでいるはずである。龍樹の『中論』に説かれる空観を学んでいる道元禅師にとっては、坐禅こそは空そのものの体現に他ならない。瞑想とは全く違うのである。

しかし、坐禅は三世の仏に供える花である、このように美しい言葉で詠まれると、坐禅を行じる者としてはいかにも嬉しいかぎりではなかろうか。足の痛さも忘れるようにさえ思う。そして坐禅こそは空そのものの体現に他ならないとしたら、習禅ということはなく、どの坐も、誰の坐も三世の仏に供える坐である。 

全ての人、一人一人の坐禅が、三世の仏に捧げる花。この世にこうしていただいている命の不思議。その命に坐りきろう。命は儚いものではあるが、「儚いままに永遠だ」と私の本師、余語翠巌禅師はよく言われた。永遠の命に、而今、此処に坐りきる。
お互いにただ自らのまことを尽くして生きていこう。坐禅は三世の仏に奉る花なのである。

*522上堂の語をこの和歌の解釈の裏付けとして、秋田県龍泉寺の佐藤俊晃先生が指摘なさった。

*趙州(778~897)の「喫茶去」の意味は「お茶でも飲んで出直して来い」という厳しい接化(教え)であり、「お茶でも飲みなさい」というようなやさしいものではない。駒澤大学の石井修道教授の著書にある。



釈尊の覚りとは

2023-02-13 22:36:25 | Weblog

2月13日(月)曇り【中村元先生『ゴータマブッダ』を読んで】

昨日ようやく『ゴータマ・ブッダ』上(春秋社)を読み終わりました。この本はなかなか読み進められなくて、数か月机の上で、次に開く日はいつだろうかという感じでしたが、なんとか読み終わりました。

ブッダについて、中村先生は、何回もインドに通い、その具体的な経験も諸所にご紹介くださっています。仏教に関して大大学者の方のご著書ですが、そう簡単には、読み進めませんでした。

仏教を学ぶ者にとって、「さとり」とは何か、ということが一番知りたいところではないでしょうか。本の帯に、「ブッダは、どのような生涯をたどり、どのような思想を語ったのか。本巻では、その誕生から覚りに至るまでを描く。」とありましたので、一番気になるところでした。この本の最後は、ブッダの覚りについて書かれています。

「ゴータマ・ブッダのさとりの思想史的意義」という見出しの中から、少し抜き出しとりあげてみたい。私自身もう少し、きちんととらえなおしたいので。

「さとりの内容に関して経典自体の伝えているところが非常に相違している。いったいどれが本当なのであろうか。経典作者によって誤り伝えられるほどに、ゴータマの得たさとりは、不安定、曖昧模糊たるものであったのであろうか?

釈尊のさとりの内容、仏教の出発点が種々に異なって伝えられているという点に、われわれは重大な問題と特性を見出すのである。

第一に仏教そのものは特定の教義というものがない。ゴータマ自身は自分のさとりの内容を定式化して説くことを欲せず、機縁に応じ、相手に応じて異なった説きかたをした。(中略)

第二に、特定の教義がないということは、決して無思想ということではない。このようにさとりの内容が種々異なって伝えられているにもかかわらず、帰するところは同一である。現実の人間をあるがままに見て、安心立命の境地を得ようとするのである。(中略)先入観念をはなれて人間のすがたをありのままに見ようとした最初期の仏教の立場の歴史的意義は尊重さるべきものである。

第三に、人間の理法なるものは固定したものではなくて、具体的な生きた人間に即して展開するものであるということを認める。最初期の仏教がそのように表明しているのではないが、変化や発展を許したその立場がこのような解釈を可能ならしめるのである。実践哲学としてのこの立場は、思想的には無限の発展を可能ならしめる。後世になって仏教のうちに多種多様な思想の成立した理由を、われわれはここに見出すのである。」

以上少し長い引用になりましたが、さとりを開いたのちに、釈尊が到達したのは、「〈法〉が最高の権威であるということである。」梵天の言葉として「尊師となられる人々はただ〈法〉のみを尊敬し、うやまい、たよっておられることでしょう。(中略)正しくさとった人である尊師もまた、ただ〈法〉のみを尊敬し、うやまい、たよっておられませ。」

と、このように〈正しい法〉を敬うべし、諸仏の教えを憶念しつつ。

梵天の言葉とされているが、ことわり〈法〉を尊重するという思想が、ここに表明されていることことを知り得る。と結ばれています。

十二縁起が、ブッダの初めのさとりであるということは、後世の成立である、と今日の駒澤大学大学院仏教学研究会主催の公開講演会で、石井公成先生もおっしゃっていました。

今日はこの辺で。眠くなりました。ここまでお読みいただけたでしょうか。お休みなさいませ。


合格の報、天に届け

2023-02-10 12:44:19 | Weblog

2月10日(金)雪【合格の報、天に届け】

予報通りの雪です。久しぶりに見る雪です。内猫も外猫も寒いので、朝から珍しく寝ています。
さて、昨日は嬉しいことがありました。2月の1,2,3日に大学入試があった檀家さんの娘さんが、入試に合格しました。お父さまもご本人も、お電話をくださいました。

良かったです。本当に良かったです。
受験の数日前、お母さまが急死なさってしまい、かなり精神的にダメージを受けてしまいましたので、今までの苦労が泡になってしまわないように、願っていました。

良かったです。

お母さまの棺を、本堂の正面からお送りしたのは二日前のことでした。

 


テレビに目覚める

2023-02-07 10:49:41 | Weblog

2月7日(火)晴れ【テレビに目覚める】

今日の予報はあまりよくありませんでしたが、今のところまだ青空とそれほど寒くないです。さて、私はある時から、全くテレビを観なくなりました。二階にあげてしまい、生活空間の中に置かないようにしました。実はテレビは好きで、「ポツンと一軒家」とか、「こんなところに日本人」とか「笑点」とかよく見ていました。そうしますと、惰性でほかの番組も見てしまい、時間を失った、ということが多いので、これでは何時自分にも最期の時が来るかわからないのに、いけないと、痛感して、テレビをしまってしまったのです。

しかし、このところ、ちょっと、テレビを見ることがあります。「大河ドラマが生まれた日」というドラマを観ました。大変面白かったです。「鶴瓶の家族に乾杯」という番組も昨日見ました。岡山を訪問する番組でしたが、自分では行くことができない土地の光景を見ることができるのも面白いですが、自分では全く出会うことが無いだろう人々が、それぞれの人生を生きている姿を垣間見ることもできます。時に感心してしまいます。

これからは、時々は、テレビを見るようにしようかと思っています。

あまりに人生は短いのですが、だからこそ、テレビを見たりしようと、思いました。つくづく人生は短い、と思わざるを得ないこの頃です。

皆様も、風邪にも、新型ウイルスにもお気を付けください。心臓の弱い方は、どうか、「救心」などの薬をいつも持参したり、ヒートショックなど起こさないように、お風呂場は温めたりなさってください。急な命の終わりは、ご本人もご家族も本当に切ないのですから。

 


少子化は本当に問題か?

2023-02-03 17:39:49 | Weblog

2月3日(金)曇り【少子化は本当に問題か?】

当寺の檀家さんも、将来はお墓じまいをしなくてはならない家が数軒あります。結婚なさらない跡継ぎの家が数軒、お子さんのいないお家も数軒、お子さんが欲しくてもコウノトリが連れてきてくれない家も数軒、当寺のように割合に規模の小さなお寺でも、そのようなことがありますので、日本全体から見ますと、人口の減少は本当に切実に感じています。

政府は、異次元的少子化対策云々と唱えているようですが、お金の問題だけではないことを詳しく調べて、少子化を止めたいのなら、いろいろと策をたてねばならないでしょう。

ところで、最近スエーデンの弟から聞いたことですが、スエーデンの人口は約1200万人、東京都の人口くらいだそうですが、国土は日本の2、5倍くらいあります。それでも国として今までも成り立っているのです。

日本は、中学生の頃、人口密度の高い国、狭い国土に人口が多い国として学んだような気がします。

また、スエーデンの国会議員は職業を持っていて、国会のある時には、仕事を休み、日当をもらっているのだそうです。270人くらいの議員数だそうです。日本の国会議員は何人だったでしょうか???職業政治家が多すぎますし、国会議員に払っている報酬が多すぎはしませんか。

少子化の問題は、年金制度の崩壊につながりますが、国会議員先生たちの高額な報酬と高額な年金をストップし、もっと有効なことに税金を使ったらどうなのでしょうか。いつも反対政党の足の引っ張り合いをし、どうでもよいことを国会中継でもが鳴りあっています。

年金としてプールしてあったお金を使ってしまったのは、国会議員たちだということを言う人もいますが、真偽のほどは私にはわかりません。

スエーデンには、ノーベルという強い味方がありますので、国としては裕福かもしれませんので、国民の血税を搾り取っている国とは違いますので、少子化は確かに問題でしょうが、少ない人口でも、豊かに暮らせるような政治家のハンドルは握れないのでしょうか。(後で気が付きました。スエーデンの税金も半端な額ではないと聞いています。)

水源のある土地を、中国の人に買占められることにストップをかけることに政治の力を使ってください。お金が少なくても幸せに暮らせることの見本に政治家がなってください。ご自分たちの報酬を減らしたり、国会議員特権をやめましょう。

ここで、こんなことを書いていても、実は何の役にも立ちはしないのですが、今日は、実はすごく疲れていまして、いつ自分もあの世に逝くかわからないと切実に思いますと、書かずにはおれません。

地球人類の滅亡の啓示を受けてより、あの世に帰り逝く人を見送る役を、日本の一隅で勤めてより、ジッと世の中の動きを見ています。

少子化はやむを得ないとしても、毎年「良縁満足」を祈っている当寺の檀家さんのお一人に、どうか祈りが叶いますように。

皆様、いつお迎えがくるかわかりませんから、日日、刻刻、お大事に、自分だけの利ではなく他も助け、そして楽しく生きあいましょう。短い人生です。